りえたくん2015年度がいよいよ始まる。仕事が増えて毎日泣きたい気持ちさ。でも仕事やりたくても病気の為に辞めなくてはならなかったりえたくんの無念を思えば頑張らないと、と思う。ここまでこれたのもりえたくんのお陰です。今でも仕事に出かける時は欠かさずに仏壇に手を合わせて「りえたくんどうか力を貸して」と頼んでます。そして帰宅すると真っ先「りえたくん有り難う!」と手を合わせます。ああ勿論知っているよね。
りえたくんがいなくなってあと3ヶ月で3年になろうとしてる。今でもどうしても信じられない。                      20154月12日




りえたくん明けましておめでとう!今年もよろしくお願い致します。
今年でもう三回目の一人新年を迎えるのか。早いものだ。家内と一緒に餅を食べながら過ごした正月がとても楽しかった。家内が元気なころは両親(父は今はいない)と近くの神社に初もうでに行ったこともあった。家内とだけでも初もうではかなり何度も出かけた。
やはり正月は家族と過ごすこのが一番ふさわしいと思う。そして年賀状。これも家内の大切な仕事だった。年賀状を刷りあげるのに異常なほど情熱を燃やした家内。亡くなる年の正月まで一度も欠かさずに刷りあげてくれた。私は家内が亡くなって暫くは、それでも頑張って刷りあげていたが段々情熱が薄れてしまい、遂に今年は1月6日になってようやくプリントアウトした。お餅もおせちも一切無しの正月。かろうじて屠蘇だけはつけた。たぶん来年の正月はそれもやらなくなっているだとう。まあ年末のドリアードで精魂果てて30日にかえって大晦日に一日休んだだけでまた元旦からレッスンしてた訳だから正月気分も無い。
家内がいなくなって2年目くらいは少しは気持ちも整理出来たかなと思えたが最近またとても悲しいく感じる。やはり最愛の人を失った傷手はそう簡単には癒せないようだ。
でも確実に言えることは遠くにいても家内は相変わらず私を守り続けている。あれから3年近くまがいなりにも何とかやってくれたのは家内のお陰だ。昨年暮れには二人の大切な知人が家内と同じ50代の若さで相次いで亡くなった。 それを思えばこうして請われて仕事が出来るのは幸せなことだと思う。りえたくん今年も頑張りますのでどうか私の力になってね! 2015年元旦


りえたくんの大好物の蟹を食べてます。りえたくんが横で欲しそうに見てます。


とても嬉しいことがあった11月というのに自宅の、しかも玄関の真横にあの百合が咲いているではないか!雨の中ひっそりと咲いている百合を見えてりえたくんがそっと会いに来てくれたと思えてならない。本当に美しい。11月16日



残念ながら百合の花は散りましたが新たな百合が咲いてくれました!お盆はなので帰ってきたのでしょう。2014年8月14日




百合の花はカップルで美しく満開に咲いてます!とても幸福な気持ちになります。
2014年8月6日



きょう待ちに待ったりえたくん百合の開花です!とても可愛らしいです。平素は花にこれっぽっちの興味もない私ですがこの百合は少しでも長く咲いていてほしいです。2014年8月1日



また7月30日がやってきた。りえたくんが居なくなってもう3年になるのか。この三年間私はと言うと全く進歩のない人生を歩んで来た。家内が突然逝ってしまった三年前の夏もコンペのレッスンや講座や審査に追われ家内とろくに話す時間もなかった。しかしこの時期としては奇跡が起こったように思える。亡くなる三日前に家内と甲羅にカニを食べに出かけたのだ。今考えると虫の知らせかも知れない。私たちはそこで食事を楽しみ将来についていろいろ話しながら束の間の安らかの時を楽しんだ。家内は体調はあまり良くなかったようだがカニをおいしそうに食べてとても嬉しそうだった。その時何かの会話の中でふと「じゅんたくんと一緒で本当に楽しかった」と言っていた家内の言葉が忘れない。だから私は家内がきっと満足してあの世に旅立ってくれたと信じている。そしてこの3年間私は結局家内のことを忘れる日はほとんど無く、ずっと家内との思い出を大切にしてきた。今年もまたこの時期にあの鉄砲百合の花が私の自宅の駐車場の片隅にひっそりと咲いてくれた。家内がきっと私に会いにやってきたのだと思うと、とても愛しく思う。私はしかし先にも書いたようにこの夏も2012年7月と同様に、あるいはもっとエスカレートして仕事に追われる日々を送っている。あの世の家内はきっと呆れて苦笑していると思う。でも私はこうして忙しく頑張れるのも家内の応援があればこそと思っている。他人からは信じられないかもしれないが、信仰心のかけらも無い私が名古屋を始め各地の仕事や審査や講座に出かける前には必ずりえたくんの遺影に手を合わせ仕事が無事に成就することをお祈りする。帰宅すると真っ先にりえたくんに感謝のお祈りをする。こうして夫婦の絆は今でもずっと強く結ばれている。私は家内が「もうそろそろ休んでも良いよ」と言ってくれるまでこんな生活を続けると思う。それがいつまで続くか私にはわからないが。
2014年7月30日


昨日浜松かろの出張の帰りだった。新幹線の改札口から階段を降りてタクシー乗り場に向かった。外はみぞれ交じりで風も吹き荒れていた。私は駅前に駐車してあるお迎えの自家用車の中に見慣れた車を見つけた。あのポンコツのダイハツミラココアだった。色が黄色いのですぐにわかる。家内の為に10年ほど前に選んであげた車だ。家内はとても気に入ってシートカバーや小物をいろいろつけていた。
しかし家内は運転が下手でしょっちゅうこすったり凹ませたりしていた。そんなポンコツでも私も大好きだった。そして私が審査等で出張するときに家内が送迎するのが常となった。そこに停まっていた黄色いミラをみて私はひとりでに車のほうに行きそうになった。車の中で嬉しそうな顔をして家内が待っている気がしたからだ。でもよく見ると運転席に座っていたのは別の若い女性だった。そしてご主人と思しき方がそそくさと乗り込まれていった。車はすぐに見えなくなった。
私はとても悲しい気持ちになった。家内は亡くなる一年くらい前から私を迎えに来ることを断ることが多かった。体調が悪くて運転に自信が持てなくなったと言っていた。 私はそのころからタクシーを使うことが多くなった。そして今はタクシーばかりになった。

車に関して私は数か月前に必要からかつて家内と黄色いミラを買いに行ったダイハツの店に出向いた。そこでムーヴを試乗させてもらった。外観はとてもお洒落だった。しかし内装は色まで家内のミラと同じだった。私はあまりに似ているので家内の車に乗っているような錯覚すら覚えた。結局ムーヴはやめた。乗るたびに悲し思いがしたくないので。2014年3月27日 11:24:59




りえたくんの部屋をなかなか更新できなくてごめんね。でもりえたくんも知っているようにじゅんたくんは1日としてりえたくんのことを思わなかった日は無かったよ。この1年と7カ月自分でも信じられない。特に寂しいのは食事の時。何を食べても一人きりで黙々と食べるのは楽しくない。私はりえたくんがいたときに比べて外食はガタンと減った。そしてレストランで食事しても終わったらすぐに店を後にする。藤が丘にも美味しいレストランは沢山あり時々入ってみるけど何かアウェーにいる感じ。結局仕事が終わると疲れていても豊橋まで帰ってきてしまう。豊橋のお家では家内が待っていてくれる。そして私が設計した家は居心地がいいのだ。私はやはり思い出の詰まった豊橋に帰るとほっとして寛げる。りえたくんも私がそばにいて嬉しそうだ。2014年3月7日 23:21:24


私は年末年始は特に切ない気持ちになる。なぜなら1年中飛び回っている私だがお正月はさすがに自宅にいることが多い、というか、ほとんど自宅にいてずっと家内と水入らずの正月を過ごしてきた。私にとってつかの間のほっと出来るひと時だった。これで2回目の一人ぼっちのお正月を迎える。

昨年は家内のことを少しでも忘れようと大晦日も正月も一切なにもせずにいた。でもそんな私を家内はきっと心配しているような気がして今年はきちんと正月を迎えようと心に決めて準備を整えた。元旦にはいつもそうしてきたように屠蘇を飲み焼き餅を作った。家内は不器用で餅焼きはいつも私の仕事だった。私が手際よく餅をひっくり返し醤油につけて海苔で包むのを家内は横でじっと待ち遠しそうに見守っていた。焼きあがるとふうふういいながら美味しそうに食べてくれた。こんな平凡な正月がとても好きだった。今年はお餅が焼きあがると仏壇に供えた。家内はとても嬉しそうだった。

もっと以前、家内がまだ元気なころは今は亡き父とまだ今でも元気な母と家内を連れて車で30分くらいの近くの山の上にある神社まで初詣にもよく出かけていた。家内と二人でもよく行った。でも家内の体調が悪くなり階段を上りづらくなるにつれて初詣はなくなっていった。それでも最後まで餅や焼きは続いた。そして家内が1年で一番張り切ったのが年賀状の印刷だった。これは結婚当初から家内の役割で、結局最後の年まで家内が勤めあげた。私は今年初めて1人で作業にあたり改めてその大変さを思い知った。りえたくん25年間本当によく頑張ってくれたね。

そして私が欠かさず行っていることは今や私の守護神となってくれた家内へのお参りである。
私が危険な高速道路を名古屋の職場に向かう時、または審査や講座で東京など各地に赴く時必ず位牌に手を合わせ武運を祈願する。そして無事に帰宅すると真っ先に仏壇に向かい感謝を述べて手を合わせる。私はあまり信心深くはないが守護神りえたくんは私にとって絶対的存在である。

今回の東京名古屋大遠征が無事に終えられたことも、りえたくんのご加護があったからと信じている。
りえたくん今年も頑張るから変わらずじゅんたくんを守ってください!2014年1月21日 18:14:10



私は家内との思い出を無意識に追い求めているかもしれない。先日はいまはもう使用しなくなったガラケーの着信記録を見たり写メに家内の写真が残っていない探していた。ふと留守電のことを思い出した。ひょっとしたら家内からの伝言が残されていかもしれないと聞き返してみると何と一件だけ家内からの伝言が残っていた!審査中だったかな?私のことを気遣って電話をしてくれていた。日付をみると6月だった。家内の逝くひと月前だった。

私は家内の声を何度も聞きなおした。家内で私に向かって目の前で話しかけてくれているような気持ちになった。とてもうれしかった。私はそれをきっかけにもうっとっくに使わなくなった古いガラケーを片っ端から充電して留守電を調べてみた。すると新たに私の家内の通話の内容を録音したものが2件ほど見つかった。録音するつもりはなかったが知らないうちに録音ボタンを押してしまったようだ。でもそのことが貴重な肉声を残してくれることになった。りえたくん今年はとてもお世話になったね。来年も頑張るから力になってください!2013年12月31日 21:07:45



りえたくんのおかげで東京でのプレヴュー・アカデミーの大仕事を何とか無事に終えて帰ることができた帰ることができた。全てりえたくんのご加護のおかげだ。

2013年12月29日 23:43:55


何と家内の肉声の録音が発見された!それも死の3か月前携帯の留守録に偶然残っていたものだ。嬉しい嬉しい家内が目の前で呼べかけてくれているようだ 。神様ありがとうございます。2013年12月26日 11:29:24



不思議な気持ちがする。私はとてもさっぱりした性格で物事には拘らず執着も無い。そして人間よりどちらかというと機械のほうが好きなタイプだ。その私がこと家内のことになると全く別人のようになる。家内がいなくなってもうすぐ二回目の大晦日を迎えるというのに家内への気持ちは決して弱まることが無い。私が家内のことを特に考えてしまうのは1人で食事する時と名古屋までの行き帰りの運転の時だ。今まで大抵家内と二人で食事をしていたので、もうずっと一人きりで食事をしていて正直とても寂しい。黙々と食べてさっさとレストランを後にしてしまう。近くの喫茶でランチする以外にな二人でよく行ったお店にはあれから一度も行っていない。私はこの一年半の間ずっと考えてきたことは私がどうすれば家内の魂を安らかにしてあげることができるかだった。でも仮に私が何もしなくても家内の魂は安らかだと思う。なぜなら私たちは25年間ずっと信頼しあい楽しい時も辛い時も支えあって来たからだ。でも家内が一番悲しいと思うことはきっと私が家内のことを忘れ去ってしまうことだと思う。私はりえたくんのことをずっと忘れずに思い続けてあげたいと思う。このHPの片隅にこうしてりえたくんの思い出を書き続けることは私のささやかな家内への供養に他ならない。2013年12月16日 10:45:30



最近藤が丘でレッスンした後によく和食のさとで食事して東名高速に入る。昨日はりえたくんの大好物だった、さとの味噌煮込みを注文した。私はいつもはたいて天ざるセットとかを食べるうので味噌煮込みはあまり好きではなかった。久しぶりに食べてみたけどやっぱり私は蕎麦のほうが好きだな。でも味噌煮込みはなぜか懐かしくて体の芯から温まった。またこよっと。


ところで変なことを書くけど、私は家内の仏壇に線香をあげたことが無い。私も家内も線香のにおいは嫌いだ。私はその代わりお供物としていつも捧げているものがある。それはドラッグスギヤマの商品券。ポイントカードがたまると500円の商品券に換えてくれる。私は多い時で一度に一万円近くスギヤマで買い物をするのでよく商品券をゲットする。家内はその商品券をいつもとても欲しがっていた。私は全部家内に渡していた。家内はそれで化粧品を買うのをとても楽しみにしていた。

家内の遺品を整理していると家内がいつも肌身離さず持っていたお財布があった。私がかつて家内の頼まれて通販で買ってあげたものだ。お財布は家内の手あかですっかり黒ずんでしまっていたが中にはいくらかのお金と病院の診察券などと混じって私のあげたスギヤマの商品券が随分たくさん入っていた。家内はほとんど使わなかったみたいだ。私は家内の手のぬくもりが伝わってきそうな、そのお財布をとても大切にしている。

いま自宅には小さな仏壇があるがその中にお財布も大切におかれている。中身はそのままだ。ただ私がスギヤマで新たに商品券をもらうと必ずそのお財布の中に入れてあげる。家内は線香なんかよりずっと喜んでいるに違いない。でもこの一年半で商品券は随分貯まってしまい直に入らなくなってしまうだろう。2013年12月12日 22:04:03



名古屋の新居のある藤が丘には私の家内が長年かよったうどんのさがみがある。長年通ったのは勿論名古屋ではなく豊橋店だったが。そこの味噌煮込みを家内はたいそう気に入っていた。体調が良くて機嫌がいい時はてんぷら味噌煮込みを注文していた。私はなんでも試みてみたいたちんなので色々変えていたがてんぷらざるそばはお気入りだった。そのさがみ豊橋店が閉店して10年以上にもなろうか。一昨日にレッスンが終わり思いきって名古屋のさがみに入ってみた。勿論てんぷらざる蕎麦を注文した。店内の雰囲気は家内の好きだったあの感じだった。出されたお蕎麦はまぎれもなくさがみの味だった。私は蕎麦つゆの味をしみじみ味わって在りし日の二人の会話を思い出し見たりした。とても嬉しい気持ちになった。これからもちょくちょく来ることにした。私は味噌煮込みはめんどくさいからあまり好きではなかったが家内に付き合っているうちにふつうに好きになった。でも家内に感化されて食べるようになった味噌煮込みやナンカレーや餃子などは一人になると全く口にしなくなっていた。これからはそれらもまた食してみよう。食べていると家内と一緒に食事しているような気持ちになれる。 家内はとにかく質素で庶民的な女性だった。2013年12月5日 23:20:29


かわいらしい百合もこんな風になってしまって悲しい。季節ももう冬の到来を告げている。あんなに暑かった今年の夏がうそのように外では木枯らしが吹く日も多くなってきた。
自宅の近くに小さな文房具屋さんがある。私たちがサーラシティのマンションで新婚生活を始めた25年前にすでにそこにあった。そこのご主人は頑固そうなお爺さんだった。いつも一人でお店に立っていた。きっとお一人だったと思う。でも数年たつと真横に巨大なドラッグストア スギヤマが出来た。勿論文具も取り揃えてある。私はきっと文具店は店じまいすると思っていた。しかしそれから25年あのお爺さんは一人で頑張り続けた。店の前にポストがあるので時々訪れた。今年9月頃だった?最後にお爺さんを見かけたとき随分お歳を召されたなと心配になった。昨日郵便を投函するためにポストに行くといつもの場所にポストが無い。どこを探しても無い。そしてあの文具店のシャッターは降ろされたままだった。私はとても悲しい気持ちになった。長年にわたり本当に御苦労様でした。

この付近の様子はこの25年間で一変してしまいこの文具店くらいしか残っていなかったのだ。りえたくんとの思い出の場所がひとつ減ってしまったようで空しい。
2013年11月26日 15:28:55



庭を見るとなんとあの百合が再び咲いていた!嬉しくて嬉しくてたまらなかった。まさか一年に二回も見れるなんて。きっと家内が会いに来てくれたに違いない。家内は私のピンチを察して応援に来てくれたのだ。あまりに疲れて体調も芳しくなく落ち込んでいたが百合の花を見ていて元気になった。また今から名古屋遠征に出かける!11月中旬




りえたくん昨日は鍵の引き渡しだった。立体駐車場は無茶狭くてゲートが開くの待つのにいらいらした。部屋は何もなくてベッドだけ。一晩寝ただけで豊橋に逃げ帰って来た。ここでは当分は寛げないと思う。やはりりえたくんのいる自宅が一番安心できる。住みなれた豊橋はやはり寛げる。じゅんたくんの住民票は豊橋だから安心だ。2013年10月23日 9:35:21


りえたくん明日はいよいよマンションの鍵の引き渡しだ。楽しみなような怖いような気持ちさ。りえたくんのおかげで何とかここまで漕ぎつけた。でも体力的にも気力的にも限界に近い。マンション整備はゆっくり進めたいと思う。豊橋だろうと名古屋だろうとりえたくんはどこでも一緒だから安心してね。もう決して寂しい思いはさせないからね。2013年10月20日 23:30:13


そろそろ季節は晩秋。家内がいなくなって2回目の秋だ。車で通勤する国道一号線の道沿いにかつてうどんの さがみ だった所がある。というのは今はさがみは無い。さがみは確か10年ほど前に店をたたんでしまった。家内は病気がちだったせいもあり私たち夫婦はことのほか外食をこのんだ。家内の好物はとても庶民的だった。味噌煮込みうどん、ナンカレー、餃子にラーメン、海老フライなどだった。私は一切好き嫌いがなかったが家内はひどく偏食だった。私たちが若いころは結構遠出して美味しいものを食べ歩いていた。しかし私がだんだん忙しくなってくると近場で手短に終えられる店を回るようになってきた。私は元来はとてもグルメで、味噌煮込みとかナンカレーとかラーメンとかはもともとはあまり好きでなかった。しかし家内に付き合っているうちに、これはこれでありか、と思えるようになってきた。つまりとてもくつろげるのだ。どんなボロをまとっていても懐がさみしくても、ゆったりした気持ちで安心して食事が楽しめるのだから。そんなお店の中でも さがみ は家内のお気に入りだった。私たちは結婚後15年以上もよく通ったものだ。10年前に店をたたむと聞いて私たちはたいそうがっかりした。最後の訪れたときにいつも迎えてくれるベテランの店員に丁重に「長年ありがとうございました」と挨拶したものだった。その後店は改装されずにそのまま大衆焼き肉店となったが数年でつぶれてしまい、その後は打ち捨てられたように放置されている。私は廃墟同然となったかつての さがみ の前を通るたびに、いつもあの辺に座って味噌煮込みを食べたなと、思い出が蘇ってくる。さがみ がたくさんのお客でにぎわい活気に満ちていたことの面影は今は無い。でも往時の思い出と在りし日の元気な家内の面影が重なって思いだされてたまらない気持になる。楽しかった時も若い日々もたちまち過ぎ去って老いた私だけが取り残されたような気持ちだ。さがみ の廃墟が新しい店舗に生まれ変わってほしい気持ちといつまでもこのまま残って欲しい気持ちと半々である。2013年10月18日 23:27:21


家内は生前この時期になる栗きんとんを食べるのを楽しみにしていた。いつも私が名古屋へいく途中のパーキングエリアでこの時期に美味しい栗きんとんが販売されている。私はそれお買って帰ると家内はとても美味しそうに食べた。私は先日いつものパーキングエリアで栗きんとんが売られているのを見て思わず買ってしまった。帰宅して家内の仏前に供えて一人で食べてみた。本当に素朴な自然な甘さだった。家内と一緒に食べているような温かい気持ちになった。なんとか家内のところに届けてあげる方法はないものか。さぞ食べたかろうに。2013年10月4日 0:02:45


りえたくん許してくれ。ついに名古屋のマンション出来あがっちまった。りえたくんは最後まで名古屋に移ることは反対だったね。でもりえたくんが逝ってしまってからじゅんたくんは名古屋での活動が増える一方で60歳過ぎた体には通勤が耐えられなくなって来たんだよ。でも豊橋のお家は今までどおりにレッスンに使うからね。これからは週の半分は名古屋、残り半分は豊橋という生活になると思う。そして出来る限り危険な夜の東名高速道路での移動は避けて電車で豊橋と名古屋を行き来することにした。そのことはりえたくんも心配してくれていたからきっと喜んでくれると思う。 新しい街でもいつもりえたくん一緒だと思って暮らしていくからね。
2013年9月23日 19:38:07



また家具選びやってる。新居の時も毎晩熱中していたでしょ。まさかもう一度家を建てることになろうとは。しかも再び独身に戻ってとは。人生は全く予想外の出来事ばかりだね。でも一番の予想外ははりえたくんが急にいなくなってしまったことだ。何かをやっていて本当に些細なことで、たとえばいつも一緒だったうどんやの前を通りかかったり、りえたくんがよく買ってきてくれたう焼き鳥屋さんの前を通りかかったときふとりえたくんの姿やまなざしが蘇ってきて涙が止まらなくなる。やはり一年やそこらでは心に空いた隙間を埋めることは無理みたい。りえたくんとは旅行一つしなかったけど二人で一緒だった25年間はとにかく楽しかった。何もしなくても楽しかった。2013年9月20日 22:55:08



りえたくん嬉しい報告があるよ。毎コン高校生部門受けた二人とも本選に進めることになった。とくにNさんは告別式の時に涙ながらに頑張ることを誓ってくれただけに今回の活躍はりえたくんも喜んでくれると思う。昨日はヤシンスキー先生からも貴重な本を頂くことができた。すべてりえたくんのご加護のおかげだとだよ。ありがとうね!
2013年9月11日 21:58:44



りえたくんにいろいろな出来事を報告して喜んでもらうのを何よりの楽しみにしてきた。家内が逝ったのが昨年の7月30日。家内は私が今年から金城学院大学の教授に就任することまでは知っていた。家内は本当に喜んでいた。しかしその後に決まった愛知県立明和高校音楽科や洗足学園音大の話を聞いたらさぞかしびっくりしたことだろう。そして極め付けがが昨日の全日本学生音コン審査だったと思う。家内はどれほどか驚いたことだろう。帰宅して真っ先に報告する相手がいなくなり虚しい。改めて家内の存在の大きさを感じた。反面、家内はきっと間近にいて私のことを一部始終見守っていてくれる気もする。いやきっといつものように私の一番横に転がって私を嬉しそうに見上げながら私の言葉に耳を傾けていてくれるに違いない。私はこれからどんんどん年老いていくだろう。家内はずっと52歳のままで私たちの歳の差はどんどん開いてしまうことだろう。何もかも変ってしまったこの一年。でも私たち夫婦の絆は変わることはない。2013年9月5日 22:49:53



りえたくん今日は佐藤元洋君のリサイタルを見守ってくれてありがとう。おかげでリサイタルは大成功でした。生きていたら私の隣に座って応援したことだろうね。今回の会場もりえたくんと最後に行った名古屋栄のカワイでした。リサイタルの始まる前にあのコーチの店に行ってみたよ。ここでハンドバッグ買ってあげたのまだ一年前だったね。店の前にいると涙が止まらなくなったから早々に会場に向かったよ。りえたくんは門下生にコンサートを何よりも楽しみしていたね。これからも応援してね。明日はいよいよ毎コンの審査に行ってきます。頑張るから応援してね。2013年8月31日 22:36:06



東京遠征の前に仏壇に手を合わせて生徒の演奏が無事にに行くように、そして私の仕事が恙無く終えれるように家内にお願いした。帰宅すると今回の結果を報告して「りえたくん有難うございました」と心をこめて言った。実は名古屋に出勤する前に必ずこのことだけは欠かさずに続けてきた。家内も今回の結果は喜んでいるに違いない。2013年8月24日 18:23:54



不思議な出来事2
一年前の今頃、家内が逝って4,5日経った頃自宅の庭に美しい鉄砲百合が咲いているのを見て本当に感激した。そして一周忌を過ぎたころからまたあの百合の茎の先が膨らみ始めた。日ごろは花には全く無頓着な私だが毎日必死で水をやったり雑草をとったりしてきた。そして今朝6時に見に行くと咲いていた!!ちょうど一年前と同じように

私にはどう考えてもこの百合に家内の心が移り住んでいて、お盆に合わせて私に会いに来てくれたとしか思えない。もうひとつ嬉しいことは今年はあの百合の隣に新たにもう一つ小さな百合がつぼみをつけている。お盆には二つの百合が仲良く花を咲かせてくれるかも知れない。
家内の魂を運んできてくれたかわいい百合の花に感謝の気持ちでいっぱいだ。2013年8月10日 14:12:37



不思議な出来事1


今日は8月31日、今朝6時ごろに目が覚めて、ごみを出したり朝食を食べたりしてソファーに転がったらいつの間にか心地よい眠りについてしまったようだ。私はどこか見知らぬところにいた。ふと気がつくと家内がいるではないか、私は嬉しく家内を強く抱きしめた。ゆかに転がると、りえたくんが何度も上から抱きついてきた。私はその都度も彼女の顔を確かめながら、りえたくん帰ってきたんだね!と強く強く抱きしめてあげた。私は嬉しさのあまり大泣きしてしまった。今までこんなにはっきりと、りえたくんと再会したことは無かったからだ。泣いているうちに夢から覚めた。そのまま泣き続けた。そのうちに私はふっと確信したのだ。
今までりえたくんが旅立った日時は大体7月30日夕方〜夜と聞いていた。

私が東京に審査に旅立ったその日のことだ。しかし今日まで私の心をずっと悩まし苦しめてきた思いは、彼女は本当はいつ逝ってしまったのか?との思いだ。家内を発見したのは東京から戻った9月1日の朝だった。この暑さの中にも関わらず家内はの遺体は全く痛んでなく、ただ寝ているだけに見えた。私は家内を起こそうと何度も、りえたくん起きろ!と言いながら家内とほっぺたを引っ叩いたのだった。だから検死の7月30日には心から納得していたわけではなかった。
私はこの一年間自分なりに家内を精一杯弔ってきた。そして昨日は心をこめて一周忌を済ませてあげた。家内は恩返しのために今朝夢の中で私に会いに来てくれて、もう一度お別れをしてくれたのに違いない。
私は夢から目が覚めたら真っ先に時計をみると時間は午前8時55分だった。彼女は7月31日午前8時55分にこの世と別れをつげたのだ。そして家内が苦しむことなく安らかに旅立ったことも分かった。私は家内の優しさに改めて感謝した。りえたくん本当にありがとう。2013年7月31日 9:43:52


今日は家内の一周忌の法要をつつがなく終えることが出来た。お寺の境内を歩いていると一年前の今日(正確には家内が逝って二日後の8月1日)のことを思い出す。あの日も今日と同様快晴で暑かった。でもやはり今日同様に少しだけ涼しげな風が時折吹いていた。そして真夏特有の日中の静かさを感じた。私はここ数日発熱して体調を崩していたが法要を無事終えたせいか夕方には熱も下がりようやく回復した。やはり家内の御利益だと思う。明日からまたレッスンに精を出さないと。これからも私の守護神として守ってね。2013年7月30日 21:38:37



この時期になるとどうしても一年前の辛い思いでが頭をよぎる。7月30日は家内の一周忌。本当に一年も私のそばにいないのか?いままでずっと一緒に25年間も暮らしてきたのでそのこと自体が信じられない。27日、家内と最後に外食に来たな。甲羅の個室だった。夜も遅かったせいもあろう周りに他のお客様の姿は無く店内は静まり返っていた。家内は決して元気ではなかったけど私が身を取りだしてあげた蟹身をおいしそうに食べていた。家内は手が余り自由でなかったのいつも私がそうしていた。家内は疲れてはいたがとてもうれしそうだった。私も癒されて二人だけの静かな時間が流れた。

デザートも終わりかけたころなんかの話題がきっかけで私が家内に問いかけた「病気ばっかりでいままで楽しかった?」家内は少しはにかんでたが「じゅんたくんと一緒で楽しかったよ」とにこにこ答えてくれた。私たちが直接会話を交わしたのそれが最後になろうとはその時は夢にも思わなかった。私はその二日後に東京に審査に出かけ、家内も同じころにもっと遠くに旅立ってしまった。私は家内を失ったことで心に大きな傷をおうことになったが、あの時の会話がどれほど心の救いとなっていることか。私は家内の言葉を信じてこれからも頑張って行こう。2013年7月29日 22:25:04




毎年この時期は死ぬ思いだ。ざっとあげても7・2明和高校実技試験、7.6九州移動7.7コンペ九州柳川地区審査委員長、7.14金城学院大オープンキャンパス、学科会議、夜懇親会、深夜岐阜に移動、7.15中日グレードテスト審査など。その間に勿論学校勤務は続きプライベートレッスンもびっしりだ。本当に地獄の毎日だ。そして手帳を見るまでもなく一年前のこの時期もやはり全く同じような状況だった。家内と最期に食事をしたのが7.27日。私は7・29に東京に審査に発った。私が東京から戻った時には家内は既に冷たくなっていた。私はこの熱い最中、猛烈な忙しさが続くといやでも一年前のことを思い出してしまう。もっと早く家内の体調の異変に気がついてあげていればという後悔と、こんな状況ではしかたがなかったという思いが交錯している。でももうすぐ一周忌を迎えることに違いはない。そしてこの一年で私の悲しみが癒えたかと言うと残念ながらとてもそうはいえない。岐阜からの帰りの車の中でも涙を流し続けていた。ふと右上をみると半月のお月さまが見えた。私がどれだけ走ってもお月さまは一緒についてきてくれた。ばかばかしい当たり前のことだけど。結局帰宅するまで、ついてきてくれた。私にはこの月の優しい光が家内に思えてならなかった。うんと離れてしまったけどどこまでも私についていきたいと言っているようだった。そして高いところから私を見守っているに違いない。明日から三日連続名古屋通い。また家内と一緒に頑張る。2013年7月17日 9:23:48



最近また家内の夢をよく見るようになった。やはり季節が一年前のあの頃に近づいているのかもしれない。昨日は私のしているような知らないような懐かしい古い家の中で家内のく服とか自転車とかいろいろなものが置いてあって、それを見ながら夢の中で家内の思い出に浸り涙していた。良く小説とかでは夢で泣いて目が覚めると涙がほうを伝わっていたとか書いてあるがあれは嘘である。夢の中でどんない大泣きをしても涙は一滴も出ないのだ。夢は夢なのだ。その代わり目が覚めてむなしさに襲われて涙を流すことはある。また家内の運転免許うの更新連絡や同窓会案内などが届くと気持ちらかき乱される。急に涙が止まらなくなることもある。やはりある日を境に突然私の前から消えてしまった家内の喪失は私の心の計り知れない傷を残したことは事実だ。2013年6月22日 23:56:57



今日信州から無事に帰ったよ。いつもなら運転中に必ずりえた君から{いまどこ走ってる?}と電話があるのに。。。運転してる時はよく、りえた君んの事を考えているよ。。時々涙してるけど二人だけの時間を共有しているみたいで悲しいけど嬉しい。やはり一周忌は特別な、とても大切な日に思えてきた。心をこめてお参りするからね。2013年6月3日 22:33:02



今日はいよいよ洗足楽園音大の初出勤。本当に必死で頑張ったが、あとはりえた君の御加護をすがるよりほかはない。自宅を出る前にいつものように仏壇に向かい心をこめてお祈りして家を出た。深夜になんとか仕事をやり終えて生還した。真っ先に仏壇に向かって手を合わせ無事に終えられたことを感謝した。私は家内と少し離れて暮らすようになったが気持ちの上では前よりもっと二人の距離が近づいたように思える。りえた君は今でも一緒に仕事をしている大切なパートナーなのだ。昨日一周忌の法要の予約を済ませた。法要は命日である7月30日と決まった。2013年5月27日 15:29:34


だめだもう体力も気力も限界だ!毎日さらって学校行ってレッスンして会議やって高速飛ばして帰宅してまたさらって;;;そんな毎日で腰は痛いし肩はこるし目はかすむし体ボロボロだ。りえたくん助けてくれ、、。自分の能力以上の仕事を引き受けすぎた。体は衰えるのに責任ばかり増え続けてギャップが大きいさ。これから教育実習の監督や高校訪問も入ってくる。2013年5月16日 10:07:57




思えばちょうど一年前の4月28日29日私の門下生の鈴木聡太君、足木克利君、中川真耶加さん、小野田有紗さんが名古屋で連日のようにコンサートに出演した。私は家内と二日間車で名古屋に通った。ずっと弟子たちの演奏を一緒に聴き食事をして車の中で楽しく会話しながら東名高速道を往復した。確か二日目の小野田さんのリサイタルのまえに少し時間があったので二人で名古屋栄のコンサートホールの周りを買い物に出かけた。私たちはコーチのお店に入った。家内がコーチが好きだと言ったのだ。私は家内にそれまで碌なプレゼントをしたことがなかった。家内は極度に質素でブランド物とかは全く買わずにいつも通販ばかりで買い物をしていた。
私はたまには好きなものを買ってあげたいと思い店内のなんでも好きなものを選ぶように言った。家内は何度も勿体ないからやめるわ、と躊躇していたが私に無理に促されてピンク色のバックを選んだ。家内はお店でネームを入れてもらい、おまけに景品の折りたたみ傘までプレゼントされて大喜びしていた。。家内のあんなにうれしそうな顔は見たことがなかった。家内はバックを大切そうに持って私たちはコンサートホールの横のホテルでランチをした。そこでも家内はバックを取り出して見ていた。
コンサートが素晴らしくて家内は大喜びだった。帰りに豊川インターの近くの東京庵というお蕎麦の老舗で家内の好物の天ぷらそばをうれしそうに食べていた。その後連休もも終わり私は各地を飛び回り講座にレッスンに審査に明け暮れる毎日が続き運命の7月30日の東京での審査を迎えたのだ。
結局昨年の連休のコンサートが家内と過ごした最期のゆっくりとした時間となってしまった。あの時私たちの間には今まで以上に理解しあい、寄り添う気持ちがあったような気がする。つかの間の静かで暖かく落ち着いた夫婦の時間だった。
家内が亡くなって部屋を整理していると、あのコーチのバックが大切に置いてあった。家内は生前このバックは勿体ないから次の演奏会まで使わない、と言っていた。結局次の演奏会に行くことは無かった。そしてあのバックも袋に入れられたまま一度も使うことなく置いてあった。私はその経緯を妹さんに話して形見として妹さんに受け取って頂いた。私は今年の連休は初めて一人で過ごしている。でも家内は、やはりいまでも一緒に横にいてくれるように思えてならない。2013年5月4日 10:51:05



4月30日家内の9回目の命日を迎えた。私はとてもさっぱりした性格で、すぐに切り替えるのが得意なのだが、家内のことについては辛い気持が続いている。こんなちゃらんぽらんな私が家内のことを思わない日はただの一日もなかったのが不思議なほどだ。最近は以前ほど泣くことは少なくなったが、それでもふっと家内のしぐさや表情を思い浮かべると涙が止まらない時がある。家内への気持ちは半々だ。ひとつは私の気持ちの悲しさ。もうひとつは家内が可哀想という気持ち。ずっと病に冒されて辛い生活を送ってきた家内にようやく楽しい思いをさせてあげれると思った矢先に逝ってしまった。家内は私に会うのを一番喜んでいた。またナンカレーを食べる時一番幸せそうだった。それが墓石のしたのあんな暗くてさみしいくて狭い所に入れられて。きっと私に会いたいと毎日泣いていることだろう。ナンカレーが食べたいと泣いていることだろう。私はずっと考えているのが、どうしたら家内に喜んでもらえるか、だった。でもいくら考えても分からない。私自身について言うの家内を失ったことは突然ではあるが、しかし長く患っていて入退院を繰り返していたので心のどこかに万一の気持ちはあったかもしれない。しかし私ですらこれだけの心の傷を負ったのだから先の大震災や通り魔事件などで突然肉親を奪われた方たちのお気持ちを察すると、いたたまれなくなる。そしてご遺族の方が失った家族の最期がどのようなものであったか、あれほどまでにお知りになりたい理由が今だから理解できる。私も家内の最期の本当の状況は分からない点はいくつかある。そのことがいまだに心に引っかかっている。いくら考えても永久に分からないと知っていても考え込んでしまうこともある。これからも家内のために何ができるか考える日々が続くと思う。
2013年5月4日 0:08:44


りえたくんは金城の教授の話までは知っていた。でも其のあとに更にドラマティックに盛り上がって行くとは、、、、。きっとりえたくんは天国でびっくりしてることだと思う。洗足音大にも行くことになった。人間の運命は本当に分からないね。りえたくんが突然遠くに行ってしまったのも、じゅんたくんに突然教授の肩書が二つもつく事も夢の夢にも思わなかったさ。ということは来年位にじゅんたくんが突然りえたくんと再会出来ることだってあり得るよ。人生一歩先は誰にもわからないからね。毎日を大切に生きるしか無いね。2013年4月14日 22:49:46


明和高校の話はりえたくんもびっくりしたと思う。りえたくんの恩師でじゅんたくんが最も尊敬する杉浦日出夫先生はじゅんたくんとも不思議な糸で結ばれている。じゅんたくんは杉浦先生を意識するしないにせよ先生の後を金魚のフンみたいについて回ってきた。50年前に杉浦先生は桜丘に音楽科を創設されて20年かけて音楽科を一流に育て上げられた。そして私がバトンを継いだ。先生はその後活動の場をさらに音楽活動の活発な名古屋に広げられて明和に移られた。私は帰国後に桜丘で杉浦先生の教え子を最初に聞いた時には大きな衝撃を受けた。その後10年近く職場を同じにして日出夫先生からどれだけ多くのことを学んだことか。先生の指導の見事さは当然、知識教養の広さ、人間的な優しさや大きさ等数え上げたらきりがない。その時以来、家内同様に日出夫先生は私の師匠だった。今まがいなりにもピアノの世界でやっていられるのは日出夫先生のお陰だ。私もその後桜丘で20年頑張って一応役目を果たして退職し、今また杉浦先生を追って御縁あって明和に入れていただいた。これからも日出夫先生から多くのことを学ばせていただきたい。家内が果たせなかった分まで。2013年4月11日 18:47:31




嵐のような入学式やオリエンテーションも無事に終わり、それとともに桜も散り始めた。私は花には特に関心はないが桜が満開になり一週間後には空しく散ってしまうのを見ると何故が涙を押さえられない。この世のはかなさを感じずにはいられない。それと私の世代にはまだ太平洋戦争と桜を結び付ける記憶が残っている。無数の若い命が桜のように空しく散って行った歴史を。2013年4月4日 21:41:05



今日は金城学院大学の入学式だった。素晴らしい式で本当に感動したよ。今日もりえたくんの写真をしっかりかばんに入れて会場に入った。きっとりえたくんも一緒に感動してくれたに違いない。初めて研究室がもらえて嬉しいよ。二人して頑張ってきてようやくここまでたどり着いたね。でもこれからが勝負。もっともっと活躍できるように見守ってね!

2013年4月1日 20:15:07




今日は金城学院大学の着任式に行ってきたよ。りえたくんこの日を楽しみにしていたから、りえたくんの写真を大切に包んでかばんに入れて持って行ったよ。じゅんたくんは春になったら大学を見学させてあげるね、と約束していたよね。今日は桜も満開で綺麗だった。りえたくんもきっと喜んでくれたに違いない。あすはりえたくんの8回目の命日だ。これかも守護神お願いします<m(__)m>2013年3月29日 21:49:01


 家内が亡くなってもうじき(3月30日)8回目の命日が来ようとしているのに、未だに家内への手向けのお花がほとんど絶えることがない。逝ってしまっても私や生徒たちからlこんなにも偲ばれている家内はやはり幸せなのかもしれない。2013年3月26日 9:22:28


春になると辛い気持になる。家内も私も長年学校勤めだった。いつもこの時期は新学期に向けて良く二人で文房具やに行ったり、アピタに行ったりして準備に余念がなかった。色々なことがあってもまた春が来て桜が咲くんだ、、、。今年は一人で新学期か。家内に今年の春を見せてやれなかった。とてもすまなく思う。2013年3月24日 11:02:27


3,11の14時46分に被災された方たちに心から黙とうを捧げた。最後に家内に黙とうした。全ての魂が安らかに眠らんことを祈ります。2013,3,11


病気の間ひたすら りえたくんの仏壇に早く完治できるようにお祈りした。その甲斐あってか今日3月8日ようやくレッスンが出来るまでに回復した。りえたくん有り難うございました。<m(__)m>夜私の携帯の留守録に家内の不機嫌そうな声が入っていた。何を言っているのかよく聞き取れなかった。また気分が良くないのだろう。早く電話してあげないと。でも夢だった。
2013年3月8日 15:35:44


熱で寝込んで現実と夢が区別がつかなくなってる。横になっていると確かに家内が私の横に気持ちよさそうに転がっている。私の右腕の横に家内のふっくらとした太い腕が見えた。私はその腕をつかんだ。今度は確かに手応えがあった!もう一度つかんだがやはり手応えがあった。でも三度目に私の手の中の感覚は無くなって。ただ空気をつかんでいた。
私にはよく分からない。家内の魂はまだ私の周りにいて私に会いたがっているに違いない。だからしょっちゅう夢の中で私に会いに来るのだ。家内の魂を沈めるにはどうしたらいいのだろうか。家内はどちらの私を喜んでくれるのか?つまり涙して家内の事を時々思い出してあげるのか?家内の事をこれ以上考えないで元気に過ごしていくのか?家内に聞いてみたい。2013年3月3日 15:16:12


りえたくん京都・北陸遠征から戻ったよ。コンペ課題曲説明会と入試も終わって本年度の仕事何とか全て片付けたよ。これもりえたくんのご加護のお陰です。有り難うりえたくん。でもじゅんたくんは疲れ果てて熱だしで寝込んでるよ。いつもこんなときにりえたくんが何度も熱はかってくれて色々心配してくれたね。独りで病気になるのって心細くて寂しいね。りえたくんもずっと病院で独りで耐えていたんだね。あまり頻繁に病院に行ってあげられなくてごめんね。今日でりえたくんが逝ってしまって7ヶ月だね。これからも見守ってね。2013年3月2日 18:24:04


昼食後で居間で転がっているうちにうとうとしていた。りえたくんが不機嫌な顔で居間からからやってきた。私の転がっているソフィーに向かって歩いてきて「なんでりえたくんをほったらかしにしておくー?」と言いながら私の腕の中に倒れ込んできた。私は「りえたくんいたじゃん!!今度こそ絶対に消えないでね!」と何度も叫びながら、泣きながら抱きしめた。私の腕に家内のあの感覚、家内の重さを感じ取ろう、とあらん限りの力を込めて必死で抱きしめた。私は家内を抱きしめることが出来たか出来ないか分からなかった。うれしさと、また消えてしまう不安が入り交じって全身がこわばった。私は夢でないことを願った。そのとき目が覚めた。すごくやるせなかった。私は今でも家内が帰りを待っている。

私は今から京都北陸に旅立つ。何時ものように家内の仏壇の写真にお祈りした。そして仏壇に供えられている家内の携帯を大切に鞄の中に入れ込んだ。いつも留守番ばかりだった家内を連れて行くことにした。2013年2月23日 15:48:49



今日はコンビニの帰りに五味八珍の前を車で通ったら急に涙が止まらなくなった。いつもレッスンが終わるとりえたくんと来ていた店だ。一人になってから夜に外食に行くことは全く無くなった。昼は決まって近くの喫茶店でランチをしっかり食べて夜はサンドイッチかカップめんで軽く済ませる。その方が体にも良いみたい。特にりえたくんが一番好きだったインド人の経営するナン・カレーの店にはとても行きたいけど行けそうもない。あそこの親切なインド人のマスターはあれほど頻繁に行っていた私たちが半年前からピタリと来なくなったから怪訝に思っているだろう。2013年2月19日 19:04:37



りえたくんようやく東三河PTCコンクール終わりました。死ぬほど疲れたけど何とかおつとめ果たしたよ。じゅんたくんの生徒は今年も大活躍、金、銀、銅賞数え切れないほどもらってきたよ。りえたくん有り難うございました。今年度の仕事は2月24日からの京都、北陸遠征だけとなったよ。頑張るからよろしくお願い致します。。2013年2月18日 21:31:37


マンションの片付けがようやく完了した。この作業中に出来るだけ心を片付けだけに集中して家内の事を考えないように努めた。特に家内膨大な服を処分するときは心を鬼にした。そして鍵を引き渡す朝に最後にマンションお別れを言いに行ってみるともう電気来てなかった。真っ暗では何ともならなかった。最後に玄関にある「長谷川淳・利依」の表札を大切に持ち帰った。そして家内の仏壇の横に置いてあげた。家内も安心したようだった。これからは寂しいマンションで一人留守を過ごさなくてもいい。そのうちに時間を見つけて家内の写真集をこの部屋に作りたいと思う。2013年2月15日 20:49:40





さて私はここ数日マンションにかっよっている。30年以上にわたり私の音楽活動の拠点であり、半年前まで家内とも25年間暮らした思い出のマンションとも別れの日が迫っている。私の音楽活動の拠点は実際には二年ほど前からマンションから徒歩数分の位置にある新居に移ってはいたものの私たち夫婦にとっては1番居心地よい古巣だった。
家内が逝って以来この半年間私はかつて経験した事がないほどの忙しさに襲われて、殆どマンションに足を運ぶことは無かった。と言うかマンションに入るとあまりにも沢山の思い出に襲われて辛くていたたまれなくなるので足が向かなかったのだ。
しかしこのまま放置しておけばマンションはやがて朽ち果てて最後は幽霊屋敷のようになるかもしれない。そんな心配をしていたしていた矢先にマンションを購入した中部ガス不動産が私たちの部屋をピカピカにリフォームして再度販売する計画を提案下さった。私は迷った末マンションを手放すことを決意した。子供のいない独り者の私に家を二軒管理することは困難だ。しかも今年中には名古屋の藤が丘に新たにマンションを購入することも決まっている。そうなるとますます今のマンションを維持管理することは難しくなる。せっかく素晴らしい条件で買い取りを申し出て下さったこの機会を逃したら永久に機会は来ないかもしれない。家内も大好きなマンションが朽ち果てるよりも新たに蘇り、また世のため人のために活躍してくれるのなら喜んで同意してくれる。私は夢の中で家内がマンションに独り置いておかれるのが寂しいと言っているのがはっきり聞こえた。

でも片付け作業は私の想像を遙かに超えて大変だった。30年分の家財や衣服や本類は半端な量ではなかった。結局殆ど全てをそのまま残して処分することとした。しかし大切な資料や写真や楽譜類は残さなくてはならない。これを一つ一つチェックして必要な物と捨てる物とを区分けする作業は本当にきつかった。書類を調べているととんでもなく貴重な物も数多く見つかった。たとえば私が始めて桜丘高校音楽科で書いた学級通信だとかピアノの試験の成績だとか、初めてのPTNAのコンペの審査資料だとか、初めての全国決勝大会の審査の資料だとか、それら見ているとあの頃の感動や意気込みが蘇ってくる。何もかもが新鮮だった。そして当時は学校でもPTNAでんも若手と呼ばれていたのだ。それが気がつけばあっという間に30年が過ぎて今ではご老体だ。まあそれなりに、というか凄く楽しかった30年だったけど。
そんな下らない感傷に浸りながら作業はいつになくスローなテンポで進んでいった。特に重い本を段ボールに詰め込む作業は辛かった。私は引っ越しは何度も経験しているが60歳を超えて脚も痛めている身体で一人での作業につくづく体力と気力の衰えを感じた。

書類関係を二日かけて何とか仕分けして、夕方に食器に取りかかったが台所で私の手はぴったり止まってしまった。いつも二人で食事のときに使っていた二組のお茶碗やお皿や湯飲み、、、、。もう涙が止まらなくて今日の作業はここまでとなった。まさかこんな形で私たち夫婦の生活が幕引きされようとは、、、。悲しさと無念さで胸を締め付けられる思いだ。でもマンション引き渡しは明後日木曜日の午前11時だ。時間だけが冷酷に過ぎていく。残すはあと1日。明日は最後の気力を振り絞って全て片付ける覚悟だ。私は基本的には思い出に浸るよりか未来を見つめて進むタイプなので。2013年2月5日 22:29:25


1月30日は家内の6回目の命日。折しもこの日は私の勤務大学の実技試験。場所はランドルフ記念教会で行われた。私は出かける時にいつものように家内にどうか生徒達をお守り下さいと、お願いして名古屋に向かった。結果はまだ分からないが、生徒達の何人かは心底感動的な演奏を聞かせてくれた。私は試験の時に生徒の演奏を聞いて目頭が熱くなるような今まで無かったがこの日はかなりうるうるした。きっと家内の魂が生徒に乗り移って私に語りかけたに違いない。私は結果よりその事が1番嬉しかった。2013年1月30日



私はいつも大切な仕事に出かける前に家内のいる仏壇を開いて「りえたくん行ってくるよ。無事にお仕事できるように守ってね!」行って出かけ。帰宅すると「りえたくん帰ってきたよ。今日も有り難う」と語りかけることが何ヶ月か前から習わしになっている。不思議だ信仰心のかけらも無かった私が今では家内を守護神と思っている。じつは家内は生前から「りえたくんは守り神だから粗末にしたらだめだよ」言い続けていた。私はいつ頃か分からないが自然にその事を信じるようになっていた。そして家内が逝ってからさらにその気持ちを強く持つようになっている。結局人間は弱い物で何かにすがったり救いを求めたりしたいのかも。2013年1月


家内が逝って半年になるが、その間に家内の事を思い出さなかったことはただの1日も無かったと思う。特に高速道路を走って職場に行く道では良く家内の想いに浸ってしまう。いままで家内の事を夢で見たことは何度かあったが内容をはっきり覚えているのは三度くらいか。一度は私が寝ている周囲を家内が何かを探しているように、ごそごそ動き回っていた。私は妙に安心してそのまま気持ちよく眠り続けた。二回目は私が寝ていると家内がベッドの上に上がってきて口癖のようにい言っていた「寂しよ〜」と乗っかってきたので「私は無造作に「横においでん」と答えると家内はうれしそうに私の横で寝ていた。私もとても穏やかな気持ちで寝ていた。三番目は1番最近見た夢かな。ある夜に玄関開けると家内が立っていた。私はうれしさと安心した気持ちから、家内を抱きしめて何度も語りかけていた「やっぱりいたのか!そうだよねりえたくいなくなるわけ無いよね!どうして今までいなかったの?」「よかった!りえたいくんいるんだよね」と何度も語りかけながら家内を抱きしめてた。私は自分の手と腕にはっきり家内の存在を感じて本当に嬉しかった。たぶん明け方だったのだろう、目が覚めてもそのまま家内との再会を喜び続けた。ずっと暗い寝室のその辺に家内がいる気がしてうれしかった。でもだんだん夢から覚めて、もういないと分かってくると深い悲しみに襲われた。でも家内の抱きしめた感覚はしっかりこの手に残ってた。でも夢の中の家内は一度も顔を見せてくれなかった。2013年1月



家内が昨年(2012年)の7月30日に逝って明日の30日で丁度半年になる。この間家内の事を思い出さなかった日は1日足りとて無かった。6回目の命日を記念して「りえたくの部屋」というコーナーをもうけることにした。私は心にあることは、どうしたら家内の御霊が安らかに眠ってくれることか、だけだった。死者にとって月日が経つうちに自分のことがだんだん忘れ去られてい行くのが1番悲しいと思う。わたしはこのコーナーを人様に読んでいただこうなどと思っていない。だたひたすら最愛の家内を供養するためのものである。2013年1月30日 0:02:42

家内の大好きだったかつての勤務中学校(高豊中学)

昨日は台風17号の直撃を受けて大荒れの一日だった。そして昨日は家内の2回目の命日だった。もう二ヶ月がたつのか。今日は台風一過の秋晴れだった。そこでお寺に預かっていただいていたお骨をお墓に納めた。これで家内もきっと安らかに眠れるはずだ。
納める前に骨壺から小さな一片を取り出して大切に持って帰った。それを自宅の仏前に祀った。こうすれば家内は寂しい思いもしないで良い。また分骨した方は家内の両親と一緒に入っているので家内にとっては一番快適な環境だと思う。
話は少し前後するが先週豊橋市の一番外れの太平洋に面する渥美半島の先にある高豊中学にふらっと出かけた。自宅から小一時間かかった。生徒の姿もなく静かな田舎の風景だけだった。家内はこの中学で10年ほどお世話になっていた。今からもう10年近くも前の話だが。この頃の家内は一番元気で充実した日々を過ごしていた。特に部活で吹奏楽の指導して生き生きしていた。転勤したとたんに体調を崩してしまった。やはり学校の環境が馴染まなかったのかもしれない。2012年10月1日 22:45:22

           


相変わらず厳しい残暑が続くがもうお彼岸の時期です。先日は私が大好きだった豊橋日独協会の事務総長の西島篤師社長から立派な百合の花を頂きました。西島さんとは20年に及ぶ旧友です。大社長であるとともに素晴らしく魅力的なお人柄と完璧なドイツ語を駆使して日独協会を引っ張ってこられた方です。かつては家内を伴って毎週開かれる協会の例会に参加して楽しく過ごしたものです。家内はかなり期間日独協会のドイツ語初級講座にも通っていましたが上達ゼロだったので挫折しましたが。ここ暫くは私の多忙さと家内の体調の悪化からご無沙汰していましたが、また例会に参加して西島さんをはじめ多くのドイツ人やドイツを愛する多くの日本人の方達と交流したいものです。
私はピアノは下手だがドイツ語には自信があった。ショパコンや年末の「つま恋ピアノマスターコース」でドイツ語の出番も増えるので思い出さなくてはまずい。





思い出

結婚式の時の写真を整理していたら式や新婚旅行のスナップが沢山見つかった。すごく懐かしくて時間のたつのも忘れて探し続けてしまった。家内が天国から見てくれると喜ぶかな?と思い何枚かをアップしてみた。

結婚式には当時担任をしていた桜丘高校2年生音楽科の生徒34人が駆けつけてくれてロシア正教会の厳かで絢爛とした堂内で素敵な式を挙げることが出来た。無事に式を終えて、あの正門から出ると用意された三羽の鳩が放たれて青空のかなたに飛び去った。結婚式のハイライトだった!この生徒達の多くは告別式の時も来てくださった。
家内は自分は控えめな人生を送ったが結構目立ちたがりの一面も持っていたので告別式は結婚式に負けないくらいの数多くの方に見送られて、きっと天国で喜んでくれたと思う。
さて式の翌日は成田空港(当時は関空もセントレアも無かった)からウィーンに向かった。オペラを見たり市内を観光してザルツブルクに列車で行きモーツァルトの街を堪能した。そして最後は新婚旅行最大の目的地ミュンヘンに向かった。ミュンヘンではオペラ鑑賞やお城見学は勿論したが私が家内に一番見せたかった場所に案内した。
私の母校ミュンヘン音大を訪ねてかつてレッスンをうけた207号室の前に立った。私はここで3年間クラウス・シルデ教授の元で学んだ。シルデ先生は今でもお元気でミュンヘンに住んでおられる。先生がお元気なうちにミュンヘンを訪れてお会いしたい。今日私が、まがいなりにもピアノを教えていられるのはシルデ先生のご指導無しには考えられない。

この新婚旅行の時に生まれて初めて飛行機にのって海外に出かけた家内は式の緊張と旅の疲れから体調を崩して帰宅後は寝込んでしまった。その後はすっかり旅行嫌いになり、結局新婚旅行が家内との最初で最後の旅行となった。でもそのことは私にとっては取るに足らないことだった。









ミュンヘン音大の207号室の前の私(35歳)。当時は演奏活動も活発にやっていた→25年経てばこの有様よ→見る影もなく老いさらばえてしまい情けない(60歳)まあ人生とはあっという間に過ぎ去ってしまうもの。あっけないもの。明日のことは誰にも分からない。音楽を勉強する若い方はくれぐれも時間を無駄にしないでください。そして是非若いうちに外国に出かけて外国の文化に触れてくださいね!このことは今も昔も変わりません。
私はいよいよ自分の人生のコーダに差し掛かっている。もう身体は疲れ切っているけどあと一踏ん張りしてフィナーレを飾りたいな。人生長年やっていてひとつだけ不思議でならないことがある。肉体的には明らかに老いを感じる今日この頃だが精神は十代後半の時と全くと言って良いほど変わらない。気力も感受性も好奇心も集中力も記憶力も何一つ衰えてない。むしろ研ぎ澄まされてきた感じだ。ただ肉体だけが衰えて行く。この不思議なギャップは説明がつかない。精神的には今からもう一度ミュンヘン音大に戻って勉強し直してピアニストとして再デビューしたい気持ちだ。そしてピアノに捧げた人生を全く後悔してない。それどころか本当に幸せだった感謝している。もう一度生まれ変わってもやはりピアノがやりたい!2012年9月12日 18:54:32




四十九日

1987年12月22日

今日は家内の四十九日の法要だった。相変わらず残暑が厳しいものの、家内の逝った日や告別式の日に比べると秋の訪れが感じられ、静かな境内は落ち着いた雰囲気だった。

読経の後に和尚様から心のこもった講話を頂いた。これで家内も冥土から迷わずあの世の旅立つことが出来た。まだお墓は建ててないので取りあえず大切な遺骨をお寺に預けて頂く。お堂の中の一番奥の静まり返った納骨堂に案内された。こんな寂しい所に家内を置いて帰るのはたまらなく可哀そうの思えた。早く自宅の近くの墓地に弔ってあげたい。

 

話は前後するが一昨日市役所に所用で行った。市役所の帰り道に豊橋聖ハリストス教会の美しい建物が目に入ってきた。この建物は戦災で焼失することからも奇跡的に免れて市の重要文化財に指定されている。私は何となくこの教会の前に車をとめて教会の周りをぐるっと一周してみた。昼間なので人もいなく静かで荘厳な雰囲気が漂っていた。ここに来たのは何年ぶりのことだろうか?考えてみたら結婚式以来だった。そういえばあの日も青空に教会の尖塔が美しいコントラストをなして印象的だった。そんなことを思いながらスマホで写真を何枚か撮って帰宅した。

 

さて法要も終わり弟夫妻と食事をしてから帰宅して一人になると、もう家内は遠いところに行ってしまったとの実感が込み上げてきて涙をこらえることが出来なかった。しばらくして私は結婚式の思い出が凄く懐かしく思えて来た。そこで直ぐにマンションに向かった。古いアルバムからブライダル写真アルバムを見つけ出した。やはりそうだった、25年前のあの日も教会は青空にくっきりと浮かび上がり美しいシルエットを写し出していた。

 

教会正面玄関から式を終えて出てくる家内の幸せそうな写真が気に入った。偶然にもその後ろには嬉しそうな顔をした亡き父も写っていた。家内はとても美しかった。私もまだ若々しかった。まさかこんなに早く家内と別れの日を迎えようとは。しかも彼女の方が先に逝ってしまおうとは。

25年の歳月を経て私の周りの全てが大きな変化を遂げてしまった。でも私の心だけは今も当時も変わりない。
2012年9月9日 17:46:45


2012年9月7日



命日

家内が逝って今日でひと月になる。私の推測ではひと月前の今頃家内は静かに息を引き取ったと思う。思うと、いうのは家内との携帯電話の交信記録が7月30日朝7時06分を最後に途切れているからだ。家内の死後に混乱の中で私や家内の妹や家内の携帯の発信着信記録を調べた結果に誤りがあることが後日(1週間後)判明した。つまり家内の携帯本体の日時の設定がズレていて混乱を招いたのだ。最終的に上記のように7月30日の朝に家内が私に電話をし、私が普段と変わらない家内の声を聞いたのを最後に家内は誰にも一切電話はかけていなかった。

私が最初に思ったのは審査に出かけている最中に私に助けの電話をしたかも、という恐怖の想像は幸い外れていた。私の留守中には家内は日に何度も妹と電話でやり取りをしていたのだから、もし危機的な状況になったら真っ先に妹に助けを求めていたはずだ。恐らく安らかな最期だったと思う、またそう信じている。

 

8月は毎年気持ちが滅入ることが多かった。沖縄決戦、特攻隊、東京大空襲、原子爆弾、終戦と67年前には8月だけで20万人近くの方が亡くなっている。それに加えてこの夏は一層悲しさが増して、本当に長い長いひと月だった。

明日でその忌まわしい8月もやっと終わる。9月に入ったら気分を一新しリフレッシュするために大好きな北陸に旅に出ることにした。季節は残念ながら蟹やホタルイカにはほど遠いがきっと癒される気がする。帰ってきたらいよいよ秋の音楽シーズンのスタートである。大学の後期レッスンも始まる。ショパコン、クラコン等の秋冬のコンクールも待っている。東三河PTCコンクールの課題曲選曲もしなければ。そしていよいよ勤務大学の新学科初の入試が始まる。本当に勝負の秋である。私も気持ちを切り替えて全身全霊で頑張らねば!それが家内への最高の供養でもある。2012年8月30日 22:44:16


告別式を終えて                        

昨日は家内の告別式がしめやかに行われました。驚くほど多くの方たちが猛暑の中、遠方からも参列くださり家内は幸せでした。また私の生徒のお母様達も受付などてきぱきとお手伝いくださり、本当に感謝しています。弔辞は先にも書いたように杉浦日出夫先生がお話しくださいました。先生の優しく心のこもったお話に会場中が心を打たれました。また生花や弔電も沢山頂き恐縮しております。まずはこの場を借りてお礼申し上げます。

私の謝辞の後に式の最後の締めくくりとして門下生を代表して三宅菜津子さんが家内が生前とても好きだった、ベートーベンの「熱情ソナタ」第三楽章(抜粋)ショパンの練習曲作品10の3「別れ」を心を込めて演奏してくださいました。本当見事な感動的な演奏でした。また会場でのバックグランド音楽として足木克利君が今年の初めに東京で行われたショパン国際コンクール 
in Asiaファイナルで中学生部門金賞をしたときの素晴らしいライブ録音を流させていただきました。
また昨晩は門下生OBで愛知県立明和高等学校音楽科2年生の宮里倫史(もとし)君が
PTNAピアノコンペティション全国決勝大会G級で見事金賞を受賞された、との報告を受けて家内への何よりの供養になりました。

私は喪主挨拶では、あまりに感謝の気持ちが高まり、うっかりしメモも持たずに話し始めてしまい十分にお伝えしたい事が伝わらなかったかもしれなかったです。改めて用意した謝辞を紹介させて頂き皆様へのお礼の言葉とさせて頂きたいです。

皆様のおかげで昨日の告別式で無事に家内を送り出してあげる事が出来て気持ちもとても安らかになりました。家内への精一杯の気持ちを込めて家内が一番喜んでくれるように考えて準備したつもりです。家内もきっと安らかに眠ってくれていると思います。

これで気持ちの整理がついたので今日からまた生徒達のためにレッスンを全力で再開します!!またこれからはホムペも通常の形に戻します。2012年8月24日 9:30:14

    



       

             
      喪主挨拶

 

今日はご多忙な中、そして残暑が厳しい中、私の妻、長谷川 利依の告別式にこのように沢山の方たちが参列くださり、喪主として心からお礼申し上げます。

 

家内との出会いをざっとお話します。家内は、ただいま心こもった弔辞を賜りました杉浦日出夫先生にピアノを学び桜丘高等学校音楽科でピアノに燃える青春を送りました。家内が桜丘を卒業して何年か後に私がドイツ留学を終えて、ご縁があって桜丘高校音楽科でピアノの指導者として教職に就いたのも二人が運命の糸で結ばれていたのかもしれません。そこで私は杉浦先生にも大変にお世話になりました。私のそれ以来の杉浦先生に対する敬愛の念は今日まで変わることはありません。そして桜丘高校音楽科を創設され音楽科主事であった偉大な斉藤喬先生のお引き合わせで今から25年前の1222日に豊橋のハリストス正教会で挙式をあげました。当時家内は市内の中学校で音楽の教師として授業に部活に情熱を傾けておりました。結婚後も教育者としの情熱は変わりませんでした。

家内は性格的には、むちゃくちゃ保守的で自分のテリトリーからは絶対に外に出ないタイプでしたが、なぜか当時浸透し始めたワープロやパソコンには大変興味を持ち、帰宅してもしょっちゅう職場でパソコンと奮闘している様子を目を輝かせて話してくれました。食べるものも家内は極度の偏食で、外食では味噌煮込みうどんとエビフライと、ナンカレー以外は殆ど食べませんでした。  

 

私は性格的に家内とは真逆でいつも変化を求めてまいりました。食べ物はおおよそ食べられないものはないと自負し好き嫌いは一切無く、外食でもいつも違うメニューを注文してました。私はピアノは下手ですがエレクトロニクスの方面だけはとても強かったので二人の話題は共通していました。私が桜丘高校で担任を持ち成績一覧を提出する時はいつも家内が入力を手伝ってくれたものです。後年体力が弱ってパソコンも思うように打てなくなりましたが、年賀状の住所禄作成と宛名と文面の印刷には最後までこだわり続けました。600枚にも上る年賀状は最後まで家内の仕事でした。これからは一人でやらなくてはなりませんね。

しかし私たちの最大の、そして最高の共通の喜びはやはりピアノでした。いまではもう私はステージに上る機会も殆どなくなりましたが、結婚当初はかなり頻繁に弾いてました。いつもリハーサルから本番まで家内が付き添ってケチをつけながら録音するのが家内の仕事でした。その後は私に代わって生徒たちのコンクールや試験のステージが増えてきました。私は生徒たちの大切な本番の前には必ず何度もホールを借りてリハーサルをしてきましたが家内は毎回必ずついてきて録音や会場費の徴収にあたりました。だから私は夫婦で一緒になって生徒たちを指導してきたような気持ちでおります。

 

そうしている間にも家内の病状は次第に悪化し休職や入退院を繰り返すようになりました。それに伴いリハーサルも出来なくなくなりました。私は何とか良い治療が受けられないかと当時入院中だった豊橋市民病院から神経内科の評価が高かった浜松医大付属病院に無理矢理に転院させました。浜松医大では頭に電気ショックを与えるほどの厳しい治療を施されました。

そのかいもあって一時的には持ち直しはしましたが、今から5〜6年ほど前に再び入退院を繰り返すようになり、学校にこれ以上ご迷惑をおかけするのに忍びなく思い家内と相談して20073月に教職を完全に退きました。その後一端は回復して病院の受付をしたりもしましたが、一年程で退職しました。そして自宅療養を続けておりましたが、私は年を追うごとに多忙となり、審査などで家を空けることも多くなり、家内の事を一番理解し応援していてくれたご両親が次々に亡くなりになり、加えて子宝にも恵まれなかった家内は次第に寂しい思いつのらせた事でしょう。

そんな家内のただ一つの楽しみは私の活躍でした。私はコンクールの結果や試験の成績など事細やかに家内に話し、家内はそれを聞くのを何よりも楽しみにしていました。その一つの表れが、旅行に行くのを極端に嫌った家内ですがPTNAの全国決勝大会の表賞式と祝賀会にはほぼ毎年私に同行しました。これは私たち夫婦の唯一の旅行でした。

表賞式でのアナウンスが入賞者を読み上げるたびに門下生が賞に入っていたら人目をはばからず歓声を上げ、駄目なときは「なんや今年もスカか!」「あんたの指導が悪いから駄目なんよ!」と私を責めました。

そのうちに私にPTNA主催の講座や公開レッスンの依頼が舞い込むようになると、私は決まって先ず家内に「こんな依頼が来ただけど忙しいし体がしんどいから断ってええか?」と訪ねました。すると家内決まって「駄目!絶対にうける!たとえ死んでも受けろ!」と突っ張られました。そんな家内が私を残して先に死んでしまおうとは。

 

私は薬の力ではもはや限界に達し、だんだん弱っていく家内を何とか喜ばせて元気にさせようと無意識に自分を鼓舞し、頑張ってきたのかもしれません。そして家内と二人で喜びを分かち合って、また次に頑張る活力の源にしてきたのです大切な家内を突然失ってしまい、もう報告する相手もいません。今自分の人生において家内がどれだけ大切な役割を担って来たかを、ようやく悟りましたがもう手遅れでした。心の中にぽっかりと大きな穴が開いてしまったようです。

 

話は戻りますが家内の具合が悪くなるにつれて私たちは家で食事をすることもなくなりました。最近では私が豊橋にいるときは昼は喫茶店でランチを食べて、夜にはまた、どこかに別の所に食事に出かけるのが生活のパターンでした。

私がレッスンが終わり仕事場(新居)から「食べに行くか?」と電話するのを家内は何時も心待ちにしていました。最近は気分の優れない日や薬のせいで朦朧している時もありました。そんな時に「私が食べに行くか?」と問いかけるて一度は「今日はやめとくわ」と、答えても必ず数分すると「やっぱりいく」と言って電話をよこす家内でした。どんなに具合が悪くても私といたかったのでしょう。

しかし死の1日前には、私の誘いを断って、その後いくら待っても「やっぱりいくわ」と電話がありませんでした。私はとても怪訝に思ったのですが、まさかこんな事になろうとは微塵も思ってないので、その日だけは一人で寂しく食事に行ったのを覚えております。

 

その翌日つまり家内の逝った730日朝に珍しく家内の方から「悪い、今日も一人で行ってくれない?」と電話がありました。それが家内の声を聞いた最後でした。あんなに二人で食事に行くのを楽しみしていた家内が自分から断ってきたのに私は家内の体調に危機が迫っているのを見落としてしまい、結果的に家内を看取ってあげる事が出来なかった事を心底悔やんでいます。

せめて最後に「ありがとう、おかげで生徒も私も頑張ってこれたよ!」と一言いたかったです。

 

私は失ったものがあまりに大きくて、直後はもう立ち直れないかなとも思いました。でもその後本当に多くの皆様から直接、または文書やメールなどで心のこもった慰めの言葉や励ましの言葉を頂戴いたしました。

 

そして家内の最後に残してくれた一言が大きな慰めにとなっております。金城学院大学で7月27日、死の三日前になりますが、ピアノの実技試験が行われました。終わって私は肩の荷がおりた気持ちになり、その日の晩に家内と久しぶりゆっくりディナーに出かけました。家内はあまり気分が優れないない様子でしたが試験の様子など私の話に一生懸命に耳を傾けてました。

 

何かの拍子に私が家内に「今まで病気ばっかりで楽しい事なんかなんも無かったでしょ?」と聞いたところ、(家内は私の事をじゅんたくんと読んでましたが)「でもじゅんたくんと一緒にいれて楽しかったよ」とはにかみながら、穏やかな顔で答えてくれました。

今にして思えばその一言に私たち25年間のすべてが込められているように思えてなりません。その言葉を思い出すたびに家内の為にもまた頑張らなくては!という気持ちが再び沸いてきました。そしていつの日かまた家内と一緒に食事をするときに「きいてよ、こんなに頑張ったさ!」と誇らしげに報告出来るよう精一杯自分に与えられた仕事に打ち込む決意をいたしました。

 

今日の皆様への挨拶は感謝の気持ちであるとともに自分の決意表明でもあります。還暦を迎えてはいますが、まだまだ未熟者です。これは本心です。今後と何卒お力添えくださるようお願い申し上げて私のご挨拶とさせていただきます。今日は本当にありがとうございました。

 

                                                         2012823日 長谷川淳

 


 

告別式の準備


 家内の告別式を二日後の23日に控えて色々と準備に追われている。東京ではコンペ全国決勝大会の最中、燃えるような熱戦が繰り広げられているだろう。そのことが遠い世界での事のように感じられる。不思議としかいいようがない。コンペに携わって
20年以上にもなるが、こんなに静かな夏を送ったのは初めてだ。コンペのせいもあってかここ何年も夏の終わりの季節感を味わったことがなかったが一人でマンションで片付けをやっていると外からは過ぎゆく夏を惜しむように蝉の声が何時もにも増してよく耳に届く。

告別式には家内の写真がなくては始まらない。私はここ十数年間にデジカメで撮り貯めてきたSDカードやメモリースティックなどをかき集めてきて片端からパソコンに挿入して家内の写真を探し始めた。それにしてもちっとも見つからない!

家内はいつも脇役に徹して滅多にカメラの前に姿を見せなかった。しかし一番大きな理由は結婚して25年間に夫婦で旅行に行ったことは遂に一度もなかった。(新婚旅行でドイツに行ったことを除けば、しかし旅行から帰った翌日から体調を崩して寝込んでしまった。)旅行にいけば必ず写真を残すはずだ。

私はよく家内に「北陸に蟹食べに行くか?」とか「焼津でかつお食うか?」とか「東京でディズニーするか?」とか誘いをかけたが、家内はいつも絶対に応じなかった。病気がちで違う環境で寝泊まりすることを極度に嫌っていたのだ。だから日帰りで、しかも仕事を兼ねて行けるコンペの全国決勝大会の表賞式や祝賀会は二人で遠出した数少ない旅行だった(私の記憶が正しければ唯一の)。家内と祝賀会に出かけたのはそれでも10回近くはあると思う。故福田靖子先生にも夫婦でご挨拶出来た。

私も旅行しない事に自然と慣れてしまい、うちらの夫婦には縁のないことと諦めていた。それに私の仕事も年を追うごとに忙しくなってきたので、その方がありがたかったし気が楽だった。

さて写真だが、一枚だけ死の三週間前の写真を見つけたが、さすがに顔色が良くないし表情も心なし辛そうだった。そんな訳で結局よい写真は見つかなかった。しかたがないので約2週間前にホムペにアップしたものを使うことにした。家内の大好きなマンションの居間でソファーに転がって寛いでいる約一年前の写真だ。しかしスマホで撮ったもので、どうにも露出が暗い。

凝り性の私はさっそく写真の補正ソフトを使って何とか使える程度にバックを明るく修正した。苦労して仕上がった家内の笑顔に久しぶりに会えて、どうしても涙を抑えることができなかった。どうして本物の家内にはもう会うことが出来ないの!!

人間とは理性や知性も欠かせないが、所詮は感性の生き物なのか?と思い直したりしている。私は大のハイテク人間で新しもの好きでテクノロジー以外はあまり関心がなかった。しかしその冷徹な私をして涙させるものはショパンでありシューマンでありベートーベンの後期のソナタであった。そして今回家内がそこに加わったのだ。

告別式の弔辞を尊敬する杉浦日出夫先生が述べてくださる事になった。家内も私もこの上なく感謝している。家内は中学生の頃から杉浦先生にピアノを学び、桜丘高校の音楽科でも引き続き杉浦先生に教えていただいていた。私は桜丘高校音楽科で杉浦先生と職場をご一緒させていただいて以来今日まで仕事の上でもプライベートで最も親密におつきあいさせていただいてる。私も家内も杉浦先生をずっと心から尊敬し、先生の切り開かれた道を真似をして後からついて、ここまでやってきたに過ぎないのだ。杉浦先生は真のパイオニアである。今年はコンペでは不本意なレッスンしか出来ずに、生徒たちにも大変迷惑をかけてしまった。来年度はまた一からやり直すつもりでがんばります。
2012年8月21日 19:01:21

告別式の詳細は下記


職務復帰

昨日は金城学院大学のオープンキャンパス第2回目だった。生憎の荒天にもかかわらず沢山の高校生やその父母が来校されて広大なキャンパスは人で埋め尽くされた。私たちの音楽芸術学科のブースにも260名もの方たちが訪れた。前回は約100名だったから合計360名と大盛況だった。生徒や父母の質問に丁寧に対応するために私たちは朝から大忙し。私は家内の逝去後初めて公の場への復帰で、前の晩はとても不安だった。前夜はレッスンの曲を必死でさらったい、朝出かける直前まで大学案内や入試要項を何度も読み直して質問に答えられるに備えた。今日は朝から4人レッスンして、30分を昼食を挟んで音楽芸術学科のブースに2時間近くいて数名の父母生徒の対応に当たり、午後また4名のレッスンをした。蒸し暑い中、広大なキャンパスを移動するだけでも汗だくだった。なぜならブースとレッスン場所は歩いて5分も離れていてレッスン室は4階にあるからだ。ブースでは新米の私は緊張して父母の対応に当たったが何とかしのげた。音楽高校に20年間専任として勤務した経験が助けになった。やはり学校は良いな、久しぶりに教員としての充実感を味わった。若い人たちで溢れて熱気やエネルギーに満ちている。こうした中で忙しく動き回っていると今回の不幸の辛さが少しは和らぐ気がした。

帰宅の東名高速道路は帰省Uターンラッシュで大渋滞だった。でも車中で家内の事を考えていたら全然苦にならなかった。

夜はパソコンのデータ移行に汗だくだった。新居のパソコンが駄目になってしまいホムペのアップができなくなっていた。そこで急遽マンションのパソコンを運んできてデータを移行して、その後ホームページ作成ソフトを再構築した。パソコンは20キロもあり一人で運ぶのは一苦労だった。ホムペのトップページがおかしくなってリンクがかからなくなっていたので、これを機会にトップページを変更してみた。データの記録をたどっていくと私のホムペが正式に産声を上げたのはなんと14年前の1998年だった。その前に実験的なホムペまでさかのぼると20年も歴史がある。そのトップページのデザインはその当時からまったくかわっていなかった。今回の変更でも20年前のデザイン素材はそのまま継承した。いろいろな設定に手間取り今ようやくホムペを復旧した。2012年8月19日 21:59:36


お花

家内が逝って以来生徒の皆さんから多くの美しいお花を頂戴したので一部を紹介させていただきます。それまであまり花には関心がなかったが、例の不思議な百合事件の後にお花がとても愛おしく感じられる。毎朝水を替えるのが楽しい日課になった。レッスンをしていない時は気がつけば家内の事を考えている。もう一度会いたい。2012年8月15日




告別式ご案内

せっかく花開いた百合も数日していってみると地表に落ちていた。とてもがっかりして落ち込んでいると、知り合いの先生から”百合はたとえ花が枯れても地底には球根が残っているので毎年必ず花開きます!”と教えられてすごく安心した。来年また花を咲かせてくれるのが楽しみだ。

さて私が辛い心境にあるのを察して門下生の足木君の母上が下記のような伝言を私のホムペを通して私の門下生に伝えてくれるようありがたいお申し出があった。

長谷川先生

お忙しいところ大変恐縮です。
再度お願いしますm(__)m

淳先生の門下生の方をとりまとめさせていただくに当たり、各自でなされる方以外で、足並みを揃えたい方には、直接私に連絡くださるよう、ホームページの生徒連絡に載せていただけますか。
連絡先は、足木のパソコンにお願いします。

なるべく漏れのないようにしたいので、これが最善かと思われます。よろしくお願いいたしますm(__)m

足木様ありがとうございます。


百合




一昨日に第一陣でダンボールの山と古い家具などの処分が終わった。後は明日朝の第二陣を終えて当面の整理は一段落する。


話は数日前に戻るが、家内が逝って4〜5日した頃だろうか?マンションからいつものように重い足取りで新居に戻ってきて自宅前の駐車場で不思議な光景に出会った。私は手入れが面倒なので花などの植物は自宅では一切育てていない。だから新居前はコンクリートの駐車場だけが広がり殺風景だった。ところがふと見ると駐車場の隅から一輪の白い花が咲いているではないか!今までこのような花は一度も咲いたことがなかったのに。しかもその花をよく見ると、どうも百合のようだ。太陽の直射を浴びても大雨にさらされても硬いコンクリートの隙間から懸命に育って来たのだ。
ひっそりと咲いていたので気が付かなかったが生育具合から見て、この百合は家内が逝った頃に花開いたに違いない。白く清純で控えめな百合の前でしばらくは動くことが出来なかった。

この百合には家内の魂が宿っていて、きっといつも私の近くにいたいのでマンションからここへやって来たように思えてならない。

直ぐに友人に写メールを送って調べて頂いたところ、この百合は新鉄砲百合と言うそうだ。私はこの百合がとても愛おしく思え、毎日様子を見に行くのが日課となっている。

百合を見ていると頭を下げてうつむきかげんでどこと無く悲しそうだった。無言で、私のマンションを売りに出さずにそのまま残してください、とお願いしているように感じた。やはり家内の巣を手放すことは止めることにした。時間を見つけて少しずつ元通りに復元していこうと考えている。2012年8月12日 午後 09:15:40


再開

家内が逝って10日目を迎えました。復活作戦を本格的に開始しました。家内も元気な私を望んでいるはずです。今日は朝に家内の車を廃車にしました。5年間もの間お世話になった黄色いダイハツの軽が走り去っていく姿を見るのは忍びなかった。ありがとうございました。

そして朝10時から片付けに入り昼休みを挟んで夕方まで一気に仕事を進めた。還暦を迎えた自分にまだこんなに体力気力が残されていのか、と不思議に思えました。大量の雑誌を一人で束ねるのは泣きたくなるほど辛かったです。それと重い布団をたたみ、布団袋につめ込むのがきつかったです・・・

明日朝9時に業者が処分に来ます。この機会にマンションの不用品を一気に片付けてしまえ!とダッシュでした。結果ダンボール30個ゴミ袋10個くらいになりました。明日にダンボールや家具がなくなったら徹底的に掃除機かけます。一番驚いたのは家内の衣服が信じられないほどの量でした。

こうなってしまったからには前向きに考えなくてはやっていられないです。レッスン室のある新居と、このマンションは歩いて数分の至近距離。このメリットを生かしてこれからはどんどん再活用したいです。大まかなプラントして半年〜1年位かけてマンションを明るく美しくリフォームしてセカンドハウスにする計画です。そしてマンションの旧レッスン室にピアノを再び入れて生徒達の控え室兼練習室にする案です。4年前に新居を立てた時も毎晩遅くまで夢中になって設計したのを思い出します。

実はこの古いマンションも30年ほど前に建設中の物件に目をつけて速攻で契約しました。角地で一階、改造しやすい間取り。これが決め手でした。6帖の2つの部屋を一つに統合し12帖のレッスン室とし、防音工事を施しスタインウェイのAモデルとヤマハのS4を入れました。他の部屋も全室洋間にするなど、標準仕様とは全く別物の間取りに仕上げたのです。その時も防音仕様や照明や作り付けの楽譜棚やオーディオラックやコンセントの位置など細部の艤装に至るまで夢中になって設計したのを思い出しました。

今ではこうした事はそう珍しくもないけど当時としては画期的なアイデアでした。または名古屋にまた建設中のマンションを見つけて同じような防音仕様にしてもらうかも。何故なら来春からは名古屋勤務になるので名古屋に活動拠点を持つことは好ましいとも思えます。私はこういう作業が基本的に好きです。やはり道を間違えたようです。とにかく残りの人生を精一杯楽しもうと考えなおすと、また意欲がわいてきました。皆様には大変にご心配をおかけしました。2012年8月9日 午後 10:50:23


復活

気がつけば、かすかに秋の気配も感じる今日この頃。瞬く内にすぎた一週間だった。その間に本当にたくさんの方からお電話やお悔やみメールを頂きすごくありがたかった。この場をお借りして感謝申し上げたいです。初七日も過ぎたから昨日は市役所で家内の戸籍を抹消して頂いた。夢から覚めてようやく現実に戻った気持ちだった。でも心の整理も少しは出来た。と言うか現実に戻らざるえない自分に気がついた。コンペは大詰め、各地で門下生が死闘を繰り広げている。今年は私の最終チェックを受けること無く戦地に赴く事になった生徒たちには本当に申し訳なく思う。しかし生徒たちは健気に頑張ってくれている。たとえ全国には手が届かなくても生徒たちはこの夏のコンペを通して技術は勿論の事、精神的にもうんと逞しくなってくれたと思う。

私を力づけてくれた事が後2つある。7月27日に大学の実技試験があった。その日に向けて生徒たちと心を一つにして頑張ってきた。私がどん底の気持ちに沈んでいるときに大学から試験の結果が送信されてきた。質量ともすごい一年生ピアノ科の40名中で門下生4名はトップを含む上位に食い込み初戦を飾った。他学年も好成績の生徒が多く出た。これは家内への何よりの報告である。思えば27日実技試験の後にお疲れ様会として家内と夕食を共にしたのが最後の晩餐となった。(28日と記したが混乱して記憶違いでした。その3日後に家内は他界した)

もう一つ私に力を与えてくれたのがロンドンオリンピックでの日本女子の素晴らしい感動的な活躍!卓球、サッカー、バレー等など、どれもすごかった。勿論実況中継は見れなかったけど感動のシーンは胸に焼き付いている。それにしても日本女子選手の闘う姿はなんと美しい事か!絶対最後まで諦めない気迫、常にチームメートを思いやる優しさ、そして闘志に満ちた瞳。私は日本人に生まれて本当に誇らしく思えた。あの大震災を経験して日本人は以前より確かに強くなった。中でも女子の頑張りはすごい。日本の将来を担うのは男子ではなく女子になるに違いない!

昨日夕方何となく巨大スーパー アピタの食料品売り場をさまよった。あるわあるわ、ステーキも鰻も刺身も果物も選び放題(o^^o)これを機会に私は今までの食生活改めてみようかと思った。いつも家内と外食ばかりしていたから独りきりで外食するのたまらなく寂しかった。だったらいっそ外食やコンビニ生活から足を洗い料理を趣味にしちまえば良いじゃん!寂しくないし健康の為にも良いし何より楽しそうだ。私は本当はグルメだし、手先が起用でまめだから潜在的には料理はうまいと思う。ドイツ留学中は結構自炊したものだ。

家内を失って以来サッパリ食欲がわかなかったが、久しぶりに食欲も意欲が沸いてきて思い切り大量に新鮮な食材を買い込んできて満足感を味わえた。これからのモットー!寂しくなったら兎に角スーパーの食材コーナーへ行こう!そしてうまいものをたらふく食って元気になろう!
2012年8月8日 午後 11:38:29


区切り


今日も悲しい思いをした。これだけ悲しい思いをすればいい加減慣れるか、とも思ったが、あべこべだった。朝9時過ぎに火葬場についた。私以外の遺族はまだ誰もついてなかった。静かに横たわる棺に向かい、生前にしてあれられなかった精一杯の優しい言葉をかけてあげた。そして最後を看取ってあげられなかった事を何度も謝った。遺族がそろい棺に彼女が一番喜んだもの(これは内緒です)を入れてあげた。棺が炉に入れられた後も私一人その場に残って、未だ夢の世界にいるかのようにぼーっと光景を見つめていた。

約二時間後変わり果てた家内と再会した。でも遺骨になっても私の方を向いて微笑んでいるように見えた。私には”有り難う”といっているように思えた。お骨を分骨していただき、お寺に向かった。小一時間読経していただき遺族と会食をして午後2時過ぎにやっと帰宅できた。帰りの車に乗り込む時に骨壷の入った白い箱を大切に助手席に置いた。今まで彼女が助手席に座るといつも私がシートベルトを締めてあげていた。彼女は太りすぎていて自分ではうまく閉めれなかったからだ。今日は簡単にシートベルトを付けれた。あんなに巨体だったのにこんなに小さくなってしまって。

彼女は私がこの春に車を買い換えたことを結局最後まで気が付かなかった。私はいつか彼女にその事をばらして、びっくりさせてやろうと思っているうちにその機会を永遠に失ってしまった。馬鹿な自分。涙が止まらなくて運転もすこしヤバかった。

そして3日ぶりに彼女の大好きだったマンションに帰ってきた。私は今日のために居間を出来るだけ綺麗に、そして居心地よく片付けておいた。葬儀屋さんからダンボールの簡易仏壇をいただいていたが私は大切な骨壷を迷わずに彼女の大好きだったソファベッドの上に置いてあげた。家内は嬉しそうだった。そして今度は暑くて辛い思いをしないようにエアコンいれて、いつも彼女がしていたように電気をつけておいてあげた。節電の夏だけどあと数日だけは許していただきたい。最後の快適に過ごせるようにトイレの掃除を狂ったように徹底的にやった。
今までのパターンは彼女が数ヶ月入院している間に私が徹底的に掃除し、また彼女が数ヶ月間戻っている間に徹底的に汚し、また入院している間に私が掃除するのを何年も繰り返してきた。しかしこの半年は私の異常な忙しさで彼女の入院中に全く掃除が出来なかったのだ。だからトイレの汚れ等は尋常ではなかった。でも今日私は疲れる感覚が麻痺してしまったようで、いくら働いても疲れない。彼女のために夢中で掃除をしていると悲しみが和らぐ。
分骨していただいた小さい方の骨壷は彼女が寂しくないように新居に持ってきた。

私は帰宅して少し休もうと試みたが悲しすぎて虚しい努力に終わった。私はどちらかと言うと論理的に物事を考えるクールなタイプだと今までは思っていた。実生活では私にとってお荷物でしかなかったはずの家内、そんな家内を失って少しは悲しい思いをするとは想像したことはあるけど、まさか自分がここまで打ちひしがれ沈み込んでしまうとは。いったい私はどうしてしまったのだ?否、私は論理的に見えるけど本当は情感で生きる人間だったのかもしれない!私は自分のことが分からなくなってしまった。今までは私は自分のことを冷たくて強い人間だと信じていた。しかし私は本当は暖かくて、しかもとても弱い人間だったのかもしれない。

気持ちだけは妙に冴えてしまい眠るのを諦めた私は今の苦しさから逃れたい一心で明日からレッスンを強引に再開することにした。今の私にはもうピアノしか残ってない。生徒たちに片っ端からメールを入れて半ば強制的にレッスンにこさせて没頭することにした。体がどこまで続くかは分からないが、このままでは私も家内のように鬱病になってしまう。


運命

何もしていないとよけい辛いので夕方もマンションの掃除にきた。家内のいた居間はすごく汚いけどここに居ると不思議な安らぎを感じる。家内はいつもここで寝起きして生活していた。言わば家内の巣だった。ここでソファベッドに転がっていつもTV見たり通販のカタログを見たりネットするのがお気入りだった。私は掃除しながらいつの間にか家内に話しかけて対話していた。今から綺麗にしてあげるからね、とか辛かったんだね、でももう大丈夫だからね、とか。

その内に掃除をするのをためらう気持ちが起こってきた。私は徹底的に整理整頓するのが流儀だが家内は散らかっていたほうが居心地がいいそうなのだ。家内がいつ戻っても寛げるように片づけ過ぎないことにした。

そして掃除をしながらだんだん家内の気持ちがわかるような気がしてきた。野生の動物達は本能で死期が近づくのを悟り。最後は自分の巣に戻るそうだ。私は家内が先月初めに退院して時にちっとも症状が良くなってないのに驚き、家内を叱り直ぐに病院に戻るように強く命じた。いつも家内は最初は病院に戻ることを拒んでいても、症状が悪化してくると自分からしぶしぶ病院に戻っていった。その時はいつもとても可哀想に思ったが、その方が家内にとっても私にっっても安心だった。

しかし今回ばかりは私がどれだけ説得しても家内は頑として拒んだ。痛々しほど弱ってきているのに、病院に戻るくらいなら死んだほうがましだ、とまで言って頑として拒んだ。今となってみえば私は家内が本能的に死期が近いのを察していたように思えてならない。

結局私は根負けし、忙しさに埋没し、結果的に家内は自分の希望通り大好きな巣で逝った。私が最後を看取れなかったことだけは痛恨の思いだが彼女にとっては幸せな最後だったようににも思う。またそう思いたい。彼女との最後の晩餐で私がふと”今まで幸せだった?”と聞いた時に”一緒に過ごせてとても幸せだった”と言ってくれたのがせめてもの救いだ。
彼女は25年前にこのマンションにきて、今また遠くに去ってしまった。そして私はまたひとりになった。しかしこの部屋にはきっと彼女の魂が生き続けることだろう。私はしばらくは出来るだけ現状を留めるように徹底清掃思いとどまった。


告別式

私は部屋の掃除を終えて帰宅すると、このままいつまでもメソメソしていたら彼女の魂も浮かばれないと思い直した。こうなった以上は私にできる精一杯の気持ちを込めて彼女を送り出してあげたい。それが彼女に対する私の最後の誠意だ。私の頭はようやく回転力を取り戻し始めた。明日の火葬はもうなんともならないのでそのまま行い、告別式は予定していた親戚の経営する葬儀場をキャンセルした。彼女は最後までこのマンションにこだわり。ここを愛した。だったら目の前にセレモニーホールがあるじゃないか!彼女の気持ちになってみえば知らない土地でお別れするよりも25年間毎日見てきた隣のセレモニーホールのほうが良いというに決まっている。また式は前半はオーソドックスな仏式の葬儀を行い最後はやはり彼女が一番好きだったピアノ演奏で送り出すのが一番ふさわしいと思えた。とにかく家内に喜んでもらう事を第一に考えた。そしてついさっきセレモニーホールの担当者と打ち合わせをしてきた。結果下記のように告別式をとり行うこととした。(通夜は行いません) 2012年8月2日 午後 08:41:43  


                    記


*長谷川 利依(りえ) 告別式        2012年8月23日(木曜日)     午後1時

*場所    豊橋イズモ葬祭  イズモホール豊橋  弐(二)番館  クリスタルホール 地図はこちら
         広大な駐車場があります

*住所  豊橋市東新町115 Tel 0532-55-1000 Fax 0532-54-1699

*喪主     長谷川淳


悲しい昨日だった。それでも昨日は朝から手続きやいろいろな方との対応で夜遅くまで動き続けていて体はクタクタなはずなのに食欲も疲れも全く感じない。ただ常に動悸を感じる。このような感覚は生まれて初めてだ。家内の喜ぶ顔が見たくて頑張ってきて、その成果を真っ先に報告してきた。それが私のエネルギーの源だった。いまでは報告する相手もいなくなり急に生きる張り合いが無くなってしまった。

それでも体を休めなくてはと眠剤を飲んで浅い眠りについた。夜中の三時頃か?夢のなかで家内の呼ぶ声がしたので、ふと目が覚めた。私も普段のように返事して家内の名前を何度も呼び返した。何度呼んでも返事は帰ってくなかった。やはり夢ではなかったのか。もうないんだ。また止めどもない悲しみが押し寄せてきた。もうこれ以上は寝れなくなってしまったのでパソコンのFBを何気なく開いたら沢山の方からお悔やみや励ましのメールをいただいていた。本当に皆様の温かいお気持ちに感謝でいっぱいです。

私は家内が最後を過ごした部屋を少しでも綺麗にしたいと思い、午前4時、まだ薄暗い中マンションに行った。部屋はすごく散らかっていた。でもそれはいつものことなので気にもとめずに2時間くらいかけて新聞や雑誌や雑多なものをゴミ袋に入れて外に出し掃除機をかけて少しは元の状態に近づけた。

掃除が終わって、いつも家内が転がっていたソファー・ベッドの上に置かれていた家内の携帯を見つけた。発信履歴の最後は私宛で30日の15:58。家内はその時刻までは生きていたのだ。気分が悪くなりきっと私に助けを求めたに違いない。私はその日の18:45の”ひかり”に乗ったのだ。その時間はまだ新居のレッスン室で夢中でレッスンしていたのだ。私が家内の最後の携帯に気がついていれば命のあるうちに会えたかも知れなかった。そして直ぐに救急車を手配すれば助かったかもしれない。せめて東京に出かける前にちょっとマンションに寄っていれば手遅れにならなかったかもしれない。また悔しさがこみ上げてきた。でも私のスマホには何故かこの着信は記録されていないのだ。今までにスマホには携帯からの着信が時々記録されない時があった。いろいろ不幸な偶然が重なり結果的に可哀想なことをしてしまった。
私は父を失った時もとても悲しかったが、今回はその何倍も辛い。大切な人を突然失った悲しみと、両親にも先立たれ、子宝にも恵まれず、病気で職も失い、親しい友人も無く、私だけを生きがいに、私だけを頼りに生きてきた家内、病身ですっかり弱ってしまった家内を助けてあげられなかった事が今のやり切れない気持ちにつながっている。生前もっと優しい言葉をかけてあげればよかった。2012年8月2日 午前 07:12:00

                       お気入りのソファー・ベッドで寛ぐ在りし日の家内

ホムペにこんなことを書いても誰もよんでくれないと思うけど、こうして書いているうちに気持ちが少しずづでも落ち着けるような気がする。そして家内の事を書いてあげる事が家内への供養に少しでもなればと思ったりもしている。すみません


別れ

人生60年もやっていると喜びも悲しみも数多く経験する。しかし25年間私をささえ喜びも悲しみも共に分かち合ってきた人生のパートナーを突然失うことになろうとは。今の耐え難い悲しみを分かち合ってくれる私の妻はもういない。私はここ数ヶ月異常な忙しさで家内の体調の下降を見逃していた。家内は十数年ほど前から鬱病で入退院を繰り返してきた。今回の体調の異変もいつもの病状の波の一環で、直に回復すると思っていた、否、思いたかった。家内の入院中を別として、どんな忙しい時にもランチや夕食は家内と近くの喫茶店やファミレスで一緒に食べながらゆっくり会話を楽しむのが日課だった。それは子供のいない私達夫婦には大切な時間だった。

7月28日は前日の金城学院大学のピアノ実技試験も終わり打ち上げも兼ねて家内とかに料理を食べに甲羅に出かけた。そこで将来の夢などいろいろ話し合った。家内は具合は悪そうだったが楽しそうに私の話に耳を傾けてくれた。翌日はいつもの様にランチに誘い出そうとしたが気分が悪からと家にとどまっていた。

そして7月30日朝早く家内から、今日も気分が悪いからランチは一人でいって、と言われ、それが家内と交わした最後の会話となった。
30日の出発ギリギリまでレッスンして1845分の”ひかり”に飛び乗り横浜に向かった。その晩ホテルから家内に電話したが出なかった。多分寝てしまったのだと、さほど気にも止めなかった。31日は横浜みなとみらいベーテンピアノコンクールの審査をして夜は東京でプライベートレッスンをして最終の新幹線で深夜帰宅した。遅かったのでそのまま仕事部屋で休んだ。仕事部屋とマンションは100メートル位離れている。

翌朝嫌な胸騒ぎがしたのでマンションに様子を見に行くと既に冷たくなっていた。部屋は散らかって窓は開け放たれており家内は何かを探すようにように床の上に倒れていた。きっと暑くてエアコンのリモコンを探していたのだと思う。私は審査出発の朝に家内に”今日明日と審査があるから余程のことがない限り電話しないで!”と言った。家内は容態が悪くなり助けを求めて私に電話したかったと思う。しかし私の言葉を守り最後まで我慢したに違いない。死因は長年大量に服用していた抗鬱剤や安定剤や睡眠剤の影響で徐々に心臓をはじめ内蔵が機能しなくなっていたそうだ。そして突然心不全を起こしたらしい。7月30日が命日となってしまった。

検死、死亡届、葬儀の打ち合わせなど夢の中のような気持ちで呆然と終えて一人で家に帰り泣きじゃくっている。こんな深い悲しみはかつて味わったこともなかった。なんで家内の容態の悪化をもっと早く察知できなかったのか!なんで電話するな!などと冷酷なことを言ってしまったのか!早く救急車を呼んでいたら救えたかも知れない命を私が見殺しにしたも同然だ。でも全ては虚しい。悔やんでも悔やみきれない。ずっといつも横にいてくれて当たり前の存在だった家内を突然失って、はじめて失ったものの大きさが分かった。

家内はいつも病気がちで、炊事家事など決して得意ではなかった。でもいつも誰よりも私の活躍を喜んでくれ生徒たちの活躍を応援していてくれた。来年春からの私の金城学院大学教授着任を一番に喜び、その日の来ることを楽しみにしていた。せめて後少し頑張って生きてくれて二人でお祝いしたかった。

季節が季節なので家内の遺体は3日に直接荼毘にふされることになった。生前の罪滅ぼしにせめてささやかな告別式を開いてあげたい。ただ目下コンペ本選のまっただ中で生徒たちにご迷惑がかかってはいけないので告別式はお盆過ぎに静かな雰囲気の中でしてあげたい。生前生徒たちのことを一番に考えていた家内もきっと私の考えに賛成してくれるものと思う。52年の生涯お疲れ様でした。そして25年間の結婚生活ありがとうございました。2012年8月1日 午後 06:56:39