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#1906/2000 本会議場 市民の討論広場 メイン会場 *** コメント #1905 ***
★タイトル (********) 07/ 3/26(Mon.) 21:20 ( 69)
Knouledge comes しかし... 一久
★内容
【いまだ未知数】
Knouledge comes, but wisdome lingers.
知識はすぐに得られるが、知恵を身につけるには時間がかかる。
アルフレッド・テニスン
【地方自治のありかた私論】
私が地方自治体の行政を任されたとしたら、まずやることは、
「お上は何もしない、自治体は何もしない」という意識を住民
に持たせることであろうかと思う。
そして、その意識の中から、「だから俺様がやってやる」という
”新・地方名士”や”新・維新志士”の登場を待つ。
何もしないといいながら、裏ではこれらの有意・憂国の志士が
現れやすいように、役所が持つ信用と権限を以て支援をする。
金も労力も、役所は出さない。すべてはこれら有意の人々の
自助努力に任せる。ただ、信用がなければいくら憂国の志があ
ろうとも動かないのが世の中というものだ。役所が輔弼すべきは
そこだけなのである。
たとえば、地方には立派な市民ホールが各地にあるが、その
ほとんどは、極めて低い稼働率となっている。しかし、ホール
でイベントをやりたいと思っている住民は少なくないはずだ。
しかしできない。なぜか?
そのようなことが可能であるということを示す者がいないからだ。
一日十万円の費用を要するイベントであっても、50人の出演者
で割れば、二千円の出費でしかない。八時間×60分とすると、50人
で割れば、一組あたり9.6分の持ち時間を得る。カラオケの三曲も
歌える時間だ。
江戸時代の地方における藩政改革の多くは、リストラと、独占
公営事業によるものであった。明治以後のそれは、国家からいかに
補助金を分捕ってくるかというものであった。角栄時代までそれは
続く。
いずれにしても、現代においては、称賛すべきものではないようだ。
これらとは別に、大坂における商人達が私財を以て橋を架けたり堀
を掘ったりした、というようなものがある。こちらこそ、現代に生かす
べき方策であろう。
だが、その大阪では、戦後民主主義の時代になったのに、むしろ勢い
がない。なぜだろうか。それは、民主主義であろうが封建政治であろうが、
権力と役所が主導する行為はすべて「お上のすること」でしかないから
だ。選挙で選ばれても、あくまで「お上」でしかなく、市民の代表では
ないのだ。なのに、民主主義というたてまえが、その事実を隠蔽してしまう。
行政というものは、あくまでも「お上」であって、決して市民の代表ではない。
ゆえに、市民は市民で行政とは別に市民が動けるシステムを持って
いなければならない。
もしも行政が、市民と一体になりたいと思うのであれば、そのような市民
自身の行動を背後から支援することである。金も労力も必要ではない。
ただ、「どうしてやればやりやすくなるか」ということでけを考え、行政
の持つ、信用と広報能力を貸与してやればいいだけなのだ。