平成13年度 卒業論文 要旨
畔本 直明
「生涯学習施設としての博物館の現状」
博物館の歴史を見ると、元々世界各国の貴族のコレクションや資産家など収集し、大衆に公開する場を作ったのが、博物館思想の始まりだった。日本でも昔から収集、保存など展開していた。現代ではICOM(国際博物館会議)によって国際的に博物館のあり方が検討されたり、“生涯教育の提唱”などによる博物館思想の変化により大きく異なっていることがわかる。日本では、生涯学習施設としての博物館が市民に十分理解されてないように思う。しかし日本の博物館は欧米を代表する近代的な博物館にまだ劣っているものの年々発展してきている。そのなかで、博物館の特徴である自由に見る気軽さ、関心を持ってみることなど特徴を活かした博物館づくりがなされていること、年々ボランティアも増え、市民の関心も高まってきていることなどからみて、今後、自己学習能力を身につける教育機関として確立されていくに違いない。
(指導教員・大串)
上田 陽平
「サッカーに関する我が国の現状と課題」
私は大学に入り、勉学を学ぶと共に、クラブ活動においても様々な事を学んだ。サッカー部に4年間所属し、その経験から学んだ事や今日までの日本のサッカーの状況、将来の日本のサッカーについて研究したいと思い、この論文を作成することにした。
内容は、学校に関するサッカー、プロサッカーリーグ「Jリーグ」について、2002年ワールドカップについて、具体的にはこの3つである。第一章の4節では、天理大学のサッカー部員にアンケート調査をおこない、またインタビューの内容などが論じてある。文献調査だけでは見えてこなかったサッカー選手の思いを、わかることができた。第三章ではワールドカップについて論じたが、2002年ワールドカップは目前なので、この論文を書いた事によってサッカーの試合の内容や、有名外国選手のプレー以外にも楽しみが増えた。
最後に、4年間であまり勉学の方は頑張ったとは言えないが、卒業論文を真剣に取り組み本当に良かったと思う。
(指導教員・井戸)
梅本 亜矢子
「青少年野外活動施設の役割」
現代、我が国では人と自然が触れあえる場所が少なくなってきている。そんな中、野外活動施設が私達に与えている影響の大きさ、そして存在の深い意味を知るため大学時代の青少年野外活動施設でのボランティアの経験を生かして、卒業論文ではこのことについて取り組んだ。第一章では現代社会の青少年キャンプについての概観、第二章では「
(指導教員・大串)
大岡 麻里
「生きがいをみつける生涯学習」
我が国は現在、高齢社会の中にある。「人生50年」から「人生80年」といわれるようなキャッチフレーズもでき、余生が長く延長されるようになった。
このことから高齢者が余生を生涯学習に費やす機会が増加した事はいうまでもない。
そこで本研究では、高齢者と生涯学習の関連を明らかにするために第1章では、高齢者と生きがいについて、高齢者のイメージ・生活時間・生きがいの変遷という視点から論じた。そして第2章では、高齢者の生涯学習の現状と高齢者の生き方について、to haveの生き方とto beの生き方、高齢者の生涯学習の現状と課題の視点から論じた。そして最後の第3章では、
そして私は、これまでの先行研究・実態調査から生きがいと生涯学習の関連について高齢者にとって生きがいとは”求める”という切羽詰まったものではなく、高齢者になれば増加する自由時間を使って生涯学習を行う過程で「楽しい」と思う心の充足を感じ取れば、それはきっと”生きがい”につながっている、という提言を行った。
(指導教員・井戸)
北 恵美
「保育園での幼児教育−保育園・保育所の実態調査から−」
私は、保育園での幼児教育という題目で、保育園・保育所の実態調査から論文を書いた。
第一章は、参考文献から保育・保育行政・保育所について調べた。第二章は、保育園・保育所の概要ということで、一節では和束保育園、二節では南加茂台保育所について調査をもとに書いた。第三章は、第二章をもとに、それぞれ保育園・保育所の違いについて書いた。そして、第四章で全体のまとめをした。
またこの論文は、教育者(保育士、親)という立場から書いた。そうすると、親と保育士の関係、子どもと親・保育士の関係などいろいろな問題が出てきた。そして、保育園での幼児教育が保育園・保育所だけにとどまっていないこと。子どもを教育するためには、親にも教育が必要であることが分かり、そのことを発見した。その他にお話からは、外から見ている保育園・保育所とは違う面が見えた。
最後に、子どもを教育することは、いろいろな問題が関わり大変である。しかし、大変だからこそやりがいがあるのではと思った。
(指導教員・石飛)
木村 亜希
「日本における売買春」
私が売買春について研究した目的は、一般的に悪いイメージがあると考えられるそれが、近年に到っても、何故存在し続けているのかという疑問を抱いたからである。
私は研究を進めるにあたり、まず売買春は何を意味するのか、どのような歴史を持っているのか、現状はどうなのかを踏まえ、その上で、一般的に多いであろうと考えられる否定論側の意見について考察し、その後に、肯定論側の意見について考察した。
その結果、売買春は最古の商業であるとされており、現在もなお存在し続けている。一般的にも法律的にもヤミのものとされ否定的にとられてきたのに、今なお続いているのは、セックスワーカー本人の意見を聞いてこなかったからだ。否定論者は、道徳的視点から見ても、市場社会から見ても、再生産責任から見ても売買春はいけないものだという。しかしセックスワーカーを含む肯定論者は、社会や法律の規制によって売買春がヤミのものとされ、それが犯罪などを犯す原因となっており、表にだし、別のもっと深い問題について考えるべきなのではないかという。
本人の性的自己決定権を認める上からも、こうした意見には、聞くべき点があると考える。双方の合意に基づく売買春については、その是非について第三者が否定的に判断できない可能性も残されているのではないだろうか。
(指導教員・岡田)
清水 希美
「カフェの役割」
ここ最近、若者の間で人気が急増しているカフェ。そのカフェとはいったい何なのか、本来カフェが人にもたらすのものとは何かと疑問に思い調べてみることにした。
カフェは経済水準の上昇や情報化社会、そして人々のライフスタイルによって変化していく。本来、コーヒーを飲ませる場所として作られたカフェは、時代の流れと共に、食事やアルコール、デザート等を供するようになる。そして近代のヨーロッパでは、公共の場となったり文化の場となるなど、政治的文化的な時代の先駆者となった。カフェは個人個人が過ごせる「空間」として求められるようになったのである。
日本においても喫茶店として形を変えるが、ヨーロッパと変わらないカフェの機能があった。現代でも個人によって利用は様々ではあるが「今を楽しむ」という面では、カフェの役割は変わっていない。
経済的、物理的に豊かになった現代では、ものの豊かさよりも心の豊かさが求められている。つまり、精神的な充実感を求めているのである。休息や学習、気晴らし等、様々な余暇の時間の中で、カフェはその役割を果たしている。カフェを利用する現代の人々にとって、カフェは余暇を過ごす一つの手段であると言える。
(指導教員・岡田)
白岩 麻矢
「家庭におけるしつけの研究〜「ほめる」「叱る」しつけ〜」
「近頃の親はしつけがなってない」という言葉をよく耳にするが、しつけが厳しかった戦前の日本から、しつけのなさが社会問題化している現在までに至った原因は何なのであろうか。その原因として、戦前の「押しつけ主義」を経験してきた世代と、急速な社会の変化による多様化した価値観を持つ世代との間にずれが生じてきたことが挙げられる。現在、若者の行動が社会問題と化した背景には、道徳性の価値観でさえもあいまいなものとなってしまったにもかかわらず、それを社会問題化するまで放っておいてしまったことが考えられるであろう。つまり、親や社会が昔と今との違いを認識し、自分自身の価値観について考え直すことが重要であるといえる。また、しつけの方法として「ほめ方」「叱り方」といったテクニックや技術としてのみでは、しつけとして本来の目指す結果を生み出すことはできない。子どもに行動の意味を考えさせ、理解させることが子どもにとっては伝わりやすく効果的であるが、しかしながら人間は日常の多くを感情に支配されている。たとえ、感情的に怒鳴ってしまい、言葉として伝えることができなかったとしても、常日頃からコミュニケーションをとり、お互いが尊重し合った信頼関係が土台として築かれていれば、少なからず子どもの内側に傷が残ることはないであろう。
(指導教員・井戸)
新崎 愛子
「絵本から学ぶ〜『いつでも会える』を通して〜」
絵本とは、読むことで子どもの発達を促す効果があり、「幼児対象の出版物」と考えられがちだが、必ずしも幼児の独占物ではない。実は、優れた子どもの本には、下限年齢はあっても上限年齢はないのが通常で、優れた絵本はすべて老人にいたるまでの読者対象を持つのである。
その一つに『いつでも会える』(菊田まりこ)という絵本がある。子犬のシロが、大好きな飼い主の死を受け止める物語で、“死んで体がなくなっても、心は残る”という「命の永遠さ」を理解するところにこの絵本の主旨がある。愛情・依存の「対象」を失うことは、死・病気・退職・受験浪人・失恋・親離れ・子離れ・老いなど、生きていく上で切り離せなものであり、その「対象喪失を乗り越える」という、人生の中でもっとも普遍的な課題を、この絵本は見事に描いた作品である事がわかった。
絵本とは、シンプルな表現で、子どもばかりでなく大人の心をも動かすことができるのである。
(指導教員・岡田)
高馬丈典
「天理教の生涯学習活動−同和問題に対する取り組み−」
本論文では、天理教教祖の生き方や今日までの天理教の同和問題に対する取り組みなどを通して、天理教は天理教の教えをもとに、同和問題にどのように取り組んでいくべきかを考察した。
第一章では同和問題の歴史や宗教界における同和問題への取り組みについて述べた。第二章では天理教の教えや教祖「中山みき」の部落差別への取り組みについて述べた。第三章では今日までに天理教内で起こった差別問題を取りあげ、天理教教会本部の取り組みについて述べた。
天理教の信仰者である私達は学習活動、啓発活動を積極的に継続し、教祖(おやさま)ならどう考え、どうされるのかということを常に心に置き、教祖の歩まれた道を見つめ心を正し、私達が宗教者たりえるためにもあらゆる差別に立ち向かっていかなければならない。同和問題への取り組みは人々の幸せを願う信仰者の義務であり使命である。
(指導教員・井戸)
谷中 理恵
「生涯スポーツの現代的価値」
人々が生涯にわたり、自分自身に生きがいを持ち、人生を後悔なく生きていくために、現代ではさまざまな学習機会が与えられている。その学習機会の1つである、「生涯スポーツ」の現代的価値は何なのか、ということを、スポーツの意義や歴史、生涯スポーツそのものの意義や理念、また統計・インタビューなどをもとに考えてみた。
そのことにより、生涯スポーツは、自主的に楽しみながら健康に生きるための手助けをするもの、また、日常から離れた特別な時間を持つことで、多くの生涯学習をし、たくさんの仲間と競争を楽しみ、また時には励まし合いながら、互いに心身における活力を与え合うものであり、その人の生きがいにもなりうるものであるとわかった。
さまざまな環境の変化の中で、心身ともに充実した毎日を送ることが望まれる現代において、生涯スポーツの果たす役割は大きく、かつ重要であると私は考える。
(指導教員・岡田)
寺尾 康生
「美容の歴史からみた美しさの社会的基準とその影響」
人の頭髪や髪型に関して、どのように美をつくってきたのかということを中心に、現代までの髪型の文化の歴史を調べ、美しさの社会的基準について考察した。
第一章では、美しさの基準について、人それぞれ基準をもっており、世間一般に美しいとされているものは、人それぞれの美しさの基準だと考えた。第二章では、平安時代から現代までの髪型について調べ、それぞれの時代ごとに美しさの社会的基準が存在していることがわかり、それが現代になるにつれ少なくなってきていることがわかった。第三章、第四章では、美しさの社会的基準と流行は違うものであり、美しさの社会的基準が少なくなってきているのに対して、流行や美しさの基準は多様化してきたと論じた。
そのことより、このまま美しさの社会的基準がなくなってしまっていいのかどうか、そして、流行と美しさの基準の関係について考えていくことが、美しく生きるために必要だと考える。
(指導教員・石飛)
長谷 伸治
「二十一世紀に期待される経営者像 − 松下幸之助の事例を通じて」
今日における日本のデフレ時代での経済状況下において、先行きが不透明の中、会社を「経営」していく上で必要なことは何か?と考えると、時代の流れに応じた「経営」を行うことが肝要である。しかし、時代により様々な問題も生じてくる。そのような中でも、経営者として「経営」を成し遂げるにはどのようにしたら良いのかということを、松下幸之助を通じて考察した。第一章では、松下電器の歴史と経営理念を述べている。松下幸之助は幼い年にして丁稚奉公に出た。そして、学歴もないままにしてだが、色々な苦労を経た後に会社を設立した。第二章では、会社として「経営」を進める中で、人材教育や企業発展の上に、自主責任、衆知、健全、三つの事柄が「経営」の要素として必要だと述べている。第三章は、まとめのような形であり、二十一世紀の経営者の条件と題にしてあるのだが、経営者は「人」として知識、教養を豊富に兼ね備えることが大切であり、又それらを兼ね備えることは素晴らしいことなのであるが、それだけではいけないと感じる。なぜなら「経営」を行うということは、「人」と「人」との繋がりによって成り立っていると言っても過言ではない。そのようなことを考えると、本文でも述べた天理教の教えに基づく働きの姿が必要とされると感じた。それを踏まえた上で、本当に期待される経営者像とは、時代は関係なく、色々な意味で「心」が豊かな「人間」なのである。
(指導教員・井戸)
引原 有希子
「学校教育における運動会の問題点と今後の課題」
この論文では、小学校を中心に運動会について書いた。第一章では、日本運動会の歴史的経過をへて、どのようにして発展してきたかを述べた。第二章では、児童・保護者・教師にとっての役割・目的を述べた。第三章では、運動会を児童達がどのように受けとめているのかを知るため、京阪神小学生男女を対象に、アンケート調査を行い、その結果を報告した。主に、私は第三章のアンケート調査を力を入れた。アンケート調査の内容を大きく分けて、@運動会を楽しみにしているのかA好き・嫌いな種目B友達・家庭との関係についてである。@−1「運動会を楽しみにしているのか」の調査結果は、学年が上がるにつれて、男女共、「はい」と答えているものが減る。また、男女を比較しても女子は、極端に減る。また、運動会で友達から応援されるとうれしい、友達を応援できるかという調査を行ったが、応援されるのはうれしいと答えたものは全学年男女共増えるが、逆に友達を応援できると答えた者は減少する。これから、子どもたちにとって運動会はどうあるべきかを第4章でまとめた。
(指導教員・大串)
平井十志江
「現代の女性像−家族の中での女性の役割−」
文化や時代が変化していくと共に、人々の生き方や考え方も変化せざるを得ない今日では、家族のあり方や男性(父親)や女性(母親)のあり方、子どものあり方などが問われている。そこで今回の卒業論文では女性(母親)に視点を置き、「現代の女性像」について論じた。
まず第1章では、参考文献を基に女性の地位や役割を時代ごとに概説した。次に第2章では、女性の意識の変化を9の項目に分けて述べ(第1節)、その中から特に育児問題(第2節)と高齢者介護問題(第3節)が女性とどのように関わっているかについて述べた。そして第3章では、上野千鶴子(第1節)と山下悦子(第2節)のそれぞれの主張をまとめたうえで、母子関係論をもとに女性のあり方を述べ(第3節)、私の意見をまとめた。(第4節)
これからは、男性・女性にこだわらず、家事・育児・家族について社会全体が関心と共感を抱くと同時に、もう一度、家庭での、家族の中での女性の役割の重要性を再認識することが重要だと思う。
(指導教員・大串)
福留 精巳
「ニュースポーツの現状と課題〜生涯スポーツの視点から〜」
私がこの題目に決めた理由は、今まで日本のスポーツを支えてきた企業スポーツが不景気の影響で廃部に追い込まれ、活動自体を見直す企業が増えている中で、日本のスポーツを支える新たな柱が必要になり、ニュースポーツがこれからの日本のスポーツ担うと考えたためで、そのことを卒論の研究課題にした。
第一章ではスポーツを文化・歴史の視点から考え、現代スポーツなどスポーツ全般を論じた。第二章では卒論の題目でもあるニュースポーツを取りあげ、ニュースポーツの理念、日本におけるニュースポーツの環境、そして生涯スポーツ的なニュースポーツを論じた。第三章では主に生涯スポーツの視点から検証して、二つの町を例に、ニュースポーツによる地域復興を論じた。
卒論を論じてみて、ニュースポーツが地域に根付くためには、民間と行政の協力が大切であり、地域に根付くことにより日本のスポーツを支える新たな柱になりえるということがわかった。
(指導教員・石飛)
福本 哲也
「高齢者に求められる住宅 (シルバーハウジングプロジェクトとシニア住宅)」
これから益々進む高齢社会のなか、バリアフリーや介護保険制度などの対策が進められる中で、今回私が注目したのは、住居に関した対策がどのようになっているのか、又これからどのような住居が求められるか?ということである。
住居というのは、人の暮らしの中で基盤になり、生活の中心の場である。ましてや、高齢者にとっては、身体の衰えなどにより行動範囲が狭くなるため、住居又は、住居付近での生活が増える。そして、対策としてハウジングプロジェクトとシニア住宅という高齢者対象とした住居対策が行われている。この二つの対策の利点は、高齢者の保護が目的ではなく、高齢者自身の自立性、生きがいなどといった。高齢者のサポートが目的であるという点が最大のポイントであり、又住宅介護の負担を軽減することもできる。そして、これからの発展として、地域活動、社会活動を通じてのコミュニケーションが求められる。
(指導教員・石飛)
補永 美恵
「ボランティアを結ぶ生涯学習」
阪神・淡路大震災後、ボランティア活動が注目を集め、いろいろなところで「ボランティア」という言葉を聞くことが多くなった。そして、ボランティア活動の形態も目的も様々である。実習での経験から、ボランティアとNPOの関係や違いをみていった。
第1章では、ボランティアの歴史を振り返り、またボランティア活動によって得られるもの、第2章では、組織としてのNPOについて、そして第3章ではボランティアとNPOを結ぶものとしての生涯学習の役割についてまとめた。
ボランティアをする人が生きがいを求めている一方で、NPOは目的意識を共有できる人を求めている。またボランティア側もNPOでボランティアをすることに壁をかんじている。そのボランティアをする側とNPOとの間の意識の差を埋めるための生涯学習の役割が期待される。
(指導教員・岡田)
松阪 直哉
「大人になってから通う大学−生涯学習型の大学開放
−科目等履修制度を利用した社会人向けコースを例に」
社会人が学習する生涯学習の方法の一つとして大学の利用がある。ここでは、年々増加する社会人学生をその学習動機から、大きく直接職業に関わる資格や技能を身につけたいという人々と自分を高めたい、教養を身につけたいという2つのタイプに分類し、主に後者を研究の対象とした。
このような社会人が学習するための大学の機能を複数紹介し、その具体例として関西学院大学が行う科目等履修制度を利用した社会人向けコースの機能性と課題を示した。
最後に社会人入学における社会的評価の課題、また職業的目的のない社会人入学に批判的な意見を示し、実際に社会人入学を経験された方の意見をもとに、新しい形の大学と社会人入学の捉え方という自らの結論を導いた。
(指導教員・石飛)
皆巳 正樹
「走り屋に見る青年文化論」
私がこの卒業論文で伝えたかったことは‘走り屋’とは何か、ということです。
暴走族とは違い、走り屋の集団が研究の対象にならなかったのは、走り屋の歴史が浅かった事と、暴走族から派生した集団、もしくは暴走族の一部の集団とみられていたためだろうと思います。
ここで私は客観的に、走り屋の構成人員、人間関係、活動内容、参加意図など暴走族と比較し、どのような人間がその集団に身を置き、どのような活動をしてどんな改造をし、どのようなジャンル分けがあるのかをはっきりさせ、走り屋という集団を知ってもらいたいと思います。そのことによって走り屋=不良という方式を取り去ってもらいたいのです。しかし、走り屋が違法ではない、という気はありません。
(指導教員・石飛)
南出 健一
「スポーツのコーチング」
この論文は、Jリーグの発足以降コーチの指導のあり方が注目されている中でコーチは
選手達にどういった指導をすればよいのか、そして今の日本のコーチをしている人の現状はどういったものかを研究することが目的である。
コーチの指導は、技術・戦術・正しいフォームなどを選手達に教えることは勿論であるが、選手達の精神的な面に気を配ることも重要であるし道徳的な面を選手達に教えることも必要不可欠であるということが分かった。また今の日本のコーチと呼ばれる人はコーチ業だけを行っている人はほとんどいないのが現状である。こういった二足のわらじでコーチ業を行っていることが日本のスポーツの弱体化につながっていると思われる。競技スポーツを行う人達が今よりも質の高いコーチングを受けることで日本のスポーツのレベルはあがっていくのである。
(指導教員・岡田)
村上 崇
「生涯スポーツとしてのビリヤード」
この卒論では「生涯スポーツとしてのビリヤード」について書いた。まず、第一章でビリヤードについて、ここでは参考文献などをもとにその起源と歴史・日本においての捉えられ方・ビリヤードの普及と三つの節に分けて書いた。つぎに、第二章スポーツ・生涯スポーツという題でスポーツの語源や生涯スポーツの定義などを、スポーツの定義・生涯スポーツの要素と二つの節に分けて書いた。最後に、第三章ビリヤードの生涯スポーツ性として他の生涯スポーツを挙げてビリヤードを捉えた。これを、主な生涯スポーツ・生涯スポーツとしてのビリヤードの二つの節に分けて書いた。以上、三つの章を用いてビリヤードがゲームとしてだけではなくスポーツであることを論じた。
(指導教員・大串)
吉村 秀喜
「地域における公民館活動の役割」
公民館の歴史は公的な制度としては1946年7月5日の文部次官通牒「公民館の設置運営について」にはじまると言われている。これは終戦後の日本において、各地の郷土復旧を行うための基点として公民館を位置づけ、各地の社会教育活動を活性化させることとなった。
公民館は、住民の「教養の向上、健康の促進、情操の純化」を図り「生活文化の更新、社会福祉の増進に寄与すること」を目的とし、その活動内容や役割は地域や時代によって様々なものに変化していく。
そのため公民館の講座の内容はその地域の抱えている問題や、住民のニーズなどを含んでおり、公民館の活動の特色を見ればその地域の特色が見えてくるといえる。
平戸市の北部公民館で「北公の町づくり出前講座」が生まれた背景には、活動範囲が広く離島も含んでいるということがある。
公民館はその地域において住民一人一人が共に考え、参加し、活気のある町にする「人づくり町づくり」である生涯学習の実践のための拠点となる
(指導教員・大串)