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大学生活すべての編集後記
(というよりむしろ、いい足りなかった多くの戯れ言)
生涯教育専攻 4回生 槌野尚由

大学の4年間の中で、最後の1年間は私にとって非常に有意義な時間であった。ただその1年間という意味ではなく、それまでの大げさに言ってしまえば23年間であり、私があらゆる事に問題意識を持ちだした数年間のいわば集大成ともなる時間であった。
今回こうやって編集後記を書かせてもらえることになって、非常に感謝すると共に、わがままや思いこみで書いた卒業論文について自分自身どのように解釈してよいのやら全く分からず、知らず知らずの内に恨みの念すら抱いてしまいそうだったが、取り敢えずこの場を提供してくださった諸先生方に深く感謝したいと思う。
思い起こせば4年前に苦学のすえ天理大学の門をくぐってから、様々な人と出会い、様々なことを経験しながら過ごしてきたわけだが、公私ともにとても私の人生にとって重要な意味を持つものであったし、そうであることを願っている。そして私が出会った全ての人々に問いたかった。「あなたは満足できる今を生きているのか」と。今回の卒業論文はそのための問題提起であったし、私自身が常に考えていることでその答えを希求していたことでもある。その一つの試みとして「死」を見つめることからの「生」の探求というテーマが浮かび上がってきた。人は必ず死ぬ。誰一人としてその結末から逃れることはできないし、その事自体を否定することはできない。もはや運命といえるかもしれない。
だが、子供の頃読んだ「火の鳥」の中で繰り返される運命の不思議、命の尊さ、中学生の時に聞いた「子供電話相談室」で「どうせしぬのになぜうまれてくるの?」といった子どもの疑問、無気力で何もする気がないときに感じる自分自身の人生の無意味さ、そしてそこから発生してくる私の存在理由、それら全てのことに対して答えを出すのではなく、現時点での私自身の経験と知識から来る見解を示したかったのである。そしてその事は運命ではなく可能性なのだということを示したつもりである。
漫然と生きて80年、充実を感じる80年、途中で事故にあったり、自ら命を絶ったり、機械で生き続けたり、その人がどのような生き方を選んでも最後に経験するのは「死」である事に変わりはない。平等とも言える死をきちんと理解し、それを踏まえた上で人生を選ぶのも一つの結論かもしれない。そう思いながら卒業論文を執筆して、いろいろな文献を読んだり、いろいろな人と話をしたりしながら自分自身の「死」に対する意識を構築しつつ「生」の充実を望んできたわけである。
そしてその姿勢はこれからも変わることなく私自身のライフワークとして続くだろう。
最後に私と関わった全ての人々、私が影響を受けた全ての人々、私の周りで起こった全ての出来事に感謝して終わりたいと思う。

これは集大成ではなく私の人生の第一章なのである。

(平成9年度「高橋賞」受賞)