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平成11年度 生涯教育専攻
卒業論文要旨


阿部 祐歌
「『自我』の研究」
 岡本かの子は昭和初期の女流作家である。彼女は旧家のしつけに縛られて育った。そして、彼女は常に周囲からの目を意識し、「自分は人と変わっている」ということに悩まされて生きた。この自己否定的な意識に悩まされながらも、数多くの小説を書いた彼女の情熱がどのように生じていたのか知りたいと思った。そこで、この卒業論文で、彼女の生い立ちを自我心理学的に分析し、彼女の「自我」の発達という点から、その情熱の源泉を考察した。
  彼女の「自我」の形成は、病理学的には、境界線上のものとして表現されるだろう。しかし、彼女の作品には、明らかに彼女自身が確立した「生命哲学」が描かれている。そして、彼女の「自我」は作品として社会の中に、確立された形で残っている。
 彼女の情熱は、彼女が自分で選択し創り出した「生命哲学」であり、そして「自分」を解放できる「自由さ」への希求なのである。
(指導教員・大串)

猪狩 恵子
「高齢者社会における学習について」 
 我が国において第二次世界大戦後、平均寿命が急速に延び「人生50年」から「人生80年」へと変わっていった。またライフスタイルの変化などにより、核家族化や近所づきあいの希薄化も目立っている。めまぐるしく変わる現代を高齢者は生きている。
この論文の第1章では、我が国の人口高齢化の原因と動向、高齢者と生活形態の変化を論じた。第2章では行政の施策の推移、こうれいきの学習課題、高齢者の学習に対する意識を挙げた。第3章では、一心寺日曜学校と天理大学に通う高齢者にスポットを当てた。
(指導教員・井戸)

岩井 あゆみ
「現行のワーキング・ホリデー制度の検証、及び 同制度を生涯学習時代に適合させるための一考察 」
 第1章では、「生涯学習とは」というところから「生涯学習時代到来の背景」へと視点を移しながら書き進めた。第2章から、生涯学習に関連しているワーキング・ホリデー制度について検証した。
 特に「自分発見」と「自己啓発」の方法としての制度、という方向で論じた。そう論じることによって、生涯学習に、他の留学制度とは異なるつながりや関連があるという特徴を強調したかった。
第1章では帰国後の状況を調べ、個人におけるワーキング・ホリデー経験の重要度と照らし合わせ、最後にまとめとして、同制度をより生涯学習時代に適合させるための、考察を述べた。
(指導教員・井戸)

大久保 加奈子
「思春期の親子関係」
      今日の思春期問題は、不登校・家庭内暴力・いじめ・薬物依存・自殺・非行などの形として現れている。それらの原因の一つとして、現代の家庭環境、特に親子の人間関係が考えられ、思春期の子どもたちに様々な影響を及ぼしていると考えた。
 そこで、小論ではこの思春期問題を、特に親子・家族の問題としてとらえ、まず発達段階としての思春期の意味について述べた。思春期には、心理的にも生理的にも急激に変化が現れ、子どもから大人へと変わっていく「自分」を意識するようになる。それが、親からの「精神的自立」の準備であると考えられる。子どもの「精神的自立」を促すのは、同じ価値観を持つ友人関係であり、また、親子関係の新しい形であると考える。
 新しい親子関係を作るためには、父親・母親のそれぞれに役割があると考えた。特に、2章で述べたように斉藤氏のいう3つの親の役割について強調したい。子どもを一人前と認めた新しい親子関係を作るには、「思春期」を受け入れる親にも認識が必要なのである。3章の事例をもとに、子どもの問題行動にはやはり親の役割が問われ、思春期における親の役割は強調できる。
(指導教員・岡田)

笠木 智美
「大人になること」
      私は自分の進路についていろいろと悩んでいる時、パット・パルマーの「大人になる本」という本に出会った。そしてこのことが、この論文を書くきっかけともなった。 
 人が「大人」であるか否かを決定する統一基準というものは存在しない。近代社会になる前の古い社会のように、儀礼的にここから「大人」という線を引くことは、進歩、発展していくこの近代社会では難しい。また、「ピーター・パン・シンドローム」や「シンデレラ・コンプレックス」といった心の症状を持つ若者がおり、大人の現実に立ち向かうことができないでいる。
 人間性が問われる現代社会において、夢を追い続けるピーター・パンであっても、自分の意志をしっかり持てる人というのは、「大人」と認められるであろう。「あなたは、自分の選んだ人生を力強く歩いて行く。あなたは自分の人生を、自分の意志で選び取り、自分の力で築いていく。・・・・・あなたはもう、大人なんだ。」(パット・パルマー、1994、p.55)
(指導教員・大串)

鎌塚 貴子
「生涯学習としての登山」    
 大学に入って、ワンダーフォーゲル部に入部し、約4年山登りに関わってきた。その間、人によく「なぜ、山登りはしんどいのにやるのか。」と聞かれることがあり、その答えを知りたいと思った。また、現在は中高年登山ブームということもあり、山に登山者が激増。その登山者たちに、実際にあってたくさんのことを聞き、自然や山登りに何を求めているのかを調べたいと思った。
 その結果、趣味や、健康のためという回答が多く、山の魅力については、普段の生活の場とは違った、景色や空間、人間模様があり、人は山へとやって来ることがわかった。  しかし、山に人が増えたことによって、たくさんの問題が生じていることも事実である。 山に対する利害関係を知り、問題を改善していくには、人々に意識改革を求めなければならないが、それは、とても難しく、もどかしい。
(指導教員・大串)

喜多村 聡史
「余暇時代における生きがいについて」     
 経済的・物理的に豊かになった今日、生きていてよかったと思えるような精神的な充実感が求められている。
 特に、余暇時間の増大や長寿社会の到来に伴い、生涯を通じて生きがいを見出すことで充実した生活が送れ、人生の豊かさにつながってくると実感できた。
 生きがいのある充実した生活を送るためには、増大した余暇時間を有効に活用し、生涯にわたって積極的に学ぶことで自分自身のことを知り、自分の個性を発見し、自己の向上を図っていくことが大切であると感じた。今後もっと深く追求していきたいと思う。
(指導教員・井戸)

桐村 慶二
「余暇活動における旅行の研究」<旅行者の現状と生活意識から> 
 「余暇」が最近重要視されるようになったのは、「休養」「気晴らし」「自己開発」という「余暇」の機能があるからだけでなく、個人レベルで「生きがい」や「人生の充実」などに対して見直すゆとりが、人々の生活にできたからであろうと私は考えた。
 この「余暇」の活動の中でも、私は論文で「旅行」を取り上げてきたが、「旅行」は「余暇」の機能を最も果たすことのできる活動であると同時に、「生きがい」や「人生の充実」などという点に関してこれから「余暇」と切り離すことのできない活動であるということを訴えかけてきた。
 なぜかというと、「旅行」は現在「遊び」の域を超えて、「まとめ」で論じてきたように、人々の生活と密着して学んでいくべきことを多く含み、広義で教育的価値を持っていると考えたからである。このことは、まさに「生涯教育」ではないかということを、私はこの論文を通して最も伝えたかったのである。
(指導教員・大串)

久家 郁子
「 地方におけるスポーツサークルについてー佐賀県有田町を例にあげて」
 体を動かすことは気持ち良い。気晴らし(SPORT)と言うことも分かる。だが、運動嫌いが多いことも事実だ。
 しかし、ハンディキャップを持つ人、高齢者を対象としたニュースポーツが一般に大きく広がり、「気晴らし」のスポーツサークルを形成している。このスポーツサークルが、新たな地域コミュニティーを作り始めている。その目的やコミュニティーの形成のために総合型スポーツクラブが役立つだろう。
 佐賀県有田町でも、体育協会に加盟しているサークルも、そうでないサークルも体系だっていなかった。有田町のスポーツの振興を図るためには全てのサークルを体系立てる必要があると思う。
(指導教員・大串)

清水 昭宏
「学校へ行くということ」 〜「不登校」から見えるもの〜
 「不登校」が教育問題、さらには社会問題のひとつになってから、すでに久しくなる。本論文は、この「不登校」問題を通して、学校教育の役割、学校へ行くことの意味を改めて考えることを目的としている。なお、学校教育の中でも、小学校、中学校における義務教育に焦点を当てて話を展開している。
 第T章では、「不登校」という言葉(名称)、近年の不登校に実態について述べている。第U 章では「過剰な自由、個性の尊重」と「学校意識の変化」を取り上げて、不登校増加の背景を見ていった。そして第V章では、社会の変化に伴う学校教育の役割を述べている。
 現在は絶対性という支えをなくしてしまった学校だが、学校教育にも生涯学習の基礎づくりとしての役割があることがわかった。また、「子どもは学校へ行くものだ」という制度的な枠組みが基本的に変わらないとすれば 、子どもは学校に行った方がいいと考える。
(指導教員・岡田)

管尾 賀代
「江戸庶民の生涯学習 娯楽としての落語」  
 我が国の生涯教育活動は、まだ始まったばかりと言ってもよいだろう。そのような国にいる私たちは、活動が進んでいる諸外国について学んでいくことになる。しかし、生涯教育という名称がなかった頃はどうであったのだろうかと思い、生涯教育という名称がなかった頃の教育活動を、自分自身が関心を持つ江戸時代から見ていくことにした。しかし、江戸時代に、現在の義務教育の基礎となった寺子屋が発展し、庶民の教養が高まると、中期には、様々な講座が出現した。
 そこで、娯楽として扱われている落語を取り上げ、生涯学習の一分野である趣味という観点から江戸庶民の生涯学習を見ていった。第一章では、江戸の人口構成等についてを、第二章で、落語形成の歴史を口承時代から江戸寄席落語の誕生まで述べた。そして、第三章で庶民に受け入れられた要因を出版業の発達から見ていった。現在でも古い落語のネタが楽しめるのは、江戸時代の出版業のおかげではないだろうか!
(指導教員・岡田)

高嶋 陽子
「化粧と社会的適応」
 私にとって以前からの疑問「人はなぜ化粧をするのか、化粧とは何か、顔とは何か」について。顔の影響力、化粧の意味するもの、自己効果、対人効果さらに化粧の可能性である化粧療法。社会に適応するため、自分に自身を取り戻すためのカモフラージュメイク、老年期痴呆者に対する情動活性化に注目した。
 化粧は顔に手を加えて人を欺く手段ではない。化粧をしていてもしていなくてもどちらでも自分には変わりはないが、化粧をすることによって対人効果、自己効果が認められている。また、人を外見で判断することの愚かさについてそれを改善するための教育体制についても考察した。
 様々な事例を通して外見を整えることの有用性が明らかになった。しかし、外見が全てではない。化粧を個性の表現方法のひとつとして内面を磨いてゆくべきなのである。これからの課題は小学生からの外見についての意識改革、化粧療法の理解である。
(指導教員・大串)

竹嶋 誠
「映画の研究」
 我々の生活の中で映画を見ないということがないくらい映画は大衆の中に浸透している。しかし、どれだけの人間が映画というものが自分たちにとって何であるかを考えたことがあるだろうか。私は、そのことを考えるにあたり多くの本を読んだり、たくさんの作品を見たがあまりにも知らないことが多かった。そのために、映画の基礎的なことから始めなければならないと思った。
まず、第一章では映画の歴史、第二章では映画作りの基本となる映画の文法、それらをふまえて、第三章では映画の持つ意味を自分なりに考察した。映画は娯楽と批評の二面性を持っている。そして、それらをしっかりと理解し、映画を批判する力を養う教育というものが必要となっていることも加えて述べた。
この卒業論文を通して少しでも映画について知ってもらえればと思う。だが、これは表面のほんの一部分でしかなく、まだ、まだ、映画について研究をしなければ映画が人間(自分)にとって何であるか結論を出すのは難しいのだ。これからも私は結論がでるまでずっと映画について考えていきたい。
(指導教員・大串)

田中 敦子
「 J.Bowlbyの「愛着」理論に関する一考察 〜母と子のつながり〜 」
 ”乳幼児期の子どもに、母親は本当に必要なのか。”
 「愛着」という言葉に出会い、私自身の幼い頃を思い出し、まだ見ぬ将来に目を向けた。そして、子どもの成長過程において切っても切れないきずなの存在を知った。幼い子どもが安心できる場所は親(特に母親)である。そして、親自身も我が子の帰る場所でありたいと望む。母親とそばを離れない子どもには大きな愛着が存在している。母親に抱きしめてもらうことで子どもは安心し、外へと飛び出していける。
 人間誰しも持っている「愛着」というきずなは、生きていく中で対象人物こそ変化していくが、非常に重要なものであり、失ってはいけないものである。当たり前のように思っている愛情表現は、人間の成長過程において必要不可欠であり、だからこそ、本能のように行動として現れるのである。
(指導教員・岡田)

田中 佐和
「話し言葉による自己表現」
 話し言葉は、多くの人にとって最も身近な自己表現の手段である。それだけに、自分は話が苦手だと思っていても、それを改めて学習しようと言う人は少ない。しかし人間関係に悩んだ時、自分を表現しなければならない時、自分の話し方について悩む人は多い。つまり、話し言葉は良くも悪くも人間関係を形成するものなのである。
 第一章では、コミュニケーションとプレゼンテーションに分けて、話に何が求められているか探ってみた。第二章では、アサーティブネスという相互(自他)尊重の理念に基づいた自己表現について述べた。第三章では、人間関係と自己表現の関係と「生きる力」としての自己表現について述べた。
 話の技術は、よりよいコミュニケーションのため、豊かな自己表現のためには、学ぶ価値のあるものだといえるが、本当に必要なのは、話をする人間の意識であることを改めて感じることができた。
(指導教員・井戸)

陳 儀倩
「茶の心に関する研究」
      私は茶道を習うに当たって、「茶の修行」は「点前の修行」だと考えていた。しかしそれは外面的な姿、形にすぎない。茶の修行を志すものにとって、最も大切なことは表面的なことではなく、内面的なものであることに気付いた。そこで、私は「茶の心」に焦点をしぼって、本論文を書くことにした。
 まず、人は何時、何処で、どのようにして、茶を飲み始めたかということを、長い歴史と伝統を持つ茶の湯の歴史的背景から考察した。それらの中には茶道の精神を支える様々な伝統的実践、文献、思想、習慣が生まれ、また現在まで継続されている。それに従って現代生活に活用してゆくには、先人の足跡をたどり、実技の稽古とともに、茶道の周辺を学び、その源流を尋ねて、理解を深めなければならない。つまり一般的には受け入れられにくい茶道は、日常生活の中にどのような役割を果たしているのかを歴史的背景、文献、実技の稽古から学ぼうと考えた。構成は、第一章「茶の歴史」、第二章「南方録について」、第三章「茶道修練者と茶の心」の三章だてとし、各章ごとにエッセイ、茶の湯の心得、禅語の解説をまとめた。その結果、人間の生活の最も洗練された「仕え合う(つかえあう)心」に、真の茶の教えがあるということを導き出すに至った。
(指導教員・石飛)

辻本 喜晴
「制服を着る若者」 〜援助交際から見えるもの〜     
 制服には様々な物があるが、女子高生の制服ほど街中で見かける物はない。これまで制服問題は“個性の抑圧”“管理主義の象徴”という観点から述べられていた。しかし生徒の意見により制服が復活した高校があるなど、これまでの観点からでは対応できない現象がでてきている。
また女子高生が売春や援助交際などを行うことが問題になるなど、現在制服について論じるときセクシュアリティ(いわゆるエロ)の部分を避けては通れない。
日本の女子高生は性的であってはならないとされ、女子高生=清楚というイメージがある。それを象徴するのが制服である。しかし、この状況は昔からある物ではなく、近代学校教育導入によってつくられた物である。
現在の女子高生たちは周囲から浮かないよう、また自己を肯定するために援助交際に走るのである。この状況を打破するには「自己決定」能力が必要となり、そのための手段のひとつが生涯教育である。
(指導教員・石飛)

中井 由美
「天理教の生涯学習活動」
 この研究の目的としては、天理教教会本部の活動を網羅的にあげて紹介することと、私が携わってきた天理教の学生会を生涯学習の視点から見てみることの二つである。
 一つ目の研究でわかったことは、天理教教会本部の行っている活動は、多くて充実しているということである。今回はその中から「ひのきしんスクール」を取り上げて詳しく活動を見てきた。「ひのきしんスクール」は地域のニーズを知り、専門的な技術と知識を持って、よりその人にあった「おたすけ」活動を展開することを目的としている。技術を身につけることで自分を磨き人の役に立つことができる。自分を磨くことは「布教」にもつながっていくことがわかった。
 二つ目の研究でわかったことは、学生会という場が生涯学習活動行う上での基盤づくりとなっているということである。天理教の課題としては大切な世代である若い層に天理教を伝える上で、本部だけに任せるのではなく、それぞれ各地方の教会において、若い人の自主性を引き出す行事が行われるべきだと思った。
(指導教員・井戸)

仲野 英明
「学校と地域社会」 −兵庫県「トライやる・ウイーク」の実際と考察−   
  近年、地域や家庭が学校に依存しすぎていることや、社会の変化により地域や家庭の教育力が低下していると言われている。これを改善する為、地域や家庭の教育機能を高める取り組みが行われている。そこで兵庫県「トライやる・ウイーク」を調べ、今後学校と地域がどのように関われば良いかを研究した。
第1章では、教育の現状を述べ、家庭・地域の教育力の低下をとりあげ、「心の教育」について触れた。第2章、第3章で「トライやる・ウイーク」の概要・事例を取り上げ、そこから得られた成果・課題をとりあげた。その結果を踏まえ、第4章で、地域・家庭・学校がどのように連携すれば良いかを論じた。
結果として、連携する為には学校は地域の様子を理解し、子どもが主体性を持って活動できる学校・地域づくりをするべきであり、「トライやる・ウイーク」は現在の教育問題の解決の契機となる事業の1つだと論じた。 
(指導教員・岡田)

橋本 真美
「絵本から学ぶ 〜絵本が大人に与えるもの〜 」        
「絵本」といわれると、大抵の人は「子ども向けの本」という印象を受けるであろう。しかし実際には子どもだけでなく大人の読者が多いことに目を向け、このことから最近絵本が大人の間で人気があるのはどうしてか、また絵本が大人に与えることは何だろうか、ということを目的にこの卒論を書いた。絵本の概念、歴史、大人にとっての絵本、今後の絵本の可能性と課題、などと研究を進めた結果、大人であっても充分に絵本を楽しむことができ、 感動や安らぎを与えられること、大人ならではの絵本の楽しみ方もあることが分かった。また、医療の現場においての心理的な効果など、絵本から与えられるメッセージは様々な場面で人の心を動かすことができるのである。
(指導教員・石飛)

増野 ただみ
「動物と共に生きる」 〜アニマル・セラピーの可能性〜
この論文では、動物が人に与える直接的な効果について取り上げた。その中でも特に馬に注目し、実際に施設を訪問して参加させてもらった。第2章では動物のさまざまな効果を、生理的・心理的・社会的な面から紹介し、考察した。
 アニマル・セラピーは科学的に証明しにくい点もあるが、私達にさまざまな恵みを与えてくれていることが分かった。動物と共に生きて、一体となることで、動物は私達の人間性を回復させ、本来の姿を取り戻してくれる大きな手助けをしてくれているのである。そして、心だけでなく、身体の回復に役立つとなれば、動物が発揮してくれる偉大な力を借りないわけにはいかないであろう。
(指導教員・岡田)

峯尾 智幸
「死の教育〜日本人の新しい死の教育〜」
本論文では欧米のデス・エデュケーションとは違う日本人への死の教育を述べた。
 第1章では「死の教育の現状」として死の教育の意義、死の教育の起こり、先行研究を述べた。第2章では「実践例とその問題」としてアメリカの実践例やブックトーク、アルフォンス・デーケンが行っているデス・エデュケーションを文献で調べ述べた。第2節では死の教育の問題と批判を述べた。
 第3章では日本人の死生観を明確にするために葬送儀礼に着目した。「日本人の死に対する態度」として埋葬方法、葬送儀礼、日本人の死生観を述べた。第4章では「これからの死の教育」として死の意識の新しい問題、日本人の死の教育を述べた。
 本論文中で死の教育は特定の死生観を教えるというのではなく、自分なりの死生観を導き出す物であると言うことが明確になった。そうして、自分らしい納得のいく死を迎えることができるのではなかろうか。
(指導教員・石飛)

山岡 久美子
「もうひとつの「学校」の研究」    
 『私が、学校のことを嫌いになったのはいつだったろうか』という書き出しで始まるこの論文では、様々な学校改革の一つとしてフリースクールを取り上げた。
 また私が学校に行かずにフリースクールに行っていたらどうなっていたかを知りたかったこともある。
 第1章では、このテーマを選んだいきさつを説明し、第2章では、フリースクールについて、事典での定義や諸外国のフリースクールと日本のフリースクールの違いなどを論じている。第3章では、実際にフリースクールに行った場所を紹介し、インタビューを元にまとめている。
 とても個人すぎる論文だが、フリースクールという言葉の意味を知るにつれて、また実際にフリースクールを訪れて話を聞くにつれて、気持ちが大きく変化した。
そしてこの論文を書くことで、私の中にあった「学校に行っていてよかったのか」という疑問を解くことができたと思う。
(指導教員・石飛)

山名 美沙紀
「生涯教育における絵画の本質
 − 奈良市特別養護老人ホーム「あじさい園」を訪れて − 」
 絵を見る機会があっても、自分で描こうと思う人は少ないのではないだろうか。確かに絵を描くことが苦手だという人がいても当然のことである。だが、決して、「難しいもの、自分とは関係のないもの」ではない。絵を描くことは、本来楽しいものであったはずだし、絵を描くことで引き出される記憶や意欲がある。それを実証するために、奈良市にある特別養護老人ホーム「あじさい園」の絵画教室を見学させていただいた。そこで、画家の大東先生とお年寄りの絵画に対する情熱と、絵画によっていきいきとしたお年寄りの顔を見られることができた。
 絵画には想像力や情操の豊かさを追求する役割ばかりが求められるが、絵画とは目の前にあるものを、正しい目で深く見れる力を養うものであると私は考える。その力によって、今までとは違った見方で世界を見渡せ、ものを考え、自分というものを再確認できるのではないだろうか。
(指導教員・石飛)

吉森 のり子
「生活の中の色」
   私たちの身の回りの、目に見えるありとあらゆる物は何らかの色に属し、私たちが無意識のうちに、五感のはたらきから取る外部情報の4分の3以上を視覚=色で得るという。現代の生活のなかに占める色彩の領域は広く、私たちは良かれ悪かれ影響を及ぼされている。
例えば、自分の部屋、学校、仕事場、公共の場における様々な場所においてもその場にふさわしい色が使われている。色は、私たちが生活している場で何気なく役割が果たされており、役立っているのである。しかし、私たちが生活している場で何気なく役割が果たされており、役立っているのである。しかし、私たちは、「色」という存在を当然視しすぎて見過ごしがちである。特に、身近な私たちの「生活の場」においては必要不可欠であろう。私たちが、いかに自分の周りの生活の場を過ごしやすくするか、個人の色の好みは様々だが、それをふまえた上で色の性質を利用すると、よりよい生活が約束されるだろう。それはわたしたち一人一人の努力次第なのである。
 人間が白黒の世界ではなくカラーの世界にいる以上は、生活をする上で色と切り離すことは不可能である。その中で、少しでも自分の生活がより良くおくりやすいよう、私たちは色について今一度考えてみる価値がある。
(指導教員・岡田)