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#1768/1800 ちょっと一息、気楽な話題で楽しんで *** コメント #1766 ***
★タイトル (********) 05/ 6/ 6(Mon.) 11:36 ( 49)
釈迦いわく 一久
★内容
仏教の有名な説話に、人は他人に水をかけられると怒るが、天に水を
かけられて怒ることはない。これは天が公平だからだ、とかいうのが
あったと思う。
しかし、私はさらにこれに論評を加えようと思う。
人が雨に降られても天に対して怒らないのは、天に対して期待してい
ないからである、と。
天は天の事情で雨を降らせる。私を困らせる為に降らせるのではない。
私を喜ばせる為に雨を恵むわけでもない。人はそれを知っている。
だが、「人」に対してはどうだろうか。
私に水をかけた相手には悪意があると思うのが普通である。悪意はなかった
としても不注意があったと思うのが当然である。しかし、なぜ不注意があった
と思うのかといえば、人は他人に対して水をかけないように注意するはずで
あるという思い込みがあるからである。
つまり、人間は他人に対して甘えているのだ。善意を期待しているのである。
善意の期待が大きいほど、他人に対して怒ることも増えてくる。
すぐ怒る人は、すなわち「愛」に飢えている人だということだ。そして「愛」
は与えるものであり、与えられることを希求して得られるではない、というこ
とは最前から何度も述べたとおり。
愛を求めて怒る人は愛を失い、愛を与えて満足する人は愛を得る。
【現代事例】
たとえば、両方から荷物を抱えた人がガラスのドア越しに相対したとしよう。
このとき、相手が譲るものと思って我先にドアに向かうもの同志であれば、
互いに怒りと憎しみしか残すまい。
だがまさにこのとき、自分の荷物を脇において、相手のためにドアを開けて
やりたまえ。
相手は恐縮して通るだろう。その姿はあなたの心に涼風を与える。愛を与えて
愛を得ることになるのである。
[ コメント数 1 読む(F1768) ]
#1770/1800 ちょっと一息、気楽な話題で楽しんで *** コメント #1768 ***
★タイトル (********) 05/ 6/ 7(Tue.) 21:20 ( 30)
Re:1768 私は「汝の敵」を愛せない S1
★内容
ロッテの移転話もここまでくるともはや哲学の領域だが、正直言って
私は、この件では一久さんとはとうていわかりあえないように思う。
一久さんには、その博愛主義のご高説を、私だけではなく、ぜひとも
世の中すべての人に訴えていただきたい。これは決して皮肉で言って
いるのではない。一久さんは「異常」と言われたが、失礼ながら、一
久さんのような考えを持つ人の方が、現実の世の中では少数派だと思
う。
前にも同じようなことを言ったが、私は、「打算」とか「損得勘定」
とか、もっと言えば利己主義的思考というものを抜きにして、人間社
会は成り立たないと思っている。もちろん、それが全てとなってしま
っては、それこそ大変に生きづらいギスギスした社会になってしまう
だろうが。
そして私は、人が「無償の愛」を与える対象となりうるのは、せいぜ
いが「わが子」くらいのものだ、と言った。一久さんがおっしゃるよ
うに、誰も彼もに「無償の愛」は与えられない。
愛に限らず、人に何かを与えることで、何がしかの見返りを期待する
ことは、果たして責めや咎めを受けるほど醜いことだろうか。私は、
当たり前のことのように思う。
地元に球団がやってくることで、「町が活気づく」「商売が繁盛する」
と期待してはいけないのか。自分たちの儲けのために、球団誘致を利
用することは、強欲でいただけない行為なのか。「地元の球団が勝て
ばスカっとする」「嫌なことが忘れられる」フラストレーション発散
の道具に使うのは、よこしまなことなのか。
キレて暴力を振るったり、ヒステリーを起こしたりするのでなければ、
怒りの感情さえ私は健全なものだと思っている。