topページ

子育てを科学的にとらえる

その1.本人に任せる

 「誉めることは良いことだ」とは殆どの人がいうことであり、また、認 めるところでもある。しかし、それを実行している人は現在の日本の社 会ではあまりいないようです。なぜなのでしょう。どうも、多くの日本 人の道徳的価値観にあるように思えてならない。つまり、誉められるこ とや誉めることを「良し」としないのである。
  その根底には武士道的な考えがあるように思われる。指導する側がび しびしと鍛え、指導される側はただひたすらに耐えて耐え抜くのを美し いと感ずるのだろう。要するに根性主義だ。しかし、皆さん本当にそれ で良いのでしょうか。一時、日本のスポーツ選手がオリンピックでよい 成績が出せないのが問題になったことがありました。現在は少しずつ変 わってきているように思います。現在、一流のスポーツ選手の特長は、 大きな舞台にでてもあがらない、楽しみながらスポーツをする、科学的な トレーニングを好んでするようです。これらのことは、私たち人間の特 性に大きな示唆を与えているように思えてなりません。
   なぜあがらないか。それは自分のためにスポーツをやっているからで しょう。失敗しても自分の責任ですから自分で対処すればよいことです。 他人にとやかく言われる筋はないのです。これがもし、自分のためでな く他の団体や国のためにやったことだと思っていたらどうでしょう。自 分の意志でやったことではないので、自分のやったことが自分の物でな いのですから失敗の責任のとりようがありません。大変惨めになってし まいます。それでは、大事なときに思う存分力が発揮できなくなってし まいます。ここに本人の意思に任せることの大事なことが示されている ように思えます。
   ここで、そのへんの事をさらにつっこんで考えてみましょう。私たち は、自分で作った物は自分の物です。うまくできれば大変うれしいし、 うまくいかなくても誰にも文句を言わないし、次にはどうすればよいか を積極的に考えるようになる。子育ても同じ事である。親が子供に命令 して勉強なり手伝いなりをさせたのでは、たとえうまくいっても子供は ちっともうれしくない。次はもっとよくやろうという積極性もでてこな い。だから、本当に子供のことを思ってさせたいなら、親は、子供に納 得してもらう必要がある。でもこれは大変難しいです。子供に水を飲ま せたいなら、のどが渇くまで待つこと。そうすれば黙っていても子供は 水を飲む。

その2.本人に任せる。

   それではなぜ本人に任せることがそんなに大事なのでしょうか。人間 の脳は、脳にとって良いと思えることに対しては積極的に知識をため込 もうとして関連するものを記憶し、さらに記憶を増やそうと積極的に活 動するようになるそうです。人間の脳にとって良いこととは具体的にど んな事でしょうか。脳が心地よいと思うことは、つまり、その脳の所有 者本人が気持ちよく思うことです。
 人間は五感を働かせていろんな事を認識します。以前、私も、「良い 刺激と悪い刺激」ということを聞いたことがあります。一言でいって 気持ちよいと感じるときが良い刺激で、その反対が悪い刺激です。小さ な子が水遊びやどろんこ遊びを喜んでするのはそれが子供にとって良い 刺激だからでしょう。そこで、親が、「着ている物が汚れるからやめな さい」というのは良いことではないという結論がでます。しかし、汚し てもらってはこまる時もあるでしょう。そのような時には汚れても良い 物に着替えさせたり、汚してもらっては困る物から遠ざけるけれど、ど ろんこ遊びはさせるということが理想的です。そのようにしなかったと 嘆く人がいるかもしれません。あまり心配しないで下さい。これから子 供の要求を大事にすればよいのですから。また、うちの子供はどろんこ 遊びは好きでなかったという方もいるかもしれません。子供一人一人の 個性が違うのですからあまり悪い方にとらなくても良いと思います。あ くまでも一般論ですから。また、「日本の学校のスポーツの部活動は、 やりすぎて強くならない」ということを十数年前に聞いたことがありま す。基本的には今もあまり変わっていないように思います。肉体も脳も 、脳やその他の神経細胞でコントロールされています。体を無理に使い すぎれば十分な酸素や栄養が脳その他の神経細胞に届かなくなります。 当然良い刺激ではないので、良い結果がでないでしょう。スポーツで練 習を繰り返すことによって今まで出来なかったことが出来るようになる のは、筋肉が発達したことが一つ、もう一つは脳細胞がそれを出来るよ うに変化した(発達した)からだと思います。つまり、運動の練習をす ることの目的の一つは脳を鍛えることだったのです。

その3、誉めること

 先に述べたように、大人は誉めたりすることをあまり良いことではない と思うようですが、それは道徳的観念から来ているのではないかと以前述 べました。しかし、本当は大人も誉められるとうれしく思う筈です。ただ、 理性によって押さえているだけのことなのです。なぜなら、自己抑制のし にくい子供やお年寄りの中には、相手に誉めてくれと要求する場合がよく 見られるからです。大人の場合も誉めてもらいたいのです。ただその様な ことを言うと大人げないと思われるので言わないか、または言うとすれば 「評価されたい」と言います。もし、妻が夫に「あなたが本当に頑張って くれるので家族みんなが幸せよ」と言えば、夫も明日はるんるん気分で 「さあ、今日も頑張るぞ」と意気揚々と会社に行くでしょう。
 ここで誉めることを具体的に実行するための話に入ります。よく聞く話 ですが、「先生、そうは言ってもうちの子はあまり誉めることがないんで す。なにを誉めたらいいんですか」と。その様な言葉がでるのは大人が誉 める基準をあまり高く持ちすぎるからです。通知票の評価がほとんど5だ とか、スポーツで県大会で入賞したとか。それでは誉めることのない人が ほとんどです。基準を下げましょう。以前も申しましたように、誉めるこ とは良いことで、特に、子供の能力を伸ばしたり、、積極性を高めたりす るのに大変効果があるのです。だから、それを活用しない手はないのです。 こうしたらどうでしょう。普通のことを誉めるのです。たとえば私の塾で は、寒い日に一人で歩いて来た子には「寒いのに歩いて来てご苦労さん。」 と言い、自転車で来た子には「寒いのに自転車で大変だったね」と言い、 親に車で送ってもらった子には「車で送ってもらって良かったね」と言う ことがあります。この程度の言い方では誉めると言うよりも現実をそのま ま認めてやると言った方が適当なのかもしれません。

その4、体罰

 さて、「誉めることは良いことだ」と言うことを知っていてもそれを活用し なければ意味がありません。そこで気軽に誉めることが出来るようになるため に、「人は誉められたいために生きている」と割り切ってみたらどうでしょう。 大変抵抗がある人がいるかもしれません。「人は評価されたい」と言えば納得 する人も多いでしょう。しかし、そんなこと知っていてもあまり役には立ちま せん。はっきりと、「人は誉められたいために生きている」とわりきる事が大 事なように思います。あなたの身近な人を一度誉めて下さい。必ず喜ぶと思い ます。下心を持って誉めたのではすぐに見ぬかれます。そうではなくて、その 人の本当にいいと思えることを見つけだして事実をありのままに言えばいいで す。特に、子供やお年寄りにその様に接してあげれば大いに喜ばれることで しょう。特に子育てにおいては、子供がすばらしいから誉めるだけでなく、素 晴らしくするために誉めることに意義があるのです。
 話は少し変わりますが、「自分の子供を強くたくましく育てたい」と言う思 いがどの親にもあると思います。だからよく学校の保護者会などで、「先生、 うちの子をびしびしとしかって下さい」と言う会話をよく聞きます。はたして びしびしと鍛えれば本当に子供は強くなるのでしょうか。しかし、結果は強く なるどころか弱くなることの方が多いように思います。強くなる場合は先生が 愛情深く、生徒のがわがこれを受け止める能力と感情がともなっている時だけ に限るように思います。要は、生徒がどのような感情を持って受け止めたかに よるでしょう。感情の詳しいことについては後日述べることにします。
 さて、どんなに愛情深くても体罰はいけません。なぜ体罰はいけないか。 体罰を受けて、「さあ、これから頑張るぞ」と思い、積極的になる人はいない と思います。もし、先生の愛情があって、生徒がそのことを理解することが出 来るなら、体罰をしなくても理解させることが出来たでしょう。もし、受ける 側が納得できなかったら逆効果です。また、生徒が悪いことをしたと先生が判 断するのも危険です。よくよく調べてみると先生の勘違いだったこともあるで しょう。一般社会ではどのような理由があろうとも他人を殴れば刑務所行にな っても仕方がありません。教育という名の下に体罰が許されていいはずがあり ません。そこには体罰をする側の「自分には間違いはないんだ」と言うおごり があります。

その5、校則

 次に、ここで誉めることがどんなに大事かと言うことをさらに深めてみたい と思います。教育という言葉を「教えて育てる」と考えて厳しく教え込むこと がよいように思われているのではないでしょうか。これだとどうしても子供の まちがい(または弱点)を見つけ指摘することだけが多くなってしまいます。自 分に自信があり、弱点を指摘されても喜んで受け入れられる子はよいでしょう が、自信のない子は感情的に勉強から離れようとし、さらに勉強が出来なくな ってしまうでしょう。誉めることが子供の能力を伸ばすという観点から見ると まるで逆になってしまいます。私の塾の例で恐縮ですが、自信をなくして私の 塾に入ってきた小学生に対しては、誉めることを中心にしています。本読みに 自信のない子に本読みをしてもらうときなどは、まちがえても気にせずにどんど んたくさん読んでもらう。読み終わったら、上手に読めたと誉めてあげる。 そうして自信をつけます。そのうちに解らない字があったりすると黙って考え 込みます。そのときに読み方を教えます。さらに読みを積極的にするようにな ると、解らない字があったときは自分から聞いてきます。そのときに教えてあ げれば抵抗なく覚えてくれます。算数なども出来るだけ簡単な事からやらせて 自信をつけます。小さなまちがいには目をつぶります。あまりやることがないと きは、本読みをしておやつを食べてすぐ返します。私の塾は基本的には中学生 と高校生が対象です。小学生は宿題が出来て、落ちこぼれなければよいと考え ていますので、特別の希望がある子供のみ受け付けています。
*注 下線部については現在(2003.12月)は違います。現在は、おやつは出ません。また、現在は、小学・中学・高校・(大学・社会人)が対象です。さらに、マンツーマンの基礎コースもあります。詳しくは、山びこ教室の勉強の仕方(TOPページから入れます)をご覧ください。
 さて、ここで学校の校則について考えてみたいと思います。一部には校則と 言われるようなものはない学校もありますが、まだまだ日本の学校には必要以 上の校則がありすぎるように思います。髪の長さや形、靴や鞄の色、形。その 他いろいろありますが、基本的にはこれらは個人の問題ですから規制されるも のではないように思えます。このような校則でも規則は規則ですから違反があ れば何らかの対処をしなければ校則の権威がなくなります。管理する側は違反 がないかと常に目を光らせているようになります。誉めることはよいことだと 言ってもこれではまるで反対のことをしていることになります。ある学校で校 則をなくしたそうです。今までは、朝一番に校則の違反者がいないかと目を光 らせいていたそうですが、校則がなくなるとその様なことがいっさい必要なく なったので、何か誉めることはないかと探すようになったそうです。

その6、自立

 前回、校則などによってみな同じ格好を強要することを話しましたが、これは まさに没個性である。基本的に人間は一人一人皆違うのである。よって、その違い をお互いに認め合いながら各人が自分の個性を伸ばせばよい。他人は自分とは違 うのであるから、他人と違う自分はそれでいいのだと各人が思えることが自立である。このような面から考えると、現在の日本人は大変自立しにくい環境に育って いるように思える。
 さて、今度は誉めることと自立の関係についてのべてみたい。もしある人が自 立できていなければ、その人は多分人を誉めることが殆どないのではないかと 思える。よくある嫁と姑の関係を例にして考えてみたいと思います。姑が本当に 自立できていれば、自分の考えや好みを嫁に押し付けはしないだろう。嫁は自分 と違うのだと思えば不平も少なくなる。すべて自分の価値観ではかるから、嫁は 自分に意地悪をしていると思い不平を言う。では嫁のほうはどうだろう。同じよ うなことを言っていたのではうまくいかない。その反対に、嫁が、姑は自分とは 考え方も生きてきた時代も違うのだから相手の希望にできるだけ応えられ るようにやさしくしてやろうと思い、姑も、嫁さんを一人の自立した人間と認め るならば嫁と姑の関係はうまく行く。どちらかでも自立できていればかなりうま く行くだろう。両方自立できていないとうまく行かない。嫁さんならこれから自 立に向かって努力すればうまくいくかもしれないが、姑はなかなか難しい。しか し、人間は何歳になっても精神的に成長できるのであきらめずに姑さんも努力 したほうがいいのでは。いずれにしても完全に自立している人はいないので諦め ることはない。嫁と姑の関係もおおいに日本特有の問題を含んでいるような気が します。

その7、よい刺激

 次に、親と未成年の子供との関係で自立について考えてみたい。もし親 が自立できていれば、自分の子供であっても別の人間なのだとして扱うの で、子供に自分の考えを押し付けたりしない。逆に自立させることの重要 性を意識し、子供を励ますために誉めるだろう。そうして誉められて育っ た子は自分の才能を伸ばし、個性を伸ばし、自分の子供にも同じような子 育てをする。また、誉めることや、やさしくすることはよい刺激で脳の活 性化につながるもうひとつの例として、ぼけた初老の母親を介護する人が やさしくやさしく接したらぼけが直ったそうである。
 脳によい刺激のよい例として不可能を可能にするという話をします。三 年前(1996年)になりますが、NHKのラジオを聴いていたら、次世代コンピュータを 研究している人が言っていたことですが、「水槽ではイカが飼えない。」 という常識があったのですが、「大海で泳いでいるイカが飼えないわけが ない」と確信し研究を続けていった結果、新たな知識を獲得し、ついに、 イカを飼うことに成功したそうです。その研究者が言うには、まず、現在 の状態を悲観しないでよく見る。はっきりしないが理論的には可能だ、だ から「いつにか成功するのだ」と楽観的に見るのだそうです。そう言えば 皆さん、昔から「なせばなる」とか「やる気がしないから出来ないのだ」 という言葉もありますね。これはある意味ではあたっているということで すね。しかし、何でもやろうと思えばやれると解釈したら大変なまちがいに なります。先ほどのイカの例も、研究者が研究する前からイカが飼えると いう客観的事実が存在していたのです。ただ、誰も発見していなかっただ けなのです。

その8、感性が理性に優先する

 「感性が理性に優先する」ということもその方が言っていました。具体的内 容についてはほとんど聴けなかったので自分なりに解釈してみたいと思います。 誰でも自分の好きなことはすぐに覚えて身につくが、嫌いなことはすぐに忘れ てしまい、なかなか覚えないことが常だと思います。先人曰く、「好きこそも のの上手なり」ということがぴったり当てはまりますね。今まででは、どちら かというと感性より理性のほうが主であると考えられていたので、子供がやる 気がないのに、親が、理性的に説得すれば何とかなると思って、子供に勉強な どを強要したことがよくあったのではないだろうか。理性的な子育てから見れ ばまるっきり反対のことをやってきたようだ。ここでは、親の理性が子供の感 性に勝り、親の説得によって子供が勉強をやる気になってくれると思う勘違い があったのでは。結論として、子供の感情を大事にしないとうまくいかないと いうことですね。

その9、言葉の曖昧さ

 次に言葉の曖昧さについて述べてみたいと思います。 言葉は観念である。決して具体物そのものを表していない。たとえば 「山」という言葉から貴方はなにを想像しますか。ある人は富士山、 また、ある人は、自分の故郷の裏山。また、平地に育った人は平地の 林を山という人もいるでしょう。つまり、できるだけ具体的に話をし ないと大きなまちがいを起こしうるということです。塾というとあまり よくないイメージがあるように思う。「塾は良くない」とか、「学校 の 先生はろくなものがいない」などという論理の進め方はまちがって いる。なぜなら、具体性のない話だからです。塾といっても千差万別 ですし、学校の先生といっても人それぞれです。たとえば落ちこぼれ の子を作る学校が良いとか、その落ちこぼれの子を救った塾は良くな いなどという結論がでてしまいますね(すべての学校が良くないと言 っているのではない)。これは言葉という曖昧な観念をあたかも具体 物かのようにとらえることから来る一種の差別です。塾は良くないと いうイメージにとらわれてしまってせっかくのチャンスを逃しかねな いことだってあるわけです。この様なことは世の中にはたくさんあり ますので、もう一度点検してみてはいかがでしょうか。

追記:このシリーズは、1998年5月にスタートし、1999年5月に完結したものです。内容は、1996年夏に東松山市、高坂ニュータウンに配布したチラシを一部加筆したものです。2003年5月2日現在、いま自分は、西田文郎氏の講演記を読んで、感銘し、西田氏の著書「No.1理論」をむさぼり読んでいる。この本は、初版が1997年4月に出ているので、私のチラシはこの本の出る約1年前に世に出ていたことになる。大変、似ている点があるので、自分でも満足している。しかし、自分は、他人をほめてその気にさせることはしてきたが、自分をその気にして自己変革する点がほとんどなかった。今、自分は自己変革に挑戦しつつある。今後の人生が大いに楽しみだ。
2003.05.02正木

お問い合わせはこちら
〒355-0063 埼玉県東松山市元宿1-23-13
  0493-34-3431