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平成9年度 生涯教育専攻 卒業論文要旨

浅野 加寿子
「『生涯教育』の提唱と、日本での受け入れ方について」
卒論を書くにあたり私がこの様なテーマを選んだのは、自分が「生涯教育って何?」という最も単純な問いにいつも答えを返すことができなかったからである。
その答えを探すには生涯教育の原点をみることが一番と思い、提唱者であるP・ラングランの生涯教育論を中心に生涯教育の必要性や目的について調べ、第1章を構成した。これを受けて第2章では、ラングランの生涯教育が日本に入ってきてからの日本での状況、受け入れ方や展開、を中心に構成した。そして第1,2章共に付加的に1965年以前のユネスコの動きや生涯教育論が入ってくるまでの日本の状況を加えた。
結論としては、生涯教育とは一生を通じて学習する「機会を設ける」こと、教育本来の姿に教育を改めること、となるのだろうが、今だその存在は世間では薄いと思われる。
(指導教員・大串)

石田 和之
「子どものスポーツ」
生涯スポーツという用語をよく耳にするが、私は「子どものスポーツ」に注目し、実際の状態、特に子どもが行っているスポーツ現状や問題点を考えてみた。
最初に我が国におけるスポーツの歴史を明治、大正、昭和(大戦前)、昭和(大戦後)に分けて論じた。次に子どものスポーツの実態、問題点を考えてみた。大まかに分けて、運動不足の子どもの問題、日々スポーツ活動を行っている子どもの問題を論じた。最後に、それらの問題を解決するにはどのようにすればよいのか、これからの子どものスポーツについて論じた。そこから、子どものスポーツとは、子どものためのスポーツ、子どもを主人公としたスポーツであることが大切だと知った。
もっと時間をかけて、真剣に卒業論文に取り組んだら、もっと詳しく分析出来たと思う。かなり雑な卒業論文となったが、できたのでほっとしている。
(指導教員・井戸)

和泉 潤子
「母親による子どもの虐待とその社会的背景」
現代の母親が実の子どもを虐待してしまうのはなぜなのか。また、虐待を防ぐためにはどうすればよいのだろうか。
子どもの虐待は一般的に4つの類型に分けられ、それは保護者から与えられることもあれば、他人から与えられることもある。その現状は、電話相談のまとめからみると、母親によるものが圧倒的に多い。その母親たちの背景にあるものは、精神的にも肉体的にも母親を追い詰めてしまう、地域社会、家庭環境の変化があるのである。つまり、母親に対して周囲のサポートが必要とされる。
結局、虐待といっても個人によって原因となるものが変わってくるが、共通して言えるのは、母親達は援助を必要としているということである。まわりが母親を援助することが出来れば、虐待を減らすことも難しくない。
(指導教員・岡田)

礒部 慶子
「学校教育における体罰」
この卒業論文は、体罰が良いのか、悪いのか是非を問うのではなく、体罰なき指導に向けて、進むべき方向について述べたものである。
まず、法的に見て体罰は明確に禁じられているが、実際行われている全ての体罰に対応できるほどではないことがわかった。また、現状では実際行われている体罰と目立たない体罰を示し、生徒・教師・親の間には意識差が存在していることを述べた。そして、教師と親との間で根強く体罰を支えているものの実態について考えてみた。さらに、体罰がきっかけで非行へとつながる危険性や、正しい目で子どもを見れなくなった教師が多いこと、教育効果は期待できないこと、未熟な親が学校に多くを求めすぎることを問題点としてとりあげた。
そして結論では、生徒と教師の相互的な信頼関係が必要不可欠であると考え、4つのパターンを示し、教師が教育的信頼関係を築くことこそが体罰なき指導の手助けとなると述べた。
(指導教員・石飛)

上村 多加子
「地域における高齢者教育」
この卒業論文では、まず高齢者教育の概況を述べた後、それぞれの地域における高齢者教育事業を高齢者の生きがいづくりの観点に着目して、高齢者の学習機会の整備に重点を置いた事業を「従来型の高齢者教育事業」、高齢者の社会参加の促進に重点を置いた事業を「社会参加促進のための高齢者教育事業」とに大別し、前者の事例として三重県尾鷲市における「寿大学」とその取り組み方の違いとして東京都府中市における「けやき寿学園」、後者の事例として東京都中野区における「ことぶき大学・大学院」を挙げ、その現状から高齢化の進む我が国において高齢者教育がどう対応していくべきなのかを考察している。
そこから、高齢者教育にこうでなければならないというかたちはなく、それぞれの地域の実状にそったかたちで取り組み、展開されていくことがより有効であるということが考えられる。
(指導教員・大串)

奥田 正大
「スポーツクラブ(ラグビー)の現状と課題
〜諸外国との違いとスポーツ文化の視点から〜」
私はこの論文で地域とスポーツの関係、生涯スポーツの重要性を明らかにしたかった。 海外で地域と結びつきが強いラグビーを例にとり、日本と海外の違いから、日本ではどのように発展していくのかという視点で論文を書いた。
論文を書くために学習したことで、アマチュアスポーツだけではなく、プロスポーツと地域の結びつきも大切なものだと感じた。
競技スポーツ以外のものを生涯スポーツと呼ぶのではなく、スポーツ全部を生涯スポーツと呼べるようにしなければならない。そのためには、スポーツはもっと魅力のあるものになって、プレーする人だけではなくスポーツに関係のある人を増やしていかなければならない。それが地域の活性化、人々のコミュニケーションの確立、街づくりへとつながっていくと思う。
(指導教員・井戸)

柿木 久美子
「現代の子どもの遊びと親の役割」
この論文では、遊びとは子どもにとってどのようなものであるかを考え、それに対しての親の役割について考えている。そして、子どもにとっての「遊び」とは、発達段階においてとても重要な役割があるとわかった。
しかし現状は、少子化、過保護、過教育が原因で子ども達は遊ばなくなってきている。そのうえ、仙田満の遊びの調査では、昔と比べて遊び空間、遊び時間が大幅に減少していることが分かり、現代の子どもたちがとてもストレスに満ちていることがわかった。
また、プレイセラピーという違った角度から遊びを見たとき心の内面に対して非常に治癒的な役割があることが分かった。心はストレスに満ちていて、それを解消する手段である遊びをしないバランスのとれていない子ども達に親がセラピストの役割を果たす重要性を感じた。
(指導教員・岡田)

薦田 友希
「シュタイナー教育について」
近年、子ども・大人問わず”心の弱さ”が原因と思われる様々な問題が起こっている。卒論では、そうした問題の解決につながる教育として、シュタイナー教育を取り上げ、その人間観、実践、日本における展望について論じた。
第1章では、シュタイナーの人智学的人間観と発達段階の理論から、シュタイナー教育を見ていった。第2章では、発達段階ごとのシュタイナー学校の実践を調べ、また、そうしたシュタイナー学校の実践の背景にあるシュタイナーの社会批判をまとめた。そして第3章では、シュタイナー学校の日本における展望について考察して、シュタイナー教育は日本に浸透していくだろうという結論を得た。
卒論をまとめながら、シュタイナーの独特の考え方の一端に触れたが、特にシュタイナー教育の目標である「自分自身で自分をしっかりととらえ一番深い内部の欲求から自覚的に行動すること」を今後の目標としていきたい。
(指導教員・石飛)

神保 秀樹
「世界の生涯教育と日本の生涯教育」
生涯教育という言葉は、我が国では名前は知っていてもそれがどういうものか我が国でどんなことを行っているのか知らない人が多いように私には感じられる。しかし文献を見てみて完全週休二日制の普及や有給休暇の取得促進、残業時間の削減などが我が国の生涯教育の促進施策の1つと知り生涯教育とは、意外に身近に気付かぬうちにあるものだとおもった。私がこのように感じるように外国でも、その国に合わせた形で生涯教育が発展しているのではないかと考え、各国の生涯教育の特徴をとらえ比較してみることによって、生涯教育の発展の仕方からその国々の国風をみて見るのも面白いと思いこの論文を作成した。その結果、もう一度生涯教育論にもどり、この意味を考えることによって「生涯教育はある1つの教育制度ではなく、教育制度の組織全体を基礎づける原理」という言葉を証明し、生涯教育とは何かということを説明している。
(指導教員・大串)

鈴木 あゆみ
「高齢期における生きがいについて
〜人生の本番をどのように生きるか〜」
今日、日本では平均寿命が延び続け、定年後、子育て後の生き方が注目されている。
その人生の本番(定年後、子育て後の時間)において、生きる目標を失ってしまうか、自分を発見できるかで大きな違いが生じる。そしてその差と密接なつながりを持つ「生きがい」とは何かを知るために、論文の構成を
第一章「なぜ今生きがいが議論されているのか」
第二章「生きがいとは」
第三章「生きがいを持つ人々の現在」
とした。一章では、生きがいが議論されるようになった社会的背景について、二章では、生きがいの定義から生きがいというものを考え、三章では具体例を挙げた。その結果、 {自分らしい自分になるために、自分探しの旅に出る。それが人の一生であり、その集大成となるのが高齢期である。そこで自分に出会うために必要不可欠なのが生きがいである}という定義を導き出すに至った。
(指導教員・井戸)

田口 直孝
「施設に生きる高齢者」
本論文では、老人ホームとその中に生きる人々、そしてこれからの高齢者社会で何が問題かを考えた。単に老人ホームと言っても4種類に分かれている。まず始めに、それぞれのホームがどういう立場で構成されどういう規定でどんな人が入っているのかを見た。その後で、中で働く人々がどのような条件で働いているか、苦労などをふまえて紹介した。第3章では(十分には論じられなかったが)生駒市の老人ホームについて論じた。最後の章で、これからの問題として、高齢者問題=女性問題と定義づけ、論じてみた。
もう少し早めにホームと連絡を取っておけば、3章をはじめ、もう少し内容が深められたのではないかと思う。それが反省点である。
(指導教員・岡田)

槌野 尚由
「死の準備教育」
誰もが必ず経験するはずのことにも関わらず、最も非日常的でありその知識すら推測に過ぎないという奇妙な感覚に陥ることがある。その事について深く考えることもなく、そこから何を得ることができるのかも知らないままに日々の生活を送ることに、何の疑問ももたないで果たしてよいのだろうか、ということについて考察してみた。
本論文でのテ−マは「死の準備教育」であるが、内容に副題をつけるとすれば「生きがいと死にがいのための学習」となる。他人の死を経験することによって起こる死への疑問や自分自身の生の終局を考えることにより、「生きる」ことへの執着や意味を求める事へとつながるのではないだろうか。その考えは価値観になり、倫理観になり、その人の望む人生におおいに影響を及ぼすだろう。
基本的概念として、現象に言及した「身体的な死」、意識としての捉えられ方である「精神的な死」、歴史的・文化的な違いをみる「欧米、日本の事例」、以上を踏まえた上で、そこから発生してきた学問がどのような意味をなすのかを検討していく。そしてそこから導き出される「死とは」・「生とは」という結論をもって本論文はしめられている。
(指導教員・石飛)

中野 雅紀
「大学生の学習意識」
「大衆化」がいわれる現代の大学生について我々大学生の抱える諸問題を明らかにし、その原因を探ると共に、それに関する何らかの解決策を模索することが卒論の意図である。
大学の大衆化は学生の量的な拡大と、学習意欲の低下をその特徴とする。文献研究の結果、学歴社会という社会認識を一つのキーワードとして、量的な拡大、つまり制度的な大衆化の促進と共に教育の内容自体も大衆化していくその過程を辿り、そうした教育が学歴社会という社会認識を支えるメリトクラシーの原理と合わさることで生じた教育観の歪みが、現代の大学生の学習意欲を低下させているのではないか、という見解を得た。
その結果、そうした教育観の歪みを是正し、メリトクラシーの原理を相対化させる教養重視で総合的な学習を目指す方向に、これからの大学の可能性を見出すべきではないか、という結論に到った。そこに於いてこそ、大学の積極的な意味づけも可能であると思う。
(指導教員・大串)

西口 真由美
「児童虐待についての研究」
現在、社会問題でもある児童虐待について研究を行った。
まず、児童虐待の分類、説明、現状。次にこの問題を引き起こす原因を西澤哲氏の文献から考え、特に興味をもった「虐待の連鎖」について調べた。
つづいて、児童を守る中心的役割を担う児童相談所の働き、問題点、課題を述べ、最後に、親権等の法律上からの研究、これからの虐待防止のための課題を論じるという内容、構成になっている。
研究を終えて感じたことは、増え続ける児童虐待に対してまだまだ日本人の取り組む姿勢の不足、そして何よりも心のケアの必要性である。
虐待がしつけではなく、一種の暴力であることを、一日も早く一人でも多くの人が気づき、虐待を受けた者が次の世代に同じ事を二度と繰り返さないためにも、この問題に対する体制の確立が重要なのである。
良い子育てのできる良い親であろうとする思い、努力、焦りの結果現れるこの問題を単に親が加害者と決めつけるのではなく、社会全体で見直す必要があるのではないか。
(指導教員・岡田)

長谷 利治
「我々のための企業内教育」
長寿化、少子化、経済水準の上昇により、個々の価値観やライフスタイルが戦後と比べて、随分と変化した。この変化によって、頭を抱えている人の中に経営者がいる。変化していく人々を雇い、育て、会社に利益をもたらしていくことは並大抵なことではないからである。
この論文は、前半部分で日本の企業内教育の歴史と種類を簡単に紹介し、後半で生涯学習時代にどのような企業内教育が望まれているのかを、企業側と従業員側の双方の立場から論じてみた。
人々の価値観の変化の一つの表れとして、仕事の捉え方の変化がある。生きていくためでなく、人生を楽しむために仕事をしているという人が増えている。言いかえれば、仕事を手段として自己実現に向かっているのである。
これらの変化をふまえて、従業員のための教育として退職後のため、または悩みの多い40代に対してなど、プライベートに踏み込んで直接は利益のでない教育が必要だと思う。企業側の教育としては、従業員との関係を密にし、自ら望んで仕事に取り組んでもらえるような教育が必要である。
以上について、業種を絞らず、規模は中堅以上の企業について考察した。
(指導教員・井戸)

早瀬 由衣
「演劇教育の研究」
現在の学校教育は、能力主義、成績重視で、こどもの個性が優先されず、それがいじめや登校拒否を引き起こすきっかけとなっている。演劇教育にはそのような状況を少しでも変えていく力があることを知り、研究に到った。まず、演劇教育の意味を明確にし、次に演劇教育のあゆみ、学校教育における演劇教育、と進めていった。その結果、演劇教育とは、表現のもとに成り立ち、人と人とが深く関わり、お互いを認め成長していく過程を重視する教育と言え、それは、教育の根本であることがわかった。
(指導教員・大串)

古川 裕美
「難聴者・中途失聴者の自立促進に関する研究
〜教育はどのように係わっていくのかを通して〜」
生涯教育を学んできたが、人の生き方として大切な教育は「○○である」という確信は持てずにいた。そこで、@自分自身を知ることと、A自分を取り巻く環境を知ることが答えを出す近道だと仮定して、この卒業論文に臨んだ。
ここでは、自立促進に向けている難聴者・中途失聴者を主体において、@難聴者・中途失聴者とは?また、どういう状態におかれているのか?どういう活動をしてきたのか?などとA難聴者・中途失聴者と行政(制度)、企業、健聴者との関係について研究した。
その結果、難聴者・中途失聴者は少しでも、多くのコミュニケーションや情報の伝達ができやすくなるために聴覚訓練をしたり、また、社会に向けての運動や健聴者と職場を共にして、話したり、行動したりして、社会に入っていくこと、また健聴者には、「障害を理解すること」と「思いやり・優しさを持つこと」を心掛けることが大切だと認識した。
(指導教員・大串)

松岡 智子
「現代の子育ての在り方
〜家族の変化と子育て〜」
現代、日本の家族は変わったとよく言われている。そこで私は、家族の変化の中に、現在社会問題にもなっている育児ノイローゼについての原因もあるのではないかと目をつけ、取り組んだ。
まず、第1章で家族にかかせない家庭教育はどういうものでどう変化してきたのかを示し、第2章で家族の世帯の変化、拡大家族から核家族への推移を説明、第3章には子育てに視点を置き、拡大家族、核家族での子育ての違い、現代の子育てに伴う問題がどれだけ身近にあるか等、子育ての落とし穴について述べている。第4章では、母親の子育ての意味、父親の子育てへの協力の重大さ、これらをふまえて、これからの家族について考えた。最後に、現代の母親が子育てを終える40代〜50代からの生き方を若いうちから見越しての人生設計を立てておくことが子育てにどれだけよい影響を与えるかを知り、自分でも実践していこうと思っている。
(指導教員・岡田)

松山 悌子
「民間学習事業・カルチャーセンターについて
〜学習を楽しむ・あそぶ〜」
生涯学習機関について、一つ詳しく調べてみようと思い、カルチャーセンターを選んで書くことにした。まず歴史、次に現状をいくつかの資料の調査結果からまとめ、最後にカルチャーセンターを支えているものは何かを考える構成になっている。カルチャーセンターという言葉は普及しているが、現状は知らないことが多く、勉強になった。カルチャーセンターは経営状況が厳しく、企業でありながら赤字覚悟であらざるをえない。学習の場というより、趣味・レジャーの要素を強調し、新しい遊びの場・レジャーとして活気づいて欲しい。経営上の厳しさが伝わらなかったり、経営者がカルチャーセンター事業を行っている本当の理由につっこめなかったのが反省点。実際肌で感じることの大きさを口頭試問を通しつくづくかんじた。資料を探したり、読んだりするのは好きなので、何か面白味に物足りなさを感じていたので、今後の課題が一つ卒業論文で見つかったのはよかった。
(指導教員・井戸)

湊 百加
「機能不全家族の中に見るアダルト・チルドレンについて」
私は、以前より子どもの成長における両親の影響について興味があり、生まれ育った家族における親の影響が、後にどのような形となって、その人の中に存在し続けるのかということをより深く考えるために、「アダルト・チルドレン(AC)」という1つのキーワードをもとにして卒業論文に取り組んだ。
第1章では主に、ACという言葉の語源を、もともとのACから現在日本で使われているACへと意味が派生してきたいきさつをたどりながら取り上げた。第2章ではACを生み出す機能不全家族について述べ、第3章ではACが抱えやすい問題について具体的に述べ、第4章ではACが自分らしく生きていくための癒しの方法について取り上げてみた。
結論としては、やはり子どもが成長していく過程では親からの愛情や影響は必要不可欠であるが、ACという言葉を通し、今までの親との関係を見つめ直すことでより自分らしく生きることができるのではないかということが分かった。
(指導教員・石飛)

向井 昭博
「余暇活動における生涯スポーツの役割」
近年、週休二日制の導入により、余暇か時間が増加し、人間の余暇に対する欲求は高まっている。この欲求に生涯スポーツはどのような役割を担っているのか、また今後余暇をよりよく過ごすために生涯スポーツとそれをとりまく環境をどうすべきなのかについて述べてみた。
アンケート結果、資料などをふまえると確かにスポーツに対しての関心が高く、人間にとってスポーツが必要なものであると考えることができる。しかし、実際に活動をするうえで個人の考え方、スポーツをする為の施設、指導者、時間などの問題が現実に存在し、そのことが生涯スポーツの発展の妨げになっているのではないだろうか。
これからの問題を乗り越えてこそ、「いつでも、どこでも、誰でも」それぞれのライフサイクル、目的に応じてできる生涯スポーツになるのではないかという結論にたどりついた。
(指導教員・井戸)

山田 道子
「夜間中学に関する研究」
本論文は、就学率99.9%を誇る日本が生んだ、義務教育未修了者、教育の底辺におかれている人たちが、学びの場を求め、集まった「学校」について論じているものである。法的な位置づけもなく、曖昧な存在であるが、夜間中学の果たしてきた役割は大きい。
夜間中学に通う生徒は様々な理由のもと、義務教育を終えずに学齢期を過ぎた人々である。戦争による混乱、家庭の貧困、障害者、在日外国人、海外引揚者などであり、入学資格に論議の絶えないのが、不登校児童生徒の受け入れや、長期欠席にも関わらず卒業証書を持つ人々の存在である。
生涯教育が叫ばれる時代、自らの学習意欲によって、生きるための文字や言葉を学びたい人々。彼らはやむを得ない事情を抱えて義務教育から遠いところにおかれてきた。生涯教育という理念に基づいて、その学びの現場の声に耳を傾ける時代の到来に、権利としての教育について述べたものである。
(指導教員・岡田)

山本 吏香
「障害児教育についての研究」
心身に障害があるために、小・中学校の通常の学級における教育だけでは、充分な教育効果を期待できない児童・生徒がいる。このように教育上特別な配慮が必要な児童・生徒に対しては、その心身の障害の状態や発達段階、特性などに応じて、よりよい環境を整え、その可能性を最大限に伸ばし、可能な限り積極的に社会に参加できるよう、特別な配慮のもとに適切な教育を行う必要がある。そのような必要から用意された学校教育の一分野を、我が国では「特殊教育」と呼んでいる。
しかし、これは随分おとな的発想だといえるかもしれない。通常の学級ではとてもだめだ、と決めつけてしまう前に、そうでもないんじゃないか、と疑ってみて欲しい。
乱暴な統合でもなく、固定した分離でもない柔軟な姿勢で、あらゆる可能性を探る必要があるのではないだろうか。卒業論文では、これらのことをテーマとして考えてみた。
(指導教員・石飛)

吉田 耕一郎
「父親の教育的役割」
父親に対する自分の感情が変化したのは、23歳になって今まで父親が与えてきた指導や教訓の大切さを少しずつ理解してきたことにも関係があるだろうし、父親の働く姿を自分の目で直接見ることによって、今の自分にいい意味での影響を植え付けられたことにも原因があると思える。しかし、世にいる全ての子供達と父親との関係が、私が抱いている感情と同じであるはずがない。今の子供達は自分の父親にどのような感情を抱いているのだろうか。今まで身近に見てきた父親への感情と父親不在という社会問題が相重なって、厳しい、優しいといった父親論よりも、子供にとって根本的な父親の教育的な役割とは何なのかを、自分なりの考えをもとにしてインタビュー調査と共に論じてみた。
論文を作成して、父親と子供の絆が希薄な家庭が非常に多く、絆をもっと深める必要があるとわかった。父子が接する機会は多くなくても、子供をよく観察しその状態を把握し必要な時に子供にアドバイスを与え、強烈な印象を必要な時に応じて与えれば、父親のメッセージは子供の心の奥に残るものである。今求められている父親の最大の教育的役割とは、どんな環境に子供がいるにせよその関心を常に援助し支えていく事なのである。
(指導教員・大串)