天理大学生涯教育専攻研究室HPトップへ

平成10年度 生涯教育専攻 卒業論文要旨

石倉 義生
「登校拒否問題からみる学校教育の在り方 − 「心の居場所」となる学校とは」

 今回の論文は、現在日本の学校教育の主たる問題点として挙げられる登校拒否について述べたものである。そして、学校内生活に於ける児童と学校(教師)の関わり合いについて考察している。研究の過程としては、まず国(文部省)が指し示す登校拒否の定義や歴史を取り上げた。そして、実際に登校拒否児を抱えるある1つの小学校を例に挙げ、その現状、周りの児童との関わり、担任や学校側からの指導の経過を述べた。また、登校拒否を克服する手段として注目されている保健室登校を挙げ、これは児童と養護教諭と担任の三者関係の重要性について考えた。この論文の中心を為す部分は小学校の事例である。ここでは実際に先生にインタビューを取り、それらを踏まえた上で得た結論は、児童と教師がお互いに心を開くという気持ちを持たなければ登校拒否の克服はかなり難しいものになるということである。そしてその気持ちは登校拒否のみに限らず、普段の学校生活においても常に持っておかねばならないのである。
(指導教員・石飛)

泉森 由貴
「美術教育の役割と可能性」

 教育の場において、豊かな人間性や情操教育が美術教育に求められていると言われるが、人間形成をしていく上で美術教育はどんな役割をもっているのだろうか。また、美術との関係はどうか。小学校学習指導要領の美術教育の目標と実際の小学校の図画工作科の現場の声を聞いて、行われている教育と求められている人間性や情操教育とのずれを強く感じた。美術教育が進めていくべき心の教育というのはそれを教育されることで道徳が磨かれるというようなことではない。また、芸術としての美術と美術教育との間にも相容れない部分がある。形にならない教育もなく、形式張った芸術もあり得ないのである。
 美術科はそのものがいじめなど心の問題を解決しうる手段になるのではなく、美しいものを美しいと感じられるゆとりと潤いを与えられる教科なのである。
(指導教員・石飛)

今北 竜郎
「生涯教育の音楽」
 音楽というものと人とのつながりについて考察した。
 幼児期については、幼児が触れる音楽というもの、幼児の受ける音楽の感じ方、とらえ方、人間の成長にともなう音楽の感じ方の変化などを考察している。また青年期では、利潤主義の音楽業界からの媒介を通して一方的な音楽に流されているという点について、そして、学校教育での音楽教育では、子どもたちの人格形成の一つとして情操教育を中心に行われているという点について考察した。また、社会教育での事例として奈良市音声館を見学に行き、社会教育施設の現状と、これからを考えている。
 最後に、生涯教育での音楽教育では、幼児からの音楽教育や、学校での音楽教育を考えることで、成人や老人期になったときに音楽というものを等して、豊かな人生を送れるのであると考える。
(指導教員・大串)

上村 寿恵
「学校キャンプについて」
 学生時代に活動していた経験を元に、学校キャンプについて論文を書いた。
 生活することに便利さを追いつづけた結果、大自然は大きなダメージを受けた。自然が与える青少年への影響は大きく、自然教室と呼ばれる学校キャンプも、学校教育の中では重要な活動の一つとして挙げられている。しかし、現代の子どもたちの生活環境において自然の存在が少ないのが現実である。そこで学校キャンプが少ないのが現実である。そこで学校キャンプが重要視されつつあるのだが、様々な懸念が行く手を阻んでいる。そのことは、文部省が提言している答申内容と実際学校が行っているキャンプにギャップが起こっていることを意味する。まさに今、学校キャンプは試行錯誤が繰り返されている途中である。大自然の中で遊び、学べることは無限大である。
 これからの学校キャンプには、テレビや本を通した現代の知識として自然を理解させるのではなく、本物の自然を理解させるために、本物の自然の中が教室でなければならない。また、子ども達の現状と要求を考慮した幅の広い多用な活動が期待される。
(指導教員・石飛)

北川 貴子
「生涯教育における自己評価について」
これからの社会は、変化の激しい先行き不透明な厳しい時代と考えられている。
 そのような社会の中で「自己評価」は、生きる力をはぐくみ、ゆとりある生活を営むための、手がかりを与えてくれるのではないだろうか。
 第一章では「自己評価の概念」を、第2章では「自己評価の構造」と題してその中で、様々な観点から見た自己評価について述べた。第三章では、「自己評価能力の育成」のなかで、子どもの頃の自己評価意識の育成の大切なことを述べた。第四章では、「自己評価的な意識」と題し、心理学的な観点から、アプローチしてみた。
 物的にはいちおうに豊かさを確保した現代人の、「モノ」から「ココロ」への関心の移動、精神生活を支える「価値」や「意味」への関心、といった問題の解決の道筋の一つとして、「自己評価」は、大きな役割を果たすことができるはずである。
 私は、島津氏や安彦氏の述べるように、「自己評価」=「反省」と捉えることができると考える。このような、広い意味での自己評価の意識を持つことで、私たちは「生きる力」をはぐくみ、「ゆとり」ある生活を送ることができるのではないだろうか。
(指導教員・井戸)

許 容敏
「台湾における高齢者の余暇と学習〜雲林県を中心に〜」
 高齢者の時代、この言葉の意味するところは何であろうか。それはただ単に老人の人数が増加すると言うだけでなく、更に社会の形そのものが改めて組み直されるということであり、一人の人の定年後の生き方についても新しく問い直されるということである。
 現在、世界の各先進国家は定年後の人々に対して、消極的に休養や各種の保障を与えるという態度ではなく、むしろ、その能力を積極的に開発・利用する方向に変わってきた。すなわち経済生活の独立を育成し、余暇の活動など、定年後の高齢者の生き方については徐々に老人教育に重点が置かれている。
 このように見ると、高齢社会と関連の深いテーマとしては、健康、医療、年金、定年制、社会参加、生きがい等がすぐに思い浮かんでくる。いずれも難しい問題であるが、この度、私は卒業論文のテーマを「生きがい」の一分野である余暇と学習を取り上げることにした。
(指導教員・井戸)

栗原 たみ
「少年と非行について − 神戸小学生殺傷事件 − 」
 <非行>という視点から1997年に起きた神戸小学生殺傷事件を取り上げ、犯罪心理や学術的論文、過去の少年犯罪の事例を見て自分なりに考えてきた。結論を出すことは容易なことではない。様々な家庭環境の中で育つ子どもたちがいる。だが、一日中家にいる親によって育てられようと、共働きをしている親に育てられようとどれだけ子どものことを考えているか、という比重によって家庭内の人間関係は微妙に変わってくる。放任家庭が増えたということを三章二節で取り上げたが、親は普段から自分の子どもが何をし、何を考えているのか、日常の生活の中で確認する義務があるのではないか。
 中学生になった息子が何を考えてるか全く分からないと相談に来る母親が多いと言うが、無理に会話しなくとも(後ろから見てるから)というメッセージを常に送り続けるべきだ。非行少年が求めるものは何より自分がいるという「実感」と人との触れ合いによってもたらされる「安心感」だ。それらを家庭内で見つけるか、学校内に見つけるか、それ以外の場所に見つけるかは彼ら次第だ。
(指導教員・大串)

阪本 有紀
「子ども部屋の存在意義」
 この論文では、現在、子どものいる家庭では当たり前のものとなっている子ども部屋について、本来何のために作られ、なぜこれほど普及し、そして子ども部屋がどのような機能を有しているかについて述べた。
 第一章では、子ども部屋普及の経緯について、戦前と戦後に分け、子ども部屋に対する考え方の違いを述べた。第二章では、子ども部屋に対するいくつかの必要論・不要論を紹介することで子ども部屋の実態に迫った。そして第三章では、子ども部屋をテリトリーと見なし、このテリトリー形成が人間にとっていかに大切で、子ども部屋がテリトリーとして機能することの重要性を述べた。
 最後に子ども部屋は家庭があって初めて機能するものであるということを忘れると、子ども部屋は子ども部屋としての価値がなくなるという結論に至った。
(指導教員・大串)

島田 紀子
「「優等生」の研究」
 本論文は、辞書的に概念規定されている本来の「優等生」ではなく、日常会話における口語体的「優等生」について論じたものである。
 近年、奇妙な理解しがたい行動をする子どもが増えてきつつある。そして、その子どももいわゆる「不良」や「非行少年」と呼ばれていた子どもに限らず、普段は目立たないフツーの子どもや「あのお行儀のいい、模範的な」と大人から言われていた「優等生」にまで至る。そこで、「優等生」とは一体、どのような子どものことを述べるか、また「優等生」の心に潜む病理や「優等生」の危険性、どのようにして「優等生」といわれる子どもができたのか論じた上で最後の章で、今後の子ども教育の在り方を考察した。
(指導教員・井戸)

杉山 裕孔
「矯正教育について」
 近年、少年非行・犯罪の増加、低年齢化、悪質化といった少年非行に関する問題が深刻になっている。
 この卒業論文では、こういった少年たちに行われている教育である「矯正教育」について考察している。
 まず、どういった少年が矯正教育を受けるのかを知るため、少年非行の現状と種類やそれぞれの処置、また関連施設について論じている。次に、「矯正教育」の言葉の意味から、矯正教育の目的、目標を論じ、さらに、少年院での矯正教育の実践を考察する上で、奈良少年院を事例として取り上げ、実際に行われている教育方法について論じている。
 そこから、少年を更生させるには、教育内容そのものではなく、教官との関わり合いが重要であること、また、教官・職員だけが少年矯正に努めるのではなく、その少年の家族、施設隣接地の市民、いや社会全体が、多くの手をさしのべることが必要であると考えられる。
(指導教員・岡田)

瀧口 佳徳
「インターネットがビジネスに与える影響について」
 今まで情報の受け手であった多くの人たちがインターネットというものにより世界に向けて手軽に情報を提供できるようになった。またパソコンが家庭に普及しはじめ、インターネットが私たちの生活(生産・消費)にまで影響を与えようとしている。大量生産・大量消費の時代が終わり、いままで隠れていた能力のある人・会社にビジネスチャンスがきた。インターネットの出現・普及によって本当に良い製品・良い人材が実力を発揮しやすい環境ができ、下克上のように這いあがることができるのではないか。
 インターネットは大きな可能性をもっている反面、セキュリティーや信頼性といった問題がまだまだある。話題が先走り、成績が上がっているのはのはプロバイダーやプログラマーといったインターネット接続を補助したり技術を提供する職種であり、日常生活にまで浸透するにはもう少し時間がかかる。そうなってから資本や規模にとらわれないビジネス戦争が始まる。
(指導教員・井戸)

田中 紀子
「現代女性の意識と生活」
 卒業論文を書くに当たり私がこのテーマを選んだのは、この2,30年間で女性が大きく変化したといわれているが、その事について同じ女性として単純に興味をもったからである。
 そこでまず第1章では女性の意識や生活がどのように変化していったのか見ていった。第2章では母親を仕事を持っているものと持っていないものに分けそれぞれの特徴を見ていった。その結果若い母親といっても意識は大きく違うことが分かった。それぞれがきちんと考えて自分の道を進んでいくことが大切であると感じた。
(指導教員・岡田)

田中 仁
「A.H.マスローの自己実現概念の研究」
 現在、様々なストレスが原因とされる神経症を中心とした病をもつ人が増加しているといわれている。そしてその病理については、多くの場所で述べられている。では、精神的に健康な状態とはどのようなことを言うのだろうか。そこで、精神的に健康な人間の一生涯に於ける欲求を5段階に分けその最終的な欲求を自己実現としたアブラハム・マスローの軌跡を探ることが、この論文の目的である。
 第1章では、マスローの生涯と心理学者としての彼について述べた。第2章では、彼の打ち立てた欲求5段解説の構造と、その頂点にある自己実現について論じ、そして、第3章ではまとめとして行動主義、精神分析、そして、マスローがその創設者の1人となった人間性心理学を語る上でのキーワードを、それぞれ「分類」「分析」「統合」としてその違いと人間性心理学のこれからの役割、それからマスローにとっての欲求5段解説について論述した。
(指導教員・岡田)

寺岡 宏子
「早期教育の危険性」
 今や、子供を持つ親たちで、早期教育という言葉を知らないものは皆無に近い。そればかりか、子どもを持たないものにまでその存在を広く認識され、多くの人々の期待と不安を集めている。そこで、その早期教育の実態とを具体例を挙げて検証した。その結果、子どもの発達段階を無視した教育に伴う早期教育の危険性が確認された。さらに、一卵性双生児に対する研究では、早期教育を行った子どもと、そうではない子どもとの差はいっさい見当たらなかった。つまり、有効な早期教育を行うには、子どもの持つ才能をいち早く見抜き、その能力に適した教育を行える訓練を受けた人間が、地域社会におり、いつでも親たちが助言を受けられるような環境が大切である。
(指導教員・大串)

内藤 美恵子
「ことの世界」
 この論文は、箏曲という現代の学校教育とは違った教育の形を学んだ自分自身の経験を基に、学習したこと、調べたことを整理し、「ことの世界」を明らかにしようとしたものである。
 第1章では、箏の伝来から八橋検校、生田流・山田流箏曲、現代の箏曲についてを調べて述べている。第2章では、家元について、『世界大百科』と『日本音楽大百科』から抜き出している。第3章では、箏曲の手法・楽譜・唱歌や免状・評価について、そして学校教育との比較を自分の経験と文献を基に述べている。
 自分自身の勉強になったが、まだまだ「ことの世界」について明らかにできなかったと思う。もっと早くから活動して、箏曲を習う人口や他の箏曲の教室について調べ、学校教育との比較もより多くのべるとよかった。
(指導教員・大串)

西川 みき
「図書館のあるまち」
 本論文は、生涯学習を推進する上で、その中核的役割を担うのに最もふさわしい施設であると考えられる図書館、特に幼児期から高齢期に至るあらゆるライフステージにある人々に対し、その生涯学習を援助する機能をもつ、地域住民に最も身近な公共図書館について論じているものである。
 図書館とは、図書、定期刊行物、視聴覚資料等の文献・資料の収集、組織化、保存、提供および学習・教養の場を提供する社会的機関である。図書館にはそのサービス対象などからみて、公共・大学・学校・専門図書館の他、国立国会図書館がある。
 情報の多様化、余暇の増大、学習要求の多様化などの社会状況の変化の中で、公共図書館はどのような役割を果たし、またいかなる機能が求められているのか。これらについてまちづくりとのかかわりも併せて述べることにより、これからの公共図書館の在り方を考えるものである。
(指導教員・岡田)

濱 勇治
「人間社会における天理教の存在意義」
 天理教とは、世界人類の救済を目的として始められた教えである。この救済とは、世界を陽気ぐらしのよにすることである。
 人間のからだは、親神からの借り物であり、心一つが自分のものである。
身上、事情の原因は、心使い一つによって決まる。親神は、人間が自分勝手な心を使っているときに、それを改めさせようと、身上や事情の上にしるしを見せられる。
つとめは、世路津助けの手段である。身上のさわりや、事情を助けるだけでなく、体の健康や、自然の豊作、また社会の平和を、招く。
 身上、事情の手引きにより、自分の心遣いや行いを反省し、心の成人に力を注ぎ、つとめにより運命を切り替えていくところに、「陽気ぐらしの世界は実現される。また、自分だけ楽しんで他のものを苦しますようでは、本当の陽気とは言えない。陽気ぐらしは、他の人々と互いに立て合い、扶け合ってこそ実現される。
(指導教員・井戸)

広安 雅恵
「私が私であるということ」
 題名を決定する段階で本当に悩んだ。要は自分というものの再確認が言いたいのだが、論文の構成上、国籍に関して法的な面から攻めるのか、率直にアイデンティティの方面から攻めるのか、悩みに悩んだ末にこの題名に決定した。
 論文自体の主な内容は,社会において外国人が私でいられない実状を事例とし、日本が抱えるそれらの諸問題の定義、対応などを論じている。
 尚、第二章は自分自身の実体験を第三者の声のように扱うことで、あくまでも一般の在日外国人に当たり前のように起こりうる問題としてとらえていただきたかった。
 この論文を書くことで私の中で外国人としての自分が確固たるものになったし、曖昧であった自分の存在、立場が明確になったという点では意味あるものになったと思う。
(指導教員・岡田)

文野 こずえ
「青少年教育施設におけるボランティア制度に関する研究」
 少年自然の家でボランティア活動を経験するうちに、そこでの活動に対する興味が深くなり、また一般に言われるボランティアと相違するところもあり、「施設ボランティア」独特の何かがあるように感じられた。現在、様々な分野でボランティアを見るがその内容は人として、本来自然と行われてくるべきものであると私は思う。
 しかし、その行いを「ボランティア」=(今まで解されている社会奉仕)として掲げ、言われ始めてきた時代がある。
 その発端から調べ、ボランティアがどんな役割をもって、社会の中で推進されてきたのかを答申などより抜粋する。
 そして、社会教育施設の中ではどう位置づけられているのかを、活動内容、職員さんからの話などを元にまとめ、最後に施設ボランティアの課題を述べる。
(指導教員・岡田)

松井 真奈美
「現代社会において大人になること」
 私たちは日常、「子ども」「大人」をどのような意味で理解し、使い分けているのだろうか。
 近代以前の社会には、それぞれの社会に見合った大人像が存在し、子どもと大人は、通過儀礼によって明確に区別されていた。ところが、現代社会は、喫煙や選挙権など年齢を指標とした大人は存在するが、性的身体的とは無関係な社会的・精神的な意味での自立を意識、確認する契機がない。戦後の平和社会が定着し、情報化が進み、生活にゆとりが生まれると、それは同時に、子どもが大人になる節目を意識できない社会へと変化させた。
 論文では、現代社会における「大人」「大人になること」を、近代以前の「大人」とも比較しながら、時代背景による心理特性の変化を中心に考えた。
 子どもから大人への道筋が曖昧な現代社会においては、明確な大人像をもち得ないからこそ、個々人が、自分固有の大人化への道筋を模索することが必要とされるのかもしれない。
(指導教員・岡田)

松隈 由美子
「余暇活動としての競馬の存在とは」
 余暇時間が増えていく現代において、その過ごし方は人それぞれであるが、様々な活動の中からギャンブルを取り上げ、特に競馬の存在をクローズアップしてみた。
第1章では、娯楽としてのギャンブルについてふれ、第2章では、余暇活動としての競馬についてふれ、その楽しみ方を挙げていった。 
 競馬は、楽しい。競馬は、おもしろい。競馬は、サイコーである。
この論文の中で、本当に言いたいことはその事である。もしももう少し時間があったならば、もっと深くいろいろな角度から追求していきたいと思えるテーマでありました。
(指導教員・石飛)

三島 千幸
「子どもの学校ストレスについて」
 近年、子ども達のいじめ、不登校が深刻な問題となっている。これらの問題と、子どもが学校生活での日常的なストレスの積み重ねとが深く関わっていることを知り、子どもの学校ストレスについて、児童期に限定して本論を進めた。
 ストレスの構造と、ストレス対処について研究する中で、子どもが自己効力感を得た経験やコミュニケーション能力の有無が、ストレス耐性に影響を及ぼすことがわかった。これをもとに、子どものストレスが行動にまで至ってしまう原因を探るため、現在の子どものストレス耐性の状況と、子どものストレス源となる学校の問題点を考察した。本論を通して、学校教育が子どもを主体とし、教師と子ども達が共感し認めあう関係を育むことが、学校ストレスを軽減させ、ストレスをマイナスからプラスへと変える心の強さを生むのではないかと思う。
(指導教員・石飛)

南 満
「高齢化社会におけるまちづくり」
 生活水準、医療水準の向上に伴い、高齢化社会にますます拍車がかかっていている現代において、田舎のむらでは、若者の流出における過疎化問題が、深刻な悩みの種になってきている。その打開策として、さまざまなまちづくり、村おこし、一村一品運動などの地域復興事業が行われている。
 卒論では、まず、まちづくりの歴史を調べながら、地域を活性化させるためのまちづくりについて考察した。次に、実際のまちづくり・村おこし事業の実践例をもとに、まちづくりや村おこしを成功させるために何が必要か、また、今後、特に高齢化社会に向けて何が必要かを考察した。また、この論文を書くにあたり、様々なところへ視察に行きいろんな人から話を聞いたが、事業を実践しておられる人たちのパワーには驚かされ、また自分にとってよい勉強となった。そうしたパワーが、地域を活性化させるカンフル剤となっていくのではないだろうかと実感することができた。
(指導教員・石飛)

宮崎 亮
「義務教育における学校5日制」
 近年、子どもの生活基盤である家庭や地域社会の営みが週休2日制となってきており、学校は、家庭や地域社会に生きる子どもの生活実態を十分に踏まえた対応を迫られている。学校5日制において学校、家庭、地域社会の連携が大切であると言われている。本論文では、学校に重点を置き、中でもとくに義務教育に絞り、生徒中心と言われている学校で生徒が学校5日制をどのように感じているかをアンケートも利用して論じたものである。  第1,2章で、学校5日制が何故導入されたか、またそれを踏まえた上で何をしていかなければならないかを述べた。第3,4章では学校と塾の関係を含め、現段階における子どもたちの現状をアンケート結果から考察した。
 これらのことより、学校教育の中心的活動が、学業、学力の形成にある限り、それをおろそかにして学校の再生も豊かな生活もありえないのである。したがって、子どもたち一人ひとりが、有効な時間を過ごすことができるようになるのならば、学校5日制の完全実施は価値のあるものになるのではないだろうか。
(指導教員・石飛)

山崎 美紀
「家庭における絵本の役割」
 この論文では、子どもがいちばんはじめに出会う本であるといわれている『絵本』を取り上げている。『絵本』といっても言葉に意味が広いので、幼児を対象としたもので親が子どもに読んであげる絵本に焦点をあて述べている。
 まず、絵本の種類をあげ取り上げる『絵本』について明確にしたうえで『絵本』のもつ役割について考えた。次に「子どもと絵本」ということで絵本を使った家庭での教育や読み聞かせなどについて見ていった。
 その結果、『絵本』にはいろいろな使い方があることがわかったが、子どもは自分で絵本を選択することは出来ないので、自然とその権利は親が握ることとなるので、親は大切な役目を持っている。子どもに字を覚えさせたり、読ませたり勉強のために絵本を買ってあげるのではなくて、親も子どもと一緒に絵本を楽しんで見れるような環境を持つことが大切である。
(指導教員・大串)