曰く・聖人は、当時(鎌倉時代)の文書、特に仏教関係の文書に名前が出てこない
曰く・室町時代に本願寺の興隆と供に、にわかに名が知られるようになった
なぜか?
実は、真宗の実際の開祖は蓮如上人である、蓮如上人は布教にあたって親鸞聖人と言う宗祖を設定し蓮如上人はその伝道者に徹した、と言うもの。
蓮如上人は自ら開祖として尊敬されると言う「華」より、教団の興隆と言う「実」と取ったと言うものである。
では反論
まず、聖人が当時無名であった点
特に驚くには当らない、まず聖人が法然師も許に居たのは、たしか一年ほどの話であり法然師にとっても特に重きを置いた弟子では無かったようだ。(浄土宗側では、法然師と聖人の接触を否定する見解もある。)
また、聖人は人生の多くを関東の地での地道は布教活動に努められた訳で、中央仏教界では無名の存在であったとしても不思議は無い。
尚、蓮如上人が実際の真宗開祖であると言う話、確かに本願寺と聖人及び蓮如さんの関係だけを見れば一応筋は通るかもしれない・・・。
が!、どうも多くの方々にとっては、真宗=本願寺であり、本願寺以外にも多数の真宗教団が存在することを認識していないようだ。
ちなみに真宗教団の定義としては、聖人を開祖とする事・専修念仏すること・阿弥陀如来像ないし六時名号(所謂、南無阿弥陀仏)を本尊とする事・・・等であり、諸説あるが20〜30程の宗教団体(寺院を含む)民俗信仰などが真宗教団であるとされている。
これらの殆どは本願寺と無関係であり(興正寺は一時、西本願寺と行動を供にしていた)共存はしているが、同化する傾向には無い。
もし、真宗の実際の宗祖が蓮如上人ならば、聖人は、本願寺にとってのみの宗祖で無ければならない事になるわけで、こうした非本願寺真宗教団が存在することに説明がつけられないであろう。
別稿でも触れたが、親鸞聖人のながれを組む、浄土宗各派が自分自身が独立した宗派との自覚を持つようになったのは、室町時代終盤から江戸時代初期の話である。
そんなあたりからも、実際の宗祖は・・・と言う発想が出てきたのかもしれない。
親鸞聖人は、現実に存在した人物なのである(その人物像に関しては多少は後世の粉飾もあるかもしれないが)紛れも無く聖人は真宗の(その自覚無き)宗祖なのである。
歎異抄の中に二種廻向(往相廻向=極楽往生・還相廻向=現世への復活)がはっきり語られていると言う。そういえば確かに聖人等を菩薩の化身とする考え方は実際存在する。
聖人の死生観とは、まず極楽は真仏土報土と化身土浄土がある。前者は他力の人が直接往生する、そこは「光」に満たされた世界=真宗では光を真の精神救済の象徴とする。後者は自力及び自力を交えた人が行く、そこは物には恵まれるが、所詮物欲は新たな物欲を生み、常に満たされる事は無い・・・、そこに長く留め置かれることになる。
一方、真仏土報に過ごす人は、ある時願身仏を起こし、現世の人を救いたいと願い現世に帰ってくる・・・と言う訳である。
これは明らかに霊魂の存在を前提としていなければならない考え方である。
私は別項におい霊魂の存在を否定する文章を書いた、これは真宗が霊魂を否定しているのでは?と言う考え方も援用しているが、本意は心霊現象等の与太話を批判の対象としたのである。(当時テレビで心霊現象の発生メカニズムを科学的に証明する番組を見たことも影響している)
死んだら実際にどうなるのか、それは死んで見なければ判らない(それを知る為に死んで見たいとも思わないが・・・)極楽浄土は存在する、そしてそこから戻ってくることが出来るとは、なんとも元気の出る話ではないか!我ら煩悩具足の徒が他力を信じ(同時に物欲もたぎらせて^^;;;)心の平安を見出す事が出来る、それが念仏・他力の世界かも知れない。
以前
#1門徒、どうも真宗帰依者を特定する用語らしい?当初は浄土宗内部での分類上の用語であり、侮蔑的なニュアンスを含むらしく、自ら名乗るべきではないようである。しかしながら便宜上使わざるを得ないケースは多いように思われる。
その後、いろいろ調べてみると「門徒」とは、まさに真宗/浄土真宗帰依者の事を特定する用語であった。
さらに、自ら「門徒」と称するケースは「多々ある」のである。(私自身、師への最初のメールには「私は真宗門徒です。」と名乗っていた)もはや、外からの侮蔑的表現云々は、どうでも良いように感ずる。
それがなんであれ、自ら名乗る(それも誇りを以って)のなら、一切問題は無い!
一向宗は封じられたが、門徒は市民権を得た、それでいいのだと思う。それが歴史であり人生である。
さて、ちょっと前の話ですが。正月に実家の菩提寺の新春法要に行ってきました。
内容は正信偈と念仏和讃をお坊さん達といっしょに唱えて、それから住職さんの法話があり最後に酒が振舞われて(ワンカップあたりが出るのかと思ったら、猪口一杯だった・・・カンケイナイ)で、じつは正信偈を実際に聴くのは初めてだったのです。
そして今まで、これはお経のような節回しで吟ずるものかと思っていたら全然違うのですねぇ〜。何と言うか歌を唄うような感覚でした。その後の念仏和讃なんかは完全に音楽だと感じました。−独唱部分と斉唱部分もあるし−楽譜に採れそう、そして、ある種勇ましく歌い上げている様にも聞こえました。
そういえば題目は、お経のような節だけど、お念仏は平坦に唱える感覚ですね。−でも、ナンマイダなんまいだ。。。はステレオタイプのお経・お坊さんだけど−その時、中学校の音楽の先生が「お経なんかも、ある意味音楽だ」とおっしゃられたのを思い出して妙に感心してしまいました。−独唱あり斉唱あり、木魚を叩きながらはパーカションの弾き語り・・・等々その先生はおっしゃいました。ホント−
ところで私が持っている真宗経典では(多分他も)最初に出ているのは正信偈次いで和讃その後うた、となっています。そして本当のお経は、かなり後回しになっています。正信偈は、お経とは違うと言うのは知っていました。親鸞上人が、お書きになったものであり、念仏者としての心構えのような事を書いたものですよね?ねっねっねっ?
いずれにせよ、この配置から行より信を重んずる真宗のあり様を表している様に感じられます。−極端な形、「信」さえあれば良い、実は念仏すらも必要ないとも言えるのでは?−
それにしても真宗のお坊さんが、お経を吟ずる機会は、それほど無いのではなどと思ってしまいますが、実際はどうなんでしょう?日々のお勤めの時には吟じているのか?法要等でもあまり、お経らしいのは、あまりやってない気がしますが・・・?
それから住職さんの法話に関して、時間的には短いものでしたが(今回はそれを目的とした集まりではない)なんかギャグとかうまく使って、笑わせてくれるものでして、落語の原点は僧侶の説法だと言うのが納得できました。
ちなみに内容は、その日の寒さを引き合い、寒い本堂での年配のお坊さん達をからかうような話から(ちなみに、その住職さんは若い人)冬の寒さを乗り越えて春が来る!と言った感じで「日本の未来に希望を持て!」と言った所に着地させていました。
それから参加者の顔ぶれですが。やっぱり多いのは年配の人ですね、下手したら私が一番若いかも・・・ただしU20は除く−おそらく祖父祖母に連れられた孫たち−でもまあ若いうちから抹香くさい事に手を染めようとする人は日本人には、特に真宗門徒には・・・?少ないとは思います。考えてみれば、親父も若いころは正月にお寺に行こうなどとは言い出さなかった、最近のことです。
将来のおじいちゃん。おばあちゃんたちも今は寄り付かないが、いずれは、こう言う所に出入りするようになるのでしょうか?
考えてみれば、私も親父に誘われたからであり、現住所の近くにもそういう機関・機会はあるが、どうも敷居が高いのが現状です。
なにはともあれ、葬儀・法要(事)以外で、お寺の儀式に参加するのは初めての事ですが。色々新しい発見があって、おもしろかったと思います。今後も機会があれば参加してみます。そして新しい発見等も、このコーナーにUPしていきます。
ところが、どうすれば阿弥陀如来像になるのか、さっぱりわからない・・・(??)ならば調べて見よう!と言う事で、その中間報告です。 基本的に「九品来迎印と呼ばれ、両方の手とも親指と人差し指または中指、薬指で円を作っている。」「頭光(頭の後ろに後光が差す・表現上、真円に放射状の線)」が必要条件のようです。なお派によっては身光(体の後ろの後光・表現上、楕円かマント状)を持つ場合もあるようです。その他細かい約束事があるようですが。これはまたの機会に・・・
安置の仕方ですが。他の宗派についても(浄土教)触れて見ます。
融通念仏宗・十一尊天得如来画像(阿弥陀如来を中心に十体の菩薩像が描かれた画像)
時宗・「南無阿弥陀仏」の名号との事ですが。私の家から程近い、清浄光寺(遊行寺)=時宗総本山の本尊は阿弥陀如来坐像でした。このあたり本山と末寺また檀家では違ってくるのかも知れません。
浄土宗・阿弥陀如来立像で右側に観世音菩薩像、左側に勢至菩薩像を伴う、いわゆる阿弥陀三尊を
それぞれ本尊とするとの事です。
そして浄土真宗では。
阿弥陀如来像(方便法身(ほうべんほっしん)の尊形)あるいは「南無阿弥陀仏」の6字名号
右側に「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号、左側に「南無不可思議光如来」の9字名号
本願寺派(西)で中央が阿弥陀如来像の場合に限り右側に「親鸞聖人画像」左側に「蓮如上人または前宗主の画像」を安置する場合がある・・・。となっています。
尚、仏壇の造り等についても次の機会に譲る事にします。
ところが、下間如宴師におたずねすると
これは(聖人画像安置)、実はお西に限らず末寺の荘厳方法であるのです。正しくは、左側は先代宗主を安置する;代替わりのたびに変えるのは大変なので、蓮如上人をかけてあるところが多い。門徒さんも明治以降これを真似て安置し始めた物で、江戸時代は【許可制】で、どの末寺でも安置できるわけではなかった。
また、名号についても
これも、先ほどの親鸞聖人や蓮如上人像と同じで、別に西本願寺に限ったことではありません。本山に願い出れば、(早い話が九字十字名号より、願金が高いということです。)下付を受けることが出来ます。
本尊を六字とすることは、「木像より絵像、絵像より名号」という蓮如系教団では当然のことで、特に珍しいことではありません。
との御尊答でした。私が主として回ったのが仏具屋さんのサイトだったので、教団の統制と仏具製造/販売者の営業戦略が相まって上記の様な区別がされているのだと思います。
ところで、あくまで一説としながらも、右側に親鸞聖人像、左側に蓮如上人像が、実は観音・勢至にあたると言う考えを示されました。
詳しい事は省きますが。
まず、法然上人は勢至菩薩の権化とは、親鸞聖人御自身の御領解の姿であり、更にいうならば、蓮如上人は法然上人の再来、とされています。
右側、聖人は聖徳太子を観音菩薩と崇めましたが、聖人の死後聖人御自身が観音菩薩に擬される様になり、更には如来そのものに擬される様になります。西本願寺を除く真宗本山が御影堂を本堂阿弥陀堂の右側に置くのは御影堂を観音堂に見立て、聖人を観音菩薩に擬して居るに他ならないと考えられます。(西本願寺は御影堂を京における上座=北側に置いた為、見た目上は左側に位置する)
尚、本山の本堂阿弥陀堂においては如来像の右脇は聖徳太子像、左脇が法然上人像であります。よって
観音菩薩=聖徳太子=親鸞聖人
勢至菩薩=法然上人=蓮如上人
と言う事で真宗本尊は形を変えた阿弥陀三尊像であるのです。
浄土真宗と真宗。どちらが正式名称?答えどちらも正解(^^)真宗は単なる略語では無いのです。
宗祖、親鸞上人は、どちらも、お使いになったと伝えられます。ただし上人御自身には開祖としての自覚は無く、あくまで法然上人の弟子の一人として御同行(上人は御自身の弟子をそう呼んだ)と共に念仏の教えを広める・・・と言うお立場を終生お取りになられました。
尚、浄土宗の派祖の中には「浄土真宗」を用いた例もあるそうです。(但し法然上人御自身は用いられなかった)
まあ現象面から言えば鎌倉期から室町期にかけて真宗(便宜上使用)門徒#1は自らの位置付け、すなわち自分らは法然上人を開祖とする浄土宗の一派か?親鸞上人を開祖とする独立した一派か?で悩み続けたと言って良いと思います。
しかしながら室町後期に至ると真宗教団は数の上でも浄土宗を凌ぎ、誰がどう見ても独立した一派の体裁を整えるようになります。それに対して世間が与えた名は「一向宗」です。これは信仰に対する、ひたむきさ、を表現する一方、多分に皮肉の意味合いもあり、蓮如上人は、自ら称すべきでは無いとされました。
江戸期に至るも一般的には「一向宗」が通例のようでしたが、幕末になって蓮如上人の遺志を受け「浄土真宗」を公称する動きが起き、幕府も一時はこれを承認する構えを見せました。しかし増上寺#2が反対を表明したのを始めとして浄土宗各寺院が反対の論陣を張り、対応に苦慮した幕府は判決を壱万日の御公儀預かりとして判断を保留いたしました。
結局その壱万日が過ぎる前に明治維新が起き幕府は崩壊し、その混乱に乗じ「真宗」を名乗る事になったのです。ちなみに、この時点で真宗としたのは、浄土宗からの批判をかわす目的で他意は無いと考えられています。その後、本願寺派(西本願寺)は徳川幕府の裁定である壱万日を経過したとして「浄土真宗」を名乗る一方、他の真宗各派に対しても「浄土真宗」を称する様求めましたが。大谷派(東本願寺/真宗本廟#3)等真宗他派は応じませんでした。これは、本願寺派(西本願寺)に追従することが、同派を真宗の正当と認めることに成る・・・と言う事のようです。
尚、戦後の、いわゆる「お東騒動」の結果、大谷派から独立した、東本願寺派(東京本願寺/東本願寺#3)
は、浄土真宗と称しています。これは、大谷派が真宗を称しているのに対抗してのようです。
#1門徒、どうも真宗帰依者を特定する用語らしい?当初は浄土宗内部での分類上の用語であり、侮蔑的なニュアンスを含むらしく、自ら名乗るべきではないようである。しかしながら便宜上使わざるを得ないケースは多いように思われる。
#2増上寺、関東における浄土宗教学の拠、徳川家康が江戸に入府すると、これを菩提寺として扱うようになる(徳川/松平家は代々浄土宗)将軍家菩提寺と言う事で、幕府にたいしても、こと宗教面になると影響力は大きかった。
#3東本願寺、京都に存在する東本願寺は正式には単に「本願寺」とするのが正しい。但し現在の正式名称は「真宗本廟」また便宜上「大谷派本願寺」とも称する。東本願寺は、あくまで通称・・・と言うものの事実上公式名称である。
西本願寺も同様、正式には単に「本願寺」ただし「龍谷山」と言う山号を持つ、また便宜上「本派本願寺」とも称する。
大谷派から独立した東京本願寺は現在「東本願寺」を正式名称としている。
つまり、細かい所に、こだわれば、東本願寺とは東京本願寺の事である。