天理大学 生涯教育専攻 課題図書
五十嵐 太郎 『新宗教と巨大建築』
講談社現代新書(1580) / 2001年 /
233頁 / \680 / ISBN:4061495801
●いがらし・たろう●
1967年パリ生まれ。東京大学工学部建築学科卒。東京大学大学院修了。工学博士。日本女子大学、明治学院大学、芝浦工業大学、早稲田大学芸術学校非常勤講師。建築史・建築批評家。
著書:『終わりの建築/始まりの建築』『20世紀建築研究』(INAX出版)ほか。活動の軌跡をhttp://www.cybermetric.orgで公開。
1章 サティアンが投げかけるもの(「宗教」と「建築」;近代宗教へのまなざし)
2章 天理教の建築と都市(世界の中心「ぢば」;大正普請 ほか)
3章 金光教と大本教(金光教の思想と空間;金光教建築の様式 ほか)
4章 戦後の新宗教空間(黒住教の分散する霊地;創価学会と大石寺のモダニズム ほか)
学生の感想文(16)
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今まで天理教についての本は、天理教同友社の作ったものや、天理教の人が書いたものしか読んだことがありませんでした。そのため、その他の人から見た天理教というものが、とても批判的なものもあり驚きました。「前後をかえり見ず、突っ走りやすい批判的君主の白昼夢である。」なんて、私の周囲の口からは聞いたこともなかったので、そのような見方もあると思い、一歩外から見ることができました。幼いころから見ていたこのおやさとのやかたは、私にとったら、なにも珍しいものではありません。しかし、おやさとやかた計画など、さすがに宗教建築だと改めて思いました。今まで、ほかの新宗教の建築をまじまじと見たことがなかったので、建築そのものにそれぞれの宗教の主張、特徴が表れているとは気づきもしませんでしたが、それを知ることで建築に対する私自身の見方が変わりました。そして、もっと自分の視野を広げ、ほかの宗教にも建築をまじえ、目を向けて見ようと思いました。
(2回 K.S.)
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私は天理大学に入学するまで宗教の事にあまり興味がなかった。しかし親が神主をしているということもあり、天理教、金光教、大本教の存在は話には聞いていた。特に親が天高出身の為、天理の事は良く聞いていた。
大学に入学をし、初めての参拝で神殿に入った時は不思議な気持ちに包まれた。どことなく神社の雰囲気と似ていて違和感はなかった。それから天理教の事に興味が涌きこの本を読む事にした。私は今まで宗教建築に目を向ける機会がなかったので、本書を読むことは天理教の建築物や、他の宗教の建築物について学ぶ絶好の機会となった。それぞれの宗教建築物が詳しく説明されていてとても勉強になった。なにより他の宗教に対して興味を持てたことが私自身のプラスになったように思う。近代の建築物にだけ細分化するのではなく、何年にもかかり色々な人の思いの詰まった巨大建築を見ていくべきだ。
(1回 N.N.)
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マスメディアでは神社や寺院を紹介する時、古建築ならば、古くからの由緒が説明され美しく貴重な文化財であることが強調されるが、一方新宗教の場合、建築費がいくらかかり、豪華さや巨大がうさんくさそうに話題にされる。というように筆者は新宗教の建築へのまなざしには強い偏見があるという。私はその新宗教の一つである天理教もそのようにとられるのか、大きく広がったにも関わらずそれを奇妙なこととして批判されるのかと、不思議に感じました。新宗教は豪華な建築をつくるから、もっと税金をかけるべきだという意見も提出されるという。何故全てを金銭問題に還元し、新宗教の空間そのものを見ようとしないのかとほんとに感じました。現在天理にある建物がどのようにして建てられたのかをとても興味深く読み始め、私は建物全てが信者さん方の深い真心で苦労の末建てられたのだと感じました。もっと建築された過程も見てくれればと思いました。
(2回 Y.M.)
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私は、家が天理教の教会で、とてもこの本が気になり、読んでみました。この本は、他の宗教のことも書かれてあり、とても興味が沸いた。その中でも、やはり天理教のことが印象に残っている。
天理教のところで、一番初めに書かれていた三島由紀夫が天理教のことをいくつかの作品で出していることに驚いた。三島由紀夫は信者ではないが、叔母が信者だったらしく幼い頃見た天理教の本部が印象的だったらしい。
筆者はとても良く天理教のことを調べていると思った。まるで天理教の信者かのように、いや、それ以上に天理教のことが書かれており、私も学ぶことが多くあった。そして天理教と他の宗教の違いなども分かることが出来、とてもおもしろく読めた。今まで、他の宗教のことがあまり分かっていなかったので勉強になりました。
(2回 K.M.)
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私は親が天理教を信仰しているのもあり、あまり天理教以外の宗教のことについて、知ろうとすることがなかった。
私の中で天理教教会本部という場所は、とても大きい存在だったけれど、幼いころから親しみのある場所だった。しかし、大学に進学し初めて本部を見た人の感想などをダイレクトに聞き、やはり近寄りがたかったりすることを知った。それは、文中に書かれている金光教と大本教だけでなく他宗教も同じであると思う。
現に、私の実家の近くには、第7サティアンと呼ばれる宗教建築があった。しかし、天理教である自分、つまり他宗教の目から見て、やはり奇妙な建物として映った。しかし、お寺や神社は修学旅行などで訪れたが、違和感や嫌悪感などは感じなかった。それはなぜだろう。
今まで、他の宗教について建築も含め、あまり深く考えたことがなかったが、これからは少しでも考えたり知っていければ、また違う視野が広がってくると思う。
(1回 I.W.)
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私がこの本を手に取ったのは、表紙に天理教の神殿の絵が描かれていたからだ。私は天理教ではない。しかし、天理大学に入学して天理教に触れ、天理教に興味を持った。通学途中に神殿を眺め、天理教の友達にお道について教わった。宗教というものを純粋に受け止め、知りたいと思った。
この本は宗教建築について考察していて、教団の思想がどれだけ反映されたかが書かれている。この本に書かれているように、建築というものは大きな力を持っていると思う。私は入学式の後、初めて天理教の神殿を参拝した時、圧倒された。今まで感じた事のない気持ちになったのだ。それは、言葉では上手く表す事ができない。
宗教建築が出来上がるまで、そして出来上がった後も、その宗教を信仰する人の様々な思いが込められていくのだろう。それによって、私のように宗教を知らない人ですら宗教建築から様々なものを感じ取るのだと思う。
(1回 Y.Y.)
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天理教の教会に生まれた私は、天理教教会本部や詰所・おやさと館など、天理に立ち並ぶ建築物とふつうに接してきた。この本を読んで改めて天理の建築物を見てみると詰所には特にそういう感じは受けないが、おやさと館はすごく精密な計算の上で建てられていると感じた。それは、教会本部の甘露台を中心にそれを囲む形で建てられているが、この壮大な土地にきれいな正方形になるように設計されている。さらに驚くことに、おやさと館のすべての建物は天理の傾いた地形にも関わらず、教会本部と同じ高さで建てられている。教会本部においても、普通の建物との違いがいくつか見られる。教会本部は、信者お供えと信者自身の手で建てられたと言うことである。本部の設計においては、あの屋根の曲がり具合はコンピューターでは計算できない、竹のしなりを使っていると言われている。教会本部は、人の手と真心と自然の素材によって形作られているからこそ見る人を魅了するのだと思う。
(2回 H.H.)
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幕末から戦後にかけて多くの新宗教が成立した近代日本の仲で最も時代が動いた時期であり、そのような変革のときに民衆の中から多くの教祖や改組と呼ばれるような人々が世の中に現れてきたのはとても興味深いところである、この時代の人々にとってまた、そのような新宗教の信者にとって巨大建築を建てる意味はなんだったのかこの本は私のそのような問いに答えてくれるものだった。
私が小学生のころ金光教の友達がいて同じ地区に天理教の教会と金光教の教会がありました、まだそのころの私にはそのような宗教の違いが理解できずなぜ私の家と周りの一般の家が違うのか、またなぜその金光教の友達の家と違うのか、親たちは表面上体裁を繕い仲良くしていましたが裏ではお互いを認めずお互いの教義を知ろうともしていませんでした、その友達は私が中学生のころに遠くの町へ引っ越しました。
今世界では宗教戦争が起こりかねない状況です、そのような状況の中で互いの宗教を理解することがとても大きな意味をもってきます、私はこの本から他宗教を理解する大切さを学びました。
(2回 S.K.)
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新宗教の建築へのまなざしには強い偏見がある。同じ宗教建築なのに、マスメディアで神社や寺院を紹介するときと、新宗教の建築を紹介するときの作法は違うように思う。最近はネット上で、新宗教は豪華な建築を造るから、もっと税金をかけるべきだという意見も出されていた。やはり、最近のある宗教団体の事件などが人々の脳裏に悪印象で残っているのであろう。それゆえに新宗教に対する視点も大きく変わってきているのであろう。
メディアにとって、新宗教の巨大建築は信仰の墜落を意味し、悪の象徴であるように思う。一方、東大寺のような既成建築の巨大建築は美の対象となる。かつては宗教施設こそが「建築」の問題の中心であったのに、もはや宗教建築は「建築」ではないのか。なるほど近代の宗教建築は表現と技術の最先端ではない。だが、共同体と建築の関係を考える上で興味深い題材であると思う。今後、宗教建築について、もっと世界的な視野で探っていきたい。
(2回 K.U.)
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この本では、天理教のことが最も詳しく書かれているわけだが、私自身、小さい頃から天理教は身近な存在であり、天理教関連の建物は特別だとは思っていたが、そこから感じ取るものは何もなかったように思う。どの宗教でも、その宗教を象徴している建物は不可欠であるが、今初めて、宗教とその宗教の建物との関係を考えさせられることとなった。
そして、近代の宗教においては、有名な建築家や工務店が携わっていることを知り驚いた。昔からある宗教の建物は、その外見だけでどこの宗教の建物かすぐにわかるものが多くあるが、今や宗教建築はデザイン性が優れており、一見何の建物かわからない。それゆえ、宗教建築は、すばらしものだとは思うが、その異質性から近寄りがたくなっているのも事実だと思う。これからもまた、新しい宗教がでてくると思うが、宗教建築がどのような変化をしていくか楽しみである。
(3回 K.K.)
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まず、私たちの住んでいる天理や天理教の神殿のことがとても詳しく書かれていて、驚きました。普段住んでいてもわからない外からの視点で、冷静にとらえられていて、読んでいて面白かったです。
新宗教の建築や、宗教そのものに対して日本古来のものと比べると、マスメディアが伝える表現は違うと書かれていました。やはり、現代の新宗教は批判、注目を浴びやすいと思います。新しいものはいつの時代でも受け入れられにくいものですが、何も知らぬうちから頭ごなしに批判していくと、ますますその宗教団体が孤立していってしまうと思います。私自身は、どこの宗教も信仰していないのですが、かといって全く関心がないわけではありません。それぞれの宗教がどんな考えをもっているのか、建築には何の意味が込められているのか、興味があります。だから、この本のように著者の何の主観も込められず、宗教や建築の説明が書かれているものにふれてみるのもいいと思います。
(3回 S.E.)
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新宗教の建築について、などそもそも考えたことがないのですが、新宗教の建築へのまなざしに強い偏見があると言われると、確かに偏見がありそうだなと思ってしまいます。マスメディアが神社や寺院を紹介するときと、新宗教の建物を紹介するときの紹介の作法が実際違うそうだし、その二つの紹介作法が違っていても不思議な感じがしません。なぜなら、やはりメディアは宗教に対し、あまり良いイメージを持っていないと思うからです。そのため、新宗教の建築はまったく無視される傾向にあります。
戦前は、神社建築を賞賛していたのに、今となっては、宗教建築は居場所を失い、無視されるのはどうかと思います。 天理教の建築は新宗教のなかで最も構想的な建物を作ることに成功しています。これは、長い時間をかけて後継者たちの努力によって生成されています。近代の建築史だけ細分化するのではなく、新宗教の建築にももっと目をやっていくべきではないかと思います。
(2回 A.I.)
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「ハルマゲドンを到来させないためにも、我々は多様な宗教のあり方を理解する努力を怠ってはならない。」という著者の言葉は、現在のイラク問題にも共通する点があり、とても深く受け止めなければならないことだと思った。日本は多宗教国家であるが、日常の中で宗教心を感じることはほとんどできない。特に新宗教に関しては、メディアに偏った報道をされ、正しい理解ができない世の中であるように感じる。
私は今まで宗教建築に目を向ける機会がほとんどなかったので、本書を読むことは自分の信仰する宗教、またその他の宗教の建築物について学ぶ絶好の機会となった。それぞれの宗教建築物が詳しく説明されていてとても勉強になったこともさることながら、なにより他の宗教に対して興味を持てたことが私自身のプラスになったように思う。そしてこの興味をしっかりと理解につなげていかなければならないと思った。
(1回 Y.N.)
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私自身は幼い頃から天理教の本部や、信者宿舎の詰所と呼ばれる建物を見てきたが、この本を読んで違う視点からこれらの建物を見るようになった。確かに未信者の人々から見れば、奈良県の天理市に足を一歩踏み入れると宗教的な建物だらけで、市内を歩いている人も天理教の信者が多いので、黒いハッピを着ている信者を見ると少し不気味に感じる人も少なくはないらしい。しかし、天理教本部の神殿の中に入るとその広さに圧巻である。1000枚はくだらない畳の上に座ってみると、不思議な事に心が落ち着くのである。やはりその畳の一枚一枚が天理教の信者の信仰であり、苦労の結果、こうした巨大な建築物を建てることが出来たのではないかと思う。
建築物が人に与える影響やもたらす効果がこれほど大きいものなのかということを改めて知った。
(2回 H.K.)
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家が昔から天理教を信仰していて、布教所ということから、私は天理教という枠の中で育ってきた。だから、天理教の信者の立場から書かれている天理教関連の書物はいくつも読んだことがあるが、天理教の信者ではない、しかも「建築物」を通して書かれている書物は初めて読んだ。天理には、教会本部をはじめ、詰所、おやさとやかたなどの宗教建築物が数多く立ち並んでいる。私にとっては、この地はとても落ち着く場所なのであるが、はじめて訪れた人にとっては、近寄りがたい、異様な雰囲気をだしているのである。このような宗教建築物は、教団の意志をひとつにするとともに、その宗教の特色を建築物にして表していることが分かった。またこれまで、金光教、大本教などの同時期に登場した宗教については、名前くらいしか知らなかったが、ある程度どのような教えであるのかが分かった。
改めて、別の視点から天理教について考えることができた本であった。
(2回 T.M.)
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新宗教へのまなざしについて、宗教批判や現在のメディアは、いかがわしさを強調する否定的な語り口で、豪華さを批判し、集金にのみ関心があるようだが、すごくひどい言いようだ。
同じ宗教建築であるのに、古建築である、神社や寺院は、古くからの由緒が説明されるのに対し、新宗教の建物の場合は、建設費や豪華さ、巨大さを強調するばかりである。つまり、空間は無視されているということだ。
何か、現代らしいような気がしないでもない。外からしか物を見ず、それだけで、いい悪いを簡単に決めてしまう。その奥にあるもの知ったら、いいと思っていたもの悪く思うし、逆もありえる。外からしか見ないのに本当に批判できないだろう。また、何でもお金で買える時代だから、多額の費用で豪華な建築ができて、メディアも取材に来る。メディアの空間の紹介なしに、新宗教の信仰は続くのか。悪循環な気がする。
(2回 A.O.)
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