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#359/400 本会議場 市民の討論広場 メイン会場
★タイトル (********) 02/ 7/31(Wed.) 21:48 ( 76)
社会主義の死因 政治2 一久
★内容
社会主義の総決算 U その2
政治的側面から (2)
【 公正 必ずしも適切ならず 】
公共の組織が、必ずしも公正な判断をする訳ではないということを前回
述べた。
今回は、公正な判断がなされたとして、それが必ずしも適切な判断では
ない、ということについて述べる。
??? 公正な判断が適切ではない、だってぇ〜 !?
そのとうり、公正な方法でなされた判断が、間違っているということは当然
にあり得ることなのだ。
そのような事態は、我々の日常にいくらでも起こっている。
売れる、と思った商品が売れなかったり、売れないと思ったタレントがブレ
ークしたり。
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そもそも、公正な判断とは、そのなんぞや ?
情報や意見を集約し、検討を重ねる、というような手続き上の条件をクリア
した上で、の問題であるが。
一般に、公正な判断ではない、と言われるとき、このよな諸条件を欠いてい
るという意味で使われる場合と、条件はクリアしているが、判断に恣意が強
く混じっているという場合のふたつのタイプがある。
前記のタイプについては、ここでは論外である、ということを言っているのだ。
後者の意味で、つまり、諸条件をクリアした上、さらに恣意的なものを極力
排除できた状態での判断を、公正な判断というべきであろう。
ところがだ、
恣意的な判断を排除するということは、いいかえれば誰もが納得するような
陳腐な結論を出す、ということに他ならない。
公正な判断とは、陳腐な判断と同意語なのである。
いや、こう言い換えようか。
「公正な判断とは、真摯な検討を経て到達する凡庸な判断のことである」
ゆえに、公正は判断というものは、ありきたりな問題には的確に近い判断がで
きるが、そうでない問題には対応できないものなのである。
だから、公正な判断を絶対視する社会においては、決して真に新しい技術も
人材も学問も、育つことはない。
これらは、その新しさを理解し、見いだすことのできる人間の恣意によって支え
られ育てられるものだからである。
つまり、不公正にこそ、新しいものを生みだす源が隠れているのである。
国家が公正を追求することは構わない。いや、そうでこそあるべきだ。
しかしながら、同じやり方を経済に持ち込んではならない。
そんなやり方をすれば、凡庸で陳腐な商品しか生みだすことはできないからで
ある。
経済活動においては自由を与え、恣意による資金の流通を活発にしてこそ、
斬新な製品が生まれて来るのである。
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