〜*〜 ロビー ちょっと 一息 気楽な話題で楽しんで 〜*〜

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#949/1000 ちょっと一息、気楽な話題で楽しんで
★タイトル (iti@msi.)  02/ 5/ 5(Sun.)  22:51  ( 76)
人物韓国史     一久
★内容
「人物韓国史(上・下)」 読了。

  これまでに読んだ韓国史の中では、一番おもしろかった。

  はっきり言って、私は生粋の韓国人には歴史が書けない、と思っている。

  韓国では、歴史家がなにか新しい歴史書を書くと、それに対して国民
  から「うちの祖先はもっと良いことをした」とか、「親日派の某のことをよ
  く書きすぎだ」とかいう類の苦情がくるのだそうな。

  つまり、韓国には、西洋流の「歴史」という感覚がないのである。

  歴史は歴史として、現在と距離を置いてみる、というセンスが欠けてい
  るのである。

  この本の著者である麗羅氏も、戦前日本で過ごした人である。
 _______________________________

  乙支文徳

  乙支文徳といえば、高句麗の英雄で、隋の侵攻を撃退した人物である。

  しかし、その生涯はまったく分かっていない。 いきなりあらわれて、王を
  補佐して参謀として戦争計画を指示し、さらに前線に出て敵を打ち払った。

  この救国伝説以上の記録はなにも残っていない。 没年もわからない。

  そこで。。。。。

  乙支文徳とは何者であるのか、妄想をたくましくしてみよう。

  いきなり高句麗王の幕下に登場した、生年も血統も語られることなしに。

  ということは、ふつうの家臣ではなかった、と考えられる。

  中国史には、同じようなことをした人間がひとりいる。 太公望である。
  しかし、彼の場合、「釣れますか、などと文王言い」と謡われるほど、有名
  な招請劇があった。

  乙支文徳の場合にはそれもない。

  ということは、より怪しい人間だったのではないか。つまり「左道」妖術者
  の類である。

  また、乙支文徳は隋の幕営に出かけて、隋軍をペテンにかける、という
  ようなことをしているところから、中国人であったのではないかと思われる。
  
  いくら大陸が地続きでも、これほどの話術を以て交渉することは、高句麗
  人でも無理ではないか。  

  ということで、私の出した結論は、乙支文徳とは、五胡十六国時代から、
  隋による統一の過程で、中国から落ち延びてきた呪術者のひとりであろ
  う、というものだ。

  で、高句麗王の庇護にあっていたのだが、国難迫るとき、王から意見を
  聞かれて、彼自身、隋には恨みもあろうから積極的に献言したのであろう。

  それがことごとく図に当たるので、将軍として前線部隊の指揮をも任される
  ことになった、と考えられる。

  もしもふつうの高級貴族出身の軍人であったならば、初めから全軍を指揮
  しているか、最後まで参謀でいるかしているはずだ。

  乙支文徳の任用のされかたには、試用に成功したから指揮官にした、と
  いう匂いが強い。 それも、小部隊で試されて大部隊の長になる、というの
  がふつうなのに、乙支文徳の場合は幕僚から部隊長になっている。

  これも、普通の家臣ではない証拠となる。

  もともとまともな家臣ではないので、戦後、中国に帰ったのか、あるいは
  隠棲したのであろう。 私は、たぶん隠棲したのではないかと思う。

  そもそも、乙支文徳は、高句麗方面に隠棲するために下ってきたのだろう
  から。 あるいは、始皇帝以来の神仙の地、東海の沖の島(日本)にでも
  渡ったのかもしれない。



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