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#1846/1900 本会議場 市民の討論広場 メイン会場 *** コメント #1843 ***
★タイトル (iti@msi.) 06/12/13(Wed.) 21:37 ( 43)
Re:1843 やっぱりそうは思えない 一久
★内容
【単に、魅力がないだけでは?】
天皇制廃止論は、単に魅力や意義がないから報道の対象にならないだけ
なのではないかとしか思えないのです。
自分の意見に近いものが、非現実的だとか、メリットよりデメリットが多い
、とかいう反論を受けることを、バッシングであるとか、議論自体の封殺で
あるとか思ってしまうことは感情としては理解できます。
しかしながら、私には、天皇制廃止論に対する反応は、単なる反論である
にすぎず、今回、朝日等が核武装論にたいしてやったような、言論封殺行為
とは次元が違うとしか思えません。
言論の自由というものに対する自由主義の考え方は、
「自由主義を否定するものに対してさえ、その言論の自由を保障する」
ということですが、しかしこれは、同時に、
「言論の自由を行使するものは、反論してくる相手に対しても、自分に与え
られている言論の自由を保障せねばならない」
ということでもあります。
「言論の自由否定論者」も言論の自由を保障されますが、同時に、「非・言論
の自由否定論者」が、否定論者に対して反論する自由を認ることを強要される
ことになるのです。
そうでなければ、どのような馬鹿げた意見・危険な思想でも流布できるし、それ
に対して実力行使以外の手段で対抗することは不可能になってしまいます。
逆に言えば、反論を保証せねばならないという足枷がついている限り、いくら
過激な言動をしても、それが妥当なものでない限り、反論者達によって討論の場
で打倒されることになるということです。
天皇制廃止論を提言する自由はある(と私には思える)のだが、それに対する
反論を言う自由もある。そして現況から考えれば、廃止論が優位に立つことはない。
ということで、言論の自由があるが故に打倒されるだけであって、言論の自由が
ない訳ではない、としか思えないのです。
[ コメント数 1 読む(F1846) ]
#1848/1900 本会議場 市民の討論広場 メイン会場 *** コメント #1846 ***
★タイトル (********) 06/12/14(Thu.) 21: 4 ( 28)
Re:1846 私はバッシングを肯定できない S1
★内容
相手を罵倒したり侮辱したりするような言動が、議論でいうとこ
ろの反論といえるでしょうか。
言論の自由の中に、反論の自由もあるというのはよくわかります。
かくいう私も、自分と違う意見にはたいてい反論していますし、
自分に対する反論にも、拝聴する態度はとっているつもりです。
だから議論がなりたつのではないですか。
馬鹿げた意見や危険な思想であっても、それがあくまで言論での
主張であり、押し付けや暴力を伴わないのであれば、一つの意見
として認め、穏やかに聞き、その上で反論すべきなのです。
(人間には感情もありますから、なかなかそうもいかないという
のはわかりますが)
そうでなければ、言論の自由というのは成り立たないのではない
ですか。私がバッシングといっているのは、意見を引っ込めろ、
考えを変えろと強要するような、いわばことばの暴力です。
そしてまた、少なくとも私は、天皇制廃止論が馬鹿げた意見であ
るとも、危険な思想であるとも思ってはいません。
朝日新聞等が核武装論議をどのように封殺しようとしたのかは知
りませんが、反朝日を掲げる個人や団体も少なくないのだし、そ
れらの力を借りて妨害の及ばないところで主張することは可能だ
と思います。(封殺活動そのものは非難されてしかるべきだが)
一久さんの論理でいけば、核武装論議も反論者たちによって打倒
され続けてきたと言えるのではないですか。
[ コメント数 1 読む(F1848) ]