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#2013/2100 本会議場 市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********) 07/ 8/25(Sat.) 21:56 ( 53)
靖国参拝について 一久
★内容
【連続性からすれば】
歴史の連続性ということから言えば、当然、首相は参拝すべきだろうと思う。
なぜならば、多くの兵士は赤紙によって強制的に出征させられたのであり、
その命令を下したのは、時の日本政府であったのだから。
戦後、大日本帝国から日本国になって、連続性が途切れた、と主張するので
あれば、現首相に責任は無いが、実際には伊藤博文以降の第何代内閣総理大臣
を名乗っているのであるから、連続性はあると言わねばならない。
【マスコミのすべきこと】
靖国問題は、中国・韓国側が、靖国参拝を公式に認めること、そのためには、
両国首脳が日本の総理と同道して靖国を参拝することでしか解決しないと思う。
両国は、自国の国民感情に配慮してほしいと言ってきている訳だが、参拝を
中止しようがしまいが、それは結局、日本側の行動に振り回されるということ
を意味している。
ここから抜けだすには、「恩をもって怨みに報いる」ほかはない。
我々のほうから、やつらを許してやったのだ。ということにすれば、以降、
日本人が参拝しようがしまいが、どうでもよいことになる。我々は度量が
広い、と自己満足することができる。
だが、このような主張を、日本政府がすることは難しいだろう。そこで、
それをするのが、マスコミの仕事ではないか。これこそが、真の日中友好
日韓友好というものであろう。
蛇足:
論語に、「恩をもって怨みに報いる、とはいかに」との問いに、
そんなことを言うなら「恩に対して何をもって報いるや」とかいうのがある。
しかしこれは、後世の偽作だと私は思っている。理由は、「恩をもって怨みに
報いる」というのは老子の言葉だが、老子が孔子に教えたという伝説とは違って、
老子の内容からして、老子成立はずっと後のことだからだ。そもそも、伝説の
ほうの記述(史記)も、そういう話がある、という書き方であって、司馬遷の当時
すでに史実は分からなくなっていたそうな。
後世の偽作でも、内容が正しいものであればよいのだが、私にはそれも認めがたい。
恩に対して報いる手段などは無い。いかに大きな恩返しで報いたとしても、
初めに施された小さな恩に報いるには不足である。餓死寸前の浮浪者に振る
舞われた一杯の粥と、この浮浪者が後に億万長者になって、お返しした百金
と、どちらが重いか。お返しの百金が一杯の粥にまさることはないのである。
逆に、恩をもって怨みに報いることは可能である。恩をもって報じられた者が
そのことを不満に思うことなどないがゆえに。
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