天理大学 生涯教育専攻 課題図書

広田 照幸 『日本人のしつけは衰退したか ― 「教育する家族」のゆくえ ―』

講談社現代新書(1448) / 1999年 / 214頁 / \660 / ISBN:4061494481



●ひろた・てるゆき●
1959年広島県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。東京大学大学院教育学研究科助教授。教育社会学、教育史、社会史専攻。
著書:『陸軍将校の教育社会史』(世織書房)、『学歴主義の社会史』(共著、有信堂高文社)、『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会)ほか。


序 章 家庭のしつけは衰退してきているのか?
第1章 村の世界、学校の世界
第2章 「教育する家族」の登場
第3章 変容する家族としつけ:高度成長期の大変動
第4章 変わる学校像・家庭像:1970年代後半〜現代
第5章 調査から読むしつけの変容
第6章 しつけはどこへ

学生の感想文(24)

 私も今までの考え方では、豊かで少子化になっていくにつれて兄弟で取り合いもすることなく親が子どもを甘やかして育てているのではないかと思っていた。だが、多少それもなきにしろ個人の問題ではなく社会の問題であることに驚いた。
 そもそも親があまりしつけに参加してなく、地域でというのも驚きだった。もし親がしつけに熱心になってきて地域も加わっていけたらそれは素晴らしいことになると思うのだが、なかなかそううまいことはいかないもんだと思った。地域がしてくれなくなったから親ががんばるはめになってしまっていったのだから。
 親はそれを知らずこの間違ったイメージがプレッシャーとなって襲ってきているのだからたまったもんではないだろう。このイメージが変わり、育てやすい社会になっていってほしいものだと思った。
(2回 K.W.)

まずこの本を読んで思ったことは今も昔も教育という面ではあまり変わっていないと思います。どちらかといえば今のほうが「教育力」という面で言えば今のほうがよくなっていると思います。ではなぜ今の時代青少年による犯罪など少年による犯罪が多くなってきているのかということです。それはやっぱり親が子供に対する責任感が薄くなってきているのではないかと私は思います。親はもっともっと自分たちの子供に責任を持つ必要があり、その責任感から「家庭でのしつけ」というのが生まれてくるのではないかと思います。今の時代は若い親がおおくなってきている中親になるからにはこういうこともしっかりと一人一人の親たちが理解し実行していくことが大切でありこれが今の時代の問題の解決へと近づいていくのではないかと思いました。一つ言えることは親として親が当たり前のことをしていればこんなことは起こることはないような気がします。
(2回 S.T.)

 私はドラマやTVの影響かもしれないし、私がただ漠然と思っていただけかもしれないが、家庭のしつけの力が弱くなったので、地域社会や学校にしつけを求め、思うようにいかないので批判があるのだと思っていた。 
 だが、「現代は地域社会や学校の影響力が弱まり、家庭こそが子供のしつけや人間形成に中心的な責任を負う時代である。」と本文中で読み、私が思っていたこととは逆なのだと気づいた。また、「子供をよりよく育てよう」とする母親が増え、家庭は教育熱心になった結果、学校に対する要求が増え、それに伴い、批判も増加したことがわかった。
 私には、どちらの影響力の強いほうがしつけが上手くいくとはわからないが、過程が教育熱心になったことは、いきすぎて、子供の負担にならないようなら、いいことだと思う。
 家庭や地域社会・学校のどこがしつけを受け持つということではなく、それぞれが、その特性を活かしてしつけを行うことができればよいと思った。
(2回 K.O.)

「昔はよかったとか「昔の人は賢かった」、「昔の人を見習うように」と私が小さい頃からよく耳にします。それに関しては、素直に納得していました。
 しかし、<昔のしつけ>が厳しかったというのは、昔の人全体をさすのでなく、一部の階級層のことだった、とか。祖父母のいる大家族は、<多様な人間関係を学ぶ場>といいイメージをもつが、実際は、祖父母の権威・権力で、親や子を縛りつけるような重苦しい抑圧があった、とか。<昔の子どものいじめは今ほど陰湿なものではなかった>というのも、マスコミが深刻ないじめばかりを大きく取り上げるからで、昔も今もそう変わらない、とか。
 今までは、昔のイメージは、いい風にばかり捉えていたけれど、それは、固定観念だった。昔のいいところだけを見聞きしていたんだと気づかされた。
(2回 A.O.)

 ここ数年相次いで起こっている青少年による凶悪事件の現状を見ていると、「日本人のしつけは衰退しているのか」という問いに対して、私は素直にそうではないかと感じます。
家庭での子供に対するしつけがダメになっていて、今の親たちはしつけを学校にまかせるなどしてほとんど放任主義になっている、もしくは子供可愛いゆえ叱るところを叱れていないのではと感じます。
 しかし、そのような「教育する家族」になれない家族がかかえる子供の問題もあれば、「もっと母子密着を」と強く感じることによって、牢獄のような逃げ場のない人間関係になってしまった「教育する家族」がかかえる子供の問題もあるのだと感じさせられました。
「子供にもっと配慮しなさい、だがしすぎてはいけない」また「子供を放任してはいけない、だがもっと自由にさせなさい」といった境目を判断することがとても難しいと感じました。
(2回 Y.M.)

現代の青少年のしつけが問題視される際に、しばしば持ち出されるレトリックは、「昔はしつけがしっかりしていた」というものであるが、実際にそうだったのか。とても疑問に思った。確かに今に比べて、昔は、父親は権威をもち、家の大黒柱のイメージは強いが、父親は子供に無理解であり、自分の意見を押しつけるだけじゃなかったのだろうか。それに今でも、父親はやはり、大黒柱のような気がする。弱い父親もいるが、それは一部だけだろう。
 いじめにしてもそうだ。凶悪事件にしてもそれはごく一部をマスコミが取り上げただけではないのか。今も昔もいじめはある。そして、程度のひどいいじめばかりではない。
 今は、メディアが発達し、ニュースなどで報じられ、大人達に批判される。そういった批判が家庭のしつけのイメージを悪くしている。今も、家庭では、しつけはされているし、昔とそれ程も変わらないと思った。
(2回 K.M.)

この本を読んで、私も家庭のしつけは、ダメになっているし、親たちはしつけを学校まかせにするようになっていると思っていた。しかし、逆に「好ましい」時代だということを筆者は述べている。個々の親は、独自の戦略を立てて十分な時間とお金と配慮とを我が子に投入できる。現代では子育てや子どもと過ごす時間が、親の生きる楽しみにもなっている。でも、家庭こそが子どものしつけや人間形成に中心的な責任を負う時代になっていると筆者は、述べている。その通りだと思う。しかし、子どものやりたい事を潰したり、過剰な期待を背負わすことは、子どもにストレスを与えてしまう。学校での友達関係など子どものストレスは、昔とは比べものにならない。大人から言えば、社会に出た方がすごいというかも知れないが、子どもは、まだ未熟である。私は、しつけとは、子どもの精神的成長・知識的など総合して行うべきである。現代は、知識の方に寄りすぎではないだろうか。
(2回 M.A.)

 現代のしつけは衰退していないと思った。しつけのあり方というのは、たしかに変わったと思うが、それは時代の変化に対応して変わってきていると思うので仕方がないし、変化に対応していることを考えてみれば、まちがいなくいい事だと思う。そして、教育面でのしつけを見ても昔と比べてあきらかに熱心になってきていると思う。昔のしつけのイメージというものは、本書にもあるようにセピア色の美しさに彩られて美化されていると思った。昔のしつけは厳しくて子どもはしっかりしているというイメージもたしかにあるが現代の子どももイメージ的には多少軟弱になった面もあると思うがそんなに変わっていないと思う。ただマスコミなどが大げさに報道しすぎているだけだと思った。そのせいで子どものしつけがなっていないというイメージをうえつけられているだけだと思った。
(2回 T.K.)

  教育力についてのイメージではいくつかのイメージが出されている。これはあくまでもイメージであり、要因的なものでありこれらが教育力の低下を促しているのではないだろうかということである。このなかで、「家庭の教育力をたかめることが、現在求められている方向である」とあるがこれはたしかなものである。家庭は親子が形成していくものであり、親がいてこそ子はうまれてくる。親は子を産んだ事に責任を持ち、子は自分を産んでもらった事に感謝をしなければならないのではないだろうか。これを忘れてきていると思われる事例が、最近当たり前になってきた「できちゃた結婚」である。子を産みそして親となり家庭を築いていく、この家庭はあっというまであり子供が生まれてくるまでにこれからのことを考えなくてはならない。もっと子供を産む、自分が親になるということに対して自覚、責任を持っていれば決して「できちゃた結婚」をゆるさないわけではない。本書に書かれてあるとおり、決して親だけの責任とはいいきれなくなっている。それは周りの環境である。 地域、学校、友達といった中で子供は成長していく。親といるのは家庭によって様々であるが、朝と夜、それと休日である。それ以外親は会社、子は学校などで日頃の生活を過ごす。子供は学校で友達や先生と関わり、授業や部活といったものを通して人間関係を築いていく、社会が子供を作っていっているのだと思う。親だけが子供のしつけをしていくことは難しいが、やはり親が子を育てる責任、社会に順応していくためのしつけは親がしっかり行っていかなくてはいけないと思う。
(2回 I.T.)

 本書では、「昔はしつけがしっかりしていた」という説に対し、例外はあるにしても、「全体として、家族のしつけは衰えるどころか、以前よりもはるかに熱心になされるようになってきている」と述べている。そうなればしつけの主体である親も、しつけについて情報を得るような学習が必要になるのでは、と思う。また、程度の差こそあれ各家庭は、エゴイスティックな面も有しており、しつけを過大に担うことについての疑問も生じる。また本書では、しつけに対する考えや態度は多様であり、世代差や階級差・個人差をともなっていることに由来している面が多いのではないかと述べている。最近の子どもは概して早熟であるとともに、部分的に驚くほど専門的な知識を持つ者もおり、昔の尺度で推し量ることはできない。従って、しつけについてもその時代における背景を認識するにとどまらず、今後のあり方としてのビジョンを示すことが肝要ではないかと思う。
(2回 T.I.)

 「青少年の凶悪犯罪は減っており、かならずしもマスコミが言うように少年犯罪は凶悪化していない。」と言うのが筆者の主張である。
 マスコミや一般論でいうところの「親のしつけが衰退したから」という理由からの思いこみで「少年犯罪が凶悪化している」と言う見解になっていることに対しての反論を筆者がしている。
 自分が筆者に共感できるのは今も昔も青少年の凶悪犯罪はあったし、「キレル」子どもはいただろうというところだ。マスコミは凶悪事件を一般化して語るし、視聴者もそれを鵜呑みにして「幻想の日本像」を植えつけられながらも、決してしてそんな事件の起こらない「現実の日本」の退屈をしのいでいるのだろう。
 そんな日本人への提言としてはとても説得力を感じるのだけれども、いくら殺人による少年犯罪の検挙数が減っても、これからまた増えていくのではないかという不安までは消せない、いくら日本の「しつけ」が衰退してなくても、犯罪の数が減るとは限らないのではないか?
(2回 S.K.)

今日、青年の凶悪事件は頻繁に報道されている。それと同時に、家庭のしつけ問題についてもよく言われている。それだけを見聞きしていると、日本のしつけは明らかに衰退しているように思える。私自身もそう思っていた。しかし、昔の人たちは、しつけというものを全く意識していなかったということがわかった。以前の日本では、世話好きの近所のおじさん、おばさんが悪いことをしているのを見たら、怒ってくれていたという話は聞いたことがある。しかしそれが今では、注意するとキレて暴力をふるわれたり、ひどいときには殺されてしまうこともある。だからこそ家庭でのしつけを必要とされてきたのだと思うが、パーフェクトチャイルドを作り出すことだけに夢中になっている人も少なくない気がする。完璧な子供がいないのと同じように、完璧な親もいるはずがないと思う。プラスに評価できるものを自分なりに評価し、自信につなげていくことが大切だと思う。
(3回 H.I.)

 私の家庭のしつけは厳しかったのだろうか?答えはNOだと思う。たくさんの人がよく集まる家だったので、礼儀作法は自然と学んだし、特に「勉強しなさい」と言われ続けたこともなかったと思う。親は、私がやりたいことをさせてくれ、間違えたことをすれば親はもちろん周囲の人も厳しく怒ってくれた。そんな家庭で、私はいままで大きな反抗期も、"キレる"事も無く育ってきた。私の家族はよその家庭に比べ、家族で会話する機会が多かったと思う。親は私の考えを聞いて認めてくれ、そのうえで自分の考えを私に伝えてくれた。私は、自分の考えを認めてもらえてうれしかった。しつけは、家庭内だけの問題ではなく社会全体の問題だと私は思う。「最近のしつけはだめになった」と発言している人は、しつけを受けていないその子に注意をしているのだろうか?おそらくしていないだろう。今の社会は子どもに無関心で、認めようとしていないと思う。社会全体で子どもを見守り、しつけ、認めて育てていくのが重要なのではないだろうか。
(3回 A.K.)

 私が両親から受けたしつけは主に食卓でのできごとだったように思う。箸の持ち方、ひじをついて食べるな、、、他はあまり覚えていない。怒られてばかりいたような気もする。
 この本を読んで感じたことは、しつけとはどこまでをいうのか。ということだった。それぞれ家庭によっても違うだろうし、地域によっても違うだろう。家庭家庭でしつけの実態が違うからこそ、子どもに個性が生まれるのではないだろうか。
 また、少年犯罪が目立つようになってきたがそれは一概に「親のしつけ」が行き届いていないせいだけではないと思う。しつけと少年犯罪は深い関係はないのではないだろうか。「うちの子だけは…」行き届いたしつけをする親の元で育った子どもであっても犯罪に走る可能性はないとは言えない。ただ、色々な情報が行き交う社会の中で親の目が届くうちは子どもの情報源は把握しておきたいと思う。
(3回 Y.M.)

 今までは、現代のしつけは昔と比べると、だいぶゆるくなった・甘くなった、などという観念を持っていました。実際よく、昔のしつけは厳しかったとか今の子供はしつけがなってないなどをよく耳にします。
 しかし、もれにはいくつもの誇張や短絡が存在し、しつけについていえば、全体として家庭のしつけは、衰えるどころか、以前よりもはるかに熱心になされるようになってきていることがわかった。たしかに、60年代に比べれば青少年犯罪などは減っているのである。しかし家庭が子供のしつけ・教育を担うべきという社会になっている今、親としては、大変大きな責任やプレッシャーなどがのしかかっているのではないかと思います。
子育てに不安を抱える人が増えてきているのは、その辺の理由もあるのではないかと思いました。
(2回 A.Y.)

しつけは学習と同じくらい幅が広く、しつける側は言って聞かせたり行動で示したりといろいろな方法がある。また、しつけられる方も教えられた事を見聞きして覚えるだけでなく、親・教師など身近なおとなを見て、口には出さないその人の言動を見て覚えたりもする。しかし、現在では昔と比べて、おとなとこどもの生活環境が分化してきている。昔は家族で共に寝起きし、共に仕事をしていたので教えられる機会も多く、見て学ぶこともたくさんあったと思う。だが、今ではおとなは社会に出て、こどもは学校や塾に行く。共有する時間が少なく、その環境の中ではおとなも少ない。このような状況で個性が十人十色のこども達に同じようにしつけをしても千差万別の結果が現れることは目に見えている。やはり、家庭でのしつけがいいと思う。一人ひとりに目が届くし、それぞれの状況に応じて対処もできる。あとは親の、自分のこどものしつけに対する自己責任が必要だと思う。
(2回 H.H.)

青少年の凶悪事件が多いといって家庭のしつけに問題があるとは思いません。敗戦後の農村の人たちに向かって村の近代化や家庭教育の民主化を訴えても社会・経済的条件に阻まれてなかなか進展しなかったのはしょうがないことだと思いました。その後の高度成長など大規模な時代の変化を感じつつある農村の人たちの重要なことは子供の教育だといいます。家業の継承も大切だと思いました。1955年の全国の高校進学率が51.5%で74年には90%を越えているのはとても驚きました。高度成長期の終わりにはほとんどの子供達が卒業後組織に雇用されて働くという進路を取っていたのも今とは少し違うなと思いました。この頃は大学というものはあまりなかったのだと思いました。1960年代後半頃までは人々のしつけ態度に階級差や地域差が存在しているというのが世間でも常識だったようです。今現在では昔よりも家庭の教育のしつけに熱心になってきていると思いました。
(2回 T.N.)

 しつけが衰退したのではなく、社会自体の子供を取り巻く環境が変わったのだと思う。
 私自身も幼い頃から我が家では長男ということで厳しくしつけを受けてきた方だと思うが、確かに現代人にはしつけというか社会のマナーやルールといったものに乏しい様に感じる時がある。こんなに物が溢れた時代に、序々に緩んでいったところもあると思うが、やはり親の教育(というか人間的に当たり前の事も)が行き届いていないからであろうか。
 戦争が終わって高度経済成長を向かえ生活が楽になってしまい、伝えねばならない物事をおろそかにしてしまった人たちのせいでもあるかもしれないが、気が付いた誰かから必ず修正はきくと思うので、少しずつでいいから世界から見た日本という国を良い風に変えて(変わって)いかなければならないと思った。
(2回 H.K.)

 私は今まで現代の子どもに対するしつけは衰退してきたとばかり思っていた。なぜなら一昔前のしつけは地域ぐるみで行い、地域の中で子どもは成長していったとよく耳にし、現代は地域どころか家庭でさえも、教育やしつけが十分に行えていないという印象があるからだ。しかし本書では「子どもの教育に関する最終的な責任を家族という単位が一身に引き受けざるをえなくなっている」と私のイメージとは対照的な考えを述べている。
 私は現在中学一年生の家庭教師を行っているのだが、そこの家庭(親)はこどもの家庭教育は自分達ではどうにもならないため私に頼んでいる。しかしその子からすれば、「なぜ勉強をしなくてはならないのだ」という考えである。そこで私は数学や英語を教えるよりも、まず勉強の大切さや、勉強することでどう変わるかなどを話し合った。その子は中学一年生になるまで、なんのために勉強していたのだろうか・・・。
子どもの教育に関する責任を家族がすべて背負うという筆者の意見をもとに考えるならば、現在のしつけや教育の衰退の原因はやはり、子どものしつけ方を知らない家庭から発生してくるのであろう。
(2回 K.U.)

 近年、日本人のしつけは衰退してきているという問題が注目を浴びるようになってきた。実際、私もそのように思っていた。しかし、本書を読み進めていくうちに、私の考えが正しかったのだろうかと疑問が湧き始めてきた。これは、私の極端な意見に過ぎないが、近年多発している児童虐待は、行き過ぎている「しつけ」が原因ではないだろうか、と、思い始めてきた。また、「子どもが事件を起こすのは、家庭のしつけの責任だ」という議論を最近よく聞く。しかしそれは違うと思う。地域社会で、近所の人が親の目のつかないところで、子どもが間違ったことをしていたら、それを正す。学校においても同じで、重要な「しつけ」の場になるのである。
 親、地域社会、学校が責任転嫁をせず、協力し合い「しつけ」をするのが本来のあるべき姿ではないだろうか。
(2回 T.M.)

 私も今まで今の親はしつけを学校にまかせっきりで、家では何もしていないようなイメージをもっていました。しかし、この本を読み出してすぐ、今までのその考えは間違っているかな?と思うようになりました。図を見たりしても、まったく逆の結果でした。しかも、子供のしつけに対して熱心な田舎のほうが逆に放任していて、都会の親のほうが、責任感をもっていて驚く結果でした。私が思ったのは、今の時代、マスコミでも雑誌やTVでも、親のしつけが衰退しているといわれて、親が、このままじゃだめだと思い子供に対して考えることや関心が増えたのではないでしょうか?しかし、それが裏目に出て子供にかまい、かわいがりすぎている傾向もあるのではないでしょうか。学校の先生が子供のしつけのために子供を怒ったりしても、子供が親に言い、親が学校の中の中まで出てきて先生に起こっているという実態も少なくなく、問題は絶えることがないと思います。しかし、この本を読んだことで今までの考えはガラッと変わり、教育やしつけに対してほかの角度から見ることができるようになり、とても衝撃を受けた本でした。
(2回 K.S.)

私はしつけというものをあまり意識していませんでした。確かに自分が子どものころ、親からしつけを受けていたと思います。が、そんなに記憶に残るものでもなく、ましてや、昔に比べればしつけが衰退しているなどなど、考えつきもしませんでした。私は時代時代にあった、その時々の教育方法やしつけの仕方があったように思います。だから、今のしつけと昔のしつけが変化していたとかしていなかったとか、そういう問題が出てくるのだろうなぁと思いました。このしつけの本を読んで私はしつけに対して少し考え方がかわりました。
(2回 E.F.)

 家庭の教育やしつけはてっきり昔に比べ低下したとおもっていた。それはマスコミや知識人に刷り込まれたただの思い込みにすぎなかったとこの本で知った。
 最近では現代の状況を否定的に書かれた本が多いように思う。その中でこういった本を読むのは少し嬉しいような歯がゆいような感じになった。確かに今のままでは神経質になりすぎると思う。少し前から天才児をつくる塾などができたとテレビできいたことがある。子どもに小さな頃から様々なことを習わして、絶対音感や速読法を身に付けさそうとしている。大人の価値観を子どもに押しつけてるように思えてしまう。そういった点では、昔の教育のほうが良いのではと思う。過保護になりすぎている。パーフェクトチャイルドを求めるよりも、子どもはのびのびと遊ばせるほうがいいと感じた。思春期に少しくらい問題があるのも普通だと思う。パーフェクトチャイルド願望を子どもに背負わせるより、子どもをひとりの人間として接するべきだと思う。子どものやりたいことをやらせるのが一番と思っている。
(2回 Y.I.)

 しつけに関して私自身も昔の親は厳しく時代がたつにつれ衰えてきているというイメージがあった。しかしこのようなイメージは全く違っているのだということがわかった。現代では昔以上にしつけに関して熱心になりすぎて子供の自由を奪ってまで塾に通わせたりしているからこそ思いとは裏腹にしつけがうまいこといかないのではないかと思う。現代では差が目立たなくなってきたが昔には子供に対するしつけが同じ日本でも農村と都会では全く違っていたことに驚いた。しつけとは一つのイメージを一般化しすぎていると感じた。現代でもそれぞれの家庭で全く違ったしつけがされているのだろう。イメージというのは耳にするとそうなのだと納得してしまうことが多い。しかし実際は昔からそうだったのかきちんと背景をたどって見直すことは大切なことだと思った。
(2回 Y.N.)