天理大学生涯教育専攻研究室HPトップへ

平成12(2000)年度 卒業論文要旨

赤阪 藍
「馬の持つ”癒しの力”〜障害者乗馬の可能性〜」

 「癒し」という観点から、ホースセラピーについて考えた。第1章では、ホースセラピーとはから入り、歴史・効果を参考文献で調べた。第2章では、日本のホースセラピーの現状と課題ということで、現在の日本でホースセラピーがどのように行われているかをインターネットを使って調べた。そして第3章では、自分がアルバイトを行っているワールド牧場を例に上げ、現在セラピーを行っていない施設で、ホースセラピーを行うにはどのようにすればよいかを第2章の現状・課題と照らし合わせて、ワールド牧場のスタッフにもインタビューを取りながらまとめた。
 最後に、ホースセラピーは動物相手であり、人の感覚もそれぞれということで結論を出すのは容易なことではない。しかし私は、乗馬というスポーツをセラピー目的だけにとどめず、障害者の人たちの『生涯スポーツ』として広めればいいと考える。そして、私自身も『生涯乗馬』を楽しみ、職業にしたいと考えている。
(指導教員・井戸)

安治 正樹
「高齢社会における高齢者の生きがい」

 私は老人ホームのボランティアを通して、高齢者の生きがいに興味を持ち、このテーマを卒論のテーマに選んだ。そして、高齢者の生きがいについて自分なりの提言が出来ればよいかと思い、この論文に取り組んだ。
 第1章第1節では、わが国の人口高齢化がどれくらい進んでいるか、また、人口高齢化の推移やその原因について、第2節では、人生60年の人生80年の時代の高齢者のライフスタイルがどのように変化したかについて、第3節では、高齢期における喪失体験と心理的課題について述べた。
 第2章第1節では、生きがいとは何かというのと、生きがいを成立させる条件について、第2節では、参考文献のデータに基づいた高齢者の生きがいについての特徴、第3節では、生涯学習は高齢者の生きがいにおいて、どのような役割を果たしているかについて述べた。
 そして、論文の最後では、自分がこの研究でたどり着いた結論やこの研究を通して学んだことなどについての自分なりの提言をさせてもらった。
(指導教員・井戸)

市木 理恵
「絵本でつながる大人と子供 〜大人が考えなければならないこと〜」

 絵のある本は児童対象と考えられ、子供のみが読者だと考える大人も少なくはない。大人は子供に、教育目的や想像力を養うために読ませ、教養を与えようとする。けれども、絵本は大人にとってはそこまでのものなのだろうか。大人の1人となった私が絵本に受けるこの感動は一体何のためなのか。そんな疑問から、大人は子供にとっての絵本、また大人が認識しなければならないことを考えていった。
 論文のきっかけともなった絵本を材料とし絵本から与えられる、人生、死といった主題の移り変わりや絵本の中で欠くことのできない絵の役割を論じた。親子の信頼関係にも絵本は効力があり、絵本は親によって子に定着させられる。人を通じて絵本は心にひびき、絵本と親子というつながりは深い絆となる。絆を築くことのできる大人になるために、親には「感じる本」として絵本を認める事と「子供の心を失わない大人」に近づくことが大切である。
 絵本には、単純でこそ、感じる制限を作らせない、無限の可能性があるのである。
(指導教員・岡田)

桶口 久美子
「現代の人間関係〜依存と共依存〜」

 以前の人と人のつながりが密であった頃に比べ、情報が飛び交う現代は人と接する機会が減ってきている。人と向かい合うというよりも、個人それぞれが孤立している状態である。依存の心理は誰もが持っているものなので、個人が孤立したからといってなくなるものではない。逆に孤立したからこそ、より誰かに依存したいという欲求が高まるとともに限られた人間関係の中で共依存という不幸な関係に陥る。個人が自立し、適度に相互依存し合う必要がある。
 趣味やスポーツ、ボランティアなど、自分の好きなことをする中で知り合う仲間たちとの縁は自立した人間関係を形成できるかもしれない。特にボランティア活動では、人や社会のために役立ちたいという欲求が満たされ、生活意識を充実させる。こうした自立した人間関係は適度な依存関係を成り立たせるだろう。
(指導教員・岡田)

柏原 櫻子
「音とともに生きる」

 私たちの生活は様々な「音」に囲まれている。音とともに音と一体になって音に人の存在、自然、世界を感じながら日常生活を営んでいる。しかし、「音」を体験することは、あまりにも日常的なものであるために、日々の生活における意味など深く考えることなしに、時が過ぎ去ってしまうことが多いのではないだろうか。だからこそ私たちの生活に深く根ざしている「音」について、改めて捉える必要があると考えた。
 「サウンドスケープ」とは「音風景、音環境」を意味する言葉であり、地域や時代の音環境をひとつの「文化」として捉える「サウンドスケープ論」という考え方に依拠しながら、数々の事例をもとに、私たちと「音」の関わりについて考察した。
 私たちの世界は「音」ばかりの世界ではない。しかし「音」によって、「音」を通じて形作られるものがある。私たちはそれらの存在に気づき、「音」をきっかけとし、それぞれの「音」の意味やその成立を支える社会や歴史、環境や文化について共に考えていくことが、私たちひとりひとりに求められた課題なのではないだろうか。
(指導教員・岡田)

北川 道人
「生涯学習と地域スポーツ」

 私は生涯教育と地域スポーツをテーマに卒業論文を書いた。
 第一章では地域スポーツの意義と歴史についてである。今日本では地域スポーツがどのような存在でありどのような役割を果たしているのかが第一節。スポーツがどのように生まれ、現在の地域スポーツへと発展していったのかを第二節に書いた。
 第二章では地域スポーツの現状と課題を述べた。日本で広まってきた地域スポーツはどのような社会的背景を本に根付いたのかが第一節。スポーツ先進国と呼ばれる諸外国と日本の地域スポーツを他国とどのような点が違うのかを比較したのが第二節。学校におけるクラブ活動と地域スポーツの関係を調べたのが第三節。私の所属するサッカーチームを主にアンケートを取り集計した結果を分析し、グループインタビューでその内容について詳しく聞いたものをまとめたのが第4節である。
 第三章では行政はどのような役割を地域スポーツにおいて請け負っているのかを第一節で述べ、その課題やこれからどのように地域スポーツに行政が関わっていけばよいのかを第二節に書いた。
 最後にこの研究を進めていった上での自分の意見などをおわりにでかいてこの論文を締めくくった。
(指導教員・井戸)

國部 真紀
「小学生性教育の課題」

 人間は男女を問わず幼児期から人との出会いや、環境から自然に性に関する情報やセックス観を身につけて生きていくのであり、そのような形での性教育ならばいつの時代にもどの社会にもある。しかし、現代社会は「性の商品化」による性情報が飛び交い、そこから受ける影響もある上に、各家庭における生活様式の変化に伴って家庭内やそれ以外の環境で性教育を学ぶ機会がさらに少なくなっている。その為にも、学校の場での”性教育”を1つのカリキュラムとして授業に取り入れ、道徳的・科学的な視点から教育することで集団生活の中で自己の尊さや他者の尊さについてさらに認識できるのである。そして、性の自己決定能力を養うことによって、自分の身体は自分のものであり大切に守るべきものであること。また、守る力だけでなく積極的な関係に入る決定も含まれている。
 自己決定能力とは、今後の人生設計をも包括する生きる力と密接な関係であり、性教育は人生教育といえるのである。性教育は「生きる力」と「性的自己決定能力」を養う重要な役割であることを認識してもらいたい。
(指導教員・大串)

清水 雅允
「子供の人権について」

 この論文では、「子どもの権利条約」の歴史を調べて、自治体・NGOでの取り組みを主にし、具体的な問題点を言及した。第1章では、国際連合ユニセフが「子どもの権利条約」の歴史に大きく貢献していることを紹介した。第2章第4節で紹介しているSVC等のNGOを提唱・創設した人々の働きも興味深い。また、子どもの権利委員会の設置についても、「子どもの権利条約」をひろめるために、議論をしている。第2章では、自治体とりわけ2000年12月21日に「子どもの権利に関する条例」神奈川県川崎市で成立する前の案ついて述べた。児童と子供の定義の違い、条約の効力について述べた。川崎市の例に見られるように、「子どもの権利条約」ではない、条例ではあるが数多くの自治体が、条例を市民署名運動や自治体単独での制定に着手している。「大阪市学童保育条例」が否決されるかもしれないが市民でも条例案を出せる法律はある。いかにして自治体を動かすか。「子どもの権利条約」のように具体的なモデルがあれば、自治体も可決しやすいのではないだろうか。
(指導教員・石飛)
         

杉村 一実
「単位制高校について考える」

 私の卒業論文のタイトルは、「単位制高校について考える」である。主なテーマとして扱ったのは、学校内における人間関係である。第1章「単位制高校について考える」では、単位制高校設立の経緯やそのシステムについて触れ、なぜ単位制高校について取り上げるかについて述べた。第2章「単位制高校における意識調査」においては、単位制高校生の意識調査結果の考察を行った。また、クロス集計の結果もこの章に収めている。なお、単純集計の結果については、付録とした。第3章では、単位制高校の課題として頻繁に取り上げられることについて、私見を述べた。今後の課題としては、心理学、社会学など、各種理論との関連付けがあげられると思う。また、アンケート集計のための容易な手段の活用もしなければならないと考えている。
(指導教員・大串)

須藤 彰
「若者における携帯電話コミュニケーションの特色」

 現在、携帯電話の普及率が5千万台を越えたといわれている。日本国民を1億2千万人と考えると約2人に1人の割合で所持していることになる。特に若者の中で爆発的に普及しているが、その中で大学生がどのように携帯電話を使い、どのように考えているか、どうしてここまで普及しえたのかなどを実際にアンケートを行い述べたものである。まず第1章で携帯電話の歴史、ポケットベル、PHS、現在の携帯電話までの流れについて。続く第2章で実際に大学生81人を対象にアンケートを行い、目的、方法、結果、考察を。第3章において全体の結論、並びに携帯電話のこれからの可能性、次世代携帯電話の登場などを述べている。結論として携帯電話を持つことによりコミュニケーションが簡素化していると思わせがちだが、その要因の1つとして選択制と簡易性を取り上げた。実際には重要な部分できちんと大切にコミュニケーション取っているものであると考える。
(指導教員・大串)

徳堂 愛子
「イギリスの生涯教育」

 わたしの卒業論文は、イギリスの成人教育を書いたものである。この国には「階級」が存在しており、今なお国民の中に根付いている。階級社会の中で、底辺に属している労働者階級の人達はどうのような教育がなされているのかを扱っている。
 労働者階級の人達のための成人教育はどういったものか、どのような教育が望ましいのか。今までの伝統的な成人教育は、現在の労働者階級の人たちにとって、本当に身に付いているのかを考察する。これからの成人教育は、地域ごとに根ざしたコミュニティ教育が目指されるべきである。階級問題とともに成人教育も歩まなければ、一方だけでは発展する事はできない。従って、労働者階級主体の成人教育を考えていかなければならない。
(指導教員・石飛)

中沢 恵美
「高齢者における学習機会〜老人大学について〜」

 わが国では近年、人口の高齢化が国際的にも、これまでに経験したことのないスピードで進行しており、今後さらに進行することが予測されている。この高齢社会の中で、高齢者が豊かで楽しい老後を送るために、どんな生涯学習を行っているかについて研究したものである。その中で、高齢者だけが通うことのできる老人大学という学習機会があることを知り、そこにスポットを当てた。
 1章では、日本の高齢化が進んできた要因と、高齢者の学習能力について述べた。2章では、学習の場としての老人大学ができるまでの系譜について、そして、3章で実際に実習生として通った2校の老人大学の実例をもとに、老人大学が高齢者にどんな影響を与えるのか、老大の役割とは何なのかについて、本論文を作成した。
 老人大学に通う人は、私が想像していたよりもずっと心が若々しく、表情が活き活きしていた。と同時に、老人大学とは、単なる仲間づくりや生きがいづくりだけでなく、これからの人生をどのように生きていき、どう社会に貢献していくかを考えさせるきっかけづくりであることが分かった。
(指導教員・井戸)

中島 恵理子
「障害者との人間関係」
バリアフリーやノーマライゼーションと盛んに言われ、一般的な障害者観は健常者と共に生きようという考え方が主流である。しかし、実際に障害者を見かけたとき、とまどいを覚えたり、避けてしまうことがあるのではないだろうか。それは、タテマエ的な障害者観と深層の意識としての障害者観にずれがあるからである。そこで人々の障害者への意識を考え、良い人間関係を築いていくためにはどうしたらよいのかを考えた。
 人は、心理的社会的距離の近い、直接的・具体的側面になると障害者に対する好意度は低くなる。障害者との心理的距離を縮めるには、私たちが本能的に抱いてしまう「障害」というしるしへの違和感をなくしていくことである。それには、健常者と障害者とが接触する経験をし、慣れることが一番の方法であろう。
 今後の課題として、直接的・具体的そくめんで非好意的な態度をとる人たちにどのような接触する機会を提供でき、心理的距離を埋めていくことが出来るかとういことがあげられる。
(指導教員・岡田)

中田 浩行
「スポーツを観る人間 −余暇活動としてのスポーツ観戦・プロレス−」

 現代においてその概念が重要視されている「生涯学習」。 「余暇をいかにして過ごすか」という部分がこの生涯学習には関わっくるわけであり、この論文はまずその「余暇活動」という部分から入っていく。N・エリアス著「スポーツと文明化」の文献を中心として、現代社会に生きる人間に対して余暇が果たす役割を明らかにした。その中で、エリアスが唱えるところの余暇活動の条件をおおいに満たすものとして「スポーツ観戦」という余暇活動が浮かび上がってくる。このスポーツ観戦を、生涯学習としての余暇活動、人間の生きがいとしてなりうることを前提として、次にそのソフトが問題となってくる。そして数多く存在する「観るスポーツ」の中で、最も興味を引かれたものが「プロレス」である。プロレスはその実際の人気の高さに比例した確固たる競技的地位を持っていない。プロレスにのみ存在するこの矛盾を解き明かし、その「余暇活動としての観るスポーツ」としての可能性を探ってみることとする。
(指導教員・石飛)

中西 良樹
「学童保育の現状について − 明治・椿井バンビホームを訪れて」

  近年、女性の社会進出が目覚ましく、子供の教育が注目されていると思い、学童保育について調べた。学童保育について調べるに当たって、実際に椿井・明治バンビホームに見学に行き、そこから見えた問題点を述べていった。
  まず第一で学童保育の行政における変遷の歴史について。第二章では、実際に現場の学童保育の紹介を、そして最後の第三章では、そこから見えた問題点いついて述べた。
  全体の結論としては、学童保育の歴史は浅く、まだまだ問題点も多く、改善の必要性があると思われた。
(指導教員・石飛)

中野 里衣子
「教育問題としての少年犯罪」

 少年犯罪は、日本の教育問題、社会問題とされており、テレビや新聞で少年犯罪が取り上げられていない日は無い。本論文は、少年犯罪を教育問題として取り上げ、学校のあり方や家庭の教育の仕方を考えている。
 第1章では、不良少年の歴史や、少年犯罪の現在の特徴などを述べている。第2章では日弁連子どもの権利委員会の幹事である、伊藤芳朗氏の「少年Aの告白」から、様々な少年犯罪を挙げ、述べている。第3章では、学校での対策について述べている。第4章では、現在の家庭の問題とされている、親の過保護が子どもにどの様な影響を与えているかを述べた。
 少年の非行を防ぐ為に、様々な議論がなされているが、どの教育が少年犯罪を防ぐか、少年犯罪を起こさせるのか、はっきりとしていない。今まで悪いとされてきた教育方法を見直し、柔軟な考え方で、少年犯罪に対応すべきであると思われる。
(指導教員・石飛)

林 成人
「決断の追体験 =信仰者の視点から=」

 私は当初、卒業論文を製作するにあたって安易に「カルト」というテーマを取り上げようと考えていたが資料を集め始め、考えを膨らませていくうちにそのテーマの深刻さ、扱いにくさを痛感するようになってきた。
「本当に自分の調べたい事・理解を深めたい事は何か?」と考え、私の家の宗教に関わる事を取り上げこれからの私自身の生き方の指針となるものを見出そうと考えた。
 ただ、いかんせん、その考えに至るまでの決断が遅く、論文提出日が迫るにつれ、今ある資料で何とか取り繕うとしか考えられず、論文自体は冒頭で掲げた目標を達成するには至らない稚拙なものとなってしまった。
 今後、この卒論で達成し得なかった目標を達成していくためには、まず祖父を始めとする周囲の先人たちにどのような道を歩んできたのかを実際に聞き尋ね、その道を知ることで私自身の中の甘く、宙に浮いている部分を取り除けたらと思う。
(指導教員・石飛)

林 美江
「日本人のテレビ生活とその影響〜子どものメディア接触と心理的要因〜」

 現代の日本社会は高齢化・少年犯罪など様々な問題があるが、その一方で、情報化も急速に進み、インターネットの普及によって情報が手軽に得られるようになった。しかし、身近な情報源といえば、やはりテレビではないだろうか。この論文では、テレビからの影響と、日本人がそれにどう接しているか、またどう付き合って行くべきか(メディアリテラシー)を焦点にし、その対象者は子ども(主に小学生だが中・高生も含む)とした。
 子どもがテレビやテレビゲームに接するのは、何かから逃げたい、あるいは補償されたいという心理的欲求が隠されている、という考え方があった。ただ、その影響力については、メディア接触や生活スタイルに個人差があり、良い・悪いという結論には至らなかった。また、家庭において、母親がメディアと子どもに対する意識の低さも気になった。テレビは日常化しているにもかかわらず、情報に対する意識を持っていないのである。情報を鵜呑みにせず、その表現や内容に疑問を持ち、様々な意見として客観的に自分の生き方・考え方に取り入れることが、情報化社会に生きる我々にとって必要なことではないか。そしてそれを子どもの頃から身につけさせて行くべきである。
(指導教員・大串)

日野 奈緒子
「「総合的な学習」体制に関する一考察」

 新聞記事より「総合的な学習」という言葉に出会った。内容を読んでいると「体験を含んだ学習である」というふうに書かれていた。私自身が、ただ机に座っている学習より実際に体を動かして学ぶということが好きだったので、この題材を取り上げた。
 この論文では、今までの普通教科と総合的な学習を比べ、総合学習の意義やねらい、今後への課題を述べた。
 今までの普通教科では、生徒はおおかた受け身の姿勢で授業にのぞんできた。その結果、「自ら考える力」というものが失われつつあると言ってよい。その力を取り戻すためにも「総合的な学習」を導入し「自ら考え、他人を思いやり、強調する力」を付けていくことが主に「総合的な学習」に求められている。
 まだまだ「総合学習」は始まったばかりで、教師陣や生徒はとまどっているようだが、これからのそれぞれの変化に注目したい。
(指導教員・井戸)

松山 杏子
「「子ども虐待」を考える<間違った意識が生む悲劇>」

 きっかけは、新聞やテレビのニュースなどを見て疑問に思った事である。私自身今まで母親からの愛情を疑ったり、不安を感じたりする事が無かったため、事件の原因が全く想像出来なかった。第一章では子ども虐待の定義を述べ、第二章では人間発達の仕組みについて、幼児期や学童期などの成長期に虐待を与えるという事がどれほど悪影響な事であるかを述べた。第三章では、実際に起こったケースを挙げている。第四章は、「母性」についてふれているのだが、私が一番興味深く調べたところである。
 私を含め、多くの人が「母性」は本来女性にもともと備わっているものであると思っている。しかし、実際はそうではなく、女性が子どもを授かり産み、育てていく中で「母性」は育っていくものなのである。子育てが得意な人もいれば不得意な人もいる。子育てに苦戦しながら母親も共に成長していくのである。
 最後に、子ども虐待に悩んでいる方への社会的対応と援助システムや、子ども虐待防止に関する法律を載せている。実際に自分や周りの人がこのような状況に陥った場合の参考にしたい。
(指導教員・岡田)

宮西 本子
「現代女性の自立と依存」

 長寿命化、少子化、経済水準の上昇によって人々のライフサイクルは変化した。家族の形も、核家族が増え、夫婦別姓、シングルマザー、事実婚など多様化している。これらの多様化は、ここ2・30年で変わったといわれる女性のライフスタイルと大きく関わっている事が言える。
 女性の社会進出は増大し、家庭から遠ざかっていく女性も増えているが、社会においても家庭においても女性の自立を妨げる問題がたくさんある。
 この論文では、前半に、家庭と自立に関してのさまざまな具体例を挙げて、若いうちから目標を持って、身近なところから自立していくことの大切さを述べた。
(指導教員・石飛)
 

山形 真子
「現代社会における子育て 〜母子関係を中心に〜」

 自然な営みで当たり前に行われていた子育てが、現代ほど難しい時代はないと言われている。その主な要因の一つに変化する家庭生活が挙げられる。少子化により子どもとの接触機会が減少し、核家族化により子育ての相談や手助けが受けにくい状況にあり、母親たちは不安と孤独を抱えている。
 そんな母親たちは仲間を求め公園を転々としたり、育児書等の子育てマニュアルを求めたりする。その結果がひどい時にはノイローゼや虐待となって現れてくる場合もある。
 本来、子育てとは一体どういうものなのだろうか。子育てにはマニュアルや絶対的な方法はない。目の前にいるわが子にあった育て方を親が模索していくしかないのである。
 子育ては母親一人で行うものではなく、両親の共同作業であり、父親である夫の支えが母親である妻を支えていけるのである。そして、社会全体で子育てを支援していく環境の整備も必要である。
(指導教員・大串)

米川 倫代
「大学授業の改善」

 現代の大学授業において、学生によるサボりなどの怠慢な態度が問題となっている。そこで、現代の大学授業にやる気をもたない原因を考察した。少子化で大学進学が容易になり学習意欲・能力の低い学生も進学するようになったこと、などを指摘した。授業改善の対策として、学生のやる気を引き出すため参加型授業を行うことが考えられるが、具体的にどのような方法がとられているのか実例を挙げて検討した。
 このように近年授業改善への活動が叫ばれるようになったのは、学生の授業態度への対策の他に、社会が大学(授業)に「新しいタイプの人材育成」という役割を求め始めたからだと考えられる。
(指導教員・岡田)

柿木 啓孝
「生きがいについて〜自己の創造とコントロール・人の癒しあい、活かしあい〜」

 人間の存在価値の見出す方法としての「生きがい」と近年、各分野でも見受けられる人への焦点への高まりの中で、「生き生きしている」人への共通点の考察。個人の時間の中での現代から未来につながる「生きがい」をもつ方法や形を考える。
 「生きる」ということへの疑問。「生きがい」という定義と「生き生き」の形。人が持つ「真理」の存在と在り方。「生きがい」を持って生きること。受容することと人間関係。 「生きている」という事実の中には、重要な何かがあるはずだと信じる。しかし、それはいったい何なのか?これを私たちは、見つけることが出来れば・・・
 その答えは、生きることへの疑問が説いてくれると考える。
(指導教員・井戸)