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#2260/2300 本会議場 市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********) 08/ 7/ 4(Fri.) 21:11 ( 41)
性善説と性悪説 一久
★内容
性善説と性悪説に対する私論
【じつは、時代背景の違いにすぎない】
性善説と性悪説は、実は、単に孟子と荀子の生きた時代背景
の違いによるものに過ぎない、というのが私の持論である。
孟子の時代、諸侯のモラルハザードは最高潮に達していた。
もはや、名君であろうとする意思さえ諸侯には無かった。孟子が
性善説を唱えたのも、斉王が自分は古代の聖王の真似などでき
そうにもない、と自慢げに宣言したためである。
孟子は、
「子供が井戸に落ちそうになれば、思わず助けるでしょう?」
と持ちかけて、それこそが、斉王にも古代の聖人同様の善の心
がある証拠です、とたたみかけた。
こんなところから話を初めねばならないほどに、当時の諸侯は
良識を失っていた。
ゆえに、性善説を説くこととなった。
管仲や孔子の時代では、そこまで諸侯の心は腐っていなかっ
た。ただ、古代の規範を守れなくなっただけだった。孟子の時
代には、規範自体が崩壊していたのだった。
荀子の時代、新しい規範が諸侯に生まれつつあった。
新しい規範は、孔子が理想としたようなものではなく、四君子の
政治に代表されるような、実務的な規範であり、いかに人民を
うまく統治するか、という技術のことであった。
統治のための技術なのであるから、それは人の良心に期待す
るのではなしに、人の中の悪を押さえつけるものとならずには
おれない。
かくして、性悪説を採るほかはない。
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