ログファイル >>
|
#1766/1800 ちょっと一息、気楽な話題で楽しんで *** コメント #1765 ***
★タイトル (********) 05/ 6/ 4(Sat.) 18:10 ( 29)
Re:1765 一久さんの説は正論だ S1
★内容
テロリストの話のときもそうだったが、一久さんの言われることは
正論に違いない。理詰めで考えれば「ご説ごもっとも」である。
それはわかっているのだが、私はどうしても素直にうなずけないで
いる。
私は、自分を、自分の周りの人間と比較しても、ことさらにキレや
すい人間だとは思っていない。(自分に対する見方に甘さがあるの
かも知れないし、それだけ世の中全体がキレやすくなっているとい
うことなのかも知れないが。)
人間である以上、感情から離れることはできない。怒りの感情一つ
とってみても、大小合わせれば、毎日毎時間沸き起こっていると言
ってもおおげさではないだろう。
私は車を運転していて、前に割り込まれたら(それが違法で強引な
ものでなかったとしても)むかつくことが多い。私生活でも仕事中
でも、文字や画像で外部から入ってくる情報であっても、怒りを感
じることは枚挙にいとまがない。
それは異常なことなのか?「許しがたいこと」でなければ怒っては
いけないのか?そもそも何が「許しがたいこと」なのか、かなりの
個人差があるのではないか?
「雨ニモ負ケズ」の”私”はすばらしい人格者だと私は思うが、誰
も彼もがそんな境地にはいれるわけはない。第三者が「何でそんな
ことで」と思えることに怒りを覚える人がいても、誰がそれを責め
られようか。
年若い野球ファンが「長嶋茂雄ってとっくに過去の人だよねー」と
言って、怒りを感じる中高年ファンは今も少なからずいるだろう。
私とて、ロッテが仙台を離れるとき、激昂までしたわけじゃない。
[ コメント数 1 読む(F1766) ]
#1768/1800 ちょっと一息、気楽な話題で楽しんで *** コメント #1766 ***
★タイトル (********) 05/ 6/ 6(Mon.) 11:36 ( 49)
釈迦いわく 一久
★内容
仏教の有名な説話に、人は他人に水をかけられると怒るが、天に水を
かけられて怒ることはない。これは天が公平だからだ、とかいうのが
あったと思う。
しかし、私はさらにこれに論評を加えようと思う。
人が雨に降られても天に対して怒らないのは、天に対して期待してい
ないからである、と。
天は天の事情で雨を降らせる。私を困らせる為に降らせるのではない。
私を喜ばせる為に雨を恵むわけでもない。人はそれを知っている。
だが、「人」に対してはどうだろうか。
私に水をかけた相手には悪意があると思うのが普通である。悪意はなかった
としても不注意があったと思うのが当然である。しかし、なぜ不注意があった
と思うのかといえば、人は他人に対して水をかけないように注意するはずで
あるという思い込みがあるからである。
つまり、人間は他人に対して甘えているのだ。善意を期待しているのである。
善意の期待が大きいほど、他人に対して怒ることも増えてくる。
すぐ怒る人は、すなわち「愛」に飢えている人だということだ。そして「愛」
は与えるものであり、与えられることを希求して得られるではない、というこ
とは最前から何度も述べたとおり。
愛を求めて怒る人は愛を失い、愛を与えて満足する人は愛を得る。
【現代事例】
たとえば、両方から荷物を抱えた人がガラスのドア越しに相対したとしよう。
このとき、相手が譲るものと思って我先にドアに向かうもの同志であれば、
互いに怒りと憎しみしか残すまい。
だがまさにこのとき、自分の荷物を脇において、相手のためにドアを開けて
やりたまえ。
相手は恐縮して通るだろう。その姿はあなたの心に涼風を与える。愛を与えて
愛を得ることになるのである。
[ コメント数 1 読む(F1768) ]