天理大学 生涯教育専攻 課題図書

小浜 逸郎 『なぜ人を殺してはいけないのか ― 新しい倫理学のために ― 』

洋泉社新書y(010) / 2000年 / 235頁 / \680 / ISBN:4896914740



●こはま・いつお●
1947年横浜生まれ。横浜国立大学工学部卒業。批評家。家族論、学校論、思想、哲学など幅広い評論活動を展開。
著書:『学校の現象学のために』(大和書房)、『男はどこにいるのか』(ちくま文庫)、『無意識はどこにあるのか』(洋泉社)、『オウムと全共闘』『子どもは親が教育しろ!』(草思者)、『癒しとしての死の哲学』(王国社)、『大人への条件』(ちくま新書)、『「弱者」とはだれか』(PHP新書)、『中年男に恋はできるか』(洋泉社新書y)ほか。


はじめに
第1問 人は何のために生きるのか
第2問 自殺は許されない行為か
第3問 「私」とは何か、「自分」とは何か
第4問 人を愛するとはどういうことか
第5問 不倫とは許されない行為か
第6問 売春(買春)は悪か
第7問 他人に迷惑をかけなければ何をやってもよいのか
第8問 なぜ人を殺してはいけないのか
第9問 死刑は廃止すべきか
第10問 戦争責任をどう負うべきか

学生の感想文(13)

なぜ人を殺してはいけないか、、、考えたことがなかった。
僕は、人を殺せば被害者の家族や友人などが悲しむからとか、人を殺すことによってさらに「憎しみ」というものがうまれてしまうから。という理由を思いつく。
しかしそれらの理由よりもまず思い浮かぶのは、「常識だから」ということだ。
僕がこの世に生まれて誰から教わるでもなく、人を殺すことが許されないことだと、ルールだと、そして「常識」だと頭にインプットされていた。だから「なぜそれが常識なのか」とか考えなかった。この本の中で、僕の考えはいい答えのようで不十分な考えの例として挙がっていた。でも僕には自分の考えがそれ以上ない答えだと思った。
一人一人の人間が勝手に人生を終了させられる理由なんかどこにもないと思ったからだ。
(1回 K.Y.)

この本を読んで思ったことは、人は人を殺してはいけないということは誰に教えてもらうのではなく自分自身なにかしら思っている。それがなぜかは私は解からないけど、この本に書いてあるのを借りるなら「不安」と「恐れ」である。確かに「不安」と「恐れ」という二つは誰もが持っているものだし何も考えなくても体が自然と反応するものです。常識に考えてもあり得ないことだと思いました。将来自分の子供になぜ人を殺してはいけないのかと聞かれたら私はたぶん私はこの本に書いてあった通りに答えるだろうなと思いました。簡単な質問だけど一番難しい質問でもあるなと思いました。自分の年齢にもなれば、こんなことは聞かなくてもわかるし人なんか殺そうとも思わないです。そう考えるとなんかこの本を読んでいて不思議な感じがしました。
(2回 S.T.)

私は「人を殺したい」と100%本気ではもちろんないけれど思ったことは何度かある。なぜそう思ったときに殺さなかったのかというとやはり本気ではなかった事と、勇気がなかったこと。そして<人を殺してはいけない>という思いというか考えが頭の中にあったからだと思う。「なぜ人を殺してはいけないのか?」もし私がこの質問をされたら正直考え込んでしまうだろう。正直、この本を読むまで考えたことがなかった。「法律で決まっているから。」とか「自分が殺されたら嫌だから」などという単純な答えでは正直自分でも納得がいかない。かといって、この本の筆者が述べているような「ただ、共同社会の成員が相互に共存を図るためにこそ<人を殺してはならない>という倫理はひつようなのだ。」という答えもなんだか理屈はわかるが腑に落ちない。もっと深い意味のあるような答えであって欲しい気がした。やはりこの問題は永遠の疑問であるのだなと思った。
(3回 K.K.)

 最初この問いを見たときは「こんな当たり前のことを聞く奴がいるのか」と思った。 人間のとる行動には必ず理由があり、しかもそれは合理的で反論の余地がないほど明確で正当な理由である。しかしその理由を示すことも、自分が理解することもできないことがしばしばある。当たり前すぎる事ほど説明するのが難しい。そんなものを全て一から理解しようなんて事には無理があるし、誰もしようなんて思わないと思う。 「なぜ人を殺してはいけないのか」今の時代が反映されているような問いだが、殺人が許される行為なら世界中がバトルロワイヤル状態になってしまう。だから深く考えることなく、ダメなものはダメだと簡単に受け止めるのが一番だと思う。
(3回 S.F.)

 この本の中には大きく10問の問いかけがある。しかし、私はこの10問すべての問いに自分の答えは出せても、なぜ?と聞かれたら言葉につまってしまうだろう、と思った。
 まず、書名にもあるようになぜ人を殺してはいけないのか、と考えたとき、「法律で決まっているから」などや、「殺しても罪を償わなければならないから」などの理屈しかうかんでこなかった。しかし、筆者は人を殺してはいけない理由を、理屈ではなく倫理を通し考えていた。それに私自身納得させられる部分もあった。
 私は、人を殺したいと思ったことは何度かあるが、実行したこともなければ、未遂まででも行動したことはない。それは、殺された人の家族が悲しむから、などではなく結局は行動におこした後を考え、怖くなったからだ。
しかし、人を殺してはいけない理由なんて、考える人によって様々なのだから、自分自身が考え、納得のいく答えをいつかだしていけばいいのではないだろうか。
(1回 I.W.)

 「なぜ人を殺してはいけないのか」こんな疑問について私は今まで考えたことはなかった。「人として、人を殺すなんて間違っている。」とだけ思っていました。でも、これはただの人間だけにある固定観念なのかもしれないとこの問いを見て思った。動物からすれば、他の動物を殺すことは当たり前でだから。この本の答えを読んで、難しいけどわかる気がした。この他にもいくつかの問いが挙げられているけど、普段そんなに気にもとめないことばかりで考えさせられた。でも、自殺や不倫、売春はすぐに「いけない」と思う。こういう風に何も考えずに、悪いと思ってしまう自分は小さい人間なのかもしれないとこの本を読んで感じた。世の中にはこの本に挙げられているもの以外にもたくさんの問いがあると思う。これから先、私もさまざまな問題にぶつかるだろうけど、きちんと向きあっていこうと思う。
(1回 H.M.)

 この本を読んだ感想として、タイトルにもなっている「なぜ人を殺してはいけないのか」という問い。この答えは自分自身よく考えたことがある。この問いに限らず全ての問いがそうだと思うが、全ての人を納得させる答えはないであろう。真正面から答えるとすれば、「それは大事な決まりで、それを破ってもいいとなると皆が互いに殺し合うことになりかねず、社会が目茶苦茶になってしまうから」という答えがもっとも適切だとこの本には書かれている。
 そして、自分が殺されたくない、愛する人を殺されたくないという気持ちと、憎い人を殺したいという気持ちは矛盾なく両立すると書かれている。人は殺したくないと思う一方で殺したいという気持ちも持つことができる。愛する人を守りたい一心で誰かを殺すことになることだって大いにあるだろう。法の下の正義が必ずしも善人を守ってくれるとは限らない。
(1回 K.T.)

 ―「人を殺してはならない」という倫理は、ただ、共同社会の成員が相互に共存を図るためにこそ必要なのだという、平凡な結論に到達する。―筆者は最後にこう書いている。  「人を殺す」、「命を奪う」何の権利があってそういう行為に望むのだろう。昨日もニュースで『中3男児が妹の頭をバットで殴る。理由は「ネットでやっていて興味を持ったから」』というのがあった。その妹は幸い(?)命はあったものの、頭蓋骨を骨折したそうです。死ななかったから、その男の子に罪はないのか?そもそも、刑事的に裁くだけでいいのか?
 共同社会とか、相互に共存を図るためとか、それは客観視しすぎではないのか。もっと「人間」というものを考えなければならないのでは?「殺す」なんてあかん!そんな世の中になっていかないのだろうか。
 論理的には前述の解答が模範解答なのかもしれないが、命の重み、生きている尊さを一人ひとりが感じないといけないと思った。
(3回 Y.M.)

 本来なら章立てである構成を、10の問題として問いかけている。問題すべてが重要な重みがあり、また関心のある事項であり、各々リアルな感じで端的に本質を明らかにしている。本書の表題は「なぜ人を殺してはいけないのか」である。著者は従来の考え方のあいまいな点をつき、問い方自体に問題がある、と述べ「なぜ人を殺してはならないと決めるようになったのか」と問い方をかえている。そして共同体の成員をキーポイントとして解答を得ている。倫理学の立場からはそうなのであろう。しかし現実問題としてそう単純にはいかないようである。著者も「規制の法観念や、道徳観念をただ機械的に動員するだけでは、新しい現実を包括しきれなくなっている」と述べている。このことは、その他9つの問題にも共通する事項であり、今後とも社会の変化に伴い絶えず考えていかねばならない命題であると考える。著者の学歴は工学部であり、そのせいかわからないが文章全体の構成が数学の難問を利慮整然と解いていくような感じがした。
(2回 T.I.)

 私自身、今まで生きてきた中で「自分は一体何のために生きているのか・誰かの役に立っているのか」という疑問に面したことがある。その時は、全く答えがでなかったが、ほんの小さな事でその答えは突然出たりする。また、その答えは毎回違っている。それは、ここでも述べられているように、人生の目的や意味は人生を歩む中で見つけていくものだからであると思う。だから、答えがすぐ出せなくても焦らなくていいと思うし、他の人と答えが違ってもおかしくはないと思う。
 また、私自身「なぜ人を殺してはいけないのか」と人に問われると戸惑ってしまう。一般的には悪いことだが、殺人の中でも自分の身を守るために行ってしまったものも中にはあるかである。しかし、決して許される行為ではない。この本を通して、一般的には当たり前に言われていることを改めて考えさせられました。
(2回 M.S.)

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して私は、「人を殺したら、殺された人の家族、友人などが悲しむから」いけないのだという考えを持っていた。だが、「一見いい答えのように見えながら不十分な答えの例」に私の答えにちかいものが挙げられていた。それは、「君は殺されたくないだろう、また君の愛する人を殺されたら君は怒り悲しむだろう。だから君も人を殺してはいけないのだ」というもので、筆者は「しかし、自分が殺されたくなかったり自分の愛する人を殺されたくないと思う気持ちと、自分の憎む人を殺したいと思う気持ちとは現実には矛盾なく両立しうる」と述べていた。私は、「確かにその通りかもしれない」と妙に納得してしまった。だが、私自身「なぜいけないのか」とふと考えてしまう時がある。だが、私はこれを人に問い詰めようとは思わない。「いけない」が当たり前だからだ。人の命の重さを考えた時、殺人が許されるわけないと思う。
(1回 A.M.)

私は「人を殺したい」と100%本気ではもちろんないけれど思ったことは何度かある。なぜそう思ったときに殺さなかったのかというとやはり本気ではなかった事と、勇気がなかったこと。そして<人を殺してはいけない>という思いというか考えが頭の中にあったからだと思う。「なぜ人を殺してはいけないのか?」もし私がこの質問をされたら正直考え込んでしまうだろう。正直、この本を読むまで考えたことがなかった。「法律で決まっているから。」とか「自分が殺されたら嫌だから」などという単純な答えでは正直自分でも納得がいかない。かといって、この本の筆者が述べているような「ただ、共同社会の成員が相互に共存を図るためにこそ<人を殺してはならない>という倫理はひつようなのだ。」という答えもなんだか理屈はわかるが腑に落ちない。もっと深い意味のあるような答えであって欲しい気がした。やはりこの問題は永遠の疑問であるのだなと思った。
(3回 J.W.)

この本はサブタイトルに〜新しい倫理学のために〜としている。しかし一冊を読み終えて気づいたのは「根本的に伝えたいことは今も昔もさほど変わらない」ことである。代表的な具体例として2章(第2問)のデュルケームの自殺論が挙げられる。この自殺論は年代や時代・国別に社会学的に統計をとり調査報告を掲載している。社会学は世の中は社会が支配しているという考え方なので新しい倫理学という言葉は影がうすくなる印象を受ける。また7章(第7問)の他人に迷惑をかけるかけないのテーマにしても著者の答えとして「共同社会の成員が相互に共存を図るために必要なのだ」と説いている。これはとどのつまりありきたりな道徳目標をプログラム的に引用しているに過ぎないという印象しか受けなかった。二つの例のほかにも本著は全体的にイメージを具現化するのが難しかった。ただ私の力量不足かもしれないが。
(3回 Y.N.)