2012年9月17日 どこまで手を出すか
昨日は長女と長男の運転する車の助手席に乗った。目的地への往路が現在仮免許の長男で、復路が初心者マークの長女。
事故を起こさないように、転ばぬ先の杖として注意している自分がいた。
「次のクランクは最初に右に寄せてから、はい、左にハンドルきって」
「この車が行ってしまってから、そこに入ろうか」
「車の左隅があのポールのところにいったら、右にハンドルきって」
正直、緊張してどっと疲れた。
事故も起こさずに無事に帰ってこられてよかった。
しかに寝る前に家内と話しているうちに、これでよかったのだろうかと思い始めた。
結果的には事故を起こさず無事に帰って来ることが出来たが、あれほど手取り足取り注意をするべきだったのかどうか。
自動車の運転でこんなことだったら、いざ子供たちが結婚して子供を育てるようになったなら、やはり転ばぬ先の杖になり、あれやこれやと口を出し、手を出してしまうのではないかと自分で不安に思った。
次にもしも同乗するようなことがあったなら、ほとんど口を出さずに、聞かれたときだけ答えようと決めた。そのくらい決意してもいろいろと杖をコツコツやって、手をとって気をつけて橋を渡るのだよとやってしまいそうだから。
もうふたりとも大学生。自分が大学生だった頃を思い出してみても、経済面以外でどれだけ頼っていただろう?何か手を取って教えてもらったことがあっただろうか?「気をつけてね」という心配そうな母の顔と言葉だったような気がする。そして、いつも通りの「いってらっしゃい、何かあったら連絡しな」という父と。
それだけでいいのかもしれないな。
2012年7月5日 料理当番
早いもので開業して15年が過ぎようとしている。緊張しながらも歯科医院をはじめたとき長女はまだ幼稚園、長男は3歳、次女が1歳。3女と4女はまだ生まれていなかった。それが今では長女と長男は大学生になり、次女が高校生、3女も中学生、末娘の4女も小学5年生になった。大学、高校、中学、小学と全部そろっていることになる。
大学生は学校とバイトで忙しく、晩ご飯に7人全員が揃うことが少なくなってきた。それだけにみんなが揃ったときには「なにか御馳走にしようか」という気持ちになる。
今年になってから次女、3女、4女の3人で料理当番制度を作った。ひとりが晩ご飯で1品の料理を作る。私がみそ汁、おかず2品。残りの二人は食後の洗い物とお茶碗拭きだ。毎回レシピを見ながら作るのだが、少しずつだが手際が良くなってきた。私が作ったことがないメニューを選んで作っているのか、いつも新鮮な気持ちで食べることができる。やはり人に作ってももらった料理はうまい。最初は包丁を持つ手も見ていられなかったが、今では自分で冷蔵庫の中から食材を見つけて、その材料で作れるメニューを探して、すべて自分一人で1品を作り上げる。私はほとんど手出しはしない。質問にだけは答えるが、出来るだけ最初から最後まで一人で作ることにこだわる。
「ご飯だよー」と家族みんなを呼び、自分の作ったおかずをみんなが食べる瞬間、それを作った本人は息をのむ。おいしいと言ってもらえるだろうか?心配なところ。
「うん、いいんじゃない。おいしいよ。」と言ってもらえたときの「やった!」という小さなガッツポーズの笑顔を見る時が、私の至福の時間だ。
2010年5月29日 変幻自在
気が付けば1年半もこの育児日誌を更新していなかった。
個人のブログは毎日のように書き綴っているが、歯科医師としての文章となるとやはり気をつかうところもある。
誰しもいろいろな自分を演じている。私はおおまかに言えば、歯科医師、ちょっと厳しい父親、小難しい夫、そして、両親の前ではやさしい息子であり、兄の前では従順な弟を演じる。
ベテランの釣り仲間の下では40代の青年?であり、近所の子供たちの前では中年のおっちゃんであり、世間一般ではちょいと太り気味な大人しそうな中年男性であろう。
細かく見ていけば、5人の子供たちそれぞれに対して接し方はあきらかに違うと思う。当然それぞれの子供から見ても私のイメージ像は違ったものかと思われる。妻の前ではすべてをさらけ出せるかと言えばそうでもなく、やはり妻が思うであろう夫像を演じているのかもしれない。これはもうどれが演技でどれが実像なのかも自分でもよくわからない。患者さんに対しても大変丁寧な言葉遣いの人にはこちらも自然と丁寧になるが、初対面から気さくな人ではこちらもそれ相応の返答をすることになる。すべての患者さんに同じ対応をするのはよほど意識しない限りは難しい。
人はその時の相手に応じて、自分を変幻自在に姿をかえるカメレオンみたいであり、本当の自分はいったいどれなのかもよくわからない。ただ、どの自分を演じているときが楽なのかはわかる。歯科医師であるときが一番緊張し、自分のことをまったく知らない人の中にいる時が一番気が楽である。ただ困ったことに「キャラがかぶった」時の反応は歳と共ににぶくなるようで、自分が変幻するのに時間がかかったり、あえて変幻せずにそのまま演じ通すか、その場から消えるかということになる。
家族というものは、演じるキャラクターが決まっている分居心地がいい。ただ子供たちは成長するにしたがってキャラがたってきたり、キャラを変更したりすることになるので、その都度居心地が悪くなることある。その新しいキャラを家族に認めさせるのに時間がかかるからだ。「あなたはそんな子じゃない!」「うちの息子はそれはやさしい子で」というイメージを覆すのは、子供にとっては大変な労力でありストレスでもあるだろう。結局、親の前では親が思い描いている子供像を演じているのが一番無難であり、親を安心させる秘訣であるが、それが苦痛であれば家を出るしかないのであろう。
どんな自分を演じている時が「楽」であるかよりも、自分が演じているいろいろな自分の中でどの自分が一番好きか。そして、それは誰を相手に演じているキャラなのかによってその相手に好意をもつということもある。恋人が出来たら娘が急に女っぽくなったとか、今度のグループに入ったら息子のガラが悪くなったやら。
自分探しの旅は遠い異国に行かなくても、身近においていろいろな環境に接し、たくさんに人に出会い、書物や絵画や音楽に出会い、刺激を受けることで今からでも変幻自在になりうる。自分の居場所がなかったり、居心地が悪かったり、演じるのに疲れたりした時は、相手の反応を怖がり怯えるくらいなら居場所を変え、キャラを変えられたらどんなに楽だろうと思う。
これは「歯」でも同じことを言える。
居心地の悪い環境では、歯は消えてなくなろうとする。お前は必要がないと言われれば崩れていく。褒められ感謝され必要と思われていると元気に働いてくれるものである。
今まで何十年も虫歯にならなかった歯が、なぜ今になって虫歯になるのか?それはきっとその歯にとって生きづらい環境になってしまったのかもしれない。また、一度虫歯になったが、その後その虫歯が進行するでもなく落ち着いてしまうこともある。歯もその時その時の状況に応じて変幻自在なのだと思う。しかし、他の柔らかい組織よりは不器用かもしれない。
不器用で頑固なやつだけど、信頼出来て頼もしいやつ。
信じてあげればいい仕事をしてくれます。
愛してあげればきっとその愛にこたえてくれるはず。
2009年1月2日 親の所信表明
我が家にはこれから反抗期をむかえる子、もう反抗期が過ぎた子、そして現在反抗期の子とそれぞれ揃っている。我が家の子たちの反抗期はおとなしいもので、ここのところ機嫌が悪いなと思う程度。私自身も親から言わせればその程度だったと聞いている。
反抗期が終わった子たちとの会話は友達感覚で楽しい。酒でも飲みながらもっともっと話していたいという気分になる。反抗期前の子たちとの会話は大人対子供の会話になり、反抗期中の子との会話は少なくなりがちとなる。反抗期には親との距離が広がり何を考えているのか心の温度が伝わりにくくなる。疑心暗鬼になり自分は親から愛されていないのかもしれないと思ったりもする。
だから積極的に愛しているよと伝えた方がいいというのではなく、あくまでも放っておくのがいいかなと思っている。もしも、大きく道を外しそうになるようならばその時は大声をあげて教えてやったり、身体を張ってでも道から外れないようにするべきだろうが、親が同じ年頃にやってきた範疇であり自分も道を外さずに来たのであれば見守っていていいのではと思う。
子供が年頃になると、お小遣いのこと、門限のこと、勉強のこと、進路のこと、異性とのこと、携帯のこと、様々な場面で親の所信表明をすることになります。「他の家ではどうか知らんが、我が家では門限は○○時にする。」やら「そのようなお金は子供が持ち歩く金額じゃない」やら、昔のおじいちゃんが言っていたようなセリフも堂々と言う。嫌われても自分が嫌だと思ったことは子供に伝える。
これからは進路についての所信表明を迫られる。これは親の人生観がそのまま出るので要注意です。必要以上に多くを語らない方が無難だろうなと思います。本人の素晴らしい決意を親の擦れっ枯らしの屁理屈で汚してはなりません。
2008年6月26日 育児日誌も書きづらくなって
早いもので長女が高校2年生、長男は中学3年の受験生になった。さすがにプライバシーを気にするようになるので本人たちのことを書くのは心苦しい。教職にあった私の父が私の事を生徒たちに話していて、その生徒が偶然にも私の学校の私のクラスに転校して来たことがあり、「あの栗原先生の息子ってあなただったの。じゃ、あの事って本当?」と、私の知られたくない事を知っていたのには驚いた。そして父に抗議したものだった。それと同じ事を私もやってしまうことになるので、あまり細かいところまでは書けないようになった。
私も家内も18歳で大学に入学し、その時に実家を出た。そして、私はそれ以来実家に住む事はなかった。我が家の子供たちにも「18歳になったら家を出ろ」と言っている。実際はいろいろ事情があって自宅に住む事も多いだろうが、原則として高校卒業したらそこで家から出るという意識を持ってもらう。「いたかったらいつまでもいればいいさ」という気持ちは親として当然あるが、その言葉に親子で甘えていてはいけないだろうなと思う。
長女はもう17歳になる。あと1年ちょっとで高校卒業。ついこの間生まれて、ハイハイをして、立ち上がり、幼稚園入学、大きなランドセルを背負って小学校入学、中学と受験を乗り越えて高校生活が始まってちょっと落ち着いたなというところ。それであと1年ちょっとで家を出る。
「なんと短いことよ」
しみじみそう思う。今は毎日娘との会話を貴重な時間として楽しませてもらっている。「私は7人家族です」と言えるのも、思ったほど長くはないのだなと思った。家族7人揃って暮らしている年数は思ったほど多くないのだ。今は毎晩高校から「ただいま」と帰って来る長女も、それこそあと10年もしたら「いらっしゃい」と迎えて「おい、親戚のおばちゃんが遊びに来てくれたぞ」と孫に言うことになるかもしれないのだ。10年は大げさかもしれないが可能性がないわけではない。
40代半ばになって、人生の流れるスピードが加速して来たように思う。身体の老化現象もそう思わせる要因のひとつだ。子供たちがグイグイと大きくなり、自分が小さく見えて来たりもする。これは錯覚なのだろうか?
子供の成長期には心とのバランスが取れなくなる時期がある。大人も、自分の老化をしっかりと受け入れないと心とのバランスが取れなくなるのかもしれない。ここはひとつ、子供たちも親たちも節目の時なのかもしれない。
2007年9月16日(日) 家
家内が図書館から借りてきた本を紹介してくれた。
「子供をゆがませる間取り」 情報センター出版局 横山彰人著
「男と女の家」新潮選書 宮脇檀(みやわきまゆみ)著
どちらもなかなか興味深いことが書いてあった。
「子供をゆがませる間取り」には、
・子供部屋と玄関を結ぶ動線上にダイニングやリビングを!
・子供部屋は6畳と決めつけず、ベッドと机が置ける3畳でいい!
・子供部屋にテレビやパソコンなどの設備はいらない!
・「引きこもり」を招かないよう、リビングに子供の居場所を!
・日当りの一番いい場所は子供にではなく夫婦に部屋に!
など、「そうだそうだ!」と言いたくなるような事が書いてある。
「男と女の家」には、
・父親の居場所がない家には、父親専用の椅子を置こう!それも5万円以上のものを。家族は座るべからず。
・家作りから逃げた男たち。
・家が「女の家」になってしまいすぎて、男が落ち着かない家になってしまっている。
・男のいない家に育つ子供たち。
・夫婦別就寝が普通になるとき・・・。
私たちはどんな生活に憧れて家を建てるのでしょうか?モデルルームのような家の中でハイセンスな生活なのか?お客さんを呼べるような家なのか?子供は勉強に集中出来、父親は書斎に、母親も趣味の出来る個室主義の家なのか?
イメージとして「オシャレに暮らそう」という幻想に踊らされてしまって購入したものの、現実の生活とのギャップで使いづらく、本来の目的とは違った使い方の家となってしまっているところがあります。
勉強机と荷物だけ置いてあり、子供が入らない子供部屋。物置となっている父親の書斎。小物置き場となっている台所のカウンター。たくさんの収納があるにもかかわず家中に散らばるいるのかいらないのか分からないような品々。
我が家にとっても耳の痛いところもたくさんありましたが、「なるほどなぁ」と思ってしまうことが多くありました。これから家を建てようと思う方には参考になるかもしれません。
1月27日(土) 座椅子
居間にはコタツがあり、その上座には私の座椅子が置いてある。私だけがその座椅子に座れ、他の家族がそこに座ることはない。以前は小さい末娘がその座椅子に座ったりもしたことがあったが、兄や姉たちに叱られて、それ以来座らないようになった。私はその座椅子に座るなとは言ったことがないが、自然とそういう雰囲気になった。その雰囲気というのが大切なのだと思う。
私が子供の頃もそうだった。父親の座椅子には座れなかった。父親の使う枕や座布団を跨ぐことさえ抵抗があったように思う。目上の人に対する当たり前の気持ちであり、当たり前の行動であると思う。父親が食事をする座椅子に誰が遠慮なく座れるだろうか、まして食卓の上に誰が登れるであろうか。
しかし、昨今子ども達がテーブルに登り、目上の人の椅子に平気で座り、目上の人に敬語も使わず、挨拶も会釈も頭を下げるでもなくなく、横を通り過ぎて行く。
子供が学校での出来事を話してくれる度に嘆かわしく思うことがある。学校の先生にニックネームが付けられているのは良いが、それを先生ご本人に対しても使用しているということには目が点になった。先生と会話するのに敬語も使わず、廊下で校長先生とすれ違っても頭さえ下げないとのこと。それで叱られないということも驚くべきことである。
父親とは友だちみたいな関係、先生とも仲良くため口で、というのはやはりおかしい。権威主義がいけないとかそういう問題ではない。まずは家庭において父親や祖父母の威厳がなくなることは、学校での先生の威厳がなくなることに等しい。部活内でも先輩との上下関係もあやふやであれば、そういうことを学ばずに、社会へ出てしまったら、それは悲しい現実である。
敬語を使えない子供たちが、頭を下げられない子供たちが、厚顔無恥無知な子供たちが蔓延してくると日本の未来はどうなってしまうのだろうか。権利ばかり主張する子供ばかりになったら、自分の義務はなにもせずに、他人の義務ばかり押し付ける子供ばかりになってしまったら、そういう自分を恥ずかしく思わなくなったら、「恥」という概念の中で美しく生きてきた日本という国は崩壊することだろう。
平成19年 1月14日(日) 趣味の歴史散歩
群馬で生まれ育ち、滋賀県大津市で暮らすようになってから10年弱が経過した。京都・奈良をはじめとする近畿地方の歴史は、私のような歴史好きにはたまらない。休みの日ごとに大津周辺はもちろんのこと、滋賀県の神社仏閣、京都奈良にまで足を伸ばし、有名どころはほとんど周りました。我が家の近くを走る京阪石坂線(大津市石山寺~坂本を結ぶ路線)は各駅で下車し、駅周辺を散策したり、JR駅も行ける範囲であちこちと廻った。
ここ数年は釣りに夢中になって中断していた歴史散歩も昨年の夏頃から復活。今度は歩くことが楽しくなり、昔の東海道を歩いてみるついでに旧東海道沿いの神社仏閣を巡ってみたくなった。いきなり長距離を歩くのも身体がついて行かないので、少しずつ近所の散歩から慣らして行き、今年の正月休みには最初の目標でもあった大津宿~京都三条大橋を歩くことが出来た。時間的には3時間半ほどの散歩であり、一日中街中をウインドーショッピングしているのに比べたら歩いている時間は少ないのだが、それでも何気なくのんびり歩くのと、せっせとゴールに向かって早歩きするのとでは気合いが違うというものだ。
昨年初冬には瀬田の唐橋~草津宿までの3時間コースは歩いていたので、それも今回への自信にもなっていた。そして、先日は大津市坂本~堅田までのコースも歩いてみた。この時期名物の比叡おろしも吹き荒れる中の散歩だったが、歩いていると少し汗ばむほどなので、真夏の汗だくの散歩よりは歩きやすいかもしれない。
昔とは風景も違っているが、それでも現在の風景の中から昔の風景のパズルのワンピースでも見つけられた時の感動は格別なものがある。また、私の6代ほど前の祖先は群馬県から東海道を歩き、お伊勢参り済ませ、四国の金比羅参りから山陽道へと渡り、大阪・京都を通って中山道沿いに群馬までの旅をした人であるから、その足跡を辿りたいという気持ちもあるのかもしれない。
もしも、私の6代後の子孫が私が歩いて書き残した駄文を読んでどう思うか。そんなことを思いながらほくそ笑み歩くのもまた楽しいものである。
6代前の祖先も、まさか6代後の子孫が琵琶湖の畔に住み、こんなことを考えながらパソコンに向かい文章を書いているなどということを想像出来なかったことだろう。
さて6代のちの子孫が暮らす日本はどんな国になっているのやら。よい国を残すために今なにが出来ることだろう。自分のことだけでも精一杯な私が6代のちの子孫のため、また日本のためなど考えることは笑止千万ではあるが、それを考えなければならないような現状を見ると、ひとりの人間の人生など、ひとりの人間が出来ることなどほんの一瞬の出来事であり、木の葉が木からほろりと落ちる程度のことなのだろうが、しかしそれが大きな行動の一歩であることを信じるのみである。
歴史街道を歩いていると、歴史の流れの大きさに圧倒される。大自然の中で自分の小ささを知るように、大河なる歴史の渦の中での自分の存在のいかに小ささを実感する。小さくても誰しもそんな中で元気に大きく生きているものなのである。
さて明日も取りあえず生きてみよう。
06.07.06 老眼鏡
いよいよかぁと思った。老眼鏡を作ってもらうためにメガネ屋さんへ行く事にした。
ここ数ヶ月というもの、やたらと目が疲れ、ピントを合わすのに苦労をしていた。仕事が忙しくて疲労によるものだと思っていたが、どうやらこれが老眼というものらしい。普段の生活の中ではまったく支障がなく、新聞の小さな文字も、文庫本も問題なく読める。それだけに老眼とは思ってもいなかった。しかし、治療中の目の前20cmほどの距離の0.1mmほどのものを見つめる時には非常に疲れるのである。老眼でなくても非常に疲れると思うのだが、今まではそれを難なくやってきた。裸眼でも見えるのだが、ピントを合わせるのに少しの時間がかかるようになり、そのピントを継続するのに筋肉を緊張させているのが分る。ピントを合わせる時間も初期の一眼レフAFくらいと言えば分る人に分るだろうか。
メガネ屋さんで視力検査をしていただくと、やはり老眼は始まっているらしい。しかし、今まであった近眼の方はよくなっているとか。両裸眼で0.7だった視力が1.0になっていた。近眼のメガネが必要ないほどだ。普段は車の運転の時だけしかかけていなかったから、それも気がつかなかった。
今回作ってもらった老眼鏡も特別のピント調整で作ってもらった。というのも、目先20cmでピントがシャープに合うようにしてもらったのだ。大抵の老眼鏡はそこまで近距離指定はしないものであるらしいが、仕事用と割り切ってあえてそのように設定してもらった。だから普通に新聞を読む時は老眼鏡がないほうがよく読めるという変な老眼鏡だ。
歯科医の目は大変だ。歯を削るたびに細かい歯の削片や金属の粉、ばい菌を含んだ唾液などの飛沫が飛び込んでくる。そして、極度に明るく照明を当てた細かい部分をミクロ単位の解像度で見続けるのである。休日はなるべく緑色を見たくなるのは、目がそれを欲しているためなのかと思ったりもする。
30代までは、目は見えて当たり前だったような気がするが、これからは目だけではなく、あらゆる臓器を含めた身体と心と正面から正直に相談して生きて行かないと、自分自身から苦情を受ける事になりそうだ。
04.12.16 お陰さまで7周年
早いもので栗原歯科医院が開院して丸7年経ちました。開院して2年後に3女の万里子が生まれ、そのまた2年後に明日香が生まれて、その明日香が今年3歳の七五三のお祝いをすることが出来ました。
近江一宮の建部大社にお祓いに行ってきました。無事にお祓いを済ませ、いただいたお土産で遊び始めましたが、このおもちゃが妙にうるさい。厳粛な神殿に響き渡るなんとも間抜けなおもちゃの音。明日香が大喜びだが、どうも場違いな感じでした。
ひたすら膨らませては大音量をあげる
もうそれはそれはご機嫌です
3歳の七五三を行うのはもうこれで終わりかと思うと、とても感慨深いものがありました。まだ万里子の7歳と明日香の7歳のお祝いがありますが、3歳の七五三は終わりです。これ以上授からなければの話ですが。
病気がちだった由香里の七五三は、本当にうれしかった記憶があります。よくぞ3歳まで生きてくれたと思いました。
いつも元気で、元気が当たり前だと「七五三か、面倒だなぁ」と思いがちですが、元気で生きていてくれること、毎日笑顔を見せてくれること、やさしさをくれること、それだけで「ありがとうございます」と神様にお礼を申し上げたくなります。
今年も残りあとわずか。この1年にやり残した事はないか。来年にも出来ることならいいが、今年でなくてはならないことは、やり残しがないように。
04.11.11 便利な世の中だが
夏に車で群馬の故郷へ帰省した。8時間かけて片道500km以上を走破した。高速道路もない昔なら車でも途中どこかで宿泊しなければならないような距離である。新幹線で行けば5時間ほどで群馬へ到着出来るが、その分運賃も高くなるが、時間を有効に使う、時間を買うという意味では今の時代意味のあることなのであろう。それだけ往復に使う時間が短縮出来れば、帰省先でゆっくりする時間もとれるし、遊べる時間も多くなる訳である。
だが、これは有効な時間が得られたと思っていいのだろうか。何か失ったものはないのであろうか。
本来なら時間をかけて群馬まで行く間に様々なものを見て、様々な出来事が起こりそれを体験すること。群馬に到着するまでの間にゆっくりと故郷のことを考え、想い、懐かしむ時間。道中の地域の様々な自然、文化、風俗などいろいろなものに触れられ感じる事が出来たものを、すべて一瞬のうちに通り過ぎてしまう。目的地までの時間は出来るだけ短い方がいいという最近の風潮であるが、それは、結果のみをなるべく早く、合理的に、効率よく得るためだけのことではないかと思われる。
いつも「時間がない時間がない」と追いつめられた生活を過ごして、人生の目標を「老後の楽しみ」としている人もいるようである。途中の経過は不必要なもので、出来るだけその経過を簡単に安くするような生き方というのは、やはりどこかおかしい。
故郷までの道のり、この時間をもっと短くする努力よりも、その時間を有意義に過ごすことが大切なのかもしれない。人生も、早くに目標達成を目指すのではなく、それまでのことをいかに有意義に生きるかなのかもしれない。
急いでも焦っても仕方がない。時間は自分の感情とは別世界で着々と過ぎて行く。釣りをやっていると、そんな気持ちになってくる。
04.09.19 散歩の効用
1ヶ月ぶりの育児日誌更新。
お盆休み前あたりから、飼い犬のスズの散歩を長女と長男にまかせるようになった。いつもは仕事が終わって晩飯を作り食べてから3人で湖岸まで出かけていたが、仕事が忙しく疲れたことを言い訳に「行って来てくれ」と任せるようになった。2人は不満そうに出かけて行った。そして散歩コースも短くなった。
それからというものいろいろと変化が起きて来た。お盆休みに実家に帰省していたが、その時の暴飲暴食で腹が出てズボンがきつい。身体が重い。
そして一番は息子の機嫌が悪く、イライラしているように見える。散歩コースが短くなったスズもどうも調子がよくないようである。
そこで再び私を含めた散歩が始まった。そして、私は毎朝簡単ではあるがラジオ体操をはじめた。すると10日間ほどでズボンのきつさは感じなくなってきた。
以前と同じ湖岸を回ってくる散歩コースに戻り、その道中に息子はしゃべりまくった。ひたすら学校でのことやいろいろと疑問に思う事、不安に思う事を話してくれる。今まで溜まっていたものを吐き出すように。息子の普段の表情が少し変わってきた。
なにげなくやっている普段の行動のひとつであっても、それを辞めたときの影響は思ったより大きいものである。
釣りをはじめておよそ半年が過ぎた。相変わらず熱中している。休みの日は朝5時過ぎから起きだして息子と車で宇治川へ出かけることが多い。先日は次女も参加した。はじめての釣りで20センチほどのティラピアという魚を釣った。長男の丁寧な指導の元に共同作業で釣り上げたようだ。
普段はけんかばかりの2人だが、こういう時はちゃんと仲良く出来るものである。そしてそういう兄妹の姿を見る事は親にとっては何とも微笑ましく且つうれしくなる光景である。
04.08.19 子供の寝顔
子供の寝顔をそっと覗いてみると天使のように見えると言うが、まさしくその通りであり、起きている時にどうにも手を付けられない子供ほど寝顔がかわいく見えるようである。
我が家の明日香もかわいい寝方をしてくれる。
両手を頬の下に置き、アトムちゃんを挟んで寝る明日香
それに比べて万里子の寝方は大胆である。これは性格の違いなのかそれとも身体がそもそもそうなっているのか、完全に無防備状態で寝ている。
ほとんど車に踏まれたカエル状態
それでも子供の寝ている姿はかわいいものである。
04.08.10 帰省
開業して早いもので、あと数ヶ月で7年がたつ。毎日慌ただしく月日が過ぎてゆき、目の前の仕事に追われ、子供達の成長もひとりひとりちゃんと見届けているかというと少し疑問符がつくところがある。
開業してから群馬への帰省以外では家族で旅行らしい旅行をしたことがない。泊まりがけで温泉に行くやら、もちろん海外旅行など夢の夢の話である。年に一度の群馬県への帰省。これは我が家にとって一大イベントであり、唯一の外泊旅行である。。子供達も夏休みに入る前からすでにその帰省を楽しみにしている。
群馬へ行っても、仲人さん宅に挨拶に行ったり、親戚に挨拶へ行ったり、墓参りをしたり、友人に会ったりと、特に目立ったイベントはないのであるが、家族で泊まりがけで出かけること自体がわくわくするのであろう。
親戚の家は米屋を営んでおり、お店の裏では巨大な精米機を使ってお米を精米している。薄暗い倉庫にはお米が山積みになっていてとても不気味な感じがしたりする。私も子供の頃はよくそこで遊ばせてもらったりした。今でもその当時のお米を計る道具やらが残っており、かつそれを使っている。
仲人さんのお宅も、昔ながらの和風家屋であり、庭は立派な庭園で、その裏には畑もある。お米屋さんといい、純日本家屋といいい、大人からみたら子供には面白くないだろうなと思うが、これが意外と子供の目はきらきらしているものである。
子供が興味を持つものとは、大人が想像するものとは違うところがある。昨年の地蔵盆のお祭の中でビンゴゲームがあり、それの景品として由香里が「ゴザ」をもらって来た。子供のビンゴゲームの景品でゴザというのも変わっている気がするが、これがうちの兄弟の中では人気であった。誰かを中に入れてぐるぐる巻きにしたり、それを一気にころがしたり。それを敷いておままごとしたり、そんな使い方もあるのかと感心するほどいろいろとアレンジしながら遊んでいた。
新聞広告1枚あるだけで、その中の顔写真にいたずら書きしたり、白いところには落書きしたり、折り紙やったり、工作したりする。おもちゃはしばらくたつと飽きてしまうが、工夫していろいろ使えるものは飽きずに遊ぶ。姉兄が使い方を教える、妹たちがまたそれをアレンジする。それらがとても下品であったり、少し危ない使い方だったりしても、姉兄がOKを出していたら親もOKとしている。バカバカしく思う時もあるが、それで兄弟が仲良く楽しくやっているのであれば、親は何も口を出さない。
夏休み、毎日みんなごろごろだらだらと過ごしている。親としては「何かやることあるんじゃないのか、あれとかこれとか」と言いたくなるが、なるべく言わないようにしている。だらだらごろごろの夏休みもいいじゃないのかな。自分もそうであったし。だらだらごろごろの時間も子供には必要だと思っている。すべてが有意義に、いろいろな体験をしてたくさんの事を吸収して、無駄のない夏休みもいいのかもしれないが、何をするでもなく、毎日だらだら過ごす夏休みも、それはそれでいいのかもしれないと思っている。
04.08.03 大願成就
確か7月17日の日誌に以下のように書いた。
その朋子を邪魔していた小学生組2人は、よくぞここまで私の気を落とすことが出来るなぁというような成績表を持って帰って来た。
私はおもわず、もう一度朋子の成績表を見直して、お口直しというか、元気をもらうのであった。
気を落とすことはないのである。なぜならそれは大願成就であったからである。成績が悪かったことで大願成就とはおかしな話であるが、私はすっかり忘れていた。よくぞこんなに大切なことを忘れることが出来るなと思うほど情けないことである。
それは8年ぐらい前のこと。由香里が乳飲み子だった頃に、ある病気で入院し、それもかなり悪く長期にわたっての入院生活。そしてそれがまた容態が急変したと病院から電話が入り、すぐに来てくれとのこと。慌てて順子と朋子を連れて車で入院先の病院へと駆けつけた。
NICUに入っていた由香里は、すでに顔は土気色をしていた。もうこの子は死んじゃうんだなと思った。呼吸も死ぬ間際に起こる呼吸であった。目の前が真っ白になった。
それでも今夜が峠。まだまだ油断は許さない状態から、落ち着いてはいるがまだ安心出来ないという状態が1週間2週間と続いた。いわゆる死線をさまようというものである。
とにかく親が出来ることは、ひたすら「神仏に祈る」のみ。毎晩毎晩あるお寺に通った。仕事が終わったらすぐにその「子育て呑竜」というお寺に通い詰めた。
「勉強なんて出来なくてもいいです。顔なんてへちゃむくれで結構です。どうか、どうか命だけは救ってあげてください。どうか私の命と引き換えでもあの子の命をお救いください。」と祈っていた。
そうなんだ。その願いが叶って由香里は命を救ってもらった。その上、私の命もまだ無事である。こんなありがたいことはない。
だから勉強が出来なくても、顔か尻か判別出来ないへちゃむくれであっても、それは大願成就にかわりはないのであった。
のど元を過ぎると人間は全てを忘れてしまうもの。最初は五体満足であれば何もいりません、と思っていたのが、勉強も見た目も性格もパーフェクトであって欲しいと、出来たら運動神経も金運も結婚運も恵まれますようにとどんどんエスカレートしていく。
生きていることは当たり前、と思ってしまっている。しかし、今日も生きていることというのは、全然当たり前じゃないのある。いつ死んでもおかしくない。今日も生きている。今年も誕生日を迎えられた。3歳まで生きてくれた、5歳まで、7歳までとお祝いをしてきた。晴れ着を着てお祝いすることはそういった「生きていられた」というお祝い。
お陰さまで今日も家族みんな誰も死にませんでした。ありがとうございます。明日の朝もみんな生きて顔を合わせられますように。そして家族全員でごはんを食べられますように。
きっときっと、30年後くらいにはこう考えるのだろうな。
また家族7人であの頃のように賑やかに食卓を囲んで食事がしたいなぁって。
04.08.01 モロコの南蛮漬け
台風明けの日曜日。吹き返しの風が強いながらも青空がのぞく天気となりました。朝5時半に真一郎と車でいつもの釣り場に向かいます。
釣り場に着いたらやっと山間から日が昇ってきました
午前11時前には何とか家族で食べる分だけのモロコを釣り上げて終了です。
釣った魚の種類:上からスゴモロコ、ニゴイ幼魚(もしかしたらビワヒガイ)、タナゴ、ハエジャコ(オイカワ)です。下3匹は1匹ずつ、他は全てスゴモロコでした。
早速家に帰って調理開始です。
用意するもの:モロコ(今回は40~50匹)、片栗粉、天ぷら油、しょうゆ、酢、日本酒、砂糖、水、長ネギ、唐辛子。
1、魚の下ごしらえします。
そのまま使ってもいいのですが、家族が苦手なため頭と腑を取り除きました。水で良く洗ってその後、ペーパータオルなどで水気を切っておきます。
2、タレを準備します。
しょうゆ:1/3カップ、酢:3/4カップ、日本酒:1/2カップ、砂糖:大さじ3杯、水1/2カップ、唐辛子の細かく輪切りにしたものを鍋に入れて中火で温めます。沸騰はさせずに砂糖が溶けて、日本酒のアルコールが飛べばOKです。それを平たい皿にあけて、その中に焼き網で焼いた長ネギを香り付けで入れます。
タレはこんな感じです
3、下ごしらえしたモロコに片栗粉をまぶしてから油で揚げます。
水気を切ったモロコに片栗粉をまぶします。
これは適当に絡まればOKでしょう
170度くらいに温めた油でじっくりと揚げます。ちゃんと揚げれば小骨も柔らかく食べられます。
1回に5~6匹ずつ。たくさん入れると温度が下がり過ぎてしまいます
4、揚げたそばからタレに入れていきます。
カリッと上がったらそのままタレの中に放り込みます。「ジュッ」という音がします。10~15匹くらい皿の中に溜まったら、別の平皿に移して行きます。この時にキレイに並べて行った方が後々楽です。
夏休みで暇そうにしていた朋子に手伝ってもらいました
缶ビール飲みながらやっていたのがバレバレだー
5、揚げて、浸けて、移して、漬け込んで完成。
全てのモロコを揚げ終わって、タレに浸した後に平皿に移したら、最後にタレを平皿にかけてヒタヒタになるようにします。すべてのモロコが沈まなくても味は染み込みますので問題ありません。
完成!
午後から作って、晩ご飯には十分食べられます。今晩数匹残ったので明日どういう味になっているか、またそれも楽しみです。
子供にも好評でした。ご飯が何杯でも食べられそう。
これでもモロコ料理は、飴炊き、天ぷら、唐揚げ、南蛮漬けとやってきましたが、どれも美味しい。今回の南蛮漬けが一番手がかかりますが、それだけの価値はありました。あと残るメニューは、モロコを素焼きにしてから田楽味噌を塗って食べるモロコ田楽。現在それに合う味噌を模索中。
自分で釣り上げた魚を自分で殺し、自分で捌いて、料理して家族に食べさせるということ。男としてなんだか充実感を感じます。働いて、給料もらって、そのお金で「オレがお前達を食べさせてやっている」と口に出すことで顰蹙をかっているお父さん方も、実際に自分で釣った魚を調理して食べさせてあげれるとまた違った満足感が得られるかもしれません。あくまでも自己満足かもしれませんが。自己満足で十分でしょう。
「お父さんが頑張って釣ってきて、作ってくれたんだから、『美味しい』って言ってあげなさい」と陰でお母さんが言っていても、聞こえなかったふりをしていましょう。
04.07.26 夏休みの過ごし方
夏休みが始まるにあたって、中学校から小学校から幼稚園からいろいろなものを持ち帰ってくる。机の引き出しの中のものやら、1学期に描いた絵やら工作やら。なかでも一番の大物は鉢植えである。
万里子が「朝顔」、由香里が「ホウセンカ」、真一郎が「稲」である。
真一郎の稲はバケツの中に土と大量の水が入っているので、かなりの重さがある。子供では持てない。よって親が学校まで取りに行く。自転車に乗せても重い。一緒に通知表も持ち帰って来たので、気も重かったことだろう。
夏休みがはじまり、毎日休日という生活にまだ慣れていない子供達は暇をつぶすのに一生懸命である。マンガを読んだり、音楽を聴いたり、テレビを見たり、本を読んだり、外を自転車で流してきたり、妹をいじめたり、訳の分からないものを作ったり、近所の用水路でザリガニを獲ったり。とりあえずそんなところであろうか。
兄弟が多いから家の中で兄弟同士でなんとか遊べてしまうのである。だから懸命に友達に連絡をとって遊ぶ約束などしなくてもとりあえず暇がつぶせてしまう。これがいいのか悪いのか判らないが、とりあえず自分の家庭の中で自己完結出来てしまうのである。
私はどうであったか。私には5歳上の兄がいたが、年齢がかなり上であったのでなかなか一緒には遊べない。だから夏休みは毎日町営のプールへ出かけて行った。そこへ行けば誰かしらいたからだ。午後もある公園へ行けば、誰かしらいる。雨が降っていない限りはプールや公園や、近所の友人の家や、祖父母の家などに行っていたような気がする。
だが5人兄弟であるとわざわざ外に出かけなくても何とかなってしまうのである。本当にこれは良いのか悪いのか良くわからない。
夏休みになって何が大変かって、まずは昼飯であろう。朝の弁当作りがない分朝は楽なのであるが、昼飯は7人前作らないといけない。後片付けも7人分である。給食のありがたみをしみじみ感じる。
「暇だー」「何かやることない?」と聞いてくるが、「あれでもやったら?これでもやったら?」と、親が言うものは「いやだ」で終わり。「それじゃ勝手に自分で暇つぶしを探してこい!」となり、結局堂々巡りである。
自分で上手に暇をつぶす子もいれば、自分では何をすればいいのか判らない子もいる。同じ兄弟でも様々である。暇をつぶすのがうまい子がなにかをはじめると、暇をつぶすのがヘタな子がそこへ寄って行ってちょっかいを出し始める。そして結局けんかになったり、仲良く遊んだり。
こうやって我が家の夏休みは日々坦々を過ぎて行くだけである。
新しいフリフリの傘を買ってもらってご機嫌の万里子
04.07.24 アトムちゃん
3歳になる明日香が常に握りしめているお気に入りの人形。それが「アトムちゃん」。何かの景品の「鉄腕アトム」の人形である。
いつでもどこでも一緒。もちろん寝る時も握りしめて寝ている。それがないとどうも落ち着かないようである。
朝もちゃんとそれを握りしめて「おはよう!」と起きてくる。
先日は丸一日「アトムちゃん」をどこかに置き忘れて見つからない時があった。どこを探してみても見つからない。明日香は不安そうな顔つきになり、イライラし、情緒不安定になった。結局その日は夜まで見つけることが出来ずに寝る時間になった。でも「アトムちゃん」がないと寝られない。
代わりに見つけてきたのが「孫の手」。とりあえずそれで急場をしのいだ。
次の日の朝、その「孫の手」を握りしめて「おはよう~」と起きて来たがどうも元気がない。やはり「アトムちゃん」でなければダメなようである。
次の日にはようやく無事「アトムちゃん」は見つかり、明日香も元気を取り戻した。大人にしてみればどうでもいいようなものであるが、子供にとってはそれがないと生きて行けないくらいの大切なものなのであろう。大人にとってはさしあたり携帯かパソコンかといったところか。
釣りは相変わらず続いている。
真一郎と行くことが多いが、上の写真のようなところでの釣りは本当に気持ちがいい。どんなに暑くてもここにいると風も涼しく、川に足を入れて釣っていると暑さも忘れられる。
しかし、この日差しであるからゴツゴツとした石はかなりの熱さでであり、裸足では石の上をまず歩くことは出来ない。石の上に玉子を割れば、そのまま目玉焼きが出来るのではと思うほど熱い。
汗もたくさんかくので、持って行った水筒のお茶がなくなったら、もう帰る時間である。水分がなければ命に関わる。
今年の夏休みの宿題。いつも悩みの種の「自由研究」は、真一郎に関しては大丈夫そうである。この夏休みの間に行った釣りのことを「釣り日誌」として書いて、それを提出するらしい。写真提供は私がするが、文章は自分で考えて書いている。いつもは夏休み終了3日前くらいから慌てて、結局始業式の前の晩に遅くまでかかって仕上げるというパターンが、今年だけはそれをやらずに済むかもしれないと期待している。
04.07.17 暑い
これを書いている私の書斎は、エアコンのない、たったの2畳間。そこに土曜日の午後の暑い中籠って書いている。子供だましの小さな扇風機をブンブンと唸らせて顔面に直接強風をあてる。真横から風をあてているので髪の毛はほとんど1:9に分かれちゃって、とてもじゃないが家族にも見せられない姿である。
夜寝るときもエアコンなしで寝ているが、よほど暑いときは扇風機をまわす。熱帯夜のときは一緒に寝ている万里子と明日香の寝相が凄い。一晩で360度から720度ほど回っているのではないかと思うほどである。夜中に子供の足があたる程度はよくあることだが、なぜか万里子は足を垂直に上げて、カカトから落とす癖があるらしい。トトロの寝返りじゃないが、寝る向きを変える時にいちいち足を高く上げてから落とす。これが恐いのである。
夜中に殺気を感じて目を覚ましたら、ちょうど万里子の足が垂直に上がっている時であり、思わず真剣白羽取りで受け止めてしまった。あれをまともに顔面に喰らっていたら夜中に鼻血を流すハメになったことであろう。
足を乗せられているのが明日香。きっと悪夢を見ているに違いない
夏の子供用のアイテムといえば、プールである。「うちのおうちの庭にはプールがあるんだよ」、おぉーなんとリッチな家なこと。「でも膨らますのが大変なんだけどね」
そんな訳で今年も登場。
由香里が3年生にもなってこんなプールに入っていることは、みんなには秘密だー
ここで前回のお話の結果報告。モロコの佃煮に紛れていた釣り針は出て来たかどうか。1匹づつお箸で慎重に砕きながら食べていった。「あった!」と思ったら小骨だったり、「これだー!」と思ったら短い鼻毛みたいなものだったり。結局最後まで出て来なかった。いったいどこに行ってしまったのだろう。今のところ家族は皆元気であり、のどにひっかけた者もいないし、ましてや出口のご隠居様を傷つけた者もいない。きっと誰かが食べてしまって、何事もなく出口から出て来たのだと楽観的に考える事にした。
もうひとつ。朋子の期末テストの結果は、本人が小躍りして喜んでいるというような結果であった。あんなハンディキャップを背負ってよくまぁ頑張ったもんだ。勉強はハンディを背負った方がいいのかもしれない。勉強がしたいけど出来ないという環境がいいのかも。さぁこれでばっちり勉強が出来る環境を整えてあげましたよ、これならじっくり腰を据えて勉強が出来るね、なんて環境じゃダメなのかもしれない。
その朋子を邪魔していた小学生組2人は、よくぞここまで私の気を落とすことが出来るなぁというような成績表を持って帰って来た。
私はおもわず、もう一度朋子の成績表を見直して、お口直しというか、元気をもらうのであった。
04.07.11 最近の休日
近頃の休日は、私が釣りに熱中しているせいで朝から昼まで川へ出かけさせてもらっている。真一郎と早起きをして、車で30分ほどの山の中の川へ向かう。
今の時期、日中の暑さは厳しいが、川の朝はとても気持ちがいい。野鳥のさえずり、川のせせらぎ、川面をすべるように運ばれてくる涼風が何とも心地よい。
これからの季節はこの川でモロコという小魚を釣る。調子が良い時では半日で40~50匹ほど釣れる。
モロコという5センチから10センチほどのかわいい小魚
昼からは家族と過ごす。本屋へ出かけたり、買い物へ行ったり、公園へ出かけたりといったありきたりの休日である。先日はまめ柴の「スズ」を連れて琵琶湖岸のなぎさ公園へ散歩に出かけた。
まめ柴だと成犬になっても小さいのでチビ二人でも扱える
スズが何かを見つけたようだ、そこへ集まる子供たち
そんなのんびりとした時間を過ごした後、家に帰り午前に釣り上げた魚の調理をはじめる。
モロコをきれいに流水で洗い、ウロコや内臓などを取り除き一部は唐揚げに、そして残りの多くはコアユと同じく飴炊きにする。
唐揚げは簡単で美味しい
今回の飴炊きはかなり時間をかけた。コアユの時はしょうゆ、みりん、酒、砂糖を沸騰させた中で直接炊いていったが、今回はまずたっぷりの「緑茶」と「梅干し2個」で炊いていった。これがまず2時間。
そして次に緑茶を全て捨てて、コアユと同じ調味料を入れた中で1時間じっくりと炊き上げた。
これで完成!
しかし、この中にひとつの小さな釣り針が隠れている。その恐怖がどんなものか判らないだろうなぁ
スーパーなどで「イシモロコ佃煮」として売られているものは食べたことがあったが、それの10倍やわらかく、100倍美味しかった。ショウガや山椒も入れていないのに、お茶で炊くことによって臭みはまったくない。骨までとろけるようにやわらかく、そしてモロコの味もしっかりと残っていた。これがあれば何杯でもご飯が食べられそう。しばらくは朝食のおかずには困らない。
しかし、ここでひとつ事件が発生。このモロコを炊いている時に真一郎がぼそっとつぶやいた。
「お父さん、釣ったモロコの中に一つだけ釣り針を飲み込んでしまったのがいて、その針を取ろうとしたら糸が切れちゃって、針だけが魚の中に残っているのがいるんだよね」
「なぬっ!?!”」
使った釣り針は2.5サイズというかなり小さいものである。それがこの50匹ほどの魚の中の1匹の口の中に残っているわけである。もしそれを食べてしまって、喉やら消化器にでも引っかかったら大変。もう既に炊いてしまっているので、1匹ずつ口を開けて覗くわけにもいかず、仕方がないので食べる時に特に頭の部分のところは頭を粉々に砕きながら、針がないかどうか確認しながら食べるハメになった。そんな作業をしながら食べるというのはとっても神経を使うもので、美味しかったのであるが、何とも疲れる食事となってしまった。
結局、今夜食べた半分のモロコの中からは針は出てこなかった。明日以降に食べるモロコの中にまぎれているに違いない。明日からも箸で細かくモロコを砕きつつ、針がないかどうか慎重に確認してから食べるという、何とも精神衛生上よくない食事が続きそうである。
今現在も、ちょっと喉がいがらっぽかったりすると「もしや釣り針が喉に引っかかっているのでは?」と不安にかられる。たったひとつの釣り針のせいで、大量の美味しい料理が何とも疲れるメニューと化してしまった。
毎朝みんなが持っていく水筒5本、蛇口から麦茶が出て欲しいと思うほど1日中麦茶を作っている
04.06.30 定期テスト
朋子の初めての定期テストが明日行われる。1学期の期末テスト。1年生は中間テストがないため、これがはじめての定期テストになる。本人は一応緊張しているのだろうが、なかなか家ではそれに対応出来ないでいる。
机に向かって勉強していても、すぐ隣ではチビたちがアンパンマンのビデオを見る、真一郎もおかまいなしでドンキーコンガという太鼓をたたくゲームでドンドコドンドコとやっている。静かに勉強出来る環境というものがない。
そこで朋子は防御策として、私が使っているヘッドホンを持ち出し、それで音楽を聴きながら集中しているようだ。音楽を聴きながら集中出来るのかどうか分からないが、暗記しなくてはならないものはチビたちが寝静まってからやっているようである。
と、書くとかなり頑張って勉強しているように聞こえるが、少なくとも私が見る限りマンガを読んでいる時間の方が多いような気もする。
海辺の砂浜のように見えるが、ここは琵琶湖サンシャインビーチ
自分はどうであったかと思い出そうとしても、中学1年の時の期末試験の時のことはあまり思い出せない。高校時代、大学時代の試験の事は思い出せても中学1年当時の事はなかなかはっきりとイメージが湧いてこない。それなりに机に向かっていたのだろうが、いったい何をやっていたのやら。きっと遅くまで勉強しているふりをして深夜ラジオを聞いていたり、本を読んでいたりしていたのだろうと思う。それか普段やらない部屋の模様替えをしたり、趣味の何かのコレクションの整理をしていたとか、そんなところであろう。
中学からは英語が始まる。まだまだ簡単な英単語であるが、今日は質問されて「あれ?どうだったっけ」と思ってしまった。数字(one,two,three...)のスペルが自信がなくなっている。4はフォーだけどどう書くのだったっけ?four,fore?あれ?なんて具合で普段まったく縁がないことはどんどん忘れて行くようである。1月、2月を英語でなんてことになったら半分も書けるかどうか。発音は出来てもスペルが出てこない。
他の教科にしても、段々と教えられることが少なくなってくる。理解は出来ても出てくる用語が分からなかったりする。日常会話ではまったく使わない用語の羅列であるから、自分もやってきたはずなのに、まったくその用語を思い出せない。
小学校6年まではそんな事はなく、だいたい教えられたのに、中学に入ったとたんに分からなくなった。興味のあるところくらいは、教科書を見せてもらってもういちど勉強しなおしてみたいと思う。
04.06.20 3年ぶりの川遊び
3年前に行ったことのあった川へ久しぶりに遊びに行った。その時のメンバーは上から3人までの子供たちであったが、今回は1人ずつ下にずれて、2番目から4番目までの3人を連れて行った。場所は3年前と同じ信楽川。大津から車で30分のところである。
3年前は泳ぐつもりはなかったので水着は持って行かなかった。それでもきれいに澄んだ清流を前に、足だけのつもりが結局パンツまで脱いですっぽんぽんになって川に飛び込んだ。
今年は最初から泳ぎに行こうということだったので、あらかじめ水着を着用し、水中メガネやシュノーケルまでも用意して出かけた。
台風が来る前の透き通った高い青空、深い緑に囲まれて、周囲では野鳥のさえずりやカエルの鳴き声。背の高い草木が茂り、時折ガサガサとその草むらで物音がすると「ヘビか?」とドキドキもした。川のせせらぎは涼しそうな音をたてていて、これで蝉(せみ)の声があれば完全に真夏の風景である。岸から川面をのぞきこむと小魚の魚影が見える。近くではイワナやヤマメを放流しているのでその稚魚かもしれない。
真一郎と由香里は水着着用だが、万里子は泳ぐのは危ないだろうと水着を用意しなかった
3年前とそっくり同じ風景である。きっとここはずっとずっと前からこの風景が綿々と続いてきたのであろう。流れが急なところもあるので、万里子は足をつける程度であろうと思い、水着は用意しなかった。しかし結局「おてんば万里子」はこんなところまで素っ裸でたどり着いた。
真一郎は水に潜ったり、泳いだり、浅瀬で浮いていたり楽しんでいた。恐がりな由香里も浅瀬で水遊びしたり、水中メガネで水中を覗いたりしていた。万里子はタニシを拾ったり、上の写真のように「こんなところまで行けたよ!」と私をヒヤヒヤさせた。
「今、目の前を魚が泳いで行ったよ!」と叫ぶ。「川の中は魚がうじゃうじゃいる! 何だか不思議な世界に入ったみたいで楽しい!」と喜んでいる。
危険が一杯、スリル満点。そこは危ないから気をつけろ!すべるぞ!と注意するが全然聞いちゃいない。自分でその辺はある程度分かるみたいだ。本当に危ないところには近づかないし、よく見ると真一郎が行かないところには行かないし、足場をちゃんと確認してから一歩一歩慎重に歩いている。それでも気を抜けないので遠くで見ているだけだが非常に疲れる。
2時間半ほど遊び倒して、子供たちが「そろそろ寒くなって来たから服着るね」「そろそろお腹が空いたから帰ろう」と言うまで遊ばせた。子供たちは大満足だった。
帰りの車の中では真一郎と万里子が爆睡状態。よほど疲れたのであろう。帰宅後はすぐに晩ご飯を作り、それを腹一杯食べて、風呂に入って熟睡している。
こういうのが日常であったなら、子供たちは本当に幸せだろうなと思う。大自然に抱かれて、大自然に育ててもらう。そういう姿が子供には似合っている。
しかし、万里子の日焼けしていない白い尻がその風景にマッチせずとても不自然であった。
04.06.17 ないぞ、野球の出来る場所
「このへんって、野球ができる場所がないんだよね。近くの駐車場も車にボールを当てちゃいけないから出来ないし、公園へ行っても他の人に迷惑がかかるからダメだし、あそこのホールの壁にボールをぶつけていたら警備員さんに怒られたし、学校の校庭は使わせてくれないし、野球場は予約がいるし子供が行っても貸してくれないし、いったいどこで練習をすればいいんだろうね。友達と野球をやりたくてもどこにもやる場所がないんだ。大人は『危ないから他に行ってやれ』というけど、他ってどこにあるの?」
真一郎の主張である。
確かにそうだな。友達にボールを投げてもらって、それを思い切りバットを振り切り気持ちよくかっ飛ばせる場所がないものである。少年野球チームにでも入れば週に1回なり出来るのであろうが、そういったチームに入っていない子供にとっては軟式ボールを思い切りかっ飛ばす場所がない。
息子とキャッチボール。父親にとって至福の時間である。
私が小学生の頃はどうだったであろうか。私も少年野球をやっていた。地区ごとにチームがあり、希望者が参加した。年に1回大会があり町中のチームでトーナメント戦をやった。その時の練習はその地区にあるお寺の境内を借りていた。そのお寺の本堂のガラスも割った事がある。みんなで謝りに行った。それでも続けて貸してくれていた。時々は町の公園で練習が出来た。練習試合は学校の校庭が借りられた。普段の個人練習では近所の空き地や、稲を刈り取った後の田んぼでもやった。利根川の河川敷でも出来た。
それが今では見事にやる場所がない。公園はちょこちょことあるが、管理されていて軟式ボールを使っての野球は無理。公園横には車のびゅんびゅん走る道路がありボールがこぼれたら危ない。田んぼはないし、入ってもいい空き地がない。湖岸にも広い公園があるが、そこには芝生があり家族連れが遊んだり座ったりしているので到底軟式ボールでの野球は無理である。
昔よくやった空き地での遊び。ドラえもんのアニメでもよく出てくる空き地に置いてある土管やら建築の木材での遊び。そこでの野球。そんな風景は今では見られない。土管に閉じ込められるやつ、材木に挟まってケガをしたしたやつ、材木が適当に積んであるためそれが崩れて下敷きになってしまったやつ、いろいろいたが特別にニュースになる訳でもなくその地区のその日のひとつの話題として通り過ぎて行ってしまった。もしそれが現在起こったなら、いじめによるものだとか、そこに材木を置いていた建設業者への責任問題になるのかもしれない。その責任を負うのが嫌であるから管理をする。となると、結果的に子供の遊び場所がなくなるということになる。管理されて事故がなくなり、子供も安心して遊べるようになったと言えば聞こえは良いが、当の子供の意見は「安心して遊べるようになって良かった」などという子は一人もいない。
与えられた遊具は飽きる。それよりもただの整地もされていない空き地を与えてくれた方がどれだけ楽しいか。しかしそんな空間を作るのに予算などおりるわけはなく、規定通りの公園を作らなければお金は出ないのであろう。そして次々と遊べない公園が増えて行く事になる。それも車で行かなければならないような場所にである。
私が子供の頃に比べて近所に「危険な場所」や「薄気味悪い場所」というのがなくなったように思う。湖岸も完全に整備されており子供が落ちそうなところには柵が設けてあり入れないようになっている。どこを見ても「闇」の部分がない。明るく健全な場所ばかりがならぶ。理論的にはそれが良いのであって、合理的でもあるのだが、人間にはそればかりでは生きて行けない。光の部分だけでは生きられない。必ず「闇」の部分もなければ生きられない動物なのである。
そんな明るい場所ばかりの中で、子供たちは一生懸命に「闇」を探す。数年前にもうちの子供たちも含めた近所の子供たちが、近くの川(用水路みたいなもの)に入って遊んでいた。その川は少し上流に行くとトンネルになっており、中は真っ暗。そのスリルがたまらないのだと思う。奥へ奥へと入っていった。途中恐くなった幼稚園以下の子供は入り口まで送り返し、上級生だけで奥へと進んで行った。この事はしばらく親は知らなかったことであるが、後になって教えてもらった。散歩の途中に「この川はね。ずっと上って行くとトンネルになっていて真っ暗で、そこから何回もカーブがあって、最後はあそこへ出るんだよ」と教えてくれた。「なんでそんなこと知っているの?」と聞いたらやっと白状してくれた。
山を散策している時にこういった洞穴があれば、必ず入ろうとする。親は止めるが聞く耳を持たない
子供は危ないところ、暗いところ、薄気味悪いところが大好きである。恐いけどたまらない。でも大人がそれらをみんな取り上げる。だから自分の中に新たな闇を作る。親には絶対に見つからない闇を持つ。その闇まで親が暴(あば)いてしまったら子供は崩壊してしまう。何でも話せる親、何でも話してくれる子供なんて、不気味である。子供の事件が起こるたびに大人が子供の闇を暴こうとする。大人が何でも相談にのってあげて、悩みを解消してあげて、親や先生が無理ならカウンセラーという専門家に委せてとなるが、そんな大人に内心を話す子供がいる訳ない。闇を与えてあげるというよりも闇を奪わないことが必要なのだと思う。
04.06.12 名前
最近の子供の名前は読めない。どうしてこんなに読みにくい名前を付けるのだろうかと不思議に思う。ありきたりの名前では面白くないから、他とはちょっと違うということを意識しているのか、見事に読めないのだ。
本日の読売新聞の「編集手帳」には面白いことが書いてあった。「森蘭丸や日吉丸といった人名の[丸]は、おまるに遠く由来するという」。オマルとは持ち運びのできる便器のこと。船の名前や大切なものにも「丸」をつけたりするが、その丸がオマルだとは思わなかった。なぜオマルなのか。それは、オマルというのは汚いものを入れるもの。汚い不浄のものには鬼魔は近づかないということらしい。それにしても名前に便器の意味を持たせるとは凄い発想だと思った。
明日香(あすかと読みます)もうすぐ3歳(本人は幼稚園児気分だが、まだあと2年もある)
朝、新聞をひろげて地域のページを開き、お悔やみの欄と出生の欄を見る。お悔やみの欄に並ぶ名前はほとんどが読むことが出来るのだが、出生の欄の名前は半分以上が読めない。ちなみに本日の名前にはこんな名前があった。「恋白」「颯登」「萌叶」「笑奈」「蘭加」「充翔」「龍宝」「世旺」「海登」・・・・・・・。読めない。「颯」という字はパソコンに入力するにも5分ほどかかった。漢和辞典で調べた「そう」でも「さつ」でも出て来ない。颯爽(さっそう)と打ったらやっと出て来た次第である。
朋子横顔
最近、朋子(ともこ)が中学の部活で先輩に「ゲッチューちゃん」と呼ばれているらしい。どういう意味?って本人に聞いてもよく分らないようであった。それが昨日「やっとゲッチューの意味が解ったよ!」と言ってきた。
どうやら朋子の名前の「朋」という漢字。「月」が2つ。月(げつ)が2(twoツー)つでゲッツー、それから「ゲッチューちゃん」になったらしい。
こんなニックネームに「ほぉ~」と妙に感心してしまった。
04.06.06 あっという間に
自分の家の子供は毎日見ているから大きくなるのがゆっくりに感じるが、それでもあれよあれよと言う間に大きくなってしまう時期がある。昨日よりも大きくなったんじゃないかと思う時もあるほどである。
特に小学校高学年の女の子はそれが激しく、親の方がその変化に戸惑ってしまう。身体も心も一気に脱皮するように変わっていく。
右がたった3年前の朋子
そしてこれも右が現在の朋子
たったの3年間でこれだけの変化である。特に小学校6年の時の成長が著しかったと思う。
末娘の明日香の成長も目を見張るようである。
左が1歳の頃の明日香、右は万里子
左が明日香で右が万里子。ほとんど区別がつかない
老化現象も徐々に訪れるものでなく、階段を下りるように、ガクンガクンと段階的に一気に来るもの。子供の成長もそれと同じように徐々に成長するというよりも階段を一段一段昇るようにガクンガクンとある時期ごとに一気に成長するように思う。
その段差が激しいほどその変化に自分自身でも戸惑っているのではないだろうか。私たち大人がガクンとくる老化現象に戸惑うように、子供も大人への階段を昇るたびに戸惑い悩み、そしてそれを乗り越えて次のステップに上がれるのだろう。
悲しいかな、人間の身体というものは25歳あたりを境にして、あとは老化が進んでいく。およそ5年ごとにガクンと体力や気力が減っていくのが分かる。気がつけばハードな一日を過ごすと次の日に影響を及ぼすようになり、徹夜が出来なくなり、睡眠も長い時間寝られなくなったり、全速で走ることが出来なくなったり、そしてそれを受け入れることを頑(かたくな)に拒否してまた無理をして再びタメイキをついたり。
その老化をうまく受け入れることが出来るようになれば大したもんだが、これがなかなか口で言うほど簡単ではない。過去の若さを「忘れる」こと、そして「諦める」こと。かなりマイナス思考的ではあるが、それが却ってプラス思考に変えるチャンスとなるのではないだろうか。
子供の成長期の悩みはまた格別であり、他のみんなより少しだけでも早く成長してしまうとそれがまた悩みになり、少しだけ遅れるとそれがまた大きな悩みにもなる。修学旅行でのお風呂のことで悩み、身体測定の時で悩む。大人から見れば「そんなこと気にする事はない」で済ませてしまうことであっても、当事者にとっては死活問題なのである。
私も小学生の頃は今から想像も出来ないほどガリガリに痩せていた。骨と皮だけと言っても過言ではないほどである。それだけに悩み苦しんだ。今は逆に太めであるが、痩せている時の「太りたい」という悩みの方が切実であったように思う。
5人の子供たち。それぞれの世代について、自分の頃を一生懸命思い出す。あの頃はどんなことで悩んでいただろうかと。その当時の自分にタイムトラベルして考えてみる。その時の状況、友人関係、興味を持っていた事、悲しかったこと、ショックだったこと、うれしかったこと、恥ずかしかったこと。それらの断片をつなぎ合わせ現在の我が家の子供たちと比較し、シュミレーションしてみて、こんな時はどんな事を言ってあげたらいいのか考えてみたりもする。
しかし、そこで「きっと、こう言ってもらいたいだろうな」と思うセリフは言わないことが多い。なぜだろう。自信がないからかもしれないが、やはり言われる相手はその時の自分ではないからであり、娘や息子であっても自分とは違う別人であるということだからだ。
そんなことをいろいろと考えたあげくに、結局なにも行動せずその場その場での直感や反射的な行動言動で日々が過ぎていく。やっぱり親というものは子供に対して何もやってあげられないものなのかもしれない。そして、子供の人生はその子供自身が築き上げていくものであり、親が手助けしても邪魔に思われるだけなのかもしれないという結論に達してしまう。
特に娘には何も教える事がない。料理を教えたり、家事を教えたり、挨拶や言葉遣いを教えたりという当たり前のことくらいで、これらも勝手に見て覚えなさいというくらいで、敢えて畏まって教えるようなものではない。息子に関しても教えられることは「キャッチボール」と「釣り」くらいかなと思う。(しかしこの2つの事は、本当に奥が深く、人生そのものを教えるようなものだと思っている。これがサッカーのパスであっても他のことでもいっこうに構わない。)
親とは所詮その程度のものなのであろう。
04.06.01 明日香とお風呂
夜、いつものように明日香とお風呂に入っていた。
湯船の中で私が寝そべり、そのお腹の上に明日香が股がる。この体勢は今までの子供たちにもやってきた。しかし、だいたい2歳頃には次の子が生まれて来たので、2歳過ぎになると私のお腹の上を卒業になるわけであるが、明日香の場合は下に次の子供がいないので、まだ股がっている。
ここ数日、そのいつもの股がる体勢が反対向きになり、いつもは私の方を向いて股がっていたのが、私に背を向けるように股がるようになった。そうなるといつも目に入らないものが目に入り、普段触れないものが触れるようになる。
それは「おちんちん」。
最初、「なにこれ?」とツンツンとつつく、つまむ、にぎる、ひっぱる、と遊んでいた。自分にはないものだから不思議に思うのだろう。毎回お風呂の度に触ってから「なにこれ?」と聞く。
私も素直に「おちんちんだよ」
「おちんちん?」「ははは、おちんちんだー。おちんちん、おちんちん♪と歌いだす。
今夜もいつものように触りながら「これなに?」と聞いて来た。
私もいつものように「おちんちんだよ」と答えた。
いつもはこれで質問は終わるのだが、今夜はもうひとつとんでもない質問が出た。
「これ、しゃべる?」
・
・
・
「これは、しゃべらないだろー」
風呂から出た後、その事を順子や朋子に話したら大爆笑していた。
「どうせなら、腹話術みたいにしゃべってあげたらよかったのにー」だって。
《明日香ちゃん、こんばんは、ボクおちんちん!》と
おちんちんを後ろから操作しながら表情をつけ、裏声でしゃべっている姿を思い浮かべたらなんだか情けなくなってきた。
しかし、今までに「なにこれ?」と聞いて来た子はたくさんいたが、「しゃべる?」と聞かれたのは初めてだった。意表をつく質問に、なかなか気の利いたリアクション出せなかったのが悔しい。
04.05.30 琵琶湖にて
子供にとっての身近な大自然。それは我が家にとっては琵琶湖である。
私自身は群馬県の出身であるので、坂東太郎の利根川とその支流の「早川」「石田川」というマイナーな川。そして遠くに見える裾野の長い赤城山、噴煙をあげる浅間山、湖を抱える榛名山などの山々であった。今でのふるさとの風景として思い浮かべるのは、空っ風の吹き荒れる頃にくっきりと映える赤城山と沈む夕日にシルエットとして浮かび上がる浅間山、大河である利根川の土手で寝そべってヒバリの鳴き声に耳を澄ませたこと、小さな川での魚釣り、橋の下の陰で捨てられたエロ本を覗き見た事など、細々にわたってその時々の情景を思い出す事が出来る。これらは自分の宝物でもある。
自分の子供たちにとってはそれらが何であろうか。日本で最大の湖が歩いて5分の場所にあり、そこはまた観光地でもあり、祝日の昼間は観光客が釣りをし、散歩をし、夜には「琵琶湖花噴水」が湖面に映え、夜景とともに琵琶湖を彩る。
近所の風景がそれであるから、それが当たり前なのである。「みんな遠くから泊まりがけでこの地を見に来るんだ。うちはすぐ側だからとてもありがたいことだし、うらやましがられるもんなんだぞ」と言っても実感は湧かないであろう。
どんなに有名であっても、それは私にとっての近所のマイナーな川と同じであり、あって当たり前のものに過ぎない。
ここが我が家から歩いて5分の「なぎさ公園」休日は釣り人で賑わう
上のなぎさ公園から西に歩いて5分くらいの場所
ここは自宅から自転車で20分ほどの膳所公園
同じく膳所公園、遠くに見える橋は近江大橋
ちょっと散歩でも行こうか、と言えばまずこの湖岸へ向かう。昼間でも夜でも人がたくさんいる。デート中の若者、釣り人、家族でレジャーシートを敷いてくつろいでいるもの、犬の散歩、絵を描いている人、楽器の練習、歌の練習、一人でポツンと琵琶湖を見て座っている人、読書をする人、ランニングする人、必死に歩いている人、自転車の練習をする子供たち、サッカーやキャッチボール、バドミントンなどをやる人、昼寝をする人、様々な人間模様が見られてそれを観察し想像しているだけでも本当に楽しいものである。
子供たちが大きくなった頃に、「お前たちにとって琵琶湖って何だった?」と聞いてみたいと思う。私が思い出として、宝物として大切にしているものと同じであればうれしい。そしてそこに私たち両親が重なって記憶されていれば、それだけでなんだかうれしい。
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最近は釣りの話ばかりで恐縮であるが、この週末も土曜日は瀬田川洗堰へ、今日も午前中2時間ほどなぎさ公園へ釣りに出かけた。釣れたものはブルーギルだけであったが、それなりに楽しめた。
洗堰にて隣におられた老夫婦。ご主人が釣り糸を垂れて奥様は横で見ておられた。奥様とお話させていただいた。
「さっきはトンビが急降下して来ましてね、持って来ていたいなり寿司を持って行かれてしまいましたわ」とおっしゃっていた。確かに上空ではトンビがくるりと廻っていて川面に浮かぶ魚に狙いを定め時々急降下を繰り返している。しかし、人間のそばに置いてあるものを、それもいわゆる「トンビに油揚げをさらわれる」という事が起こるとは、なんとも驚いた。
今日の午後はみんなで古本屋へ出かけた。帰りには琵琶湖大橋の側にある「鮎屋の郷」で買い物をした。目的は琵琶湖で獲れたコアユなどの甘露煮などを買う事。鮎屋と言えば昆布巻きが有名であるが、それは贈答品なので普段の生活の中で食べる小魚の甘露煮を時々仕入れてくる。
先日は自分で釣ったコアユを飴炊きにしたが、鮎屋での商品と比べたかったというのもあった。やはりプロの味付けは美味しかったが、自分の作ったものもそれほど負けてはいないなと少し自信を持てた。
数日前はスーパーで「もろこ」の甘露煮を買って来た。もろこは初めて食したが、コアユよりも身が厚く歯ごたえも良かったが、どうも少し生臭さがあった。近頃琵琶湖ではもろこはほとんど獲れない。昔はたくさんいたそうだが、現在ではかなりの高級魚らしい。先日スーパーで買ったもろこはおそらく中国産のもろこであろうと思う。琵琶湖産のもろこの甘露煮では1匹200円を超えることになるであろうから、20匹くらいが小さなパックに入ったものであれば4000円以上と言うことになる。先日買ったものは20匹弱の小さなパックで400円ほどであった。
琵琶湖で釣りをやっていてももろこは時期が来てもほとんど釣れない。しかしまだ宇治川あたりへ行けば釣れるらしい。次は少し足をのばして宇治川まで遠出しもろこを釣り上げて甘露煮や素焼きを味わってみようと思う。そしてそれが先日スーパーで買って食べたものとどう味が違うのか比べてみたいと思っている。
04.05.23 晴れの日曜日
久しぶりの晴れた日曜日。朝5時50分起床。
「シン!行くぞ」と寝ている真一郎の布団を揺さぶる。平日の朝と違って勢いよく起き上がり2分後には着替えが終わる。
「じゃ、行こうか!」2人で釣りの道具を抱えて玄関を出るまで10分と掛からぬ素早さである。
まずは釣り具屋さんに顔を出して昨日の釣り状況を教えてもらって、それを参考にいくつかの釣り場を視察。そして、今日はここでやろうと、ある釣り場で準備開始。
本日のターゲットはこのシーズン最後になるかと思う「小鮎(こあゆ)」である。制限時間は昼まで。
何とか狙い通りに目標の数を釣り上げた。
144匹を釣り上げた!
醤油半カップ、酒半カップ、みりん1/4カップ、砂糖大さじ6と土ショウガで炊いた
40分ほど弱火で炊いた後、最後にみりんを少々足してから強火で飴状した
ちょっと汁を入れ過ぎたので見栄えが悪いが完成!汁は糸を引くような飴状になっている。144匹でも炊いてしまうとこれだけ。
今夜の晩ご飯は、厚揚げの炊いたものと、マカロニサラダ、そしてメインが小鮎の飴炊き!
前回の小鮎釣りが、17匹という不本意な結果であり、それを無理矢理に飴炊きにしたということがあったので、今日はなんとしても最低でも100匹オーバーの小鮎が必要であった。目的が達成されてちょっと満足。
炊いた時間が足りなかったのか、ショウガが足りなかったか、山椒の実を入れればよかったのか、小鮎自体が臭かったのか、ほんの少しだが生臭さが残った。それほど気にならないほどであったが、作った本人だけがちょっと気になった。また次の機会のためにメモメモ。
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午後からは、順子のスクラップブッキングのグッズを買うために、奈良の左京にある「アート&クラフト DUO」という店に出かけた。車で1時間ほどである。こちらのお店はインターネットで知った店であるが、品揃えが素晴らしく、順子は大喜びであった。
そのお店で1時間ほど買い物と説明をしてもらった後、近くにある公園へと車を走らせた。
はじめて訪れた公園であるが、入園料は無料だが、駐車場代として400円也。とても開放的な気持ちの良い公園であった。
子供はこういった遊具が大好き。ひとしきり遊んだ。
他にもいろいろと探索するところがあり、かなりの時間楽しめる。
「そろそろ帰ろうか」という言葉にすねる万里子。
明日香は朋子が手を引き大人しく車に帰還。
なんだか慌ただしい日曜日。時にはこんな日曜日も良いだろう。午後のドライブには真一郎は参加せず。一人で釣りに出かけて行きました。
「釣りはどうだった?」と聞くと、不機嫌。どうやら「ぼうず(1匹も釣れないこと)」だったらしい。大津市の自転車で行ける範囲の釣り場は全て廻ったようで、その割に目的のブラックバスは釣れなかったようで、来週こそ絶対に釣ってやる!と意気込みながら小さな小鮎とご飯を頬張っていた。
今日の午後は、朋子は付き合ってくれたが真一郎は不参加。最近はこういう事が多くなって来た。家族全員でというのが少なくなってきた。小学校高学年や中学くらいになると、家族で一緒にいるところを友達に見られたくないというのがあるのだろう。特に我が家は家族が多いから尚更だと思う。気持ちは判る。親としてはいつまでも「家族みんなで」と思うが、それを無理強いしては却ってよくないと思っている。だから「この時だけは」という以外は好きにさせている。少しずつ巣立ちの準備をしていく子供たちがうれしいような寂しいような。ほっとするようなキューンとするような・・・・・。
04.05.16 雨の日曜日
予報通りの雨の日曜日。梅雨前線のような停滞前線が右上から斜めに日本列島に横たわっている。釣りを楽しみにしている私や真一郎にとっては口惜しい2週連続の日曜の雨である。その分、2週とも土曜日の午後はなんとか雨が降らずに天気はもってくれたので半日の釣行は出来た。昨日も先週に続いてコアユを釣りに出かけたが、コアユ17匹、ブルーギル多数という残念な結果になった。たった17匹のコアユを無理矢理にも飴炊きにしてみたが、何とも美味しく出来た。もっと数があればと却って悔しい気持ちだった。
今日は朝から雨と判っていたので、早起きして琵琶湖博物館へ行こうと決めていた。雨の日は混雑すると決まっているので、朝食も早めに済ませ、子供たちもとっとと着替えさせて9時過ぎには出発。
朝食はいつもの恒例日曜朝のスパゲティ。今朝のは美味しかったのでご紹介。
朋子の鮭と9条ねぎの和風スパゲティ
塩鮭の切り身を「茹でて」、身をほぐしてから少量のバターで絡めてからだし醤油で味付けしておく。そこへ茹で上がったスパゲティを入れ、少量のゆで汁も入れる。バターをまたひとかけら入れて、だし醤油も少し追加しからめる。それを皿に盛り付け、細かく刻んだ9条ネギときざみ海苔をたっぷりのせて出来上がり。ネギと鮭がうまくからみあってとっても美味。これに納豆をのせるとまた美味しいかも。
朝食も終わり9時過ぎには出発出来た。道路もまだ空いている。近江大橋を超えて琵琶湖沿いの道を北進した。琵琶湖は霞んでいたが、その霞の中に釣り船が数隻見えた。こんなどしゃぶりの中でもバス釣りをしているらしい。風邪をひかなければいいがと他人事ながら心配する。琵琶湖博物館までの道のりすべて湖岸を走る。この道は景色が良いので大好きである。北上するにつれて、釣り船はどんどん増えて行く。私はバス釣りはやらないが、雨の日でも釣れるのだろうか。釣りはやりたいが雨の日にカッパを着てまでやろうとは思わないな。
渋滞もなくすぐに目的地琵琶湖博物館に到着。相変わらずどしゃぶりである。駐車場に車を入れたものの、ここから博物館までが遠い。雨の中濡れながら傘をさして歩いた。
明日香は順子がだっこしている。まだ人が少ないが帰りはここもたくさんの人だった。
なぜ今日琵琶湖博物館かというと、今日は第3日曜日で滋賀県では「家族ふれあいサンデー」ということで家族連れはパスポートを見せると無料で入館出来るのである。パスポートはこちらのページを印刷すればOK。普段は大人ひとり600円の入館料がタダになる。これは大きい。
最近釣りに一生懸命であるが、今回の琵琶湖博物館の見学はいままでになくとっても有意義であり興味深く学ぶ事が出来た。その時に何に興味があるかによってこれほど博物館も見方が変わるものかと思った。この琵琶湖博物館は今までにも何回も来ているが、行くたびに様々な発見があり、驚きがある。絶対にお勧めの博物館である。今回は何より琵琶湖に住む魚たちについて調べたかった。どんな魚がいて、どんな生態であるか、またそれを実際に見る事が出来る。
その上、今日はタイミングよく午前11時からフロアトークということで、「琵琶湖の魚をおいしく食べる」という題で貴重な話が聞く事で来た。とても面白い話であったのだが、聞いている人はほとんどいなくて、実際私と講師の先生のマンツーマン状態。それだけに1時間ほどじっくりとお話を聞かせていただけて、これだけでも博物館に行った甲斐があった。さすが学芸員さんというのは知識が豊富である。感心してばかりであった。「鯉だけでなく、ふなも刺身で食べられて、それを食べるのは世界中でも琵琶湖と宍道湖あたりだけ」だとか、「琵琶湖に住む魚が他の魚を追う時は、それを食べる時だけだが、ブラックバスなどの外来魚はいじめるのを目的に追い回す。とても性格が悪い。」という話も面白かった。
一通り館内を見終わってお昼過ぎ。まだまだ見たりないところもあるが、子供たちが疲れて来たので帰ることにした。
帰りは久しぶりに「天下一品」でラーメンを食べて帰って来た。帰り道、大津プリンスホテルの脇を通ったが、38階建ての高層ホテルの上から10階部分が雨雲の中に隠れてしまって見えなくなっていた。珍しいことである。
よく歩いた明日香は3時のおやつの頃にはお昼寝。静かな雨の日曜の午後となった。
博物館は、その時その時で姿を変える。それは博物館がいろいろと催し物をやってくれている部分もあるが、自分自身の興味がどこにあるかで大きく変わることが多い。同じ博物館を見ても、その人によって見ている部分が違うのである。今回のように魚に興味がある時は、魚を中心に見て、それも琵琶湖の魚を中心に見ているが、これがまた琵琶湖の歴史に興味を持ったら、また別の博物館に来たような発見があるものである。それらの興味全てに対応出来るこの琵琶湖博物館はとてもすごいことだと思う。またこれからも何回も訪れることになると思う。
最後に、本日いろいろと話を聞かせてくださったK講師さん。本当にお世話になりました。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
04.05.14 お命頂戴致します
先週は琵琶湖でコアユを釣って、それを天ぷらにして食べた。自分で釣り上げて、それを殺し、捌(さば)いて、調理して、食べた。それ以来どうも野菜を切っていても、スーパーで買って来た肉を切っていても「お命頂戴致します」という感じが抜けない。
殺して食べるというある種残酷な行為をしなければ生きて行けない人間の性(さが)であるが、今までがこの事を意識せずに生活して来ただけに、今更ながらではあるが、人間の罪深さというものを感ぜずにはいられない。それを罪とするかどうかはそれぞれの価値観の問題であろうが、いかに今まで自分で殺さず、誰かに殺してもらったものをお金を払う事でそれから逃げて、美味しいところだけをいただいてきたことかを感じた。
鯛の焼き魚です
毎日食べている肉なども、誰かが殺してくれたものである。牛を1匹殺したことなどない。鶏でさえ殺したことがない。今回、小さなコアユを殺しただけでこれだけ何だか大騒ぎするのも情けないところもある。牛を武器や毒を使わずに殺すことなど自分に出来るだろうか。戦って殺すことが出来るだろうか。いや出来ないであろうと思う。逆に殺されるのがオチかもしれない。
毎日の食事の時に「いただきます」と言うことは、「あなたのお命、頂戴いたします」ということなのだ。その食べ物を育てたものへの、そしてその生き物への感謝、殺してくれた人への感謝、作ってくれた人に感謝。ひとつの生き物が自分の口に入るまでには、壮大なドラマがあるに違いない。
人は、自分で殺せるものしか食べてはいけないのかもしれないと聞いたこともある。だから寿司屋で子供にマグロなど喰わせてはいけないのだ!(笑)
今夜のメニューは久しぶりに羊の肉を食べた。子供たちは初めてだったらしい。「さて、この焼き肉はなんの肉でしょう!」「1:牛、2:豚、3:やぎ、4:羊、5:いのしし、さてどれでしょう」
みんな牛や豚でないことは判ったらしい。そして「やぎ!」と答えた。
正解は「羊、子羊でした。」と言うと、みんなの箸の動きが気持ちゆっくりとなった。再び味わい直して、「羊って美味しいね」と言ってまたガツガツと食べ始めた。
04.05.13 いつもと同じ いつも通り(2)
もしも、電気が止まったら。
そんなことを考えてみた。
最近は停電というものが本当に少なくなった。あっても数分で復帰する。これは凄いことだと思う。私が子供の頃は停電が多かった。雷の多い群馬県だから尚更であるかと思うが、落雷のあったときは1時間以上も平気で電気が止まったままであった。
子供にとっては、その強制的な「闇」が恐怖であったり、スリルであった。ろうそくの火を灯して、家の中は独特の雰囲気になりなんだかワクワクしたものであった。ろうそくに照らされた家族の顔がまたいつもと違って妙に不気味だったことを覚えている。
仮に今3日間停電になったらどうなるか?と考えてみると、なかなかこれが大変なことになりそうだ。広い視野で考えれば日本中でかなりの影響が出るかと思うが、これは取りあえず家の中だけで考えてみる。コンセントから電気が供給されなくなったらということである。
まず、パソコンが使えずインターネットが切断される。まぁこれくらいは何とか我慢出来る。
夜が暗い事。夜にテレビがついていないこと、CDが聞けないこと、暖房、冷房が止まること、風呂が沸かせないこと、電気カミソリが使えないこと、これらも何とか3日間なら我慢出来そうだ。
トイレの便座が冷たいこと、温水が出ない事、これも我が家にとってはほとんど問題なし。流せないと困るが、流せないことにはならないだろう。
洗濯が3日間出来ない事も3日後が大変なだけでどうにかなる。
電気炊飯器でご飯が炊けない事。これは困る。困るが土鍋なりで炊く事が出来るのでガスさえ来ていれば何とかなるかもしれない。
冷蔵庫。これが一番問題かもしれない。現在入っているものはこの時期だと3日間であると中身は厳しいかもしれない。冷凍ものはほぼダメかもしれない。食料を買いに走るが、それもすぐに食べないといけない。冷蔵庫に保存しておくことが出来ないとなるとなかなか不便そうである。
今から30年ほど前、私が子供の頃の冷蔵庫は冷凍庫というものがなかった。製氷室はあったが、とても肉や魚を冷凍しておく場所ではなかった。この冷凍庫が大きくなってから、週に1回の買い物でも何とかなるようになった。それまではほぼ毎日買い物かごを下げて八百屋に肉屋に魚屋にと買い物に行ったものであった。
炊飯器がガスの時はタイマー炊飯が出来ないので、母はいつも早起きして炊飯器のスイッチを入れて、再び寝直していた。ガス炊飯器で保温しておくとご飯がパリパリになってしまうので、冷めたご飯に水を少し振りかけてもう一度炊飯していたかなと思う。
洗濯機も全自動ではなく、2層式のもの。洗う方と脱水層が別になったものである。これは手洗いに比べれば格段に楽になったが、それでも洗濯にかかる時間は今よりも断然多かった。
ビデオが見られないことも大きい。特に子供がいる家でビデオが壊れるときっとすぐさま買いに走るであろうと思う。値段も安くなったので、取りあえず1万円くらいで安いの買っておこうとなる。ビデオがないと何が困るって、子守りがいなくなるようなものであるからである。子供にビデオを見せておいて、その間にこれをやってしまおう、あれをやっておこうということである。我が家も子育ては「アンパンマン」にやってもらったようなもんである。
冷蔵庫、洗濯機、テレビがここまで進化しなければ、女性は家事に縛り付けられて外に働きに出る事は難しかったであろう。
家の中の電気が3日間止まったら。たったの3日間だけだったら何とか持ちこたえられるかもしれない。しかし、それが1週間なり1ヶ月となるとどうなるか。そしてまた停電が町中であったり日本中であったりしたら。そして水道やガスが止まったらと思うと想像を絶することになることは間違いない。
平和とは昨日と同じ当たり前の状況が今日も当たり前にあることをいうのかもしれない。それを当たり前と思っている私たちは立派な平和ボケと言われても仕方ない。コンセントに差し込めば電気が来て当たり前、蛇口をひねれば水、コンロのスイッチを入れれば火が、電化製品もスイッチひとつで自動でやってくれる。これは当たり前なのだろうか。
さて明日もちゃんと今日と同じように当たり前のことが当たり前に起こってくれるだろうか。
04.05.09 コアユ釣り
ブールーギルを釣るのも空しくなってきたため、「食べられる魚を釣ろう」ということで「小さい鮎(コアユ)」を釣りに行ってた。
日曜日の朝から行こうと思っていたが天気予報では朝から雨とのこと。予定を繰り上げて土曜日の午後に真一郎と自転車で琵琶湖文化館西へ向かいました。釣具店にてエサとなるシラスを購入し、そのお店にいたお客さんに「今、そこの橋のたもとでおじさんが一人コアユを釣っているからその横で釣らせてもらえばいいよ」とアドバイスをいただき、2人でその場所へ行ってみた。そのお客さんの言う通り寡黙そうなおじさんが一人でコアユを釣り上げていた。かなりのベテランという雰囲気の感じだった。
「こんにちは」と挨拶をかわし、「コアユ釣りは初めてなんですけど、隣で釣らせていただいていいでしょうか」という言葉に、「ああ、どうぞ」と気さくなお返事。釣り始めてからもいろいろと親切にコアユ釣りについて教えてくださり、最後には「しかけ」までプレゼントしてもらって、本当に「釣りをする人に悪い人はいない」というのを実感した。その後しばらくしてその方は帰られたが、次に来られた同世代の男性も気持ちのよい方だった。大阪の北の方から奥様と来られたようである。その方といろいろ雑談しながらの釣りも楽しかった。
コアユ釣りの方は、午後2時半から5時半までの3時間で3センチくらいのメダカサイズから10センチほどの立派な大きさまで大小合わせて70匹以上を釣り上げられた。70匹くらいだと飴炊きにするには少ないので、その日の晩に天ぷらでいただいた。
頭と内臓の嫌いな家族のために、70匹すべて包丁を入れた。私はその頭と内臓の苦みが好きなのであるが不本意ながら・・・。一番食べてくれたのは朋子。大根おろしを入れた天つゆでいただいたが、穫れたて新鮮なコアユで身がほっこりしていてとても美味しかった。
やっぱり釣った魚は食べてあげないとね。回収ボックスにポイッではどうも気が引ける。
今日は予報通り朝から雨。昨日行っておいて良かった。さてまた来週の日曜日も行けたらいいな。
真一郎のコアユ釣りは、最初は好調であったが、途中で糸が絡まり、それを直してあげたものの、再びいろいろとトラブル続出で結局コアユ釣りはやめてギル釣りをやっていた。4.5メートルの竿を扱うのはちょっと大変そうだった。まして釣り場には柵があったためそれがまた真一郎には邪魔になっていたようである。
それでも昨日も親子で気持ちのよい釣りが出来た。
04.05.05 武者大将
今日は例年通りのお祭の日。昨年は私が右大臣をやらせていただいたが、今年は真一郎が子供武者の大将をやらせていただいた。鎧兜を身につけて2時間以上も市中を練り歩く。この時期は陽差しがきついため晴れると大変な思いをするのだが、今日は幸い曇り空であったため、まだましであった。それでも子供にとってはかなり思い武具を着けての長時間の行進はかなり堪えたと思う。
神様の「お渡り」という行事は、平野神社から出発して西は大津駅から東は馬場地区までかなりの距離を歩く。昨年私は馬に乗らせてもらったからまだ良かったが、鎧兜を着けて歩いた真一郎も、ましては大きな神輿を担いでくださった人たちの大変さは想像を絶するものがある。真一郎について歩いた順子も曇り空であったにも関わらず肌を出していたところは真っ赤に日焼けしていた。
真一郎にとって数えで12歳の端午の節句に良い思い出となったことだろう。
ちょっとカッコよく加工してみた
真一郎は「なんでボクがこんなことやらなきゃいけないの」と厭がっていた。周りの子からも「あれって顔を白く塗るんやろ」とか言われて「何だかバカ殿みたいで嫌だ」と言っていた。実際は白塗りなどはせずに、目のところに赤い線をキリリと引いてくれるだけなのであるが、どうしても嫌な方へ想像してしまうらしい。
真一郎に鎧をつけてくれた人が良いことを言ってくれた。
「君は神様に選ばれたんや」
そう、最初からそう言ってあげれば良かったのだ。それでも親がそれを言っても納得がいかなかったろうなと思うが、そういう着付けの人からそう言ってもらえるともっともらしく聞こえるから不思議である。ただ順番的に廻ってきたものじゃなく、今年は真一郎にと神様に選ばれたんだ、と思う事が大切なのであろう。
お渡りの後半はさすがに疲れが出て来て、頭にかぶる兜が痛くなってきたらしく、それを外して歩いていた。その時に真一郎の写真を撮ろうと何人もシャッターを切ってくれた人がいたが、兜を取っていた真一郎は「写真を撮ってもらったのに兜なしじゃ失礼だったかなぁ」と気にしていたところがなんとも律儀なやつだと感心した。
それに引き換え、この2人はお気楽極楽であった。
一応この2人も「子ども神輿」で参加させてもらった
この連休、結局「釣り」と「家の掃除」と「祭り」で終わった。それでもいつも家族みんなでいられたこと、そしてみんな怪我も病気もなく笑って過ごせた事、それだけで十分であった。
04.05.03 釣り(Part 2)
あれから釣りに熱中している真一郎。ひたすら琵琶湖の嫌われ者の外来魚である「ブルーギル」を釣りまくっている。
昨日は折しも5月2日(日)は「琵琶湖ルール徹底キャンペーン」の当日であり、監視船の出動やら県庁職員など170人によるチラシとティッシュの配布、その上ヘリコプターまで出動して「釣った外来魚はリリースしないで持ち帰るか、回収ボックスに入れてください」とアピールしていた。
私も真一郎と同じ安い釣り竿を購入し、親子で釣り三昧であった。その日は北北東からの風が強く、波も高かった。空は今にも泣き出しそう。その寒さにもめげずに糸を垂らしていたがなかなか成果が出ない。
途中、家族が見物にやってきた。
「どう?釣れた?」と聞かれ、なんとかかっこいいところを見せようと頑張るのだがそれが空回りして、糸は絡まるわ、エサは取られる、最後には糸は切られ、釣り針まで取られてしまった。半ベソ状態の真一郎に私の釣り竿を貸し与えてリベンジ。やっと最後にみんなの前で1匹のブルーギルを釣り上げられた。不機嫌がマックスになっていたところで家族一同「どうしようか」と心配していたところだったので、みなホッとした。
リリース禁止を厳命されたあとで、なかなか生きたまま琵琶湖に戻すわけにもいかず、困った。回収ボックスに生きたまま入れるのも何だか気が引けるし、どうしたものか。
このブルーギルという魚。なかなか食えないヤツである。どうやら釣具店の人がいうには臭いらしい。皮と肉の間の部分が臭いから香辛料をたくさん使ったらどうにか食べられるという。しかし、この魚を3枚におろすにも大変そうだし、おろしたところで肉がどれくらい残るだろうかと疑問だった。
みんなはどうしているか。
ビニール袋に詰め込んで回収ボックスに入れるのが普通らしい。回収ボックスの中には確かにビニール袋に大量にブルーギルやらブラックバスやら詰め込んだものが溢れている。なんだか悲しい。
食べるために獲るのは良いと思うのだが、「釣る」ことを楽しむために魚を殺すことはどうも気が引けてしまう。これは真一郎もそうだった。確かに釣りは楽しい。魚が釣り竿を引く感触、釣り上げる時の達成感、なんとも言えない気持ちよさがある。しかし、その後の釣った魚の処理を考えると悩んでしまう。リリース出来たらまだ気持ちはすっきりするのだが、それも出来ないとなると、「これをリリースせずに回収ボックスにいれれば琵琶湖環境のためになる」と思えばいいのだろうが、どうもしっくりこない。
ということで、
飼うことになった(爆)
おいおい、ブルーギルを飼っている家はあんまりないだろう。いったいこいつらは何を食べるんだろう。
もうブルーギルを釣るのは控えめにしようかと。この水槽にはこれ以上入れられないし。これからは食べられる魚を釣りに行こうと思う。また道具を揃えなくてはならないが、それでもその方が気持ちが楽である。
今日も「ブルちゃん」「ギルちゃん」と名付けられた2匹の魚は我が家の玄関にある水槽の中で元気に泳いでいる。
万里子とカレー作り
お手伝いやりたがりの3女万里子。今夜もやってきた。
「うち、お手伝いするー」
この言葉が最近恐怖である。
先日の日記に「お手伝いをさせよう!」と書いたばかりでこんなことを言うのもなんだが、とっても面倒である。
「なに切ったらいい?」とすでに自分用の包丁とまな板を用意している。
「じゃ、まずはこのニンジンを切ってちょうだい」
「うん、わかった」
と、1本のニンジンを4つにブツ切り。
「これじゃ大きくてお口に入らないだろう?もう少し小さく切ってみよう」
「はい」と返事は素直。
「はい、出来たよ」
「次はなに切ればいい?」
「つ、次か?そ、それじゃ、じゃがいもを切ってもらおうか、な」
「うん、わかった」
まずはじゃがいもをたわしで洗ってもらって、私が皮を剥き、それを大きく切ってもらった。器用な万里子はそれほど危なっかしくはないのだが、今日はちょっと失敗して指を切った。
「あ、 あ~、血が出て来た」
まぁさほど本人も気にしていない様子であったが、指先の出血は止まりにくい。最初は舐めていたが、どうにも止まらないので傷テープを貼ることにしたらしい。
「らしい」というのは、私は最初にその傷を見てたいしたことないと思っていたのでほっておいたのである。
写真を撮っている場合じゃないだろうと自分でも思う
自分で傷テープを出して貼ろうとしているが、なかなか貼れないようで、丁度そこへ順子がやってきたので貼ってもらっていた。
再び戦線復帰の万里子は、無事にじゃがいもを切り終えて、水に浸けておいてくれた。どうやらそれでお手伝いの方は満足したらしい。
いやはや、やはりお手伝いをさせるという事は大変なことである。
傷テープを貼りに行くときやら、丸イスへの乗り降りの際に包丁を常に持ち歩くのは「危ないからやめなさい」と言っておいた。それから人に話しかける時に包丁を向けないで、と。
追加:
「ブルーギルは食えないやつ」と書いたが、どうやら工夫すればおいしく食べられるようである。滋賀県ではこんなこともやってくれている。
実際の料理と味の評価のHP。結構イケルらしい。アメリカザリガニの料理も掲載してあった。食べられるんだ。
それとブラックバスやブルーギルが及ぼす影響についてもこういう考え方もあるようである。参考になる。
しかし、「ブルちゃん」「ギルちゃん」として飼い始めてしまうと、なかなか食べづらくなっちゃうんだよな。どのHPにも3日以上はきれいな水で生かしておいて身体をきれいにしてから食べた方がいいと書いてあった。その間に情が移っちゃって食べづらくなってしまうんだな。困ったもんだ。
*次の目標:稚アユを釣って飴炊きして食べる。道具も安く揃えられそうだし、やってみたい。(参考)
04.05.02 体罰
数ヶ月前になるが、私は3女の万里子を張り倒した。4歳の娘の身体が2メートルほど吹っ飛ぶほどのビンタを喰らわせた。なんとも悲しく苦しく痛かった。娘を引っ叩くことがこんなにも辛いことかと思わされた。
理由はこうである。
近所の同い年の友達と2人で、誰にも言わずに遠くへ行ってしまった。警察のお世話になること2回。たまたま知り合いの人に見つけてもらい送ってもらったり、知らない小さな子供が2人で遊んでいる事を不思議に思って声を掛けてくださった人が警察に連絡してくださり、その警察から連絡をいただいたり。1度目2度目くらいまでは厳重注意で済ませた。しかし、それが数回に及んだ時にはさすがに体罰を与えた。
私は殴ることは嫌いだ。ましてかわいい娘を叩くことなど好き好んでやりたくはない。しかし、口で言っても判らない時は体罰をするのも仕方がないことだと思っている。
小さい頃のしつけというものは犬のしつけと同じだと思っている。叩いて覚えさせる。そして結びつきは「エサ」と「散歩」である。これも犬と一緒。幼児期の子供の人権など考えたこともない。こう書くと無茶苦茶スパルタでやっているような感じであるが、決してそんなことはなくほとんどベロベロに舐め回すようにかわいがり、適当にほったらかしている。本当に危ないことをした時は手を叩いたり、尻を叩いたりする。絶対に間違っていることをやった時も叩いた。失敗では叩かない。
しかしそれも幼稚園に入るまでだろうか。幼稚園に入る頃には口で言えば判るようになる。だから叩く必要は余程でなければなくなる。それまでに基本的なしつけがある程度済ませてあればかなり減るだろうと思う。これもそれぞれの性格にもよるので小学校にあがってからでも体罰を与えなくてはならない時もあろうかと思うが、我が家では幸い幼稚園以降は叩かないで済んでいる。これからまだどうなるか判らないが。
叩くことは主に家内がやってきた。私はよほどの時にしか叩かない。家内はよく叩いた。それは虐待じゃないのかと思う時もあった。特に1人目、2人目くらいの時は多かったと思う。3人目は病弱だったので叱る余裕もなかったが、4人目からは極端に減ったかもしれない。しかし、私が叩いたのはその4人目であり、それも今までの子にはなかった力任せのビンタであった。
叩いたとき万里子は思ったほど泣かなかった。叩かれる事を予感していたかもしれない。自分が叩かれても仕方がないことも判っていたのかもしれない。こんな時は叩いてあげるのがいいと思ったりもする。叩くべき時に叩いてあげないと、そして叱るべき時に叱ってあげないと子供は迷う。長いお説教はいらない。過去の事までひっぱりださなくてもいい。ただ犬と一緒で「こんなところでおしっこしちゃダメだろう!」とそのおしっこの所に鼻を押し付けて尻をパンと叩けば良いのである。
振り返ると子供が2人だけの頃はよくキレた。感情的に怒鳴ったり、泣きやまない子を部屋に置いて外に逃げ出したこともある。ただ抱きしめてあげるという余裕もなかった。自分が何をしてしまうか怖いときもあった。それも育児に一生懸命になればなるほどエスカレートしてしまう。自己嫌悪の嵐。自虐的な毎日。この辛さはその時の立場の人でなければ判らないものであろう。
だんだんと育児にも余裕が出て来て、親も子もそれぞれにお互いの扱い方が判ってくるし、どうやればお互いが心地よいのかも判ってくる。それはやはり小さい頃の体罰というものが効果があるかと思う。感情的に叩いてしまう時もあるかもしれない。出来るだけそれは避けたいところであるが、そうしないと自分が壊れてしまうときもある。
今でも万里子を張り倒したこの右手の手のひらの感触を覚えている。あの時に「きっとこいつはもう判っている。自分が悪い事をしたことを反省しているだろう」と思いやってあげて叩く事をやめていたら、やはり今は後悔していたと思っている。叩いてあげられる機会などそうあるものではない。今までにも何度かあった。ここは叩いた方がいいだろうなと思ったが咄嗟に躊躇してしまい叩かなかった。その事の方が今でも悔いとして残っている。あの時に叩いてあげていればと今でも考えてしまう。
「やさしい」父親、「思いやりのある」父親、何でも「理解してくれる」父親。これらは一見良さそうな父親像であるが、私はそれにも疑問に思う。それでいいのだろうかと。
子供にとって自分の父親とは「社会」そのものだと思っている。ここで言う社会とは「家庭内」に対して「外」となる社会である。父親を馬鹿にする子は上司を馬鹿にし、先生を馬鹿にし、目上の人を目上と思わず、社会をなめてかかると思う。父親への口のきき方ひとつでも体罰を与えるときもある。「馬鹿じゃないの」など口に出そうものなら、まず私が叩く前に誰かがその子を叩いているだろう。「お父さんになんてこと言うの!」と。
公園でスケッチ中の筆者
そういう父親としての威厳を保つ事は思いのほか大変なことである。特にいつも偉そうにしている訳ではないが、とりあえず自分の義務を黙々と果たすまでである。いつも笑顔で、ジョークも飛ばし、馬鹿な事も言うが、ある一線は超えない。子供たちもその一線までの距離は少しずつ判って来ているはずである。夫婦の間の一線、夫婦と子との一線、母と子の一線、父と子の一線、姉と弟の一線、その距離感はそれぞれ違うであろうが、いかにその距離感を保つか、それぞれの距離を保つか、そしてそれが全体としてバランスがとれているか。そのバランスがうまくとれている時は家族もうまくいっているはずである。
その距離感のバランスがとれて、全体として美しい形となっているときは、それ全体としてある良い波動が出るのだろう。なんとも美しいハーモニーが奏でられるのであろう。そんな家族でありたいと思う。
04.04.29 びわ湖で釣り体験
真一郎が急に「釣りがやりたい」と言い出した。友達もやっているし、びわ湖に散歩に行くたびに楽しそうに釣りをする人たちを見かけたのが刺激になったのかもしれない。ここ数日間、ネットで釣りに関して調べたり、びわ湖に足を運んで釣りをしている人に近づいて見せてもらったり、話しかけたりで情報を仕入れていた。
自宅から歩いて数分のところに釣り場があるのだから、釣りが趣味に出来たら、タダで遊べる遊園地が家のそばにあるようなものである。これほど安上がりで楽しいことはない。
まずは釣り具屋さんに行き、初めてなんですけど、びわ湖で釣りがしたいのですが、何が必要でしょうか?と超初心者モードで聞いてみたところ、丁寧に説明してくださり、安い釣りセットを勧めてくれた。税込み3000円で一式揃えてもらっていざびわ湖へ!
今日は最高の釣り日和。風もなくぽかぽかとした陽気で、湖畔の公園を家族連れで散歩している人たちの笑顔も昨日までの雨と寒さを吹き飛ばすほどの勢いであった。
家である程度のしかけを作っていったが、はじめてすぐに糸が絡まったり、湖底に針が引っかかって取れなくなったりと、トラブル続き。釣りをしに行ったのか、糸を解きに行ったのか判らないくらいである。
かなりの時間を上の写真のように糸の絡まりとの格闘。これがまたイライラしてくるのだ。
まぁ真一郎にとっては今日が初めてのことだから仕方ないのだろう。ルアーの投げ方からして今日初めて教わったのだから。
あの超せっかち、いらいら小僧、慌てん坊将軍の真一郎が釣りをやると言い出した時の家族の反応は、絶対長く続かないよ、イライラしてすぐに帰ってくるさ、糸が絡まって怒りまくって竿を折ってくるに違いないと想像していた。
実際に何度も糸が絡まってしまった時は、悔しさで泣きそうな顔をしていた時もあったし、その糸が解けない時もそれを投げ出しそうにもなっていた。やっぱりこいつには無理かなと思って見ていたが、その後もぷりぷり怒りながらも辛抱して頑張っていた。絡まりが解けて再び糸を垂れる時は再びわくわくした顔になっている。これはイケルかもなと思った。
しばらくして私がちょっとやらせてもらった時に、たまたま間抜けなブルーギルが掛かってくれた。おぉ釣れた釣れたと大騒ぎ。真一郎もはしゃいでいた。今度は自分が釣ってやるぞと一層鼻息が荒くなってきた。
私は末娘の明日香を一緒に連れて行っていたために適当に引き上げて、真一郎を一人置いてびわ湖を去った。あとは頑張ってなー、とエールを送り、ひとり竿を振る真一郎は少しだけ頼もしかった。
私が家に帰った1時間後くらいに真一郎が帰宅した。
「釣れたよー!」
大人の手のひらほどのブルーギルが釣れたらしい。その笑顔はとても満足そうであった。初めて釣り上げた事、この感触は何とも言えないものであろう。
男が家族のために狩りに行き、必死に格闘して動物を獲ってくるという感覚は、基本的にかなりの満足感が得られるものである。大袈裟な表現だが、不思議とそういう本能があるのかもしれないと思う。そんな時家族は「すごいねー」と褒めてやるのがいいのだろう。
あんなせっかちな息子が糸が絡まるという一番イライラすることを乗り越えて、苦労して釣った1匹の魚は、彼の人生において大きな成果であったに違いない。
一見せっかちには向いていないと思われた釣りというものは、意外なことにせっかちにはうってつけの趣味であることが判った。
04.04.25 絶対に大丈夫
「最近いろいろと心配になって恐くなることが多いんだ」
夜の風呂上がり、たまたま居間で2人きりになった時に真一郎がポツリとつぶやいた。
その心配事はいくつかあるがどれも漠然としていた。
石油がいずれなくなっちゃうと聞いたけど、もしその時が来たらどうなっちゃうんだろうとか、もし戦争が起こったら敵が攻めて来てみんな殺されてしまうのか、自分が生きている間に戦争が起こったら自分も戦争に行かなければならないのか、幽霊は本当にいるのか、もしいるとしたらこの家にも出るのかどうかなどなど。
どれもこれも私が真一郎の年代の頃には同じ心配をしたものだ。よしよし順調順調と心の中でニヤリとした。
いくつかの心配に答えてやった。あくまでも小学生に対して不安をこれ以上膨らませないための説明としてであるので現実とは違うかもしれない。その上、答えの中にはむしろ不安を増長させてしまったものもあるかもしれない。
石油がもしなくなってしまったら。
いよいよなくなってしまいそうだとなる頃には、新しく石油に変わるエネルギーが開発されているから大丈夫だ。燃料電池、太陽電池、風力発電、原子力などなど石油がなくなっても大丈夫なように今から真剣に開発している。もちろん石油が早くなくならないように大切に使わなければならないのは大前提だぞ。だから絶対に大丈夫だ。
戦争は起きては困るが、もしも戦争をしなければならない時は戦わなければいけない。もしもみんなが逃げてしまって日本が負けてしまえば、自分たちは勝った国の言いなりにならなければならなくなる。そんな環境では暮らしたくないだろう?自分の家族を守るために、自分の国を守るために、自分の命を投げ出してでも戦うんだ。その時になればきっとそういう気持ちになるはずだ。お前のおじいちゃんも、ひいおじいちゃんもそうしてきた。でも戦争にならないように最大限の努力はしなければいけないんだ。
それに日本の自衛隊は強いぞ。敵の飛行機が爆弾を積んで日本に来ようとしたって、その前に撃ち落とせる最新鋭の戦闘機を持っているんだ。だから絶対に大丈夫だ。そう簡単に日本に爆弾なんて落とせない。
幽霊はいるかいないかはお父さんにも解らない。でももし幽霊がいるとして、そしてそれが恐いもものだとしても、この家には絶対に入って来られないんだ。まずは死んだおじいちゃんやおばあちゃんが守ってくれている。そして幽霊は犬が苦手なんだ、うちのスズが早く気がついて吠えて追い払ってくれる。それと子供のいるうちには出ないとも聞いた事がある。その上うちにはいろいろなオフダがあるだろう、あれで結界という見えないバリアが張ってあるから絶対に大丈夫だ!
「なんだかちょっと安心したよ。大丈夫なんだね。」
「そう、絶対に大丈夫だ! もしそれでも危険が迫ったら、お父さんが命がけでお前を守ってやる。だから絶対に、絶対に大丈夫だ!」
「この家にはお父さんとお前しか男がいない。だからお父さんがいない時、そしてお父さんが死んだ時は、お前が他の家族の命を守らなくちゃいけない」
「できるかなぁ」
「絶対に大丈夫だ!いつでもお父さんはお前を見守っている」
もうちょっとマシなことが言えたらよかったのだが、咄嗟の質問に口先だけで答えてしまったところがある。後から考えると、こう言ってやれば良かった、もう一言付け加えれば良かったと思うことばかりである。
04.04.22 しつけ
親が子供に対してやらなければならないことのひとつに「しつけ」がある。これがなかなか難しい。まずは何をしつけるか、どのようにしつけるか。しつけは家庭でやるものであり、学校や塾でやってもらうものではない。これを勘違いしている親がいかに多いことか。「この子は家ではお手伝いを全然しないのでなんとか学校の方でよろしくお願いします」なんて言うのはやはりおかしい。これは家庭でやるべきことであり、やらないのは怠慢に他ならない。
何をしつけるかの基本は、独りで生きられるようにするための基本的な事柄であろうと思う。親がいついなくなっても大丈夫なようにである。その方法は「お手伝い」であろう。当たり前と言えば当たり前のことである。
しかし、このお手伝いというものは何とも親にとってはとても面倒なことである。親自身がやってしまった方がよほど物事が早く片付き、叱らなくても済み、イライラもしない。子供も好きなテレビが見ていられる。それが慢性化してしまうと、子供はただひたすらテレビを見続けて、親が忙しい忙しいと走り回り、「ちょっとはたまには手伝ってよ」と言っても聞く耳持たない子供たち。いざ無理矢理やらせようとしても何をどうしていいのか解らない子供。それをまた1から教えようとすると結局「もういいよ、邪魔だからあっちいってて」となってしまったりする。なかなかうまくいかないものである。
理想を言えば小さい頃から少しずつ手伝わせておくのがいいのだろうが、小さい頃は危険がいっぱいで手伝わせる事が出来ないとなってしまう。しかし、危険を承知で時間をかけて手伝わせなくてはいけない。そうしないとゆくゆくは親の寄生虫になってしまう。
桜の木の下で
「言葉」もしつけの大事な要素であろう。上の兄弟への話し方、下の兄弟への話し方、母親への、父親への話し方、友達、先生、先輩などそれぞれの使い分けというのは意外と難しいものである。難しいものであるが、それぞれを使い分けなければならない。学校の先生に対してタメ口ではいけない。学校から家に帰って来て学校のことを話してくれるが、その時に先生のことを小馬鹿にするような言動は親として許さない。先生のことをそんな風に言うもんじゃないと諌める。もちろん親自身が先生のことを馬鹿にするような言動は慎む。
敬語が話せない子供が多いが、これはどこで学ぶかというとやはり親から学ぶ、そして読書から学ぶ。親が目上の人に対して敬語を使えないような威丈高の人では子供もまず敬語は使えない、いや使わないことが多い。しかし、これは人間性の問題であって、たとえ親が使わなくてもしっかりした子供は自分の親を反面教師として見事に敬語を使う子もいる。
親が話す言葉の使い分けを子供はよく見ているものである。こういう場面ではこういった話し方、また違った相手ではこういった話し方。この人とうちの親はどっちが上なんだろう?どういう関係なんだろう?その辺を即座に判断し見分けていると思う。
ある時、家族で結婚式に招待され、そこで私が祝辞を述べさせていただいた。その時に長男真一郎は「お父さんの今日の話し方って、いつもと全然違っていたね。あぁいう話し方を聞いたのは初めてだよ」と妙に感心した言い草であった。子供は親がいう説教には聞く耳持たないが、こういうことはよく聞いているもんだ。あらためて話し方などを教えたりはしないが、子供の前で会話するときは気をつけた方がいい。子供はその点はとても敏感であるから。
それと話し方も大事であるが、聞き方も大切である。話し方に関しては「話し方教室」というものがある。要は教えられることなのである。しかし、「聞き方教室」というものはない。「人の話を聞くということは人間性の問題である」といつもの勉強会で教えていただいた。人の話の聞ける人がいかに少ないか。いつも自分が話すばかりで、人の話を聞いているときも常に次は何を話そうと考えている。カラオケと一緒で、誰かが歌っている間も次に何を歌おうかとページをめくっているのである。
相手の話を身を乗り出して聞く事。これが意外と簡単そうで相当難しいことであり、自分の人間性を映し出しているものである。「でもさぁ」とか「私なんかさぁ」「それならまだいいよ、私なんかもっと悲惨だったんだから」「ところでさぁ」などという言葉を今日は一度も使わないぞと思うと、これがとっても難しいことなのです。
04.04.11 スクラップブッキング
妻の順子は以前より写真のアルバム整理が好きである。ベリベリッとビニールを剥がして写真を貼付け、それにコメントを付け加えたり、その写真に関連したものを一緒に挟み込んだりした後、再びビニールを空気が入らないように貼付ける。
そのコメントを付けたりする紙には、いろいろなスタンプを押して、それに色を塗ったり、押し方を工夫したりでかなり凝っている。そのスタンプの種類もおそらく100種類を優に超えている。
最近はそのアルバム作りもやっている時間が取れず、次女の由香里が生まれた頃から進んでいない。現在でも少しずつは進んでいるが、1枚作るのに時間が掛かるためかなりのスローペースになってしまっている。
アメリカの方では、順子がやっているようなアルバム作りをもっと進化させたスクラップブッキングというものが流行しているらしい。「写真を整理する」ということをもっと超えたある種芸術に近いもの。ここまでやるか?という感じさえする。順子もそこまではやろうと思っていないようであるが、アルバム作りの参考になるとHPを眺めたり、それ用の道具を調達してきたり楽しんでいるようである。
端午の節句にはまだ早いが床の間に鎧兜を出した
日々のスナップ写真を撮る時も、なんとなくアルバムに貼付ける時のことを考えながら撮影する。私もデジカメで撮影する時は、この「育児日誌」と両親や親戚などに送る「家族新聞」のことを考慮して撮影する。そんなことで写真の撮り方、その節目の場面での状況の捉え方、いずれ文章にしようと思っているとその見方が変わってくるのが面白い。
その時は天気はどうであったか、誰がいたのか、どんな経緯だったのか、どんなハプニングがあったのか、みんなはどんな顔をしていたのか、後に文章にしようと思っていると観察力が増してくる。しかし、あまりにそれに固執してしまうと、我が家の出来事を客観視し過ぎてしまうことにもなり、取材する記者のようにもなってしまうため、家族にはうけが悪いかもしれない。
やはり単純に家族みんなで笑顔で喜びの時間を共有するのがいいのであろう。常にファインダーを覗いたままだと、顔を合わせて笑う事が出来ないのと、ファインダーを通しての映像しか見られないので、ナマの表情を身損ねてしまう。
04.04.10 うつウツ憂鬱
世間は花見だ、入園だ、入学だ、就職だと浮き足立っている。みんなが笑顔で幸せそうに見える。自分だけが不幸に見える。自分が孤独に感じる。桜の花まで満開に咲き誇って最大限の力を出し切っているように見える。自分の生きる力を吸い取り花開いているようにも見える。それに比べて自分はどうだ。先行き分らず自信がなく、自分の殻に閉じこもり自虐的な日々。「頑張らなくては」「こんなことじゃいけない」と自分を励ませば励ますほど落ち込む。「子供のためにも頑張らなくちゃね」「君なら出来るよ、自信をもって!」と励まされると余計に滅入る。
駐車場に「前向きに」と書かれてある看板を見てもムカツク。
こんな風に思っている方も多いのではないかな?私も少なからず同じ種類の人間である。現在のところ幸い今年はまだマシなようである。
この時期はそうなる季節である。それはそういう季節の所為。だからなんとかこの時期を乗り越えられれば、やっと心の春が来る。日本に春は訪れているが、心の春はあともう少しで訪れる。もう少しの辛抱だ。
桜は出来るだけ見ない。絢爛な桜を見ると気が滅入る。夜桜はまだいい。しかし、昼間の花見、それも人ごみの中で、独りで花見に行くのは良くない。どんどん気が滅入ってくる。同じ花でも「菜の花」はいい。ウツには菜の花やたんぽぽがいい。
「お前もたいへんだな・・」と言えるような花がいい。
雑草みたいにみんなに踏みつけられている草花がいい。ツライのは自分だけじゃない。
04.04.08 情報過多の中で
私たちは常に様々な情報の中で暮らしている。よほどその情報を故意にシャットアウトしない限り無尽蔵に入ってきてしまい、かつその情報に振り回されてしまいがちである。そんな中であっても「もっと情報を、もっと新しい情報を」と飢えているところがある。頭の中ではそれらの情報が入り乱れており整理が出来ずに散在している。データというものは整理整頓されていてなんぼのもんであるが、ただただ大量の情報ばかり仕入れることに一生懸命となり、それを取捨選択し活用することが困難な状況になっているようである。
入ってくる情報もある程度取捨選択はしている。それは自分にとって都合の良い情報である。その時の自分の思考に都合の良い情報は優先されて取り入れる。そしてその自分の思考を充実させる役割を果たす。都合の悪い情報は、よほどの事でない限り無視したり、認めなかったりしたいものである。常に情報取り入れ口にフィルターを備えていて、そのフィルターでふるいにかける。そのフィルターは「偏見」というものかもしれない。いつもそれぞれ個人の偏見というフィルターを通しての情報を、また頭の中で分類し記憶な中にしまってそれをデータベースとし、いつでも取り出し利用出来るようにするものである。
昔も今も有効な情報をたくさん持ち、それをうまく活用する者が勝つ。特に戦争においては兵力、士気と同レベルで大切な要素であろう。これは平時の普段の生活の中でも同じ事が言えそうである。戦争のない平和な世の中であっても、現代の日本の社会ではいつも人々は戦闘状態になっている。明日出会う人と会話するのに何を話すべきか、どう話すべきか、いかに自分が上回っているか、いかにいろいろと知識が豊富であるか、など無意識に考えながら情報を探す。その情報をいかに簡単に短時間に安く仕入れるか。現在提供されている情報源の利用状況をみても、どれもそれらの要素を満たすものばかりである。インターネットであり、雑誌であり、テレビ、ラジオ、新聞などである。もうちょっと詳しく知りたいと思うと、本を読んだり、ネットで細かく調べたり、教えてくれる人に聞くということになる。情報にはそれぞれ入手先によるランクがあり、不思議と「雑誌からの情報」「友人からの情報」「ネットからの情報」「新聞での情報」とそれぞれランクが違うように思う。信憑性とも言おうか。同じ友人の情報でも、自分が勝手に決めているその友人のランクの差が情報のランクに関わってくるように思う。
それらの情報が急に途絶える事になった場合、それに耐えられるだろうか。携帯を忘れて家を出てしまったことに耐えられるだろうか。そういう方が多くなってきたようである。仕事に直接差し支えるからという理由の人もおられるだろうが、そういった理由でなく携帯を忘れたことがイコール社会と繋がる1本の命綱と思っている方が増えているように思う。
私は携帯は持ち歩かないが、パソコンに繋がっているインターネットからの線を引っこ抜いたパソコンはどうも生きているように思えないところある。これも一種の病気なのかもしれない。パソコンをどのように使用しているかにもよると思うが、かなりの情報をパソコンに頼っている人にとっては命綱であろう。
京都円山公園の巨大枝垂れ桜。今年も見事に咲いてくれました。
4月1日の日記に人生は綱渡りと書いたが、どうも最近はその情報源の綱の上を恐る恐る渡っているような気がしてならない。その綱を渡るための情報はたくさんあるのに越した事はないが、情報を持ちすぎてバランスを失ってしまいがちではないかと思う。バランスよく綱を渡るための情報が、却ってそれを持つ事においてバランスを失ってしまう。火事場から逃げる時にあれもこれも必要だからとたくさんの荷物を持ち過ぎて逃げ遅れてしまうように、小さな舟で脱出するのに沈んでしまうほどの荷物を積んでしまうように自滅してしまう姿が目に浮かぶ。
大切なものは自分の感覚。自分の五感、プラス直感を信じて綱を渡っていく事。綱に触れる足裏の感触、前後左右の傾き具合を知る平衡器官、自分を取り巻く環境を把握するための皮膚の敏感さ、危険を音で察知するための聴覚、そして視覚、嗅覚。
そして一番大切なのは、その自分の感覚を信じる心。この辺にあるのかなと思う。自分の感覚が信じられなくなって来た時には、もっともっと情報が欲しくなるものである。感覚としての情報が乏しくなるから、それ以外の情報で補おうとする。しかし、自分の感覚を研ぎすますことはすぐに出来ることではない。それだけに安易に他からの情報に頼らざるを得ないことになるのであろう。
自分の感覚を研ぎすます方法は、今入ってくる情報を断つ事ではないだろうか。他からの情報を断つ事において自分の感覚を鋭くする。これはとても怖い事であるが、これしかないかもしれない。
04.04.04 イラスト作成
今日は朝から梅雨のようなシトシト雨。
「こりゃ今日はどこにも出かけられそうもないから、家でごろごろしているか」と覚悟を決めた。
家内は部屋の片付けや洗濯、チビたちはそれぞれコロコロと遊んでいる。真一郎はゲーム。私と朋子は手持ち無沙汰になり、「それじゃ一丁絵でも描こうか」ということになり、まず朋子に下絵を描いてもらった。
下絵を描いている朋子と覗きに来た真一郎
数日前に広告の裏を使って家族の似顔絵を描いていたのを見ていたので、
「あの時の絵みたいな感じでいいから、適当にみんなの絵を描いてくれ」と頼んだ。
下絵完成!
1時間ほどで下絵が完成。
次にその絵をパソコンに読み込むのだが、スキャナーがないため、デジカメで撮影して読み込んだ。紙が白いためフラッシュで撮影すると真っ白くなってしまい、フラッシュないだと暗くて手ぶれでラインがぶれて写った。仕方がないのでそのぶれたラインから画像レタッチソフトでタブレットを使って輪郭をなぞった。その作業はとっても肩がこってしまうので、朋子に任せた。
タブレットでなぞっているところ
一人一人の絵を個別に読み込み、下絵をなぞって彩色した。そしてそれらを最後に集めて構成して作ったものが完成のイラストである。ひとりの絵が、モニターの中にいっぱいになるくらいの大きさ。最終的にはかなり縮小して集合させたわけであるが、その方が細かいところのボロが出にくくていいかもしれない。
結局、3~4時間掛かってしまった。朋子が「できたよ~」と下絵をなぞる作業が終わったら、私と交代して私が彩色。それが終わると再び朋子が次の下絵をなぞるの繰り返し。それでも朋子との共同作業が楽しかった。
雨の日曜日。結局、犬の散歩以外は外に出ることなく、お金も使わずに楽しく過ごせた。
イラストをクリックすると大きくなりますよ。
04.04.01 いつもと同じ いつもどおり
今朝も布団から起き上がり郵便受けに新聞を取りに行く。新聞を読み、朝ご飯を食べて、トイレを済ませ、そしてヒゲを剃る。その使い終わった電気カミソリを掃除しながらふと洗面台の鏡の中の自分をみる。薄暗い洗面所に寝ぼけた顔が映る。
視線を脇に置いてある時計に移すといつもその針は同じ場所を指している。そういえば昨日もこの時間だったな。
・ ・ ・ ・ ・
昨夜、お風呂上がりにお茶を飲みに2階から降りてきた朋子と話した。
「小学生も今日で終わりだな、明日からはもう中学生だ。早いもんだな」
「そうだよ、お父さんと一緒に暮らせるのもあと6年だよ」
「あと6年か・・・」「トモが小学校に入学したのはついこの前だと思っていたがもう卒業だもんな」「その6年がもう1回過ぎたら家を出ることになるんだな」
「そうそう」と軽く相づちを打ち「それじゃおやすみ~」と2階への階段を上がって行った。
三井寺の夜桜
今年もまた桜が咲いている。きっと来年も再来年もいつものように咲いてくれるのだろう。
今日も空は青い。きっと明日も明後日も青く輝いているのだろう。
でもその次はわからない。
いつものように時が進んでくれていると思えるのはいつまでなのだろうか。
日常なんてことは、ただ奇跡的に昨日と同じことが出来るということ。この当たり前の生活なんてほんの些細なことで簡単に崩れさってしまうものである。
昨日、真一郎が車と接触した。道路に急に飛び出した真一郎が完全に悪いのであるが、かすり傷で済んだことは誠に奇跡としか言いようがない。もしものことがあれば、日常なんてものはあっさりと吹っ飛んでしまったことだろう。
・ ・ ・ ・ ・
人生は綱渡り。命綱なしのアクロバット。みんなで1本の綱の上を歩く。
「おい揺らすなよ、自分一人で渡っているわけじゃないんだ」
「ところでこの綱はどこまで続いているんだい?」
「さあな、知ったこっちゃないさ。ただひたすら歩くしかないんだ、後ろがつかえているからな」
「でもあの終点は追いかけても追いかけても近づかないし、近づくほど見えなくなるようじゃねえか」
「そんな気もするが、まぁ、とにかく歩くしかねーだろう」
「そうだな」
04.03.25 南の島での子育て
昨日こちらのHPを見させていただいた。「南の島子連れ滞在記:サモアのびっくり暮らしと子育て」というHPである。門田さんという女性が1歳のお嬢さんを連れてお2人でサモアという南の島にて3ヶ月ほどそこの住民に溶け込み滞在された記録である。
そのサモアにある村の中で、「村みんなが家族」という状況の中、戸惑いながらも元気に生活する母子の姿がサモアの美しい海をバックにまぶしく映る。
核家族化が進み、ややこしい子供同士、親同士の人間関係、子供の人権を守るという名の元にわがまま放題の子供たち、そしてそのわがままに振り回される親たち。そういった状況に一石を投じるHPだと思う。
「どんなに小さな子供が居る時でも、子供は好きに遊ばせておいて私は変わらず家の周りの仕事をした。わがままは相手にしない。それだけだよ。」
力強くこのように言うフェアばあちゃん。この言葉に育児の真髄を見たような気がする。
子供と遊ぶなどしない。ただ親が仕事をする周りで子供が遊んでいるだけ。子供は親の仕事の邪魔をしない、親も子供の遊びの邪魔をしない。手伝えるようになれば自然と親の仕事を手伝う。そうやって受け継がれていく何かがある。
与えられた遊具もなく大自然の中で「生きる」その子供たちの姿はとてもまぶしい。村は決して裕福ではなく経済的にはかなり貧しいように見えるが、写真の中に映るその顔には豊かさが満ちあふれている。
現在の日本の子供たちは、モノと情報の量に押しつぶされ窮屈になっている。目で見える豊かさしか追わず、モノでそれを満たしても心はどんどんと痩せ細っていくばかり。人に対して怯えるために、人を人として感じないようにしていく。人さえもモノとして捉え、「気」を感じないように心がける毎日。それでは「生きている」なんて言えない。田舎には田舎の、都会では都会なりの息づかいがあり、その呼吸に合わせて生きなければならないが、その合わせ方が分からないのかもしれない。自然が多ければそれだけで良いというわけではない。その環境に合わせてどのように一緒に鼓動を合わせられるか、それも自分に負担にならずに同期出来るか。
環境と融合出来ずに一人「子宮」に籠り、へその緒から送られてくる過去からの信号に同期し、外に聞こえる雑踏を遠くに聞き怯える胎児たちに、「こっちへおいで」と呼びかけてくれるようなやさしい声が聞こえてくる。そんな門田さんのHPであった。
HPにあるイラストも門田さんによるもの。こちらも暖かみがあり素晴らしい。全体的な構成もよく文章も読みやすい。一読の価値ある佳作だと思う。
04.03.18 春という字は・・・
「春という字は3人の日と書きます・・・」と唄ったのは石野真子さん。私の世代の人間にとっては「スター誕生」という番組からデビューした懐かしいアイドルである。あの頃はアイドルの春であった。
「春」という字で漢字辞典を開くと、こう書いてある。
古字は「屯」の下に「日」と書く。本字はそれの上に草冠がつく。「屯」とは群がるの意味。草が日を受けて群がり生ずるさまから季節のはるを意味を表す。
昨日は20度を越えるような暖かい日であった。今日はうってかわって雨。明け方は強く降っていたが午前中はいわゆる春雨であった。春雨とはもちろんデンプンから作った麺ではなく、春に静かに降る雨のことである。「春雨じゃ、濡れて行こう」の春雨である。
雨にもいろいろあって、意味の分からなかったものだけ調べてみた。まずは「村雨」。どういう雨だろう?と思っていた。よくゲームの中で「名刀村雨」というような名前では聞いた事があったが・・・。
「村雨(むらさめ)」は強く降ったり弱く降ったりを繰り返す、にわか雨、のこと。むらになって降る意から。叢雨、群雨とも書く。村は当て字。
「糠雨(ぬかあめ)」は糠のように細かい雨のこと。糠雨のちょっと強い雨を「小糠雨(こぬかあめ)」という。
「篠突く雨(しのつくあめ)」篠竹を束ねて突き下ろすような激しい雨。
「遣らずの雨(やらずのあめ)」訪ねて来た人を返したくないかのように降ってくる雨。
「時雨(しぐれ)」晩秋から初冬にかけて降ったりやんだりする雨。
同じ雨でもいろいろあるものである。
先日の春の陽気の時に、「今日は小春日和(こはるびより)で・・・」と使っていた人がおられるが、これは間違い。小春とは、春のような暖かい日が続く初冬(陰暦10月)のことをいう。
来週あたりから桜がちらほらと咲いて来るようである。我が家も明日は朋子の小学校の卒業式。そして春休みを過ぎて、万里子の入園、朋子の入学と続く。
麗ら(うらら)に晴れた春の日に、縁側に寝そべり鼻ほじる
そんな休日を過ごしてみたい。
04.03.14 無限の可能性?
よく大人は子供に対して「無限の可能性」があってうらやましい、と言う。はたしてそれは本当なのだろうか。私も若い頃にそう言われた記憶があるが、その時はそう言われても決してそうと思わなかった。大人からしてみたら、社会のしがらみ、人間関係の複雑、守るべきもののためにという名目で制約が多々あり過ぎて、自分で選択出来る道がかなり絞られてしまっているので、子供をみてそう思うのかもしれない。
しかし、子供にとってもそれは同じ事であり、親というものに制約を与えられ、がんじがらめになり身動き取れない状態に陥る事も多々あるように思う。それはある種大人よりもきつい強迫的なものがあるので、却って大人よりも無限の可能性などというものはないのかも知れないと思う。
子供は白いキャンバスのようなもので、そこにどんな絵を描いていくかは親次第などと言われ、小さい頃からの教育に熱心な親がいるが、私はそれにも疑問を感じてきた。私もそういう育児本を読んでなるほどと思い、少しはチャレンジしたこともあった。
子供はキャンバスは持っているかもしれないが、決して親に描かせてなんてくれない。自分なりの下絵に対して着々と色づけをしていくのであり、そこで親が「お日様は赤く塗りなさい、お空は青でしょ」なんて言っても、そのようには色を付けてはくれないものである。そこで親の言う通りに取りあえず「太陽は赤、空は青」と塗っても、心は荒(すさ)むばかりである。もうひとつの別の闇のキャンバスを持ち、そこにその抑圧を描くようになる。その表と裏のキャンバスを持ち、それらを同時に悩みながら描いて行く。だが親は表の絵だけを見て安心しているが、いつか裏の絵を垣間みる時がくる。その時には「これはうちの子が描いたものではない」と叫ぶだろう。しかし、まぎれもなくその絵は本人のものであり、それが本性であるとは言い切れないが、本人のある一面であることは間違いないだろう。
親をやっていて、無力感に陥ることが多い。親として何がしてあげられるだろうと考えてみても、よくよく考えてみると、どうも邪魔なことにしか思えないことばかりである。
親が子供に良き影響を与えられることは、受け売りの薄っぺらな道徳や自分が受けた社会からの仕打ちに対する恨みつらみ、では何も良い影響などにはならない。結局のところ親の寡黙な生き方そのもの、そして親の本質、器量からしか影響を受けないのかもしれないと思う。
人間は誰しも一人の旅人であり、どう一人で頑張っても周りに迷惑を掛けながら生きる事になる。その迷惑をいかに最小限にし、そしてその迷惑を掛けた分、どれだけ他人の事を大目に見てあげられるか、そしてその社会に恩返し出来るかである。親子関係でも寂しいことではあるが、子供に対して何をしてあげられるかを考えるよりも、いかに子供の邪魔にならないかと考えた方がよほど子供にとってはありがたいのかもしれない。
私も親元から離れてみて、そして自分の子供をもって自分の親のありがたみを知ったような気がする。離れるほどに親子の絆は深くなり、近くにあるほど絆は脆くなるような気がする。
親なんてもんは、所詮大したことはしてあげられないもの。そして、大したことをしてあげればしてあげる程、子供にとっては悪影響になることが多いように思う。少なくとも子供のキャンバスに勝手に色づけしたりしないようにと思う。誰しも自分が描いている絵に勝手に違う絵を描かれたら腹の立つことこの上ないから。
夜の散歩と朝の散歩
毎晩子供と琵琶湖岸まで犬の散歩に出かける。琵琶湖の夜景も見慣れてしまってはいるが、ふと客観的に見るときがあるとやはりその美しさに感動する。
中央左寄りの光は「琵琶湖花噴水」
湖岸ではみんなでサッカーをしたりキャッチボールをしたり
日頃の運動不足を解消するために、子供に付き合ってもらって?キャッチボールをしたり、サッカーをしたりする。星を見る時には不要な強力な照明が、この時には役に立つ。まるでナイターの試合のように私たちを照らしてくれる。
歩いている時でも、私は基本的に黙っているが、子供たちは次から次へと代わるがわる話しかけて来る。「ほぉ~」とか「へぇー」とかの相づちしか打たないが、それでも懲りずにいろいろな学校での出来事、日常感じた事、考えたことを話してくれる内容は面白い。1対1ではなく他の兄弟も一緒であるから話題は限られて来るが、それはそれで楽しい。
今朝は朝6時に早起きして真一郎と一緒に、夜の散歩と同じ湖岸に日の出を見に行った。現在の日の出は6時頃であるので、6時15分くらいでやっと昇って来たお日様を拝む事が出来る。今朝はまた雲一つない空であったので素晴らしい朝日が拝めた。
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地平線の暗い紫色から赤紫、赤、オレンジ、そしてブルーへ変わるグラデーションが震えるほど美しい。これは写真では伝わりにくい。日の出は拝むと本当に元気が出る。不思議とパワーを戴ける。夕焼けとはまた全然違う感覚である。
日の出を見た後、電車に乗り大津市石山へ。石山駅前で焼きたてのパンを買い、それを持って瀬田川へ。冷たい風の吹く河川敷でそれを食した後、瀬田の唐橋へと向かう。
こちらは唐橋の西詰めの方。左端に島があり、その左にもう一つの唐橋がある
唐橋駅から家までまた電車で帰って来たが、唐橋駅前で小さな春をみつけた。
商店街の片隅に咲く小さな梅の花。
朝の冷たさの中に春の息吹を感じた。
04.03.06 子供騒げば雨が降る
今朝は何とも瞠目すべき天気であった。
出勤の時には穏やかな薄曇りといった感じであった。風は冷たかったが凍えるほどではまったくなくどこかへ散歩にでも出掛けようかと思うような陽気であった。
白衣に着替えてほっと一息つき、座椅子に腰掛けてふと窓から外を見ると「魂消た(たまげた)」。
窓一面が真っ白。よく見ると左から右へと白いつぶが無数に水平に飛んでいる。吹雪だった。暴風雪ともいうのだろうか。荒々しい風雪とその叫ぶような風の声。いったい何が起こったのだと思うような出来事。しかし、その嵐も10分ほどでおさまってしまい、再び陽が差して来た。
そしてまた1時間もするとチラチラと雪が降ったかと思えば、また晴れて、また再び風花が舞う。それが午後まで続き、現在も比叡山の方で暗雲が次の準備をしている。
この写真は別の日のものだが、今日の雲はこんな感じ
「子供が騒げば雨が降る」ということわざがある。
これは低気圧が近づくと人間の神経は刺激されるので、子供は喧嘩をしたり騒いだりする。その声が雨が近い時には特に遠くまでやかましく響くということである。
公園にてみんなで砂遊び これが意外と大人でも楽しい
猫が騒ぐと嵐または雨。三毛猫が暴れるときは大暴風あり。烏(カラス)が騒ぐと大雨。牛がひどく鳴けば暴風雨あり。などと動物と天気に関してはいろいろと言われているが、人間でも悲しいかな年齢と共に、関節がうずけば次の日は雨、とか、片頭痛がひどい時は前線が近づいている、冷え込む明け方には歯痛で目が覚める、などと出てきそうである。
その時その時で「自然」に自分の身体を合わせていくしかないのであろう。自然の流れに逆らわず、うまくその波に乗れるバランスを養えれば良いのだが、健康過ぎた人ほどそのバランスは取りにくい。逆にちょくちょく病気をする人は大病はせずにその都度軽く済み、長生きすることも多い。これを「病上手に死に下手」という。
「病上手に治り下手」とならぬよう、罹患する病気ごとにたくさんの学ばなければならないのであろう。しかし、今は忙しいから取りあえず症状を抑えてとやり過ごしてしまうケースが多い。
病気は学びの場、そして身体を最適化してくれるチャンスでもあるから、その機会を逃しては仕事に穴はあけなくても人生に大穴があいてしまうことにもなりかねない。
ことわざ参照「暮らしの中のことわざ辞典(集英社)」
04.03.04 思い出に残る一番楽しかったこと
「今までの中で、一番思い出に残っている楽しかったことってなに?」「あれは無茶苦茶楽しかったなぁと思う事はなにかな?」
と、いつもの夜の散歩の時に長女の朋子と長男の真一郎に聞いてみた。
私は、家族みんなであそこへ行った時のことかなぁ、とか、友達同士で遊んだ時や何かを買ってもらった時やらということを思い浮かべた。
しかし、返って来た答えは意外なあるいつもの家族の風景であった。
まず真一郎が真っ先に答えた。
「明日香が産まれる時にお母さんが入院していたでしょ。その時にお父さんが新聞紙で剣と盾を作ってくれて、それでみんなでチャンバラした時が今までで一番楽しかったんだよね。今でもあの時のことをよーく覚えているんだ。」と話してくれた。
あ~そんなこともあったなぁと、私は頭の片隅にかすかに残っている残像を必死に映像に組み立てていた。確かあの時は明日香の出産のために妻の順子が1週間ほど入院していて、子供たちも心細そうにしていたから、ここは一丁盛り上がろうと新聞紙を加工して剣と盾を作り、ちゃんとお面まで作ってみんなでチャンバラやったんだっけなぁ。
へぇ~、あんな事が一番楽しかったんだ、と「そんな事が?」という意外性で驚いた。
それを受けて朋子が話してくれたのは、時期同じく順子が出産入院中に夜みんなで寝るときの事。
「私は、夜寝る前にお父さんが話してくれた《びっちの大冒険》という話を聞いていた時のことを思い浮かんだよ。あの時はすっごく楽しかったなぁ。」
そうかぁ、そんなこともあったよな。私はすっかり忘れていたが・・・・。
当時家族全員(6人)で6畳間で寝ていた。布団をぎっちり敷き詰めてほとんど雑魚寝状態。母親がいないという何だか心寂しい状態であったので夜寝る前に毎日即興の作り話をしてあげた。その中で連続ものになっていたのが「ビッチの大冒険」であった。「びっち」というのは次女由香里の我が家での愛称なのであるが、英語ではひどい言葉になってしまうため(ビッチ:あばずれ女)外では使わない。当時幼稚園の由香里が主人公の大冒険で、場当たり的な突拍子もないストーリーが子供には受けたのかもしれない。サブキャラも、私はもう忘れてしまっていたが子供が言うには「こんにゃくワンワン」というのが出て来て、それが名前の通り体がこんにゃくで出来ている犬であり、今更ながら変なキャラを作り上げたもんだと自分で感心してしまった。由香里の背中に扇風機が張り付いてしまってあちこちと飛んで行っては、その降り立った場所で一騒動を起こして行くというストーリーらしい。でも私はよく覚えていない。
へぇ~、そんな事が一番楽しかった思い出なのかと何だか考えさせられてしまった。
今回質問したのが私だったので、それを気遣っての答えだったろうと思うのだが、それにしても意外な答えであった。
昨日はひな祭り。本当は5段飾りだけど今年は風邪などでごたごたしていて全部出せず
これだけを床の間に飾った。その前で我が家の娘たちを撮影。
04.02.19 なるほど知らなかった・・・
昨夜、小学2年の由香里の漢字練習を小学4年の真一郎と眺めていた。練習していた漢字は「聞」。
いくつも同じ文字を書いて練習するのだが、横で見ていた真一郎が声をあげた。
「その漢字間違っているよ!」
私が見ても、汚い字だが間違っているようには見えないのだが、「どこが違うの?」と聞くと。
「門構えの中の耳が違う」という。「『耳』を書く時は右下横棒が右に突き出てもいいけど、『聞』の門構えの中の『耳』は右側突き出してはいけないんだよ」と。
「えっ!?、ホント?」
私は何度も「聞」という漢字を書いてみたが右下の部分は突き出ていた、というよりも意識していなかった。ほんとにほんとかな?と思って手元の新聞を見てみると確かにどれも突き出ていない。
知っている人にとっては当たり前のことなのでしょうが、私には「なるほど知らなかったなぁ」と思わせられた。
もうひとつ、これも大したことはないのだが、香水をよく手首にちょこっと付けるのは、手にキスを受ける時のためだということ。日本では手にキスを受ける事なんてほとんどないので関係ないでしょうけど。確かに耳の後ろにつけるのも納得がいくなぁ。日本人はもともと体臭が少ないし、昔の欧州とは違って糞便の処理もちゃんと出来ていたので香水は必要ではなかったのでしょう。日本人は香りは遊びで使っている。「香道」というものが奈良時代からあり、室町時代に確立されいる。東南アジアの樹木が埋もれて数千年たち、芳香を放つようになったものを用いる。黄熟香(蘭奢侍らんじゃたい)という香木が正倉院にある。今までに足利義政、織田信長だけが切り取ったという。一度でもそんな香りを嗅いでみたいものだ。
足利義政の建てた銀閣寺
子供たちがよく使う言葉で気になる言葉がある。「臭いを嗅(か)いでごらん」というのを「においでごらん」と使う。これは間違っていると思うのだが。
「違うよ」というのを「ちげーよ」というのもあるらしい。「ちげーねー」とは使うが「ちげーよ」はやはり間違い。「気持ち悪い」は「きもい」など、「それはどういう意味?」と聞く事が多い今日この頃である。
04.02.14 最近読んだ本
年末から現在までに10数冊の本が読めた。新刊本はほとんどない。半分以上は古本かもしれない。
読書する由香里。といっても、見ているのはマンガ
「阿川佐和子のお見合い放浪記」 阿川佐和子著 講談社+α文庫
「父たちよ家へ帰れ」 宮脇壇著 新潮文庫
「『六男二組』の太平洋戦争」 佐々淳行著 小学館文庫
「なぜ日本人はかくも幼稚になったのか」福田和也著 ハルキ文庫
「国家なる幻影」 石原慎太郎著 文春文庫
「チチンプイプイ」 宮部みゆき・室井滋著 文春文庫
「碁打秀行」 藤沢秀行著 角川文庫
「問題児は問題の親がつくる」 相部和男著 PHP文庫
「日本人の自画像」 三浦朱門著 PHP文庫
「エイズ犯罪血友病患者の悲劇」 櫻井よしこ著 中公文庫
「勝つ日本」 石原慎太郎・田原総一朗著文春文庫
「若者はなぜ『決められない』か」 長山靖夫著 ちくま新書
「弟」 石原慎太郎著 幻冬社
「小さいことにくよくよするな!」 リチャード・カールソン著サンマーク出版
「蹴りたい背中」 綿矢りさ著 文芸春秋
「蛇にピアス」 金原ひとみ著 文芸春秋
偏った読書かなぁ?と自分でも思う。
最後の2冊はご存知の芥川賞受賞作品。「蹴りたい背中」は子供の頃に考えていたことを代弁してもらった感じで懐かしい気持ちになった。「蛇にピアス」は読みやすく、先が読めないストーリーで2時間もかからずして読了。痛そうな描写が多くて、そういう意味で鳥肌が立った。しかし、凄い世界です。どちらの作品も読後に気だるさが残る。これがいいのかもしれないが。
「若者はなぜ決められないか」の著者は、私の大学の同級生のご主人。今回はフリーターについての文章。肯定でも否定でもなくフリーターの気持ちに近づいてということだが、やはり少し否定的かな?興味深い内容である。
福田和也氏の言葉にはいつも学ばされるが、この著書の中でも「大きな価値を信じぬ親の言葉が、子供に届くわけがない」というのは納得。
「私が申しあげたいのは、そのような大きな価値を親が信じていて、その価値と拮抗する形で、子供をかけがいなく思うからこそ、子供は自分の価値を感じることが出来た、信じるられた、ということです。」「本当に大切なものを持っていない親に、いくら「大切だ」と云われても、それは実感できない。子供たちがブランドしか眼中にないように、親だって家や車くらいしか持っていないからです」
このあたりは妙に納得した。ここで言う「そのような大きな価値」とは「国のため」というのを例にあげている。
「小さいことにくよくよするな!」は、プラス思考本だが、この手の本は読み飽きてきた感がある。文字も大きくて1時間ほどぺらぺらとめくってみたという感じ。ひどい肩こりの時に子供にタントンしてもらったくらいにしかならず。それが出来たら、そう考えられたら苦労はせんわな、と、どのプラス思考本を読んでもそう思う。
どんな本を読んでも、たとえそれがつまらない本でも何かの肥やしにはなるもので、つまらなければ途中でほっぽり出すし、面白ければ同じ作者のものを集めてみたり。まぁ読んでいるだけで気持ちがいいからそれだけかもしれないが。
04.02.12 スキップ
「お父さんて、本当になんでもすぐに辞書で調べるんだね」
と、よく子供に言われる。何でも気になってしまうのである。そもそもこれはどういう意味なんだろうとか、どういう風に定義してあるんだろうと思ってしまう。
きっとこんな文字を調べる人はいないだろうなと思いつつ「スキップ」というのを調べてみた。
子供達と犬の散歩をしている時に朋子がスキップをしていたからである。子供がスキップをしていたからと言って、それの意味を辞書で調べるやつもいないと思うが、そもそもスキップってどういうもんだろうと気になってしまったからである。スキップの定義ってなんだろう、辞書にはどういう風に書いてあるんだろうなと考えてしまった。自分が辞書を作る人だったらなんと書くだろうなと思いつつ、家に着いたとたんに辞書を引っ張りだして広げてみた。
2年半ほど前の写真。琵琶湖岸を散歩しています。
それにはこう書いてあった。
スキップ:かわるがわる片足で軽く飛びながら進むこと。
・・・・なんだかあまり面白くない。
もっと調べてみた。
片足で 2度ずつ交互に軽く調子をとるように踏んで, はねながら歩くこと。
そうなんだ。右足で2回、左足で2回ずつ飛ぶんだ。
ただ2回ずつ、右足でタンタン、左足でタンタンとやってもスキップじゃない。これでやるととっても変だ。「軽く調子をとるように」が問題である。「タンタン」ではなく「タタン、タタン」とならなければスキップじゃない。
真一郎はスキップを知らなかった。左で2回、右足で2回飛びながら走るんだ、と言ってすぐにスキップ出来る人はいないだろう。一目瞭然でやってみせれば言葉などいらない。すぐに出来るようになった。が、男がやるとなんだか見ていて気色悪い。
犬を連れた私も含めて朋子と真一郎と3人でスキップの練習している姿は何とも変な親子であったろうと思う。
しかし、スキップを言葉だけで「言った通りにやりなさい」で出来るような言葉はあるものだろうか。スキップを知らない人に、「片足2回ずつのステップで軽いテンポで跳ねるように走りなさい」、と言って一度で出来るひとはまずいないだろう。
どうでもいいことだけど。
04.01.29 「あったらいいな、**のタネ」
小学生の子供達が毎週のように持ち帰って来る学級通信の中で、2年生の由香里の学級の新聞のタイトルである。「あったらいいな、**のタネ」ということで、毎週ひとりの児童の考えた、あったらいいタネが載せてある。(毎週、このような学級通信を作成してくださる先生方には、その苦労に対して誠にいつも頭の下がる思いであります。ご苦労様です。)
元気のタネ(タネを蒔くと元気のもとが成る)、なかよしのタネ、などいろいろ面白い発想に楽しませてもらえる。因にうちの由香里は「ドレスのタネ」。タネを蒔くと大好きなヒラヒラのドレスが出て来るらしい。一番上には派手なシンデレラのドレスが・・・・。なかなか不気味である。
いつまでもこう天真爛漫であって欲しいものである
3学期になり、クラス全員のそれぞれのタネがもうすぐネタ切れになり、今度は親へ「何かありませんか?」ときた。自分では今まで考えてもみなかったが、ひとつ考えてみようかと頭をひねってみた。
お金じゃ露骨だし、子供のタネはもういいし。(順子はこの「子供のタネ」と言ってた!)
私は何だろうなと考えたあげくに、「悩みのタネを解決してくれるタネ」というのを考えた。
常日頃、悩みまくっている私は、何とかその悩みを解決するためにこのタネがあればすぐにその時の悩みの答えを出してくれると言うタネが欲しいと思った。
「真実のタネ」とも言おうか。どの道を進むべきか、どうやってこの逆境を乗り切るべきか、ベストとは言わずともベターな方法を教えてもらえたらと思った。
しかし、よくよく考えてみるとその悩みのタネというのは真実のタネと同義であり、ただ表面に悩みという殻が付いているだけのことであると気がついた。その殻を突き破れば中には真実のタネがある。それに気がつけば悩みのタネというのはありがたいものであるかもしれないが、やはり毎度毎度その殻を苦痛に喘ぎながら突き破いていくのは大変である。
悩みのタネというのは、神様の愛の鞭であるのかもしれない。
青梅のタネには少量であるが劇薬の青酸が入っているという。しかし、その梅の種のさらに中には「仁」というものがあり、これがまた健康に良いといい、古来薬にもなっていると聞く。
さらにこの「仁」という漢字は5常(仁・義・礼・智・信という5つの道徳)のひとつであり、おもいやり、いつくしみ、なさけ、あわれみ、という特に医療関係では一番大切な文字でもある。
やはり、すぐに問題解決出来る「悩みのタネを解決してくれるタネ」よりも、中に思いやりや慈しみが入った「真実のタネ」、そしてそれに悩みという殻のついた「悩みのタネ」というものが人間にとっては必要なのであろう。
だからこそ梅干しのタネの中には神様(天神様)がいらっしゃると言われているのかもしれない。
04.01.22 ロクハ公園
先日、家族総出で大津市の隣町である草津市にある「ロクハ公園」に行って来た。
この公園、夏は大きなプールに野外ステージ、そしてデイキャンプとなかなか楽しめるようである。私たちが行ったのは真冬であったので当然プールには入れなかったが、広い芝生の広場や小さい子供達が遊べる遊具や砂場があり、子供達はハシャギまくっていた。厳冬の澄み切った青空に常緑が映え、気温は低いながらも暖かい陽射しに寒さは感じなかった。
子供達はただ走り回れるだけでそれだけでうれしいようで、ひたすら芝生を駆け巡り、追いかけっこをし、全身からエネルギーを放出しているかのように見えた。こういう時の子供の笑顔というものは素晴らしい。このような我が子の笑顔を見られるというのは、本当に神様の贈り物だなと感じる。
さてこの「ロクハ公園」の「ロクハ」とは何だろう?どうしてカタカナで書いてあるのだろう?と思い調べてみた。
この公園のあたりは江戸時代に新田開発が行われ共有のため池が作られた。それがこの「ロクハ公園」にある大きな池らしい。当時その池の名前は「緑波池」。山々の緑が池の水面に映ることから名付けられたようだ。
この池が作られたのが天保8年というから、1837年。1833年から始まった「天保の大飢饉」の最中である。この1837年には大塩平八郎の乱や生田万(いくたよろず)の乱が起こっており、その4年後1841年には老中水野忠邦による天保の改革が始まるという時代である。このあたりの歴史は中学に習ったことなので記憶にある方もいるだろうと思う。
それにしてもこういった「ロクハ」って何だろう?と調べるだけでいろいろと歴史が復習出来るもので、そこに池が作られた背景やら、またそれを作った人たちの並々ならぬ努力の結晶をふまえてその公園で遊ばせていただくことに対して畏敬の念を感じない訳にはいかない。
現在なにげなく遊んでいる場所にも、それぞれに歴史があり、またそれぞれに「プロジェクトX」的なことがあったに違いないと思う。そういった先人には本当に頭が下がる思いである。無駄な公共設備が乱立する現代に、過去に生きるか死ぬかの瀬戸際に作られた必死のプロジェクト。そういった心意気を同じ日本人として受け継いでいかなければならないと心を引き締めるばかりである。
04.01.08 年末年始
正月恒例我が家のおせち料理は、朋子が大活躍。
我が家のおせちに欠かせない「栗きんとん」を作ってくれたのはほとんど朋子であった。
サツマイモを茹でて、それをまず野菜カッターである程度細かくしてから、次はこし器とヘラでもっともっと細かくしていく。この作業が大変である。何しろ特大のサツマイモを7本分だから朝から始めて出来上がったのは正午を過ぎていた。それだけ苦労しただけあって、出来上がりは上々。みんなが味見、味見で少しずつ持って行き、正月を待たずしてもう気分はおせち気分であった。
栗きんとんの他に手作りしたものは、伊達巻き。玉子とはんぺん、ダシ汁にみりん、砂糖などを入れてジューサーにかけて、それをオーブンで焼いた後、巻くだけであるが、市販のものと違ってやはり素朴な味わいが病み付きになる味である。
他にもレンコンや里芋、エビの煮物や煮豆、ふきの煮物などを手作りしてみた。
かなり作り過ぎたかなと思ったが、元旦の朝にほぼ半分がなくなり、2日の朝には全て食べきってしまった。手作りのものからなくなり、市販のかまぼこや酢蛸が残ったのは作った本人としてはうれしいことであった。
大掃除、おせち作り、そして紅白歌合戦を見た後、初詣で出掛けた。
神社の境内では焚き火がおこなわれていて、参拝者は暖をとっていた。暖をとるというよりも、その燃え上がる「炎」を見て新年を迎えることにおいての旧年の反省と新年の新たな誓いと複雑な感情がいろいろと頭の中を駆け巡った。炎を見ているとどうしてこんなに気持ちが落ち着くのだろう。我が子も同じ事を言っていた。「火をみていると気持ちがいい」と。
無数の火の粉が真っ暗な空に昇って行く。こういう時の情景というのはずっと焼き付くものである。私はつい先ほど紅白歌合戦で聴いた平井堅さんの「見上げてごらん夜の星を」を思い浮かべた。私の大好きな曲。風呂に入ると口ずさむ曲。夜に湖岸を散歩している時にふと唄いたくなる曲。平井堅さんは故坂本九さんとのデュエットを実現させた。これがまた涙を誘った。この曲の歌詞もいいですなぁ。上を向いて歩こうの歌詞もたまりませんが、こちらもジーンとさせてくれます。どちらも永六輔さんの歌詞です。
永さん作詞の曲は他にもあります。「こんにちは赤ちゃん」「夢で逢いましょう」「遠くへ行きたい」「明日咲くつぼみに」「黒い花びら」などがある。どの歌詞も素敵です。
03.12.29 大掃除
今年の年末年始は例年通りであるが、どこにも出掛けず家にいる。年末は連日大掃除と年賀状書き、そして夜は読書である。
大掃除は日頃の無精のツケがまわり、台所などは凄い事になっていた。雑巾で水拭き程度ではどうにもこうにもならないような状態である。そこで今年から導入した新兵器がこれ。激落ちキングという見た目は白いスポンジだが、あらゆる汚れが消しゴムで消すように消えて行く。本当に気持ちのよいくらいに。子供たちもこれだけ汚れが落ちると掃除が楽しいようで、その子供の心理を利用して大いに働いてもらった。台所のしつこい汚れ、風呂場の水垢、ベランダの床の汚れ、洗面所などの水回りのところの汚れも洗剤なしできれいに落ちた。
もうこれなしの掃除が考えられないくらい。今までトイレはトイレマ○ックリン、風呂場にはバスマ○ックリン、ガラスはガラス○イペットなどそれぞれの洗剤を利用していた時もあったが、今回は本当に最小限の洗剤だけで済んだ。
一番は子供が手伝ってくれるようになったことかな。それも喜んで。
「それじゃ真一郎はこの洗面所のシンクを洗ってくれ」と言うと、今までは「え~ぇー」となっていたが、今年は「おぉー、これはやりがいがあるぞー。いいだろうー朋ちゃん」
朋子も「えぇーいいなぁ、私にももっと汚いところやらせてよー」と言って来たりする。何とも信じられない会話である。それくらい汚れを落として見る間に綺麗になっていくのが快感なのである。
先日雪が降りました。比叡山の雪景色(西大津ジャスコ屋上駐車場より)
掃除って気持ちのよいものである。私もトイレ掃除は結構好きで、休日はせっせとやらせてもらっている。便器に磨きをかけていると本当に気持ちがよい。掃除は心を磨くのかもしれない。こんな楽しいことは他の人には譲れない。自分でやらせていただきます。
もちろん平日はなかなか出来ないが休日のトイレ磨きは無心になれる時間でもある。激落ちキングもいいが、やはり掃除の基本はバケツと雑巾。雑巾で磨き上げると心も掃除出来ます。
トイレ掃除に関しては是非こちらのHPを一読ください。「日本を美しくする会、掃除に学ぶ会」
なぜトイレ掃除か、それは
1、心を磨く 2、謙虚な人になれる 3、気づく人になれる 4、感動の心を育む 5、感謝の心が芽生える
ということです。(掃除に学ぶ会HP参照)
こりゃやらなきゃもったいない!
03.12.18 LAST SAMURAI ラスト サムライ
なぜだろう。どうして涙が出るのだろうと自分でも不思議に思った。
中盤から瞳は濡れっぱなし。愛する人が死ぬシーンでもなく、ハッピーエンドのシーンでもなく、戦闘シーンで泣けてくるのが自分で不思議であった。それもアメリカ映画で。
この涙の質はどうやら「たそがれ清兵衛」で泣いた時のものであるらしいことが判った。自分の中に今でも流れて続けている、先祖から受け継ぐ「日本人の血」が騒いでいるのだ。
細かいところにいろいろとケチをつけようと思えばいくらで出てきそうであるが、そういう小さい事は気にならないほど全体的には素晴らしい映画に仕上がっていると思う。
戦闘シーンもかなりの迫力であり、自分が戦場に舞い降りたような臨場感と恐怖。この恐怖は「プライベートライアン」の前半40分間の戦闘シーンの恐怖に似ていた。そして、殺陣の素晴らしさ、その美しさ。
日本でのロケの部分が何とも良い味が出ていたと思う。円教寺でのシーンでは何かひとつピーンと張りつめた緊張感が感じられた。これはお寺というある種神聖な場所というのがそうさせているのであろう。
日本人の役者の凄さが際立った。
渡辺謙氏、真田広之氏が全力で演じている姿だけでも心を打たれる。また、切られ役一筋40年の大部屋俳優「福本清三」氏の演技も光っていた。
真田広之氏の剣さばきは芸術。ほれぼれするほど美しい。刀を持つだけでどうしてあれほど美しく見えるのか。あの胴作りはかなり訓練をしたトムクルーズでも真似は出来ても、やはり日本人がみれば違いが判る。関東の者がしゃべる関西弁みたいなもので、関西の人が聴けばすぐに判ってしまうものである。それでもトムクルーズは流石であるなと感じた。
戦前の日本を知らないのはもしかしたら日本人なのかもしれない。武士道について外国の人に聞かれてどれだけ答えられるものか。新渡戸稲造氏の「武士道」を、山岡鉄舟の「武士道」を読んだ人がどれだけいることか。台湾の元総統の李登輝氏が「武士道解題」として日本人に武士道を教えてくれているぐらいである。
これを機に、西郷隆盛、山岡鉄舟、勝海舟らの生き方をもう一度勉強し、著書を読し、日本のために自分がどう生きるべきか考えてみるのもいい。現代の日本人で「日本のためにどう生きるか」と考えている人がどれだけいるのか。日本のために命を投げ出せる人がどれだけいるのか。自衛隊イラク派遣のこの時こそ考えてみてはどうであろうか。自分たちの先祖はどのように考え、どのように生きて来たのか。アメリカ映画で教えてもらうのでなく、少なくとも自分で外国の人に教えられるくらいの知識は常識として持っていないといけないと思う。
03.12.14 夕方の散歩
快晴の冬の日曜日。朝から家の掃除と食材の買い出しを済ませ、昼ご飯には残りご飯で野菜たっぷりの温かい雑炊。おやつは実家から送ってもらったサツマイモをオーブンに50分ほど入れて焼き芋を作ってみんなでほふほふ言いながら食べた。
おやつを食べ終わった午後3時にいつものように「ヒマだぁ~、どこか行こうよー」の声に誘われて、それじゃーとどこへ行く宛もなく真一郎と万里子を連れて近くの駅を向かった。
料金表を見上げて、「えーっと、まだ降りたことのない駅はどこかな」
「穴太(あのう)」駅。読めない。安土城の石垣を積み上げた穴太衆という優秀な石工たちで有名な町です。そして、12、13、14代天皇がおられた高穴穂宮(たかあなほのみや)があった場所であります。
高穴穂宮跡の隣には高穴穂神社があります。このあたりに内裏があったということです。
京阪穴太駅から琵琶湖に向かって下っていき、JR唐崎駅を目指しました。
この時期の日は本当につるべ落とし。あっという間に暗くなってしまいます。まだ4時過ぎだというのに、もう夕焼け。すでに肌寒くなってきました。
夕日に照らされる土手沿いの道
結局、今日は2キロくらいは歩いたのでしょうか。4歳の万里子が一緒だったのであまり無理は出来ませんでしたが、それでも万里子は文句も言わずによく歩いてくれました。
ほんの2時間の小さな旅行。これだけでも子供にとっては大冒険なんですよね。
今日の夕日も思い出の夕日になりそうです。
03.12.13 感傷的な夜は・・・
誰にも自信をなくしたり、哀しみに打ち震えたり、くやしい思いが胸の中にぎゅっと凝縮して消化出来ずに飲み込まなければならぬ時があり、床に入り、枕を濡らし、何とかそれを解体し、パーツごとに分けて検討したり、あるいは漠然とただひたすら涙が流れるままに任せたり、細かくシュミレーションして最悪の事態を想定しその恐怖におののいてみたりする。
全てが崩壊してしまうのではないか、絶望という大魔王がじりじりと押し迫り、逃げ場のない追いつめられた閉所で恐怖に震える幼い時の自分。それを客観的にみつめる自分。テレビで他国の戦争を見るように、少し冷たい視線を送る。
「もう大丈夫だよ」と手を差しのべればいいのに、ただこれからどうなってしまうのかなとも思わずにただただ見つめているだけ。
その子は自分なのに、恐怖で震えているのに、その子の気持ちは判るのに、冷酷な眼差し傍観する。そんな自分が歯痒い。そんな自分をまた別の私が見つめる。
その劇の幕を自分で閉じて、布団から這い出し台所で水を飲む。
さてこんな時は音楽でも聴こう。
こういう時の薬は私の場合は「今井美樹」さん。そしてその歌詞を書く「岩里祐穂」さん。この岩里さんの歌詞は本当に救われます。有名なのは「Piece of my wish」でしょうか。この歌詞で何度涙を流し、何度救われたことか。この素晴らしい歌詞が今井さんの声を通して私の心に入って来る。やさしくやさしく。
それにしても日本語っていいもんだなぁ~。
夏目漱石の小説や中原中也の詩を読んでいると、日本語には独特のリズムがあり、美しい旋律があり、朗読を聴いているとひとつの音楽を聴いているようだ。
というのも、子供が日本語を暗唱しているのである。「ちびまる子ちゃんの音読暗唱教室」という本。小学校6年の朋子が読んでいても、「いいもんだぁ」と感じてしまう。
最近はNHKでも「にほんごであそぼう」という子供向け番組があるらしい。「英語で遊ぼう」は以前よりあったが、今度は日本語。これは素晴らしい企画だと思う。小学校2年の由香里も「じゅげむじゅげむごこうのすりきれ・・・」と落語のじゅげむを暗唱している。それが流行っているらしい。中原中也氏の「よごれっちまった悲しみに・・・」と意味も判らず暗唱している姿は何だか不気味でもあるが、言葉を音としてすぐに吸収して、それを何度も何度も復唱することでその抑揚を身体で覚える。意味なんてまだどうでもいい。
しかし、この番組がこれほどの視聴率(8%と聞いている)を獲得するとは。大人は子供をあなどっていたのかもしれない。
子供の方が美しい日本語に飢えているのかもしれない。
03.11.29 早いものだなぁ
今年もあと残すところ1ヶ月となった。年の最初に「今年も残すところあと365日だなぁ」なんて冗談を言っていたが、「来年も残すところあと400日」と考えると来年も矢のごとく過ぎ去ってしまうことであろう。
自分が独立開業をしてからというもの、月日の経つのがやたらと早い。学生時代はもっと長く感じていたと思うがどうであろうか。今からだと思い返すことも難しい。
長女である朋子の今年の成長は著しく、親が慌ててしまう程にぐんぐんと大人に近づいて行った。精神面、行動面、肉体的にも大変化。これだけの短期間に人間はこうも変われるものなのだなとつくづく感心した。
真一郎は体格はほとんど変わらないが、精神面においては悲しきかな私の小学校の頃に考え悩んでいたことと同じことを考えているようで、微笑ましいと言えばそうだが、この先に私と同じ悩みを抱え苦しむのかと思うと可哀想でならない。悩まずあっけらかんとしているのもどうかと思うが、悩み過ぎてもなぁ。窮して苦しまぬよう、悩み学んで欲しいと思う。
ちびっ子3人組は今年も元気だった。明るく笑顔で元気である事、これだけで十分!
今年の年始に神様から戴いた「年魂(としだま)」。うまく使えたかどうか。取りあえず今年もみんな元気で明るく過ごせました。残り1ヶ月、今年の反省、来年の抱負、将来の夢、子供たちの未来、そして日本の、世界のみんなが笑顔でいられますように。
03.11.27 フレンチトースト
今日は仕事がお休みなので小学校に出発する前の子供たちに朝食を作った。材料が乏しかったので迷ったあげくフレンチトーストを作ってみた。
このメニュー、私は子供頃母親に作ってもらった記憶がない。その当時にこのメニューがあったかどうかも判らないが、私が初めて食べたのはおそらく成人してからではなかろうかと思う。それも見よう見まねで自分で作ったものであるので、私はまだ正式なもの、お金を出してこのフレンチトーストを食べた事がない。
それだからこれがフレンチトーストだよと自信をもって言えないのである。もちろん我が家の子供たちも今朝初めてそれを食べた事になる。
用意するもの:3人分:食パン3枚(1人1枚6枚切り)、玉子2個、牛乳(玉子より少なめくらい)、砂糖、バター、サラダオイル。
作り方:玉子をお皿に割り入れて、そこへ牛乳を足し砂糖も適当に入れる。それをよくまぜておく。そこへ4等分した食パンを入れて浸す。
温めておいたフライパンにバターとサラダオイルを入れ、そこへ1枚ずつ食パンを入れて焼く。強火でやるとすぐに焦げ付くので弱火で焼く。1枚ずつフライパンに入れていくが、4枚目を入れ終わる頃には1枚目をひっくり返すようになる。
最初から卵汁の中に砂糖を入れておくと楽なのであるが、焦げやすいので、砂糖は後から振りかけた方が失敗がないかもしれない。振りかける場合はグラニュー糖がいいだろう。
子供たちはけっこう「美味しい」と喜んでくれたようだ。こんな朝食なら5~6分で出来るので忙しい朝にもいいだろう。
七つの子
先日子供から聞いた話であるが、「カラスなぜなくの、カラスの勝手でしょー」という志村けん氏がギャグで唄ったものがあるが、これがあまりにもポピュラーになりすぎてしまっているらしい。
クラスの誰かが「カラス なぜなくのー」と唄い始めた時に他のみんなが「カラスの勝手でしょ」と続けたが、うちの子供が「カラスはやまにー かわいい七つの子があるからよ」と唄ったのを聞いたみんなが・・・
「なにそれ?」と聞いて来たという。
「エッ?」驚いたのは本人であった。
「その曲のほんものはこういうんでしょ」
「エッー、ウッソー、マジー、トリビアだー」「へぇー、へぇー、ヘェー」
その話を聞いた私が「トリビア」だった。
現在までのトリビアの雑学はここで見られます。
03.11.20 「ぽっかぽか」
私はマンガはあまり読む方ではないが、自己紹介のページにあるように私の家内は日々の生活の中でちょっと空いた時間でもマンガを開き、今までのコミックの蔵書は4000冊を超え、家計を脅かすというよりも家そのものがその重さで潰れそうである。
「人生に必要なものはすべてマンガで学んだ」と家内は言う。「砂場」ではなく「マンガ」らしい。
よく家内が、「これならお父さん読めるよ」と言ってはいろいろと勧めてくれる。確かに私のために選りすぐってくれただけあって、興味をひくものばかりだ。弘兼憲史さんの「加治隆介の儀」「課長・部長 島耕作」なども勉強になったし、少女マンガの部類でもかなり精神論に突っ込んだ内容のものも多く興味深いものが多い。あまりにも目がキラキラで顔の半分くらいを占めていて、瞳の中に1枚の絵が描いてあるのではと思う程のものや、お伽の世界風な絵はちょっと拒絶してしまう感があるが、内容的にはかなり鋭いところがあると思う。
私自身も「三国志」や「日本の歴史」などはマンガから入った。「論語」「老子」などもマンガから入ると、読みやすいかもしれない。歴史などはそのストーリーが大まかに理解出来れば楽しく勉強出来ると思うが、ただの暗記だけでは円周率を覚えるのと同じ空虚なものになってしまいがちである。ただ最初がマンガであると、どの歴史の本を読んでも、それに出て来る例えば織田信長がそのマンガのイメージになってしまうところがある。そこからいかに脱却するかがまたひとつのハードルとなる。
家内に勧められて読んだマンガの中で特に私が好きなものは、深見じゅんさんの「ぽっかぽか」である。若い夫婦と幼稚園児の「あすか」の3人家族が織りなすタイトル通りぽっかぽかな気分にしてくれる秀作である。ドラマにもなったのでご記憶の方も多いであろう。
この慌ただしい世の中で、子供の頃から夢描いて来た暖かい家庭を作りたいと思いながらなかなか現実では実現が難しく、その理想と現実の狭間で悩み苦しむ方々には本当に癒しの1冊になるであろう。その「ぽっかぽか」の最新刊13巻が昨日19日に発売され早速昨夜購入して読んでみた。また泣かされてしまった。
ある育児に追いつめられた母親が、主人公の幸せそうな家族を見てつぶやく
「いいなぁ田所さんちはいつも幸せそうで」
そこへ50代くらいの女性の幼稚園の園長先生が近づいてそのお母さんに言う。
「誰にでも出来る事よ」
「え?」とその母親が振り向く。
「1日に1回でいいわ、何も考えないで子供を抱いてみて」
「何も何にも考えないで ただ抱いてみて。そのやわらかいあたたかさが体に流れ込んでくると、心の中もあたたかくなるのよ。」
「今までそんな気持ちで子供を抱いた事ってなかったわ」と思いに耽る母親。
その母親が去ったあと、園長先生はひとりつぶやく。
「世の中の全てのお母さん。あなたのその幸せにどうぞ気づいて。あなたが胸に抱くものは、優しさという宝物」
こんなクソガキが優しさという宝物か?いつも自分の邪魔ばかりして、こいつさえいなければ映画も見に行けるし、夫婦だけで楽しく外食も出来る、友達と遊びにもいける、言う事は聞かないし、いたずらばかりするし、もうこんな生活たくさん!もう我慢出来ない!
なんてことを私だって今までに何度考えた事か!何をやっても泣き止まない子供を前に、こっちまで泣けて来ることもあった、その泣いている子供をポイッと放り出して、家から出て外にタバコを吸いに出た事もある。激情のままに怒鳴った事もある。
でもそんな気持ちを癒してくれたのもその「クソガキ」に他ならない。
胸に抱く「やさしさ」という宝物。その宝物を持っているという幸せに気がつけない不幸。それに気がつくだけでどれだけ救われるか。その幸せを手に入れるための魔法は目の前にあるのに、ただその呪文を口ずさめないでいるだけなのかもしれない。子供はいつでもOKって待っててくれているのに。
「明日香」誕生の時の風景
(引用 「ぽっかぽか」13巻 深見じゅん著 集英社)
03.11.13 ある日常の笑い
最近2歳の末娘明日香がよく歌を口ずさむ。アンパンマンの曲やらが多いのだが、その中でNHKの「おかあさんといっしょ」の中で唄われていた「あたま、かた、ひざ、ポン」という曲がある。メロディーは「ロンドン橋落ちる、落ちる、落ちる」であり、その旋律にそって頭、肩、膝、と両手をおいていき最後にポンと手を叩く幼児向けの手遊び歌であるが、それが今明日香のマイブームでいつも大声で唄っている。
先日、職場にて受付嬢に抱っこしてもらいながらその曲を歌っていたのだが、彼女はその曲を知らないらしく、明日香が唄う歌詞が聞き取れない。「えっ?なんて唄っているの?」
明日香は何度も何度も唄うが拙い歌なので歌詞まではっきり聞き取れないのであろう。
そして最後に彼女は導きだした歌詞が「あったまかったひーざ ポン」ではなく、
「あんたのかぁーちゃん スッポンポン」であった。
診療室で耳を澄ませていた私たち夫婦は、肩を振るわせて笑いを堪えていたのは言うまでもない。まして、その歌詞で二人が大きな声で唄っているのを聞いていては・・・・・。
次の話、
昨夜、真一郎とあるゲームをやる約束をした。「お風呂から上がったらやろうな」ということで、私と明日香が先に入り、後から真一郎が入った。そのゲームというのは、昔懐かしい「レーダー作戦ゲーム」というゲームである。昭和30~40年生まれの人はご存知でしょう。プラスティックで出来たノートパソコン型のものを開くと、モニタ部とキーボード部にそれぞれ10×10のマスがあり、ピンが刺さるようになっている。下のマスには自分の5隻の戦艦を配置し、上のマスには相手のマスに対するレーダーとなり、そこにピンを刺し攻撃する。マスには縦横A~J、1~10がふってあるので、「Aの10」と言って攻撃し、受けた側は「はずれ」「あたり」と答え、交互にそれを繰り返し、5隻の自船が沈没させられたら負けとなる。
私が小学生の頃にはさんざんやったゲームである。当時、テレビゲームはなかったので、友達の家に遊びに行ったらそういったボードゲームをしたものだった。野球盤、サッカーゲーム、沈没ゲーム、魚雷戦ゲーム、生き残りゲーム、黒ひげ危機一発、人生ゲームやらである。
もうそんなゲームは売っていないと思っていたが、なんと今年の7月にアメリカンゲームシリーズとして再販されていた。値段は2500円。さっそく某おもちゃ屋に走り購入してきた。
そのゲームやりたさに真一郎は風呂から上がり、凄い勢いでパジャマに着替えていた。それを見たかみさんが、「なんでそんなに慌てているの?」と足踏みしながらパジャマを履いている真一郎に聞いた。
「だって、お父さんが鼻を長くして待っているから」
「それを言うなら《鼻》じゃなくて《首》じゃない?」
どうやら私は嘘をついたピノキオのように、鼻をにょきにょき伸ばして、真一郎を待っていることになっていたらしい。
03.11.01 初めて自分で買ったレコード
あの時代にタイムトリップしてみた。
その時私は、薄暗くカビ臭い6畳ほどの父の書斎の中、応接セットの陰で、身体じゅうホコリだらけにしながら、ダンボール箱に入ったレコードを掻き漁っていた。年の頃10歳くらいであろうか、家具調のステレオセットを前にどうにかレコードを聞いてやろうと四苦八苦している。
10数枚のシングルレコード、古びたLPレコード、その中には私が買ってもらった漫画の付録のソノシートという向こうが透けてしまうペラペラのビニール風のレコードも混ざっているが、その他のものは小学生の私が手を出してはいけないような見えない封印がされている気がしていた。
シングルレコードの中にはビートルズの「Yesterday」があった。兄が買ったもの。勝手に出して聴いてはいけないもの。傷などつけようものならどうなるか判らない。父親のクラシックLPにしてもそうだ。
傷つけてはいけないもの。傷つけたら聴けなくなってしまうもの。子供の私にはそれがレコードに対するイメージである。そして、それほど大切なものはターンテーブルというものの上に乗せて、針を下ろすと、何とも清廉な音が鳴る。
陰に隠れて父や兄のレコードを勝手にいじる事は、ほとんどテレビゲームで魔法の洞窟の中に迷い込み、宝箱を見つけ、それの罠を死ぬ思いで外し、さて中の宝物は何が入っているだろうとわくわくしながら確かめるその瞬間のような気分であった。
そんな私が初めて自分のお金で自分の好きなLPレコードを買った瞬間というのは今でも忘れない。高校時代に、夜中にこっそりと自動販売機にタバコを買いに行き、周りを見渡して誰もいないのを確認し、小銭を入れてから、やたらと大きな音で出て来るタバコに驚いて再び周りを見渡し、心臓が口から出てしまうのではないかという程走って自分の家に帰った時の気分に似ていた。
悪いことをしたわけでもないのに、どうしてこんなにドキドキするのだろうと不思議に思った。初めてレコードを買う事はそういう事であった。最初は兄が聴いているようなハードロックが欲しかった。でもそれを親に見つかった時に、「どんなレコードを買ってきたの?」と言われて、「これ買ったんだ」と言って出すときに過激なジャケットだったらまずい訳で、2枚目に買った悪魔主義の烙印を押されているKISSの「Rock & Roll Over」ではまずいのであった。そして選んだ無難なレコード、それが「かぐや姫」の「はじめまして」であった。
私の母はそういった事には変に厳しいところがあり、これも小学校高学年の頃、私がこっそりと本屋で買ってきた当時人気のあったアイドル雑誌の「明星」を見つけたとたんにその買ってきた本を取り上げ、本屋に電話をかけてそれを引き取ってもらったほどである。「こんなのは読まないでね」と言い残して。結局、震える手で買った「明星」は、一度も開く事なく本屋に返され、私は友人の家でその明星を読む事になる。
その母が笑顔で息子が初めて買ってきたLPレコードを見定めて、それが悪魔の化身KISSであったなら、その母の笑顔が大魔神が変身するように想像を絶する面に変化するのを思い浮かべるのは容易であった。それだけに「かぐや姫」は一発目として親を安心させるには重要なステップであった。
この「はじめまして」というアルバムは、そのタイトルのごとく「かぐや姫」のファーストアルバムである。私が重要なステップと決めただけあってそのジャケットもメンバーが3人、ランニングシャツ、浴衣、パジャマ姿のおまぬけな格好で線路の上に整列したセピア色の写真のものであり、ご丁寧に裏のジャケットは清楚な女子高生がセーラー服を着て立っているという何ともノスタルジックな仕上がりになっている。
その後、次々と買い足したレコードはかぐや姫には戻らず、チープトリックやディープパープル、ジェフベックなどとかなりハードな分野へと足を伸ばしていったのであった。それでもこのかぐや姫はよく聴いた。何度も何度も聴いた。ギターもすべてコピーして、歌詞も全部覚えて、全曲ギターを抱えながら歌えるようになるまで聴いた。それこそ当時で言う「レコードがすり切れる(すり減る)まで」聴いたのであった。CDではCDがすり切れるまで聴くとは言わない。それほど1枚1枚が大切なレコードで宝物であったからだ。たとえそれが母の目を誤摩化すカモフラージュのためのレコードであったとしても。
周りの知人に聞いてみると、最初に買ってもらったレコードは「およげたいやきくん」やらピンクレディーの「UFO」やら、もうちょっと若いとチェッカーズの「涙のリクエスト」やらになるらしい。私よりもう少し上の人では間違いなく「くろねこのタンゴ」であろう。現在の「ダンゴ三兄弟」みたいなものである。買ってもらったレコードは、それはそれで思い出が深いと思うが、自分のお小遣いを貯めて(大体2~3ヶ月分だった)悩んで買ったレコードはことのほか思い入れが深い。
自分だけのレコード。
そのレコードは自分の中の歯車のひとつになったような気分だった。今でもその歯車は私の中で回っている。他の歯車とかかわり合いながら、影響を与えながらしっかりと回り続け、私の人生のギヤチェンジの時期には必ず関係してくる掛替えのない歯車であることは間違いなさそうだ。
今回の「初めて自分で買ったレコード」という「お題」は、友人である村松氏と同じ「お題」で書こうということになっている。村松氏のHPはこちら。HP内「つぶやき」へ。是非そちらもお立ち寄りのほどよろしくお願いします。
03.10.26
またまた音楽の話になるが、音楽の曲の種類というのはたくさんあって、名前は知っていてもどういうものなのかは意外と知らないものである。ここで言う曲の種類というのは「エチュード」とか「ラプソディー」というものである。この曲の種類は最近では映画やドラマのタイトルにも使われているが、何だかオシャレな感じがするのだが、意味がよく判っていなかった。そこでひとつここでそれらの用語をまとめてみる。
即興曲:その場で作られた曲。形式的に自由な曲。
エチュード:器楽の練習用に作られた楽曲。
セレナーデ(セレナード)、夜曲:夜、恋人の家の窓辺で歌い奏でる愛の歌から発展した演奏会用の歌曲、器楽曲。
ノクターン(夜想曲):夜の夢想的な気分を表現した楽曲。
ワルツ(円舞曲):4分の3拍子の軽快ではなやかな舞曲。
マーチ(行進曲):行進の歩調をととのえるための、2拍子または4拍子の楽曲。
ソナタ(奏鳴曲):3~4楽章からなる器楽曲。
ソナチネ:3楽章以下の小規模なソナタ
カプリチオ(狂想曲):形式にとらわれず、気分のままに作られた器楽曲。
ラプソディー(狂詩曲):自由な形式の幻想的な器楽曲。
ファンタジア(幻想曲):形式にとらわれず、幻想のおもむくままに、自由に作られた楽曲。
フーガ(遁走曲):各旋律が、規則的に模範反復しながら現れる楽曲。
シンフォニー(交響曲):管弦楽のための、通常4楽章からなるソナタ形式の曲。
コンチェルト(協奏曲):独奏楽器と管弦楽が合奏するための楽曲。
バリエーション(変奏曲):一定の主題をさまざまに変化させて構成した曲。
序曲:オペラなどで、幕があく前に演奏される曲。
プレリュード(前奏曲):自由な形式の小さな器楽曲。
序奏:楽曲の主要部分に入る前に演奏される短い曲。
イントロダクション(前奏):楽曲の導入として、独唱・合唱などが始まる前に演奏する、最初の伴奏部分。
フィナーレ(終曲):独唱・合唱などが終わったあとに伴奏楽器だけで演奏する楽曲の最後の部分。
組曲:いくつかの曲を組み合わせて1つの曲にした器楽曲。
メドレー:いろいろな曲の中から、有名な部分だけを連ねた曲。
メヌエット:ゆっくりとした4分の3拍子の優雅な舞曲。
マズルカ:ポーランドの、軽快な3拍子の民族舞踊。
ポロネーズ:ポーランドの4分の3拍子ゆっくりとした舞曲。
ポルカ:ボヘミア地方で始まった4分の2拍子の活発な曲。
ガボット:17世紀のフランスで流行した2拍子の舞曲。
ボレロ:4分の3拍子の情熱的なスペインの舞曲。
タンゴ:アルゼンチンで始まった4分の2拍子の舞曲。
ファンファーレ:祭典などでおもにトランペットで吹奏される3和音だけの短い楽曲。
ジャズ:ニューオリンズの黒人のあいだで生まれた音楽。
ブルース:アメリカの黒人によって歌われ、ジャズの基礎となった、哀調を帯びた音楽。
リズムアンドブルース(R&B):アメリカの黒人のあいだで生まれた、バンド演奏に合わせて叫ぶように歌う都会的なブルース音楽。
ロックンロール(ロック):黒人のR&Bに白人のカントリーミュージックが合わさってアメリカで生まれた、激しいダンスを伴うポピュラー音楽。
書き出したものの途中で嫌になるほどたくさんあった。まだまだ他にもあるであろう。何だか興ざめしてしまうような説明もあるが、なるほどそういう意味だったのかというのもあるであろう。
種類はどうであれ、その時の心に響いて共鳴すればそれで「音楽」であると思う。形式も必要であると思うし、それにとらわれないものもあって良いと思う。もっと自由にとも思うが、形式があった方が落ち着くというのもある。「水戸黄門」のドラマを見ていても、あの形式(45分あたりのところで印籠が出されたり、由美かおるが入浴したりという形式)がないとどうも落ち着かないのと同じである。
これらの種類は、他の分野にも当てはまる。絵画もそうであろうし、ドラマは水戸黄門であげた通り、映画でも、学術分野も似たようなもんではなかろうか。
そして、それぞれ各々の人生も・・・・。
ファンファーレのような短く華麗な人生も、形式にのっとた落ち着いた人生も、どれが良くてどれが悪いというのでなく、いろいろな人生があって、それぞれに憧れがある。自分が今一番聞いていたい音楽は何か。それは現在の人生に足りないものを補うため、あるいは憧れる人生を、または現在の人生の状況を象徴しているのかもしれない気がする。
(参考文献:「類語大辞典」講談社)
03.10.18 ソウルミュージック
誰にでも思い出に残る音楽というものがあるかと思う。それぞれにどのような音楽を聴いて来たかという音楽遍歴があるはずである。子供の頃に歌った曲、学生時代に爪弾いた曲、一人寂しい時に慰められた曲、恋している時に後押ししてくれた曲、失恋した時に共鳴し一緒に泣いてくれた曲、結婚式のキャンドルサービスの時のために2人で選んだ曲・・・・。自分の子供が最初に歌った曲、人生のさまざまな場面で映像と共に焼き付いているメロディがあると思う。
食べ物でも懐かしい「おふくろの味」。田舎の料理。これを食べると元気が出るというもの。それをソウルフードというのと同じ、誰しもその曲を聴くと懐かしく思い出として刻印された、いつでもその時の自分に戻れるソウルミュージックがあるはずである。
私の場合、人生の中で一番大きなウエイトをしめている曲は、かなりマイナーで知っている人も少ないであろうと思うが、「PRISM」というバンドの曲である。
歌が入っていないインストゥルメンタル。ギターがメロディを奏でる。ギター、ベース、キーボード、ドラムの編成でかなり高度なテクニックでそれらの楽器が絡み合い、独特の高揚感が発揚される。ジャンルで言えば、ジャズロックとかフュージョン、クロスオーバー、プログレッシブロックとかいうのかもしれない。
中学時代にフォークソングブームに乗って「かぐや姫」が好きだった。ギターをはじめてみた。自分で練習した。そして次に友達と合わせてみた。コンサートに出てみた。こんなよくあるスタートである。初めて自分のお金を出して買ったレコードは、そのかぐや姫の「はじめまして」だった。
当時、私の5つ上の兄は既にローリングストーンズを聴いていた。はっきり言って私にはどこが良いのか判らなかった。そんな兄からディープパープルを聴かせてもらった。レッドツェッペリンも教えてもらった。ジェフベックも。サンタナも。キャメルも。そして、日本にもこんなバンドもあるぞとPRISMを教えてもらったのであった。
周りの友人たちはほとんどそれらの音楽を知らなかった。少しだけ優越感に浸りながらそれらに聞き入った。そしてそれらのバンドのギターをコピーしていった。
高校時代、プリズムを知っている友人に出会った。ほとんど今まで会話した事がなかった奴だった。いつも文庫本を読んでいて寡黙な男であった。ベースをやっているという。
私は水をえた魚のようにそいつとプリズムの話に花を咲かせた。楽しかった。そして今度ベースとギターだけで合わせてみようということになった。
そんなある日、高校の音楽の授業で好きな楽器で好きな曲を演奏するというテストがあった。私はそいつと一緒にエレキギター、エレキベースとアンプを音楽室に持ち込んでクラスのみんなの前で演奏した。音楽教師から全代未聞と言われた。それでもその先生は認めてくれた。私の大好きな尊敬する音楽の先生である。
いくつかのコンサートに出演し、隣町のライブハウス出演のためのオーディションも受けたりした。髪の毛を少しだけ伸ばして背伸びしてみた。たばこなんかも時々吸って少しだけ不良っぽくもした。いつも練習するスタジオのおばちゃんに怒られた。でも少しだけうれしかったな。叱ってもらえて。
大学時代、軽音楽部に入部し、良き先輩に恵まれバンド活動も楽しくやっていた。主に大学のある松本近辺及び大学行事でのコンサート。ポプコン、イーストウエストとかいうプロの登竜門にもチャレンジ、横浜にも遠征したりした。
いろいろな曲をやってきたが、私のいつも根底に流れるものはやはりプリズムの和田アキラ氏のギターであった。中学時代から憧れて、あんな風に弾きたいという夢を追って今まで来たと思う。
今では、子供のアニメソングをピアノで弾いたり、昔の懐かしい曲を簡単なコードつけてピアノで奏でてみたり。ギターは病院の3階に眠っている。時々そのギターが封印されている部屋に入ってそのギターを抱えてみたりするが、もう指が思うように動かない。あれだけ弾き込んで、指板の上を指が乱舞していたのに、今ではその踊り方を忘れてしまったようだ。
ちょっとだけ昔の曲を弾いてみた。拙い指の動きにビブラートもろくに掛からない鈍い音がした。寂しさがキュンと身体を走った。若い頃のつもりで走ってみたが、足がついてこないというもどかしさと似た、しみじみとする悲しさがあった。それでもほんの一瞬だけ、昔の自分に帰れたような気がする。
まだ昔のまま器材はすべて揃っている。すべてのエフェクターを並べて大音響で鳴らす事も出来る。久しぶりにいっちょやってみるか。ギターの弦も新しいのに換えなくちゃ。ギターもチューンナップして。弾き込んで傷だらけのボディも磨きをかけてあげなくては。当時は高嶺の花であったギター。ヤマハのSG3000(黒)。かなり長いローンを組んで買ったっけな。そしてもう1本のSA700(セミアコ)。これはもう死んでしまった祖母が買ってくれたんだっけ。高校の入学祝いだったかな。
どちらにももう一度息を吹きかけてあげよう。達磨さんの目に黒目を入れてあげるように、もう一度入魂してみるか。また何か発見があるかもしれない。
03.10.11 贅沢な食事
今夜は幸せな気分。なぜならそれは贅沢な食事を食べたから。どんなメニューかって?まずは、ご飯と味噌汁と、それにお漬け物だった。
それのどこが贅沢かって、これからそれを記してみる。
まずはご飯。土鍋で炊いてみた。今年穫れたての新米こしひかり。お米屋さんで精米してもらったものだ。
それを丁寧に研いで30分ほど水に浸しておく。30分置いたら蓋をして強火で一気に炊きはじめる。吹いて来たら火をとろ火にして5分。そして火を止めて20分蒸らして出来上がり。おこげが欲しい場合は炊きあがってから3~5分ほど強火で火を入れる。
続いて、お味噌汁。
今夜はイリコだし。煮干しの頭と腑を丁寧に取って、鍋で炒る。そうすると煮干し特有のにがみが消えて香りが立つ。そこに水を足して湯を沸かす。イリコだしはカツオや昆布と違ってダシが出にくいので10分ほどゆっくりとだしを取る。朝の忙しい時にはカツオやコンブの方がいいであろう。
ダシが取れたら煮干しをすくい出し、火を弱めて豆腐と生わかめを入れ、味噌(これも近所の酒屋さんの評判の美味しい九重田舎味噌)を溶き入れる。
最後にお漬け物。
まずは我が家の糠床から真一郎(いつもは朋子の仕事)が取り出す。茄子に大根、ニンジン、ピーマン。この日はたまたまキュウリを切らしていて漬けていなかったのが残念。その代わりにキュウリは浅漬けのものを出した。それに沢庵とキュウリの奈良漬け。おかずはこれだけ。
本当に炊けているかなと不安を抱えながら蓋を取ってみるといつもの炊飯器から上がる香りよりももっと上品な炊きたての香りが漂い、家族から「うわぁ~!」と歓声があがる。炊きたてのご飯は一粒一粒が粋り立って、表面は眩い輝きを放っていた。鍋底では少しではあるが香ばしいおこげもあった。
食べてみると何ともみんな声が出ない。何と言っていいのか判らないのだ。私もそうだった。何とも言えない食感。何とも言えない香り。いつものご飯とは違った食べ物みたいな気がした。「ふっくらしていて美味しい」というのを通り越した、何かこれに合ったうまい表現の言葉がないのかと腹が立つほどである。ごはんを咬んでいてもいつもと何か違う。上下の歯の間に挟み込まれた米粒の擦りつぶされ方というのだろうか、米粒ひとつひとつの分離の仕方、まとまり方、漬け物との絡まり方が違う。それが何とも心地よいのである。咬む度に味わいが増し、いつもの糠漬けも美味しく感じられる。味としては、美味い酒に出会った時のような感動がある。
口の中が、味覚、触覚ともに喜びが押さえられない。大袈裟と思われるかもしれないが、それほどの喜びであった。フランス料理の美味しいフルコースでも食べればまた違った感動があると思うが、「日本人に生まれてよかった」と思える食事はやはりこういう食事でないと味わえないかもしれない。今度はこのご飯でおにぎりを作り、その冷えたおにぎりと美味しい湧き水というのもいいかもしれない。私は密かにおにぎりと牛乳というのが好きなのだが、それも是非試してみたいと思っている。
味噌汁も顆粒のインスタントダシのものとはまったく違うものになる。何ともやさしい飲み心地。後味の良さ。ご飯との相性も際立つ。同じ味噌を使っても、ダシが変わるだけで味噌が変わったのでは思うほど変わるものである。今回はダシの風味を感じさせるために豆腐と生ワカメを用いたが、次は秋の野菜をたくさん入れたけんちん汁や豚汁を作ってみよう。
食後はいつもよりみんなが明るく元気なようだ。食事ひとつで家族が変わるものである。美味しい食事は心も変える。それはどんなに高価な食材かということではなく、本来美味しいものをいかにその美味しいまま食べられるか。そしてそこに笑顔という調味料をひとふりすれば魔法のように贅沢な食事の出来上がり。
03.10.04
小学校4年生の息子の宿題で「星空の観察」というものがあり、先日はカシオペア座の動きというものであった。
私も最初はそうであったが、息子は星座というものが判らない。星座早見表を見ていても、それと夜空の星座とが結びつかない。早見表のように星座というのは小さいものだと思っていた。
私が子供の頃、一番最初に確認した星座はオリオン座であった。
「あの3つ星がこの早見表のこの3つ星で、それを取り囲むように4つの明るい星があるだろう」と5つ上の兄に教えてもらったと思う。そのオリオン座の大きさに腰が抜けるほど驚愕した。「星座ってこんなに大きくて雄大なものなのか」と。そのひとつが判って来たら他の星座も確認したくなってきた。そして次々と星座が判って来ると全天に見える星空に、プラネタリウムで見るように点線でそれぞれのイメージが浮かび上がり壮大なパノラマとなった。感動した。
中学では天文部に入部し、部長も務めた。それもあの時の感動があったからだと思う。
先日はその息子の宿題のために久しぶりに夜空を見上げた。我が家の近所ではまことに小さな夜空であるが、それでも主要な星座は見る事が出来た。
夜8時頃。
「天頂に見える明るい星がデネブという白鳥座の一番明るい星。それから少し西にいってもっと明るい星があるだろ、あれがベガっていうこと座のα星だ。それから今度は南に下がったところにある少し赤っぽい星、あれがわし座のアルタイルっていうんだ。その3つの星が三角形になっている。それを夏の大三角形っていうんだぞ。」
「白鳥座はあれとあの星をつないで十字架に見えるか?その十字の長い方の下が頭になるわけだな。」
「白鳥座のところに丁度天の川が流れているんだけど、その天の川を挟むようにベガとアルタイルがあるだろう。その2つが七夕の日に天の川を渡って逢う訳だ。」
「あ、三角形が見えたよ。すごーく大きい。あ、白鳥も判った、すごいねぇ。」と息子。
「それじゃ今度はカシオペアを探そうか。白鳥座から天の川に沿って北に行くとカシオペアが見えて来る。ちょうどローマ字のWみたいだろ。」
「え、早見表じゃこんな小さいのにあんなに大きなWなんだ。」
「そう、そのWの真ん中の星からこっちへずっと追って行くとひとつだけポツンと星があるのが判るか?あれが北極星っていうんだ。あの北極星が見つけられたら東西南北が判る。」
「ねぇ、ブラックホールって何でも吸い込んじゃうんでしょ。それが近くにあったら地球も吸い込まれちゃうの?絶対そのブラックホールが近くに来る事はないの?吸い込まれちゃったらみんな死んじゃうの?死んじゃったらどうなるの?何もなくなっちゃうの?夜寝る時にね、死んじゃったらどうなるんだろう?いつかは絶対に死ぬ時がくると思うと恐くて眠れない時があるんだ。死ぬのって痛いのかな、恐いんだろうな。おじいちゃんも死んじゃったけど、今は天国にいるの?悪い事をした人は地獄に行くの?人は死んでもまた生まれ変われるの?いいことをすれば天国へ行けるの?いいことって何?いいことって何?死ぬってどういうこと?それとそれと・・・・」
みんな子供の頃はこんな時があったはずである。
息子とこういった会話をしている時間と言うのは、父親にとっては至福の時間である。この時のことは一生忘れないであろう、きっと。
今日は上弦の月が美しい。隣にある赤い火星と共に。まるで親子のように秋の夜空に輝いている。
03.09.28
秋韻を感じる季節になった。空は蒼く澄みわたり、頬を染めつつある山々を高々に覆う姿は壮大であり、これをいわゆる秋高(しゅうこう)と言う。夏の朝の爽快さとはまた違う気分の良さがある。
秋成による秋収は天の恵み。その収穫を感謝する政(まつりごと)も様々な形で行なわれることであろう。
この「秋」という漢字にはどういう意味があるのだろうと思った。右側に付いている「火」の部分が疑問である。燃えるような紅葉をさしているのか、枯れ葉などを燃やす炎なのかと思って調べてみたら違った。
「秋」という漢字は、もともと「禾」の下に「火」と書く偏に、右側には亀の意味を表す亀の字を難しくしたような漢字がつく。古代の占いは亀の甲に火を近付けて行なわれた。その亀は秋季に捕獲され、また秋季には穀物の収穫もあるため、「禾」を付し、「あき」の意味を表す、らしい。(参考;「漢語林」:大修館書店より)
「秋」を含む熟語には面白いものがある。例えば
「秋扇(しゅうせん)」秋になって不用となった扇。価値のなくなったもの。愛されなくなった女のたとえ。
「秋水(しゅうすい)」清らかな目、特に美人の目をいう。
「秋波(しゅうは)」美人の澄み切った目元。こびる女の目つき。いろめ。よこめ。
「女心と秋の空」とも言うように、秋と女性はなかなか共通するところがあるのかもしれない。
そんな秋空のもと、先日は再び真一郎との朝の早朝散歩で京都へ出かけた。今回はゲストとして由香里も一緒に。
私の高校時代の修学旅行以来行っていなかった「金閣寺」と「龍安寺」へと。
金閣寺は、情けないことに修学旅行では「行って見て来たと思う」という程度しか覚えていない。写真では何度も見るのに実際の美しさを覚えていない。これではいかんと子供に見せるという名目で見物に行った。
写真にしてしまうと所詮いつもの金閣寺なのであるが、実際はもっともっと光り輝いていて美しい。錬金術が難しいのと一緒で、金の輝きを表現するにはやはり本物の金でしか無理なのかもしれない。初めて金閣寺を見る子供達も「ワァーキレイ!」と声を上げてからは、しばらくその美しさに沈黙して見とれてしまったほどだ。
そこから1.5km離れたところにある「龍安寺」、こちらは石庭で有名なところである。
石庭に並ぶ石は、大小合わせて15個。一度にその15個を見る事は不可能である。大きな石の影になっていくつか見えないからである。何とも不思議な配置。思わずぼーっとしてしまう。これを「無の境地」と言うのだろうか。それでも観光客が多いため、すぐに現実に引き戻されてしまうが。
この15という数字は日本の歴史の中では重要な数字。何が重要かというと、まず足利幕府は尊氏から始まって信長に追い出された義昭までの15代。次はもちろん徳川幕府の家康から慶喜までの15代。実はもう一つある。何でしょう。
戦後の自由民主党単独政権の首相が15人なのである。それをすべてさらっと言える人は少ないと思うが、ちょっと書き出してみる。
まずは誰から始まるかというと元民主党党首の鳩山由紀夫氏の祖父である鳩山一郎首相である。
1、鳩山一郎
2、石橋湛山
3、岸信介
4、池田勇人
5、佐藤栄作
6、田中角栄
7、三木武夫
8、福田赳夫
9、大平正芳
10、鈴木善幸
11、中曽根康弘
12、竹下登
13、宇野宗佑
14、海部俊樹
15、宮沢喜一
自民党単独政権を終わらせた次の首相は誰だったでしょう?そう、あの細川護煕(もりひろ)首相(日本新党)。そして、新生党の羽田孜首相、社会党の村山富市首相と自民党は3代も空いてしまうが、次にやっと連立という形で橋本龍太郎氏が自民党の首相になるわけである。それから小渕首相、森首相、そして現在の小泉首相となる。
初代の首相は、伊藤博文。在職日数トップは、桂太郎首相の2,886日。一番短い首相は、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)首相の54日。ちなみに羽田孜首相が64日、宇野宗佑首相は69日である。
伊藤博文氏が首相になったのはなんと44歳。最高齢は鈴木貫太郎首相の77歳就任。(参考:首相官邸)
こうやって数字で追って見るとまた面白いものである。
さて秋の夜長、秋刀魚を大根おろしで食べて、秋懐に耽り、秋蛩に耳を澄ませ、秋意を感じながら、のんびりと読書でもしてみようか。
03.09.17
長男真一郎との恒例、日曜日早朝の散歩は細々と続いている。最初は近所の琵琶湖岸の散歩から始まり、京阪電車に乗って一駅ずつ遠くまで行くようになった。大津市の主要な神社仏閣は廻ったと思う。
最近は京阪石坂線(石山寺と坂本を結ぶ)から浜大津駅で乗り換えて、京都市役所前までを結ぶ京津線へと広がった。
夏休みの間に行ったのが、近頃「陰陽師」という映画で有名な安倍清明を祀る「清明神社」。京都市役所前から歩いて、京都御所を通り清明神社まではかなりの距離があった。当初の目的が歩くことだから、歩くことに文句を言ってはいけない。
清明神社はおどろおどろしいイメージを持って行ったが、着いてみると大きな通りに面した明るく新しい出来立ての神社でした。様々な有名人の絵馬が奉納してあり、それを読んでいるのが楽しかった。有名人の直筆は面白いです。サインはみなさんそれなりにうまいのですが、祈願の文字はまさにその人を現しているような。小学生並みの文字の人もいました。逆に若いのにしっかりとした文字を書いている人もいて、とても見直してしまったり。誰のが奉納してあったかは秘密。ご自分で行って見てきましょう。
清明神社よりもそこから少し行ったところの一条戻橋の方が霊スポットっぽくって恐かった。過去に様々な曰くのある場所ですからね。霊が写っていないか真剣に探してしまいました。
歩き疲れて、その戻橋からはバスでJR京都駅へ行き、膳所駅まで、そこから歩いて自宅まで帰って来ました。
そして、また別の日の朝。今度は京都市役所前駅から少し手前の「東山」で下車して、知恩院、八坂神社、円山公園を歩いてきました。
京阪東山駅は三条通りにあり、そこから堀伝いに祇園方面に向かいます。この堀沿いの道がなかなか風流でした。途中に一本橋があり、記念撮影。
知恩院はかなり大きい。入口から大きい。山門でなく三門と書きます。空・無相・無願の3つの解脱の境地を表している門だそうです。ちなみに国宝であり、日本で最大の木造建築桜門です。下の写真で門の下に立つ点状の息子が見えますでしょうか?
知恩院は、法然上人の浄土宗のお寺です。
知恩院でお参りを済ませ、次は八坂神社へ。これはすぐ到着です。祇園の通りを早朝に歩いていると、朝帰りのホステスさんとかお客さんなどに会えます。神社を掃除されている人との対比がなんとも面白いです。
八坂神社は地元では「祇園さん」と呼ばれています。現在はスサノオノミコトと櫛稲目ヒメノミコトなどを祀っておりますが、元々は渡来系のものらしい。はっきりしたことは判りません。
続いて、円山公園。ここは八坂神社の隣です。くっついています。みごとな日本庭園で、しかもタダです。桜の季節はかなり綺麗だろうなと思います。あまりかしこまった感じではなく、昼休みに弁当もって食べに行けるような公園です。中には坂本竜馬も銅像がありました!
坂本竜馬と中岡慎太郎の銅像
簡単に散歩コースを説明しただけの文章でした。
群馬県に住んでいた時は、京都に行くなんて修学旅行か、それこそ清水の舞台から飛び下りるつもりでの旅行になりそうですが、何と大津に住んでいると「朝の散歩」で行けるところが何とも感動です。歴史上有名な場所が、あっちにもこっちにも、歴史ファンにとっては何とも幸せな場所なのでしょう。これからもいろいろなところを見て廻りたいです。そして子供達にもその歴史と共に残されている建造物に触れてもらいたい。その場所には必ずそれまでの歴史の空気というのが存在しているもので、何かその辺を感じ取ってくれたらと思います。
子供に歴史のことを判りやすく説明するには、これが結構難しいのです。単純なストーリーで簡潔に説明しようと思うと、意外とかなり勉強しないといけません。意外な質問も飛び出してきて、それにも答えられるようにしないといけませんし、判らない時は帰ってから必ず調べるようにしています。現地を見せながら歴史が語れるなんて、これは親冥利に尽きます。子供がどれだけ理解したかなんて関係ないです。父親と一緒によく神社やお寺に行った、そしていろいろな歴史の話を聞かされた。それで良いのだと思います。父親はその時何でも答えてくれた。判らないことは必ず家に帰って調べていた。そういうことが断片的に記憶に残ってくれて、それをきっかけに歴史に対する抵抗感がなくなり、面白いと思ってくれたら儲けもんだと思っています。
03.08.31
夏休み最終日の朝。日曜日の朝食を作っていた。寝ぼけた顔、パジャマ姿、ブラシの入れていない髪、換気扇の下で大鍋にお湯を沸かして「ジャガイモ」を茹でている。先日たくさんの美味しそうなジャガイモをいただいたのでそれを茹でて塩を付けて食べる。ただそれだけの朝食だ。
大鍋の中で「グツグツ」と音を立てながら鍋底から「泡」が上る。
「この泡ってなんだったっけかな?」ふと思った。
子供にそう聞かれたらなんて答えればいいんだろうな。と思った。
水はH2Oだから水素と酸素、それが分解されて、あの泡は水素と酸素?そんな訳はない。
答えは単純に「水蒸気」である。水が「気化」したもの。気体になった水である。液化したのがいわゆる「水」、固体になったのが「氷」である。1気圧で100度になると水は水蒸気になる。鍋底で100度になった水が気体となって上がって来て、また冷やされて水に変わる。それを繰り返す。だからあの「泡」を集めても、結局すぐに冷やされて水になってしまう訳である。夏の暑い日、冷蔵庫から麦茶を取り出しガラスのコップに注ぐ。しばらくするとコップが汗をかく。これは?もちろんガラスのコップから滲み出した麦茶ではなく、冷たい麦茶に冷やされたガラスコップの周りの空気の中の水分が冷やされて液化してコップの表面に付着したものである。
中学生の頃だったか、理科でそんな実験をやったなぁ。ビーカーに入れた水をアルコールランプで温めていき、水の中には沸騰石を入れて、温度計を入れて、時間と温度のグラフを作ったり、何度で沸騰するか、泡を試験管で集めたり。その時は「こんなの当たり前じゃん」とつまらなそうにやっていたと思う。覚えているのは、その時にビーカーを乗せていた熱い金網に触れて火傷したことくらい。
でも、今になって朝食のジャガイモを茹でている時にいろいろな疑問が出て来てその時の実験を思い出そうとしている。注射器に水を入れて注射筒を引っ張ると気圧が下がり、そうすると沸点が下がる。気圧の低い山の上では100度以下でもお湯が沸騰する。それの逆が圧力鍋。いろいろと関連づけて記憶が甦ってくる。芋づる式に関連したことが検索されたようにヒットする。Googleで検索にかけたみたいに。
記憶というのはどのようにされているのだろう。
こんな話を聞いた事がある。
人間の記憶というのは、夜寝ている間に整理され収納される。
昼間の出来事を、ひとつひとつこれは驚いたこと、これは記憶させなくていいこと、どんなキーワードで思い出せるようにするか、そういう条件付けをしながら脳の中にしまっていくらしい。だから何かひとつヒントがあれば、それに関連した記憶が呼び出せるのである。連想ゲームである。条件付けはそれぞれ個人によって違うから、同じ出来事を思い出すにも同じヒントでも思い出すものは違う。
家族で同じ体験をしたはずなのに、同じヒントでは思い出せなかったりする。それは記憶し収納する時の条件付けがそれぞれ違うからである。ある人ではあの体験のびっくりした場面で記憶していたり、またある人はあの体験のほんのちょっとのうれしかったことだけを記憶していたりする。
その記憶を整理する作業が寝ている間に行なわれ、十分睡眠が取れた方が記憶もちゃんとする。だから受験の時などはよく眠った方が効率はいいはず。ちゃんと条件付けして収納しておけば、後で取り出す時は迷わず取り出せるからである。その条件付けがしっかりしていないと「思い出せない」ということになる。どんな条件を付けてしまうかが問題である。ただ詰め込むだけでは後で呼び出すのが大変なのである。それを自分で条件付けしなければならないのでなく、勝手に寝ている間にやってくれているのだから有り難い。しかし、データ入力の際にどれだけ関連づけて、たくさんの条件を揃えられるか、それ如何で収納の仕方、効率が変わって来るから、どのように物事を体験するか、いかに感情と組になって記憶出来るかである。暗記でもどう関連づけて暗記するか。
昔の出来事を思い出す時にも、その時に聞こえていた音楽だったり、その時の天気(暑かったり、寒かったり、雨だったりなどの体感)、匂いだったり、味だったり、たった一言のセリフだったり、衝撃的な映像であったり、心地良く触れてもらったことだったり、それぞれ目、鼻、口、耳、皮膚などの感覚器官で感じたものと一緒に記憶しているのに気がつく。単なる出来事をストーリー的に覚えているだけでなく、身体全部での感覚として記憶していて、そしてその刺激が多ければ多いほど記憶はリアルに思い起こされる。
物事を体験するのに、感動がたくさんあったらそれだけ記憶に定着しやすい。「つまらねぇなぁ」とか「そんなんたいしたことないじゃん」と思っていると、何にも感動せず、記憶力も落ちて来るのだろう。興味をもって発見があって感動することにおいて記憶は関連付けのネットワークを深めていって、そして脳の中での巨大な知識のネットワーク、世界中のインターネット網のようなものを構築出来るのであろう。
それには感動する事が大事。
この夏、ツアー旅行へ行った。どこの観光地へ行っても「おばちゃん」が元気であった。比較的「おじちゃん」は元気が少ない。その差はなんであろうか。
それは感動が少ないからかもしれない。
おばちゃんはどこへ行っても何を見ても感動している。
「ねえねえ、みてみてあそこ、すっごーっくキレイよ!」「ねえ、あれなんだろう、あれが雷鳥じゃない?!」と大はしゃぎである。それに比べておじちゃんの方はと言えば、「あぁ、雷鳥だな」「うん、綺麗だな」で終わりである。
「そんな大はしゃぎするほどの事でもないだろう」になってしまっている。
私を含めておじちゃんは、もっともっと恥ずかしがらずに感動を味わった方がいいのかもしれない。子供の時のように。感動するものが、おじちゃんとおばちゃんでは違うのかもしれない。それはそれでいい。何でもいいから感動するもの、感動することを体験してみよう。例えば今夜暗くなってから東の夜空を見てみよう。ひときわ明るく赤い星があるはず。新聞でも書かれていたように6万年ぶりの火星の大接近である。これも普段の火星の明るさを知らないと感動も何もないかもしれない。ただ明るい赤い星があって「ふ~ん」で終わり。でもいつもの火星を知っていると「うわー、なんて明るいんだろう」「いつもの木星くらいの明るさがあるじゃないか」「地球に大接近しているぞ」という実感が湧いて来る。
私も今朝は「ジャガイモを茹でるお湯の沸騰」で一種の感動を味わった。問題はその出来事の捉え方なのかもしれない。
特別な凄いものを見に行かなくてもいい、感動は今貴方の目の前にいくらでも転がっているものだから。
03.08.23
守られているという事。
常日頃、自分が守られていると感じることはあるだろうか。
これだけ車が走っていて、その中を交通ルールの通りに走っているとはいえ、やたらとぶつからないことを不思議に思った事はないだろうか。ひとつ間違えばとんでもないことが起きるはずなのに、それほどとんでもないことというのは起こらないものである。しかし、起こる時は起こるもので、これでもかというほど、この世に神や仏はいないのかと思うほど不幸が続く時もある。これは一体どういうことなのか。単なる偶然によるものなのだろうか。
私たちはきっと何かに守られているに違いないと思う。
それはなんなのかは判らない。神様(イエス様、アッラーの神、八百万の神など含む)か仏様か、ご先祖様か守護霊か、もっともっと偉大なるものか、サムスィンググレイトとか言うものかもしれない。
私も自分の職場にはちょっとした神棚を置いている。取りあえず天照大神、建部大社(近江一宮)、平野神社(氏神様)のお札を祀っている。その神棚に毎朝手を合わせている。
「今日も一日無事に過ごせますように」「いつもありがとうございます」「みんなよくなりますように」と心に思いながら手を合わせている。
その時には、天照大神を思い浮かべてということはないと思う。私の場合は、ご先祖様か守護霊か、何かそのようなものだと思う。自分でもよく判らない。それでも手を合わせることで気持ちが落ち着き、安心感が湧く。気持ちが落ち着くと集中出来る。
不安に思ったり、心配が重なったり、何かを恐れていると、気持ちが浮つく。そして失敗を重ねてしまう。次から次へと転がり落ちるように悪い方へ傾く。そんな時は体調も悪くなる。そしてまた一層不安になる。悪循環である。
そんな時は何かに手を合わせて心を落ち着かせることだ。困った時の神頼みでいいじゃないか。
「気をつける」というのは「気付かせる」ということ。子供が慌てて遊びに出掛けて行く時に「気をつけて行くのよ」というのも、うれしくて浮ついた心で行くと、普段なら当たり前に気が付くことも気付かずに失敗をしたりする、どこかにぶつかったりもする。だから気を落ち着かせるのである。慌てた気持ちを落ち着かせるといろいろなものが見えて来る。慌てていると何も見えなくなる。恋をしている時も盲目になるようであるし。それも心が浮き足立っているのであろう。後から考えれば、何であの時はあんなことをしたのだろうと思ったりもする。
落ち着いていない心の時は、身体もいつもと違う。緊張している時、興奮している時、恐怖に脅えている時、寂しい時、どれも心ここにあらずの状態。そんな時に自然と手を合わせていないだろうか。「神様!お願い助けて」と。それは心を落ち着かせようとしているのであろう。
拝むものは何でも良いのかもしれない。仏像でも十字架でもお札でも石像でもお墓でも、山でも川でも空でも月でも星でも太陽でもいい。日本の神社の神殿の中には鏡がある。これは鏡に映った自分の姿を拝んでいるのかもしれない。
何かうまく行かない時、取りあえず手を合わせて何かに拝んでみよう。きっと何か見えて来るだろう。そして自分が守られているということに気が付くだろう。そうしたら全てに感謝出来るはずである。「***様お願いします」じゃなくて「***様いつもありがとうございます」と感謝出来るはずである。
03.08.09
夜の食事が終わり、子供達は隣の居間で何やら盛り上がっている。真一郎がデジタルカメラをテレビに接続して映し出される自分の姿を面白がって見ている。そこにみんなが集まってテレビの前で踊ったり、歌ったり、変な顔をしたりしていて一種独特の雰囲気になっている。セルフタイマーでみんなで写真を撮ったりする。画面には大きくカウントダウンの数字が出てそれだけでも盛り上がるようだ。
みんな右上を見ているのはテレビ画面に映る自分の姿を見ているため
そんな子供達の盛り上がりは我が家にとっては「ただの日常」である。子供が5人もいるから当然そうなる訳であるが、思い返せば自分が子供の頃はどうであったか。
私は5歳上の兄がいるだけで、両親と合わせて4人の核家族であった。だからこんなに賑やかな夜というのは、親戚の従兄弟たちが集まるお盆と正月くらいの特別な出来事であった。順子は一人っ子であったので尚更である。
子供達にとっては、毎日が盆と正月。賑やかが当たり前。これだけ家族がいても、誰か一人いなくなると何だか寂しいもの。それは4人家族で誰か一人足りないのと同じ感覚である。1/7足りないんじゃない、やっぱり一人足りないというのは、家族が何人でも一緒のような気がする。
突っ込み役、ボケ役、マメなタイプ、ズボラなタイプ。働き者、怠け者、その日明るい人、暗い人、機嫌のいい人、悪い人、いろいろな役割をそれぞれが受け持っていて、その日その日で役割が変わる。
役者は7人、父母、長女、末っ子、という基本的な配役は決まっているが、突っ込み、ボケ役、働き者、怠け者などの役割は日々変わる。今日は誰かが怠け者だから自分は働き者にまわろう、という事が起こる。面白い。そうやって家族全体のバランスをとっているのでしょう。
誰かが泣けば、それを慰めにいく人が必ずいる。
悔しくて涙が出る時、一人にしておいてあげようという気遣いもあるようだ。
うれしい時はみんなで盛り上がり、悲しい時は肩を寄せ合う。
家族とは、それはそれで一つの生命体のような気がする。
それぞれが、「公(家族)」のために「個(自分)」を捨てて行動をしている時、家族はうまくいっている。これは家族と言う社会の中での話だが、これはどんな社会に入っていっても同じ事が言えると思う。
人間の、ある細胞のひとつが自己中心的になってしまったら大変である。ホメオスタシス(恒常性)なんてことも維持出来なくなる。自分の命を投げ打ってでも守るものがある。生命体は自分ひとつの細胞の命が犠牲になってでも全体のバランスを優先する。
友達の仲良しグループもそれはそれでひとつの生命体。家族はもちろん、人間が集まればそれはそれでひとつの違った生命体となる。だから同じ人間でも、こっちのグループにいる時と、あっちのグループにいる時と、違った人間性を表すことがある。こっちでの役割と、あっちでの役割が違うからである。バランスの悪いグループは自然に消滅する。集まっても楽しくないし、落ち着かないし、自分の役割がみつからないから。
家族の中での自分の役割がはっきりしている人は幸せ。それだけで家にいる価値があるのだから。そうみんなが認めてくれるのだから。勉強だけを押し付けて、役割を剥ぎ取ってしまうことはしないようにしよう。何でもお母さんがやってあげてしまって役割を奪い取ることはしないようにしよう。役割が見つかった時はとってもうれしいもの。自分もこの家庭にとって必要な存在なんだと思える瞬間は格別である。いつも失敗ばかりするのが役割というのもありです。その人のお陰でどれだけ他の人が救われているか。癒されているか。
役割なんていくつだってある。でもそれを剥ぎ取ってしまう人がいる。逆に役割をたくさん与えてくれる人もいる。悪者を演じさせられる子もいる、良い子を演じる事を強要されている子もいる。本当の自分なんて判らない。今はこの役をやっていたい、でも次はこんな役もやってみたい。そんな自由があれば家族はもっと楽なんだけどな。
演じる役は自分で決める。決して親が決めちゃいけないんだよな。でも、決めちゃっているところが多々ある。この子は昔からこういう子だからと決めつけて、それでその子を縛っちゃっている。その子もその呪縛から逃れられなくなっている。その方が都合がいいから。
取りあえず私もこれからの人生、お父さん、歯医者さん、夫、おじいちゃん、という配役をやっていく訳であるが、どんなお父さんでいるか、どんな夫でいるか、それはその都度変わって行く事だろう。やさしいお父さんを演じて行くかもしれない、ウダツの上がらない夫、頑固ジジイをやるかもしれない。それはその時の状況に応じて一番良いと思われる役柄を選ぶだけである。頑固ジジイをやるのが一番家族にとって必要であるようなら、男のプライドを掛けて頑固ジジイを演じてみせようぞ。
03.07.27
順子の鼻が調子が悪い。
万里子が寝入りばなにひどく咳き込む。
私が咳き込む。
これは我が家の「あれをやりなさい」のサイン。
あれとは「掃除」である。
家中のそこここにホコリがイッパイ。そのホコリが子供達が暴れ回って舞い上がる。夏になり扇風機をまわすと部屋中に乱舞する。それを吸い込むと家族それぞれにいろいろなサインが出る。
今日は朝から家の大掃除。散らばっている玩具、洗濯物、いるのかいらないのか判らないような書類、新聞、広告、読みかけの本、子供の宿題、、、。それらを所定の場所に片付けて、掃除機をかけて、雑巾で拭いて。
やれやれここは終わったと思ったら、隣の場所でもう子供がオモチャを放り出してまた元の木阿弥。それでも次から次へとやっていくと気がつけば全体としては綺麗になって、部屋の空気が変わっている。
ほぉ~、爽やかー
鼻のエアーフィルターにはホコリがたくさん詰まっている感じがする。のどもいがらっぽい。でも人間の身体は自浄作用があるから凄い。掃除機だったらそのまま使い続けると壊れてしまうが、身体はホコリがない状態にしたら、また勝手に奇麗にしてくれる。ありがたいこと。
今日のこの部屋の惨状をみると我ながら情けなくなる。部屋の「だらしなさ」が。
子供の頃、近くの祖父母の家に行くといつも綺麗だった。ホコリなど落ちていなかった。床の間も光っていた。それが気持ち良くて落ち着いた。そして我が家に戻ると、こたつテーブルの上には雑然とモノが乗っていて、部屋の片隅にはいろいろとゴチャゴチャとモノが置いてあって、どこもかしこも散らかっていた。何かをやるときにはまずモノを片づけなくてはならなかった。あるいはまたそのモノをまたもっと隅にどけて作業をするしかなかった。自分の勉強机の上もそうだった。引き出しの中もそうだった。
現在の自分の部屋はまだマシだと思うが、子供達の部屋を覗いてみると小さい頃の自分の部屋を思い出す。散らかっている。
子供が小さいうちは部屋が散らかっていても仕方がない、と言い訳をしていた。片付けてもすぐに散らかってしまうからと。だから家族の体調が悪くなったら掃除をしなくちゃという感じでいた。出来る事ならそうなる前に日頃から掃除を心掛けるべきなのであろう。共働きであることを理由に逃げていたと思う。
と、書くと、これからは日頃からマメに掃除する方向にいくような感じだが、きっと何も変わらず余程になったら掃除をするという習慣は変わらないのかなとも思う。これもまた情けないことであるが、きっとうちの子供達が結婚して子供を産んで、その私にとって孫が遊びに来る頃には、昔の私の祖父母の家のように整然とした家になれるよう頑張ろうと思う。
3世代同居という家族体制から核家族体制に変わっていた現代。これが生み出すものは良い面も悪い面もある。失うものも多い事だろう。得るものもあるが、それらはワガママな自由に象徴されるものであることが多いようである。そのような歪んだ自由を当たり前と思わずに、昔と比較して何が悪いのかを自分なりに判断しないといけないのだろう。
3世代同居は何かと不便なところあったり、生きづらいところもある。しかし、逆に利点もたくさんある。どちらが良いか、正しいかは判らないが、核家族の欠点は理解していなければならない。ただ気楽なことだけを享受していることは道をはずしやすい。
03.07.17
息子と一緒に囲碁を始めたのが昨年の夏。その時は一生懸命に本を読んで勉強したり、パソコンで対局したりやっていたが、少しずつ熱が冷めてしまって私は半年以上囲碁から遠のいていた。しかし、息子は少しずつでも継続していた。子供囲碁教室に月に2回程通ってはいたが、家でやることはなかった。
最近2か月ほど前から再び囲碁熱が再燃して、今再び息子と共に火を燃やしている。毎晩2局から5局ほど打って対局表も書いて残している。はじめた頃は私がほとんど勝っていた。楽勝であった。月に2回ほど囲碁教室に通っているとは言え、それほど熱心には見えなかったし、きっと今でも勝てるなと思っていたが・・・・・勝てない。
何度対局しても半分しか勝てない。ここ数日の対局結果は6勝13敗。腹が立つ程勝てない。一生懸命考えて打つ手が、あっさりと裏目裏目となってしまう。継続は力なのか、子供と大人の能力の差なのか。悔しくてたまらない。
こそこそと夜寝る前に「ひとりで強くなる囲碁」とか言う本を読んで「コソ勉」をやっているがほとんどその効果はみられていない。
今日は小学校で1学期の通知表をいただいてくる。明日が終業式であるが、子供達の通う学校ではその前日に懇談会があり、親に手渡される。親が先生から受け取るのである。
私が小学校の時は終業式の日に先生から手渡されて、こっそり見て一喜一憂した。成績の良かった時は早足で家に帰ったりしたが、逆の時は本当に足が重かった。夜父親にそれを見せる事を考えては憂鬱な気分になったものだった。以前にも書いたと思うが、我が家では一人ずつ私の前に正座をして「お願いします」と手渡す。それを私が見て一言を言って終わるだけなのであるが、この緊張感がたまらない。説教したり、殴ったり蹴ったりなどはもちろんしないし、本当に一言で終わるのに、何をそんなに緊張するんだろう、、、、。なんてね。私も小学校の時はかなり緊張しておりました。はい。怒鳴られるわけじゃなし、小遣いを減らされるわけじゃなし、でも父親の前に正座をするだけで何でこんなに緊張するんだろう。
それでもそれほど緊張させるような父親でありたいと思っている。「友達みたいな父親」なんて糞の役にも立たないと思っているから。
03.07.03
やっぱり出たかと言っては失礼かもしれないが、そう言いたくもなる。今日のニュースで「中国産輸入冷凍ウナギに抗生物質、厚生労働省が検査命令」とあった。
スーパーで国産ウナギの蒲焼きが800円から1300円くらいで売られている中で、同じ大きさのウナギの蒲焼きが300円代で陳列されており、どうしてこんなに安く出来るのだろうと思っていた。何度か買って安さに負けて食したことはあったが、結局は値段は倍くらいしても国産のものを買うようになった。
しかし、スーパーに行くと、この蒲焼きはもちろんのこと、肉や野菜ですべて国産のものを揃えようと思うと至難の業である。国産の隣には半額近くの値段で輸入のものが並んでいるのだから、ついついそちらに手が出そうになるが、やはりそこで子供の顔を思い浮かべて、ちょっと高くてもと国産を手に取るようにしている。安全性を気にしてというのもあるが、それよりも「頑張れ!MADE IN JAPAN」という気概からのような気がする。
いつ頃からだろうか。MADE IN JAPANが少なくなってきたなと思いはじめたのは。どれもこれもMADE IN CHINA,MADE IN TAIWAN。
子供の頃は、どの製品を見ても「MADE IN JAPAN」と書いてあり、子供心に日本は凄いと思っていた。ソニー、松下、ホンダ、トヨタなどの製品が海外で活躍する姿を誇らしく思った。MADE IN JAPANと記してあればその商品は信頼出来ると思った。しかし昨今MADE IN CHINAと書かれてあると「壊れても仕方がないか、安かったし」と思う気持ちがある。これは偏見だけでなく実感からきたものだ。親には「日本は売る程の資源がないから、知恵をしぼらなければならない。手先の器用さと知恵、工夫で世界を相手にしなければ」というような事を言われたような記憶がある。MADE IN JAPANが持つ信頼度は一朝一夕に得たものではなく、先人が苦労に苦労を重ねて来た結果である。それまではMADE IN JAPANといえば「安かろう、悪かろう」であったのだから。
現在日本が誇れるものは何だろう。アニメ、マンガ、テレビゲームは世界トップレベルだろう。先日「スパイダーマン」という映画をみたが、これも昔のアメリカのマンガの映画化であるが、SFXは凄いものがあるが、内容といったら本当にお粗末なチープなものであった。バットマンやスーパーマンどれもいっしょ。ロッキーやランボー、ターミネーターのたぐいも似たり寄ったりである。それに比べて宮崎アニメやエヴァンゲリオンの質の高さは群を抜いている。
現代の日本が、安くなければ売れない、もっと手軽に、早く、となってしまうとMADE IN JAPANの信頼が崩れてしまう。信頼を失うのは容易いが、一度それを失った時に再び信頼を得るには相当の覚悟がいることだろう。
最新の技術の中にも昔ながらの「匠の技」が必要である。その技術がなければどうしようもない時が少なくない。そういった技術力が減少して来ているという。コスト削減のために海外の工場で製品を作らざるを得なくなり、日本の力の本質である技術力が海外に流出してしまっている。目には見えないものだから損をしたと思わないのかもしれない。しかし、それは日本にとっては死活問題である。「創意工夫」「技術力」が日本の資源だから。
キュウリやナスは曲がっていたっていい。ウナギの蒲焼きだって、子供の頃はそう簡単に食べられるものじゃなかった。今日は特別な門出だからウナギでも食べて精を出して頑張ろうというようなものだった。「今夜は晩ご飯作るの面倒だからウナギの蒲焼きを買ってっちゃおうか」と300円の冷凍ウナギを買うのとは気持ちが違った。
何か忘れている。今の日本人は大事なものを失いかけている。海外のものが陳腐で国産のものが良いと言う訳ではない。海外にも日本人ではどう頑張っても追い付けないものがそれこそたくさんある。そういったものは輸入し、また日本流に改良していけば良い。しかし、日本の本質は失ってはいけない。日本という自分の国に誇りをもつという外国では当たり前の事を忘れてはいないか。
もう死んでしまった実祖父母、そして義祖父は、戦前から生きて来ていた人であったが、日本という国をとても誇らしく思っていた。いつも気品があり、厳しさがあり、やさしさがあり、「だらしなさ」というものがまったくなかった。今の自分達はどうだろう。人に合わせることばかり考えて、人に脅えて、みんなが右に向けば右に向きたくなくても取りあえず向いておこうか、としている。自分に自信がないから、人と同じ事をしておこうと。
もっと自我を通してワガママに生きろというのではない。ワガママな自己中心的な人はもういらないというくらいいる。「義」「仁」「礼」「誠」「忠」「孝」などといったことをベースに考えて行かなくてはならないのではないか。その中にこれからの日本再生のヒントがあるのではないかと思っている。もう一度先哲に学び、歴史に学び、基本に戻って変えて行かなければならないと思う。
取りあえず、目の前のゴミを拾ってみよう。靴を揃えてみよう。空を見上げてみよう。子供の頃のように草の生えた川の土手に寝そべって、トンビの飛ぶ青空を見上げてみよう。何かが見えてくるはずだ。このままじゃいけないって思えるはずだ。今日から変わればいい。
今日がこれからの人生の中で一番若い日なのだから。
03.06.29
今年は梅雨らしい梅雨で、総雨量はどのくらいかは判らないが毎日いつも降っているという感じがする。これなら琵琶湖の水位もかなり上昇したのではと思い滋賀県のHPで調べてみたら思ったほどでもなかった。梅雨に入ってすぐの頃に県庁前の掲示板で見た時はマイナス14センチというのを覚えていた。そして27日現在で平均水位がプラスマイナス0ということであった。減るのは早いが回復するのは大変なのであろう。
部屋の中もジメジメしており、素足で部屋のフローリングの上を歩くと裸足裏にネチャッと張り付く感じが気持ち悪い。
冷蔵庫にしまい忘れ放置された皿盛りのおかずが一晩で酸いてしまう。微生物の活性も盛んなようである。風呂のカビも元気。体も全身に薄くマーガリンを塗ったようで気持ちが悪い。これが日本の梅雨である。
そんなうっとおしい梅雨の時期に心を癒してくれるのが梅雨ならではの花々。睡蓮(すいれん)、紫陽花(あじさい)、花菖蒲(はなしょうぶ)などは、やはりグレーの雲の背景が似合う。紫陽花の花の色は土壌の酸性度によって変化するらしい。酸性だと青紫系、アルカリ性だと赤系統とリトマス試験紙と逆なところが面白い。また紫陽花という花は日々色を変化させていく。七変化と言われるのもこのため。これは日照時間によって左右されるらしい。
今日は昼に「梅ゼリー」を作った。今月初旬から作っておいた梅シロップを薄めてゼラチンを加えただけのものである。朋子と味が薄い、濃すぎると言い合いながらお互い妥協、折り合った味で決着。
梅シロップは、青梅1キロ、氷砂糖1キロ、酢200ccを入れただけ。3週間で出来上がり。数日前から薄めて梅ジュースとして飲んでいる。子供にも評判がいい。まだ試していないが、牛乳と合わせるとハウスの「フルーチェ」のように固まるらしい。ヨーグルトシロップとしても使えそうだ。
そんなデザートを作りながら、晩ご飯の下ごしらえを。豚肉のかたまりを糸でぐるぐる巻きにして、フォークでグサグサ刺して、ねぎとにんにくとショウガと麺つゆを肉と共にビニール袋に入れてモミモミしてから冷蔵庫へ。これを夜にオーブンで1時間焼いて、今夜は焼豚です。
前回に、買った本のリストの中の「日本人の清潔がアブナイ」という本。これは思いのほか興味のある内容であった。第二章の「うんちができない子どもたち」の中で、学校のトイレでうんちが出来ない児童が多いということが書かれてあり、このことがいじめにもつながっていると。これは私にも同じ経験がある。私が小学校の頃からもそういう傾向にあった。学校では絶対にうんちはしない。もししたら、そしてそれがバレたら、もう学校に行けないというほどの深刻な問題であった。それでもその頃から下痢症であった私には本当に登校拒否になるほどの問題であった。高学年になってからわざわざ空いている低学年のトイレに行った事もある、職員便所にこっそり入ったこともある、意を決して授業中に手をあげて「おしっこ行ってきます」と言って大きい方を済ませて来た事もある。
学校でうんちをすると「穢れた存在」になってしまう。そして、それを排除しようという猛烈ないじめがはじまるのである。大人になれば「何とも馬鹿げた」と思う事であるが、子供にとっては死活問題。
どうしてうんちが穢れた存在になってしまったのか。親が「うんちは汚いもの」という感覚を植え付けてしまったのか。汲み取り便所から水洗便所に変わり、まじかにうんちを見る事がなくなってしまったためなのか、うんちは汚いもの、穢れたものではない、ということを判りやすく解説しており、親や子供に根深く染み込んでいる「うんちは汚い」という誤解をどうすれば解くことが出来るか語っている。
また第3章では、臭いについて書いてある。現在の日本は世界でも類を見ない変な潔癖症に冒されているという。電車のつり革に触れないというのもそのひとつ。そして、いかに「におい」を消すかで必死になり、それがビジネスにもなっている。「くさい」と言われたくない、くさいといじめに合う、くさいと社会で生きて行けない、これは学校でも社会でも一緒らしい。これが本当にくさいのではなくてもである。だから一生懸命お金をかけてでも自分のにおい消しに必死になり、自分のにおいに脅えている。
動物が自分のにおいを消す時はどんな時か、それは死ぬ時らしい。この日本人のにおい消しの深層心理は個性の消滅ということ。いかに個性を消して社会の中で目立たなくして、いじめられないようにするか、嫌われないようにするか、そういうことらしい。
第4章では、洗い過ぎに関して書いてある。温水洗浄トイレの弊害、洗い過ぎによって却って「汚くなる」ということが書かれている。身体の表面には様々な菌が常在してくれて、それらが外敵から守ってくれているのだが、それまでもキレイに洗い流してしまうと却って汚くなるということ。過剰な殺菌、除菌、無菌というものが根本的に誤解されており、菌と共生ということが無視されているとのこと。どれもこれも考えさせられる内容であり、是非一読をお勧めする。
我が家も育児に関して衛生面ではほんとうに無頓着である。テーブルから床に落ちたおかずも余程でなければ食べろと言うし、泥よごれでなければ石けんはいらない、お風呂で身体を洗う際にも、手に石けんをつけてそれを身体にこすりつけるだけで、健康てぬぐいは滅多に使わない。テレビではサルモネラ菌やらホンリャラ菌がうようよいるからこの石けんで洗わないと大変、みたいに言っているが、そんなのウソ!とまでは言っていないが、最低限、外から帰ったら手を洗え、程度のことしか言っていない。そんなので良かったのかな?というのを裏付けしてくれるような内容だったので、だから共感した。(汗)
口の中も同じで、うがい薬でうがいをし過ぎると却っておかしくなる。口臭予防としてスーッとする消毒剤などでうがいを頻繁にぐちゅぐちゅをやり過ぎると、それをやらないといられなくなってしまう。そして、いつも口が渇いて、そのうがいをしないと自分の口は臭いのではないかという妄想に追いかけられてしまうことになる。自分の口には自分のにおいがあって、それでいいのである。そのにおいは加齢によって変化する。口の中にはいろいろな菌がうようよいる訳だが、それがみんな仲良くバランスの取れている時は大丈夫。何かの原因でバランスが崩れた時ににおいが出たりするもの。そのバランスが何によって崩されたのか、その原因をさぐってそれを除去すれば多くの口臭は防げる。大抵は口の中の汚れとそれが原因となった歯肉炎、歯槽のう漏、そして虫歯の穴の食べカスの腐ったもの。そして、身体の抵抗力の低下、常時の緊張によるだ液の量の低下などがあげられる。その緊張には「自分は口臭があるのではないか」という不安も入っている。
だれしも自分固有のにおいを持っているもので、それを消す必要はないのである。これが私のにおいと自信をもてばいいのだろうが、そうも出来ない現在の日本の現状そのものが病的なのである。
03.06.14
ずしりと重くたれ込める雨雲から何が悲しいのかシトシトと降りしきる雨。「晴耕雨読」こんな日はおとなしく家で読書がいい。雨の音をBGMにすると不思議とすんなり本の世界へ入り込みやすい。今読んでいる宮部みゆき氏の著作は特に雨が似合うような気がする。ブレイブストーリー、火車、魔術はささやく、平成お徒歩日記、と読んで来て、今は、「R・P・G」を読んでいる。先日はたくさん本を仕入れて来て読む本がたくさんあって、とても幸せな気分。買って来た本は、
「平成お徒歩日記」宮部みゆき 新潮文庫
「火車」宮部みゆき 新潮文庫
「R・P・G」宮部みゆき 集英社文庫
「なぜ日本人は賽銭を投げるのか」新谷尚紀 文春新書
「日本人の清潔がアブナイ」藤田紘一郎 小学館文庫
「凡宰伝」佐野眞一 文春文庫
「鬼と魔で読む日本古代史」武光誠 PHP文庫
「かがやく日本語の悪態」川崎洋 新潮文庫
「なぜ今「武士道」か 日本及び日本人の復活」福田和也 三笠書房
「武士道解題」李登輝 小学館
以上10冊であるが、すでに4冊読了。
本屋を流している時にどんなタイトルを探すかであるが、まず目に付くのは「日本」という文字が入っているかどうか。不思議と「日本」と付くタイトルには目が行ってしまう。「武士道」とか「古代史」とか言うのもマークする。出版社もおそらくそれを意識してタイトルを付けていると思う。上記の10冊のうちその3つのキーワードで6冊、宮部みゆきで3冊、残る1冊は「凡宰伝」は、故小渕恵三元首相の事を記した本である。ふと本棚を見るとやはりどの本にも「日本」「日本人」「日本語」「歴史」「日本史」「ユダヤ」「古代史」「戦国」「武士」「武士道」「縄文」「渡来」「天皇」「神」とかがタイトルについている。歯科に関する専門書も読むが、断然上記のものが多い。
専門書はゲームで言えば「攻略本」「ヒント集」みたいなもの。やはり本質は自然や歴史の中から学ばなければならず、専門書を読む時も、それが正しいかどうか、実践してみるかどうかは、その方法が自然の法則に反していないか、歴史の流れからいって不自然でないかどうかを考える。あまり突飛なものはやはりリスクが高いような気がする。
「わしズム」という小林よしのり氏の雑誌があり創刊号から愛読している。それの6号で興味深いことが書いてあった。新藤洋一氏の書いた体験的農業論「野菜を虫が食う理由」というエッセイ。
「たくさん農薬を使って作る野菜は危険であり、虫も食べない。」とよく言われるが、それには勘違いがあるという。例えば殺虫剤や虫よけ剤を使わなければ、その野菜は虫に食べられて跡形もなく食べ尽くされる。だから化学肥料を使って作った野菜は虫は大好きなのである。有機農法で作った野菜は多少虫がつくことはあっても食い尽くされることはないらしい、だから虫はあまり好きじゃないということになる。
本題はここから。虫に食べられるというのは、それは神がこの植物は「ふさわしくない」と宣告するとき。そしてその判決が死刑ということになり、虫に食べ尽くされるの刑になるということ。虫は死刑執行人になります。
その土地(土質、気候、水など)にはふさわしくない植物、その季節にはふさわしくない(旬ではない)植物が虫食いの死刑になりやすく、そして虫よけ剤や殺虫剤を使わなければならなくなるとのこと。化学肥料を使って養分の偏った畑も、ほっておくと雑草が生えてそれが枯れて養分になり、月日を経て豊かな土地に戻っていくらしい。
「土は自ら肥えようとしている」といいます。
「仮に人間が手を加えて土のバランスを崩したとしても、余程の汚染でない限り、人間が手を引いた瞬間から土は回復をはじめるのです。」
そして、次のようにまとめている。
「我々は、その土(畑)と気候(時期)に合ったものを無理なく作り、それをありがたくいただく。ないものねだりをしないで、そこにあるもの、その季節にあるものを食べる。つまり自然を人間にあわせようとするのでなく、人間が自然に合わせて作物を作って食べる。これが人間にとっても、環境(自然)にとっても一番よい選択だと思えてなりません。」
これを歯科にあてはめて考えてみた場合、たくさんの共通点がありました。ずっと歯医者でいじられまくってきて、常にどこかが痛くて、その都度治療をして来たが、仕事が忙しくなり、歯医者へ行かないようになったらそれらの痛みがなくなってきた、というのもよくあるケース。身体は自ら治ろうとする、人間が手を引いた瞬間から治癒がはじまる、なんてことも言えなくもないのです。もちろんそれが全てではありませんが。
こんな具合に、歯科の専門書を読むよりも、それ以外のことでの知識が歯科に役立つことの方が多いものである。要は、どう本を読むかです。いろいろな分野の本を読むことは、専門書を数々読むよりも楽しく勉強になるものであります。
03.06.01
小学校にあがると、子供は少しずつ親から離れて行くもので、特に男の子は甘えたいという気持ち裏腹、お母さんと一緒にいるところを友達に見られるというのは何か特別な恥ずかしさを感じるものである。幼稚園の頃まで自転車でお母さんの後ろに乗るのも何も抵抗がなかったのが、今では絶対に乗ったりしない。そんなところを友達に見られるくらいなら死んだ方がマシだという。それでいて甘えたい時にはスリスリと寄って来て、そうでない時はこちらからスリスリとすり寄って行くと逃げて行く。チューでもしようものなら泣いて逃げるし、口が付いたところを一生懸命によほど汚いものが付いた時のようにゴシゴシと拭き取ったりしている。
そんな息子と最後にプリクラを撮りたいという母親の願望。
「ねえ真ちゃん、お母さんと一緒にプリクラ撮ろうよ」というお誘いに無下もなく
「やだ」
と、目も合わさずに断わる息子。
そうつれなく断わられると、意地でもプリクラの前に引きずり込もうとする母。
「そんなこと言わないでさぁ、いいじゃない一枚くらい」
「絶対に イ・ヤ・だ!」
結局そんなやり取りをした後、次の日の今日(日曜日)に、朝から2人でプリクラを撮ることを約束した。朝食を済ませ2人でこっそり家から抜け出し、自転車でパルコまで行って撮影してきたようだ。その代償は・・・・。
昨日から拝み倒した上に、今日は帰りに現在読んでいる冒険小説の続編を買わされたと言っていた。
撮影されたプリクラは、私が知っている以前のプリクラとは全然違って、かなりの解像度があり鮮明な写真であった。露出の具合も素晴らしく、写真屋さんで撮ってもらったといっても信じてしまうくらいの出来。その上に手書きでメッセージも書き込める。それが一つ前の機種で安いプリクラで撮影したと言っていたから、最新の機種はもっと凄いのであろう。
あれほどイヤイヤ言っていた息子も、まんざらじゃない顔で帰って来た。本を買ってもらったことだけじゃなく、やはり母親と2人だけの時間を過ごしたというのが良かったのかもしれない。母親を独占出来ることなんて我が家ではあまりないから。息子はいつまでも母親に甘えたいものである。悲しい時、つらい目にあった時、うれしい時、寂しい時、母親の胸に飛び込んで行きたいのが本心であると思う。しかし、それを押しとどめて我慢してしまう何かが芽生えて来る。自立心というか羞恥心というか、親を独占してはいけないと思う気持ち、遠慮、そんなものが複雑に絡み合って複雑な行動を起こす。
その辺の気持ちが判れば、却って扱いは娘よりも楽なのであるが、母親としてはやはり離れて行ってしまう息子を寂しく思うのであろう。これが最後だろうなと言って撮影したプリクラ。小さい時はあれほど撮って撮ってと言っていたのが、今ではこの通りである。あの時にもっと撮っておけばよかったと思う今日この頃。「一緒に撮ろう」と言ってくれているうちが華かもしれない。
そんな真一郎の笑い話。
最近よく本を読んでいる。ハリーポッターシリーズで火が付いたのであるが、毎日好きで読んでいるようである。
「でもお父さん、難しい漢字が結構あるんだよね」
「判らない漢字は飛ばして読んじゃっていいさ」「何となく雰囲気が判ればいい」「どうしてもその漢字の意味が判らない時に調べたらいい」と言っておいた。・・・・・が、
私が読んでいた宮部みゆき氏のブレイブストーリーを真一郎が読んでいる時、
「お父さん、この漢字が最初から何回も出て来るんだけどさぁ」
「判らないのは飛ばしちゃってもいいぞ。・・・・・で、どの漢字だ?」
と見たその漢字は
主人公の名前だった。
「その漢字は飛ばすな!」
03.05.24
立て続けに2人の友人がHPを開設した。一人は大学時代からの同級生であり、もう一人は、私が滋賀に来てから知り合った針灸師のご夫妻。どちらもHP作成ソフトを使って四苦八苦しながら自力で作った力作のHPである。プロの作った洗練されたHPと違って、とても味わいのあるHPに仕上がっている。自分でソフトの使い方を勉強し、自分で考え、自分で行動に移した人である。
どんな作品でも、自分自身を覆っているベールを一枚一枚脱いでいって、裸に近くなればなるほど、読み手としては心が動く。だから書き手としては何とも恥ずかしい限りである。自分の書いた詩を読まれること、作文を読まれること、描いた絵を見られることは、小学生の頃はとても恥ずかしかった記憶がある。HPに書く日記風の文章はそれに近いものがあり、最初は恥ずかしいと思いながら、それを少しでも褒められたりすると、これが病みつきになるほど楽しいものになったりする。私もそんな病魔に襲われた一人である。自分をさらけ出すことによって心の中で解放される部分があるのかもしれない。逆に自分を変に飾り立てて書いた文章は、多くは読み手を不快にさせる。ドヂなことをしでかしたことや、滑稽な出来事の方がウケる。貧乏自慢なら良いが裕福なことを自慢してもそれが想像を超える裕福さでない限り、妬まれるのがおちだ。
想像を超える裕福さと言っても、想像を遥かに越えてしまうとまたこれはこれでピンとこないもので、1億円が宝くじで当たったと聞けば、うらやましいなぁと思うが、30兆円当たったと聞いても、どうもその30兆円という額がピンとこない。想像を越え過ぎちゃっていて、30兆円がどれほどの額なのかよく分からないのである。結局人間は自分の想像出来る範囲の中でしか考えられないものであって、それを越えてしまうとよく分からないのである。
あの星は10万光年という遠いところにあって、今見えている星の光も10万年前にその星から出た光で、10万年前の光を今あなたは見ていることになる、と言われてもなかなか実感が湧かないものである。光のスピードも早過ぎて良く分からない。
科学がどんなに進んでも、人間の考えられることは結局はその範囲であって、それを超えるものについては数値の上では結論は出るのかもしれないが、とてもではないが実感は湧かない。自分の目で見えないものは信じられないし、自分の耳で聞こえないものも信じられない。見えないものをそこにあると言い、聞こえないものを聞こえたというのはイカガワシイと思われがちであるが、実はそうでもなく、人間の感覚というのはその程度であるということである。
最近は、ただでさえ感度が鈍い人間の感覚が、より一層感度が悪くなっているような気がしてならない。私自身もそうであるが、年のせいもあるかもしれないが、感覚が鈍くなった部分が多々ある。
久しぶりにファンタジー小説を読んでいる。宮部みゆき氏著作の「ブレイブストーリー」。分厚いハードカバー上下2冊の大作である。いろいろな魔法、モンスター、地球上にはないような風景の描写が出て来るが、どうも中学高校時代に読んだ時よりも、頭の中で描き出すイメージが貧弱なような気がする。自分の子供達が読んでいる周りでうるさく騒いでいるから、なかなかその世界に入って行けないというのもあるかもしれないが、どうも冷めてしまっている頭がうまく働いてくれないような感じである。
センサーの感度を上げるのが恐いのかもしれない。センサーを鈍くしておけば刺激を受けなくて済む。その方が無難であり、穏便に生きて行ける。そんなことを無意識にやっているのかもしれない。この情報過多の時代に、その情報を取捨選択し、分析し、判断し、行動に移すことは大変な労力である。自分で分析も判断もせずに、自分が信用出来そうな人の意見を自分の判断結果とし、その通りに実践してしまっている人が多い。自分のセンサーを信用しなくなってしまっている。自分のセンサーに自信が持てない。だから優秀な人がそう感じてそう思ったのなら間違いないだろう、と頼ってしまう。そんな感じかもしれない。だから自分で本を読むのなんて面倒となってしまう。イメージを作るのが面倒だからマンガの方が楽となってしまうのかもしれない。短時間で簡単に安く、小さな努力で最大の成果が出るようなことを期待する。本当はそんなものは無いのであるが、あるように見せて売られている商品がなんと多いことか。
いつもここに書く文章は、自分にムチ打つつもりで書いている。自分がそうなりつつあるから、それに喝を入れるために。
自分で学び、自分で考えて、自分で行動するという当たり前のこと。面倒だけどそれしかない。
友人のHPは次の2つです。
むらまつ東洋医学治療院</a></p> <p> <a href="http://homepage3.nifty.com/takimoto-hajime/" target="_blank">ばたばた家族のばたばたはうす</a></p> <p> </p> </blockquote> <hr> <blockquote> <p><font color="#dd0000">03.05.06</font></p> <p> 5月5日は例年通りに町内の氏神さまである平野神社のお祭りに参加出来た。昨年は子供会の役員として町内のお神輿をかつぎ、その他もろもろの仕事をさせていただいたが、今年は平野神社の渡御式に右大臣として参列させてもらった。</p> <div align="center"> <p> <img src="maturi0.jpg" alt="" height="375" width="500" border="0"></p> <p>こんな経験はなかなか出来ないだろうな。有り難いことである。</p> </div> <div align="left"> p></p> <p> 馬に乗ること自体が初めてだった。</p> <p> 「今年の馬は気性が荒いようだから振り落とされないように気をつけなよ」と例年通りの励ましのお言葉をいただき、いつもの事と思いながらもビビりながら馬の背に跨がった。</p> <p> 高い高い。2階の窓ほどではないが、それに近い感じがある。いよいよ歩き出し、その揺れが何とも最初はテンポを取りにくかったが、次第に心地よいリズムとなってくる。みんなが見上げる、声をかけてくれる、何とも気持ちの良いものだ。</p> <p> 足を前に出し、カカトを下げるように乗る。そうするとけっこう楽である。尻もさほど痛いとは思わない。腰にも負担はないみたい。着せて頂いた衣装も、思う程重くはなく、その上、生地が素晴らしいのだろう、外気はかなりの暑さであったが、却って涼しいくらいであった。</p> <p> 午前11時から衣装を着せていただき、12時に出発。平野小学校の学区をまんべんなく、途中休憩を入れながらおよそ<b>4時間歩く。馬に乗っている私たちはいいが、徒歩の人は大変である。汗だくになっている。
通りすがり家々の人がみな出て来てくれて、「ほら、お馬さんが来たよ」と子供さんを抱っこしながら指をさす。中には手を合わせてくれる人もいる。馬上ではへらへらと笑ってはいられない。一番恥ずかしいのは西武デパートの前の休憩。かなりの人が集まっていて、子供は寄ってくる、馬は興奮する、それでも馬を引いてくれる人がうまくやってくれるのだが、なかなかスリリングである。
いつも歩いている道が、まったく違うように見える。塀に囲まれた家の中まで見渡せる。まったく別世界である。何とも気持ちの良いものである。ずっと乗っていたいと思った。
馬は、元競走馬で奇麗な黒のサラブレッド。本当に馬は美しい。触り心地も最高。こんな馬を自由に操れたらと思うが、ただ乗せてもらうだけでも大変だから、自由に操るなんてことは余程練習をして、馬と心を通わせなければならないのだろうと思った。馬は賢い。歩いている時でも何度も乗っている私を確認する。品定めをされているような気分になる。
4時間の巡行が終わって、衣装をはずしてもらい、やっと一息。「思ったほど疲れていないな」と思った。これなら筋肉痛も起きないかな?とも感じた。その足で町内の自治会館へ向かい、そこで「足洗い」。酒を振る舞ってもらうのだ。昼飯抜きだったので。すこぶる腹が減った。寿司をつまんで、ビールをいただいて、気持ち良く談笑した。まだまだ元気だった。一時間ほど過ぎてから家に帰った。
家に帰ってから、ドッと疲れが出て来た。立っているのもしんどい。眠い、横になりたい、休みたい。結局、夜7時ころから9時ころまで寝てしまった。また軽く食事をして、風呂に入って、夜も早めに床につき朝までぐっすり。次の日の朝も下半身が筋肉痛。尻が痛いやら腰が痛いやらはないが、何とも全身の筋肉がぎくしゃくしている。すんなりと歩けない。ぎこちない動作になってしまう。いやはやこれほどまで全身の筋肉を使っていたのかと思い知らされた。普段の運動不足が響いているのだろうが、特に馬に乗って戦って来た訳でもないのに、ただポカポカと乗って来ただけなのに、これほどまで筋肉痛になるとは情けないと思った。昔の武将などはもっと長い距離を行軍しただろうに、そしてその後に戦っただろうに、今の状態では戦うどころではない。これだけでも昔の人は凄かったと思うしかない。
しかし、貴重な良い経験をさせていただいた。こんな経験はもう出来ないだろう。
昔の衣装を着て、馬上の人となり、昔の貴族の経験をすること。頭ではイメージ出来ても、実際にやってみるとまったく違ったものである。何事も経験してみなければ判らないものです。頭の中で判ったつもりになって、大変そうだとか、あんなの楽勝だよ、と思うのは早合点。まずはやってみてからでなければ何とも言えないぞ。
03.04.29
冬の間、ほとんど外出しなかった。
人込みはもちろんのこと、自然の中にも入り込まず、ほとんど冬眠状態。お陰で誰も風邪をひくこともなく過ごせた。
ここ最近やっと暖かくなってきたものの、毎週土曜日曜は雨。出掛けたくて身体がうずうず。やっと来た休日の晴天。みんなで自転車にまたがり出発だぁ!
5台の自転車に7人。これで町中走ったらやっぱり迷惑
サイクリング・サイクリングと言っても格段特別なところへ行く訳ではない。まずはBOOKOFF(古本屋)へ向けてペダルを踏む。そこで思い思いの本を探して、抱えて持って来る。コミックもOK。だってお母さんがコミック買うんだもんな。私はまた肩のこりそうな本を数冊ゲット。
古本屋を後にして、今度は新しい遊具が入ったという「膳所公園(膳所城跡)」へ行った。天気が良かったこともあり、バーベキューをやったり散歩したり、子供を遊ばせたり、たくさんの人がいた。
私たちも散り散りに遊びに広がった。
木陰でマンガを読むもの、鳩を追い回すもの
(朋子が読むのは「闇の末裔」、由香里は「クレしん」なんだかなぁ)
自転車を乗り回すもの
今日も逆光の新緑がきれい、低いアングルから子供を撮影するとなかなかいい
新しい遊具の下には木クズが敷かれていて転んでも安心
帰りは、湖岸をのんびりサイクリング。先日のプチ登山の筋肉痛があったが、何とか完走。明日の筋肉痛が恐い。
それでも、こういう時の子供の笑顔っていいもんだ。
家族みんなで、明るく元気な笑顔でサイクリング。こんなことって当たり前のような気がするのだが、全然当たり前ではないのである。人生の中ではほんの一瞬の出来事。ほんの一瞬の幸せなひととき。行こうと思えばいつでも行けると言ってなかなか行けないもの。行ける時に行っておかないと行けなくなってしまう。今日もすでに朋子が「私は行かない」と言い出した。「面倒だし、どうせ私がチビの面倒見るんでしょ」「家でボーッとしていた方がいい」と言い張るのを無理矢理連れ出したのだった。こうでもしないと家族みんなで行けるなんてことはない。これからも一人消え、二人消えとなっていくことだろう。もしかしたら家族7人でサイクリングなんて、これが最後かもしれない。そういう貴重な一瞬の幸せだったのです。
無理矢理にでも幸せ感を味わう。そうでもしなければ幸せなんて感じられなくなっちゃう。ほんの些細なことでも幸せに感じちゃう。日常の間の晴れの日。一人一人の晴れ舞台。親はいつも観客として拍手を送ってあげよう。そんなことしか出来ないから。
03.04.27
先月、朋子の十三参りは済ませてあったが、まだ写真撮影をしていなかったので、昨日写真屋さんへ行って撮影していただいてきた。私は町内の寄り合いがあったため撮影には一緒に行けなかったが、気を利かせた順子がその撮影の衣装のまま帰って来てくれた。そして家の中でもう一回デジカメなどで撮影した。背景がすっきりした部屋がどこにもないので、撮影後に加工するからどこでもいいや、ということで、取りあえず何枚か撮影してみた。朋子も長時間写真屋さんで撮影してきたことや、着物をかなり長く着ていること、その格好で狭い車の中で辛抱してきたこともあってなかなか上手く撮らせてもらえなかったが、それでも一枚だけ良いカットがあったので、それを加工してみました。
背景はすべて切り取り、コントラストを少し強くしてみました
父親として、娘のこういう姿を見るのは、うれしいような、そしてまだ早いが嫁に行く時のことを想像してしまって何だか複雑な気持ちです。(^_^;)
今日は休みの日にしては珍しく、夫婦で早起きして(早起きと言っても6時半起床)、寝ている子供を置いて市議会選挙を済ませて、その足で食料の買い出しに行きました。帰ってきて私が日曜日恒例のスパゲティを作ってみんなに食べさせました。今朝のスパは、ほうれん草と油揚げと、高菜を昨日濃い味で炊いておいたものをいれて、だし醤油味で味付けして、それに納豆を掛けて食べる和風スパ。好評でした。
その勢いで昨晩の残りのご飯をすべておにぎりにして弁当を作り、出かける準備。それでもなんだかんだで10時頃になってしまいましたが、みんなでお出かけにGO!久しぶりの日曜日の良いお天気だもんね。今日は小さい車にギューギューに乗り込んで信楽方面へドライブに行きました。
まずは以前に亀をみつけたところ。信楽へ行く途中の渓谷です。
今日は天気もよく逆光に新緑が美しかった
その渓谷でしばらく水遊びをして、次は磨崖仏へと山登り。ここから数分のところ、山を15分ほど登ったところにその磨崖仏はあります。一歳の明日香をほとんどダッコしながらの登山は、さすがに足に来ました。(現在筋肉痛)
磨崖仏はけっこう大きくて2階建て家以上の高さがあります。その前で踊る万里子と由香里。いつもこうです。
磨崖仏を後にして、次は以前に教えてもらった信楽の温泉へと行きました。信楽温泉たらおの湯というところ。大津石山経由で行く道で、信楽市内に入る手前で右折して山道に入り10kmほど進んだところにあります。温泉に着いたものの、入浴料が大人1500円、子供700円ということで、その時5000円しか持ち合わせがなかったので温泉はパス。すぐ近くに子供広場があったので、そこの大きな遊具で遊んだり、木陰で昼寝したりで時間を過ごしました。
う~ん、今日も一銭も使わなかったぞ。帰りの車は睡魔との戦い。帰宅してすぐにお昼寝でした。それでも子供は元気。すぐに遊びに出掛けてしまいました。
快気の日曜、早起きして充実した休日でした。
03.04.20
「オケピ!」を見た。東京公演の千秋楽である。実際に青山劇場で観劇出来たらよかったのだが、wowowでの生中継としてほぼ4時間びっちり釘付けで見る事が出来た。テレビを長時間見る事自体が久しぶりのことであったし、先月にwowowを契約(これも懸賞で当たって入会金、デコーダー、アンテナ無料!しかし、現在キャンペーン中で懸賞で当たらなくともこの内容で契約出来たことは後で知った)したのだが、やっとwowowを入れた事を実感出来た内容であった。今度5月31日にはチャゲ&アスカのライブが放映されるので、それも合わせて契約して良かったかなと思っている。
この「オケピ!」という作品。三谷幸喜監督の作品だが、彼のことは「ラジオの時間」という映画で初めて名前を知った。この「ラジオの時間」という作品は、こんなに心の底から笑ったのは久しぶりだ、と思う程笑って楽しめた作品であった。その三谷氏が手掛けた舞台、期待は高かった。
その「ラジオの時間」に出演していたメンバーが数人出ている。アンパンマンの声をあてている戸田恵子さんや布施明さん、今回主役の白井晃さんも素晴らしかった。「ちゅらさん」のエリーの旦那役の小橋君、「まんてん」の学校時代の先生役の小日向さん、気象予報士役だった人(温水洋一さん)も出演していたので、NHK朝ドラファンにとってうれしい限りであった。
テレビでの演技しか知らなかった私には、その出演者の舞台での姿はまったく別人に見えた。演技も当然だが、発声からなにからまったく別物だなと思った。3時間半という長い長い舞台で、膨大なセリフ、たくさんの歌と踊り、それらが絶妙な三谷的テンポの元に観客を引き付けながら時間が過ぎて行く心地よさ。テレビの前にいながら、最後のカーテンコールでは思わず拍手をしてしまいそうになった。実際に観劇していたら間違いなく立ち上がって大きく拍手を送っていたことだろうと思う。
私は舞台というものはほとんど観たことがない。ほんとうに小さかった頃に子供向けの「ケロヨン」の木馬座の劇だとか、「ピーターパン」とか、子供向けの「ピノキオ」とかであるので、一度は劇団四季などの舞台が観てみたいものだと思っていた。今回のこの「オケピ!」を観て、どうも火が付いてしまったように観劇がしたくなってきた。
つい先日、順子が友人のお誘いを受けて劇団四季の「ハムレット」を観て来た。うらやましく思った。今度は「美女と野獣」を公演するという。是非とも今度は朋子と一緒にでも観劇出来たらと思っている。
03.04.06
近頃、3女万里子と末娘明日香の2人が仲良く外で遊べるようになった。ちょっとだけの時間なら目が離せる。家の前の道路は、ほとんど車も入ってこないし、知らない人もいないのでまだ安全である。しかし、ちょっと目を離すとすぐにどこかへ散歩に出かけてしまう。車にぶつかるとかの心配はあまりないが、それでもほんの数分しか目が離せない。
2人が家の外で遊んでいる時は大抵は上の兄姉か親が一緒にいる。ありがたいことに近所の人たちも見守っていてくれる。子供は親だけで育てるのではなく、地域で育てるという意識がいいのかもしれない。先日から始まったNHK朝ドラ「こころ」ではないが、それが下町の良いところでもある。
上の写真のように近所の子供達が集まってはいろいろなことをやっている。この写真は下水の中に何か落ちていたという感じだと思う。
今日は、朝から気持ちの良い天気だった。桜にはまだ早いかと思っていたが、近くの西武デパート前の公園は7~8分ほど咲いているように見えた。これなら三井寺はいけるかな?ということで、みんなで電車に乗って出掛けた。
三井寺駅を降りて、桜が有名な琵琶湖疎水のところは6分咲きといったところか。上の写真では綺麗に見えます。そこから疎水沿いは5分から6分咲き程度で何とかきれいな花見が出来た。そこから三井寺に入り、駐車場では五分六分咲きであったが、三井寺に入ったらまだ咲き始めといった感じであた。結局三井寺の中には入らず、東へ抜けて「卯年生まれにご利益のある神社:三尾神社」(この神社は、手水所も龍の口から水が出るのではなく、うさぎの口から出る。社殿の両脇にいるのも、狛犬ではなく、うさぎちゃんである。)へ。そこは先ほどと同じ6~7分ほど咲いていて綺麗であった。
上の写真が三尾神社であるが、写真右上部分の高いところは三井寺で、そこの桜はまだ咲き始めである。ちょっとの高低差でこれほど咲き方が違うものなのかと感心した。
帰り道は、露天のお店もたくさん出ていたが、子供達の目と鼻を塞ぎ通り過ぎ、長等商店街へ出てから和菓子屋さんで「よもぎ餅」や「柏餅」などをそれぞれ一人ひとつずつ買って食べた。1個80円也。そこから商店街の中の「おもちゃのやかた遊遊館」で子供達を遊ばせてから、浜大津駅より電車に乗った。
家族7人の午後の会計:和菓子6個税込み504円、電車賃大人2人子供3人分1020円=1,524円でした。
花見と団子とオモチャとお散歩で、あ~楽しかった!
03.04.01
もう先月のことになるが、ダイニングテーブルを変えた。下の左の写真が今までのもの。結婚した時に買った6人用のテーブルである。最初は2人では広過ぎると思っていたが、今では小さくなってしまった。その上、四角のテーブルだと真ん中におかずの大皿を置くと、両端のものが箸が届かないため、おかずを2つに分けて置かなくてはいけなくなり何かと不便であった。また、ついついテーブルの隅が物置きになってしまい。結局、実際よりかなり狭い部分で食事をしなければいけなくなっていた。
今回、新しく買った卓袱台(ちゃぶだい)は直径126センチのかなり大きなものである。卓袱台とはいえ、かなり重さがあり、星一徹のように軽々と引っくり返すことは出来ない代物である。写真では左右のテーブル共にそれほど大きくは見えないかもしれないが、実物はかなり大きい。写真は2階への階段から撮影している。卓袱台の天板の厚みも5センチはあり、足は折畳式。しかし、折り畳んで卓袱台を立てておくと、倒れた時に子供が下敷きになると間違いなく押しつぶされてしまいそうなので、まず足を折って立てかけることはないだろう。
卓袱台に変えてよかったこと。卓袱台の上がいつも綺麗であること。隅がないから、必ず食事の前は卓袱台の上のものは全てよける。おかずのお皿を中心に置けばみんなが手が届く。テーブルの高さが低くなったので、部屋が広く見える。
そして何より、みんながこの卓袱台に集まるようになった。宿題をやったり、工作をやったり、本を読んだり、ゲームボーイをやったり、漫画を読んだり、いつも奇麗な卓袱台を利用する。壁際には私の座椅子が鎮座している。ここは一応誰も座れないことになっているのだが、なかなかこれが徹底出来ていない。真一郎はまず座ることはないが、娘たちにはだめなようだ。
こんなに重くしっかりとした卓袱台。相当な値段がするだろうと思われるだろう。よく家具屋さん広告にも出ているが、17万円とか20数万円するのも見かける。でも、うちのは恥ずかしながら1万7000円くらいだったろうか。届くまでに1か月半ほど掛かったが、かなりの安さで手に入れられた。特別なルートと言う訳でもなく、ある大手の通販である。
買ったその日にこの卓袱台は子供達の洗礼を受けた。マジックで落書きされたのだ。この写真を撮影した数時間後のことである。油性マジックで書かれては落ちない。塗装が落ちるのを覚悟でやればいいかもしれないが、買ったその日にそれもやりたくない。
まずはミカンの皮でやってみて(ほとんど効果なし)、レモンの皮でやってみて(これは少し効果あり)、油でこすったり(まったくダメ)、ある情報を元にポテトチップスでこすってみた。これは意外とよく落ちる、のだが、綺麗に塗装も落ちた。こすった部分だけ白くなってしまった。結局何もやらないのが一番目立たなくていいかも、ということでマジックは今でも残っている。
調子づいて今度は朋子を描いてみた
03.03.30
近頃、公私ともに忙しくなかなか休みの日といっても子供達を遊びに連れて行く事も出来なかった。やっと少し時間が取れたので、子供達を公園に連れて行った。左の写真は矢橋の帰帆島公園、そして右は大津港の脇のモニュメントである。子供が5人いるとほっといてもみんなで遊んでくれるので親は楽である。文庫本を持って行ってひだまりで読書なんてことも少しは可能な場合もある。遊びに行くのは近くの公園が一番。お金も掛からず、すぐに帰れる。渋滞もなければ食費も掛からない。待ち時間もないし、入場料もいらない。思う存分遊べる。遊園地となると家族でいくと2~3万円は掛かってしまうし、ぐったりして帰る事になる。それでもホントたまにはUSJやらTDLなんかへ連れて行ってやりたいと思わないではないが。
3月27日は長女朋子の十三参りへ行って来た。十三参りというのは、生まれて初めて自分の干支が廻って来る歳(数え歳で十三歳)に行なわれる。小学校5年生が終わった春休みに行く事になる。旧暦の3月13日(現在の暦では4月13日頃)に行く。秋に行く人もいるようである。どこに行くかというと、虚空蔵菩薩さまに知恵と福徳と健康を授けてもらうということである。こちらでは京都嵯峨野嵐山にある法輪寺が有名である。この法輪寺が200年ほど前に十三参りを初めてやったという元祖とも聞く。確かにうちが行った時には、横浜、山形からも来られていた。
参拝を済ませた後は後ろを振り返ってはいけないらしい。朋子もそれを守り、参拝が終わって山を下って嵐山の渡月橋を渡り終えるまで頑張って振り向かなかった。ちなみに妻の順子は振り返ってしまったらしい。振り返ってしまうと授かった知恵やらを返してしまうということだ。ふむふむ、なるほど。みんなで朋子を振り向かせようと「朋ちゃん!100円玉が落ちているよ」「あっ!何だあれは」とか言ってみたが、何とか振り向かずに頑張れたようだ。
数え歳13歳は人生最初の厄年であると、法輪寺のお坊さんがおっしゃっていた。私は今年前厄、朋子も厄年。気をつけねばな。
上の写真、左から渡月橋、親子記念写真、桜と法輪寺。
先日、パソコン用のタブレットを買って来た。以前も持っていたがUSB接続ではないため、現在のパソコンでは使えず、あらためてUSBタイプのものを買って来た。それに付属のペイントソフト(procreate painter classic)がよく出来ていて早速そのソフトを使って末娘の明日香のスケッチを書いてみた。鉛筆モードで下書きをして、それに水彩で色づけした。ペンのタッチも以前のものより格段によくなっている。まだまだ自分の腕がないから満足出来る作品は出来ないが、少しずつ慣れていって、もうちょっとマシな作品が描ける様になりたい。
1時間ほどで簡単に描けました
03.02.09
今日は上の3人(朋子、真一郎、由香里)を連れて大津歴史博物館へ行った。京阪石場駅より4つ目の駅別所駅で下車し、大津市役所前を通り、少し坂を登ったところにある。東側には三井寺があり、博物館の直下は大津商業高校のグラウンドが広がり、高台にある博物館からは琵琶湖が望める。
手前茶色の部分は高校のグラウンド。朋子の頭上に琵琶湖、右手の部分には近江富士が見える
ちょうどこの日は、児童絵画コンクールの入選作品の発表も重なり、家族連れが多かった。常設展示の方は人は少なかったのでゆっくりと見ることが出来た。
この歴史博物館、なかなかよく出来ていて見応えがあった。大津京、膳所六万石、比叡とその山麓、近江八景、大津百町などそれぞれにテーマ別のコーナーがあり、当時の町並みの模型や復元イラストなどで分かりやすく説明してある。その他テーマ別とは他に年代別に大津の歴史が追えるコーナーも充実していて見ていて飽きない。今回は子供と一緒だったので映像コーナーはゆっくりと見られなかった。また次も行ってみたいと思っている。
もう一度行ってみようと思う理由にはもう一つあり、2月27日から3月30日まで「大津事件」の企画があるからだ。この大津事件とは、ご存じの方も多いと思う。明治24年5月11日に来日中のロシア皇太子ニコライが琵琶湖遊覧を終えて、次は人力車で京都まで向かう途中、大津京町通りのところで、警備中の津田三蔵が突如サーベルを抜いて斬りつけた。当時の大国ロシアの皇太子に斬りつけてしまったものだから、日本としては震え上がった。犯人津田を死刑にしようとするが、当時の大審院長は譲らず無期徒刑とした。
今回はまた新しい資料が発見されたということで、今までの資料も含めて公開される。これは見逃す訳にはいかない。
帰りはそこから三井寺門前を通り、元大津城にあたる浜大津まで歩いた。浜大津で食事をして、近くのアーカスという娯楽施設の中の本屋で物色し、いくつか仕入れてから帰路についた。ちょうどアーカスの南対面に公民館がある。かなり古い建物だなと思っていたが、よくよく見ると小さな看板があった。
なんと、この建物は日本で最初の公民館だったのでした。
もうひとつ、歴史博物館での発見。
うちの子供達が通う大津市立平野小学校のお話。
青い目の人形が昭和2年にアメリカから送られてきた。これは日米親善大使として約12000体(滋賀県内135体)がアメリカから贈られ、日本はお返しに58体の人形を贈った。しかし、戦争が始まるとこの人形は「敵性人形」として処分されるという事件が各地でおこり、現在は国内に195体、滋賀県内には2体を残すのみとなっている。その2体のうち1体が昭和45年校舎改築の際に家庭科室の床の間の奥の壁に塞がれたところから出て来たという。その人形とパスポートが飾られてあった。子供達は自分達の学校にはそんな凄いものがあったと、それだけで今日の博物館が有意義なものであったと思う。
03.02.05
いたずら
「徒」と書いていたずらと読む。広辞苑によると
1、用事がないこと
2、無益、無用、役に立たぬこと
3、むなしいさま
子供がやる「いたずら」は、「悪戯」と書く。これも広辞苑によると、無益で悪い戯れ、悪ふざけ、らしい。
しかし、小さい子供のやる「いたずら」は決して無益ではないと思うのだが。子供にとってはまことに有益な勉強である。大人にとってはまことに困ったものではあるが。
この「徒」という漢字は、「と」と読むが、「生徒」の徒、「徒然(つれづれ)」の徒、「徒歩」の徒、と、それぞれ全然違う意味のようなものに見える。
「徒」の意味としては漢語辞典(漢語林)を調べてみると、
1、歩き
2、むなしい、からっぽ、何も持たない
3、いたずらに。むなしく。無駄に。
4、助字:ただ(唯)
5、馬に乗らない兵卒。雑兵。
6、力仕事に従事する労働者
7、囚人
8、しもべ、召し使い
9、門人、弟子。
10、仲間、人々、衆人
さて、「生徒」の徒は1から10までのうち、どの意味で使われているのでしょうか?
考えると面白いものである。元々の意味は、道を行くとき乗物に乗らず土を踏んで歩く。という意味らしい。
ちなみに「生徒」とは、学校で教育を受ける者。主に中等学校(中学、高校)で教育を受ける者である。小学校は児童、大学は学生である。
最近、一番下の明日香のいたずらがひどい。ちょっと静かだなと思うと大抵とんでもないことをやっている。泣いていたり、暴れていたりする時の方がまだ安心。静かな時は要注意である。こそこそ隠れて悪戯をしている。
その現場に、そぉ~っと近付いて
「こらっー」とやると面白い。
手に持っているものをポイと放り投げて、スタコラさっさと逃げて行く。その勢いは疾風の如くである。そして、安全なところまで逃げるとこっちを振り向いて、心配そうな顔でみつめているが、そのうちニコッと笑ってこっちの反応を見る。こっちが笑わずに怒った顔をしていると、うつむいてしまう。
もっともっとにらみ付けると、うつむいた顔を時々挙げながらとこっちチラチラと伺う。それでもこちらから近付いて行ってにらみつけると、そこで観念するのか、泣き出す。
そして、ひらすら「ごめんちゃい」の大安売りを始める。次には、いろいろと世話をやき始める。スリッパを持って来てくれたり、落ちているものを拾って手渡してくれたり。
こっちもこれが楽しくて、いろいろなバリエーションを楽しんでいる。こうやったらどう反応するか。この前はこうやってみたら、こんなことしたとか、お互い夫婦で情報を提供し合っているのである。
しかし、遊ばれているのは大人の方かもしれないなぁ。これは大変な育児の中での、神様からのボーナスみたいなご褒美かもしれない。
03.02.01 義父が逝く
去年12月20日。
その日、小学校は終業式で、早めに帰宅した朋子に私は静かに告げた。
「おじいちゃんが死んじゃった。すぐに着替えておじいちゃんちに行きなさい」
朋子は終業式ということで両手に大荷物を持っていたが、それが「ズタン」と床に落ちた。
2か月前より癌で入院していた私の義父は、12月20日午前9時27分に幽明境を異にした。末期癌であったので、いつかはこの日が来ることは覚悟していたが、いざとなるとやはり突然の出来事であった。前日夜11時過ぎに、容態が急変したとの事で付き添っていた義母からの連絡で、寝ている子供達を置き、一番下の明日香だけを連れて順子と病院へと車を急がせた。
取りあえずすぐにどうこうなりそうもないということで、明日も仕事がある私を気遣って、また家にいる子供達も心配なため、順子と明日香と義母を病院に残し、私一人で再び自宅へと帰ってきた。寝間着に着替えることなく、携帯電話を枕元に置き、寝付けぬ夜を冷たい布団で過ごした。
朝再び病院へと行くと、義父は一層弱っていた。看護婦さんが義母に耳打ちした。「おそらくあと少しでしょう。延命処置は致しませんので、こちらの薬は外します」と言って、ひとつの点滴を外した。義母はがっくりと肩を落とした。
義母は下顎だけでかろうじて息をする夫の前髪をそっと撫でて
「もう、しまいか・・・」と呟いた。
「今まで頑張ってきたのになぁ、もうしまいにするんか」と何度も頭を撫でた。気丈な義母が見せる涙だった。
その日、朝からあまり具合が良くなかった長男真一郎は、学校を休んでいて、私と共に病院にいた。
真一郎は一番おじいちゃんにかわいがってもらった孫である。
義父が入院中も、学校から帰って来ると一人で自転車をこいで病院へせっせとお見舞いに通った。
「真一郎はやさしい子だ」といつも義父は言っていた。その大好きなおじいちゃんが今自分の目の前で絶え入りそうになっている。
「おじいちゃん、死んじゃうの?」
「あぁ」
としか言えなかった。そして真一郎の肩に置いた手にぐっと力を込めた。
いよいよ、呼吸が弱くなり、下顎でしゃくり上げるような息づかいになった。口の先数センチの空気を必死にすくいあげるような動作をする。下顎がカクッと動き、次の動作までの間隔が少しずつ長くなる。「止まるなよ」
「もう1回」
「もう1回」
「もう1回」・・・・・
そして、そのもう1回が来なかった時、義父は帰らなくなった。
真一郎の身体が硬直したのが判った。目にはたくさんの涙を溜めていた。しばらく祖父を見つめた後、部屋の隅に行き静かに泣いていた。
私も涙が自然と溢れて来た。どんどんどんどんと溢れて来た。誰もいなかったら大声で泣いてしまったに違いない。
医師が来てくれた。脈を取り、聴診器で確認し、瞳孔を調べて、「9時27分、ご臨終です」と告げた。
それからしばらく呆然としていたが、現実を見るとやらなければならないことが山積みである。葬儀の手続き、各種連絡、目まぐるしい日々が始まった。悲しんでいる暇がないくらい。
群馬からこちら大津へ引っ越して来て丸5年が過ぎたが、今回つくずく帰って来てあげて良かったと思った。
義父にとってこの5年間は5人の孫に囲まれ、賑やかに過ごし、最後も義母や順子と私と真一郎と親戚の方々に囲まれながらの事であった。私も最後の息を吐くところも看取る事が出来たこと、うれしく思っている。
義母にもしみじみと
「あんたらが群馬から帰って来てくれて本当にうれしかったんや、いつもそうおじいさんと話していたんや」
と言ってくれたことがうれしかった。
これでこちらには引っ越してこないで、順子も親の死に目に会えなかったら、そして義父も寂しく亡くなるようなことがあったなら、もう悔いても悔やみきれない思いをしたと思う。
親孝行というものは、やってもやっても十分な感じがしない。生きていてくれる時はそうは思わないのだが、いざ死んでしまうと、もっともっとあれしておけば良かった、これもやってあげられれば良かったと思う事ばかりだ。結局今はお線香しかあげられないのが悔しい。
今回私は初めて人が死ぬ瞬間を見た。最後の息を吐いて次の息が来ない、もう一度息をして!このまま止まらないで、という気持ちだった。眠る様に静かに息を引き取り、ろうそくの火が消えるような感じ。あの死を見ると、死ぬ事は決して恐いことではないというのが判る。「先に行っててね」、という感じで考えられる。そういう死ばかりではないだろうが、「死に様」というのも「生き様」と同様に大切なものだなと思った。
真一郎はその後も義父の遺体を怖がることがなかった。
お通夜の時も親戚のものが寝てしまっても一人で夜中から明け方まで起きていて、お線香とろうそくを絶やさなかった。遺体の傍で夜中一人で暗い部屋で。
「恐くない?」、と聞くと
「だって、おじいちゃんと一緒だもん」と言った。
義父が亡くなってからというもの、不思議と義父を今までより身近に感じられる様になった。我が家にも遺影の小さいのをもらって来て食事をする部屋に置いてある。いつでも笑顔で見守っていてくれる義父がとても頼もしく感じられ、安心感を与えてくれる。
人の死に接すること、人間の生まれてくることに接することは、いろいろと考えさせられ生き方を示してくれるものがある。今の時代、「死」というものがあまりに身近でなくなっているような気がする。病院で死んでしまって、あとは葬儀屋さんがすべてやってくれる。核家族だから実際に家族が死ぬというのがあまりないから「死」を身体で感じられないのだろう。私もこの歳になってようやくこういうことなのかなと判った程度であって、もっともっと早く「生」と「死」を身近に感じるべきだったのかもしれない。自分の子供の「生」、そして今回の義父の「死」に接して、また考えるところがあった。
順子にも話していたのだが、人が生まれて来る「出産」と、人が死ぬ「臨終」とは似ているのである。うまく言えないのであるが、似ているのである。
何がどう似ているか。まず、産気づいてもうすぐ生まれるという時に待合室で待っている時の気分と、もうすぐ息を引き取るという時に病室の傍らで控えている時の感覚がそっくりなのである。
夜寝ている時に、今夜こそ産気づいて妻を病院に運ぶことになるかも、と思っている時の気分と、今回順子と義母を病院に残し、一人家に帰って寝た時、その時の布団の中で眠れぬ感覚が、そっくりなのである。
いざ目の前で生まれた時(立ち会い出産を経験した時)の大粒の涙と質と、息を引き取った時に溢れ出る涙の質がそっくりなのである。
その自然の現象は凄いシステムで動いている。凄いプログラムのもとで廻っているんだなと。こんなことを立ち会い出産記の時に書いたと思うが、それと同じことが今回も実感した。
そして、人間は病気で死ぬんじゃない、寿命で死ぬのだ
ということも感じた。
この病気によって、ここがこう悪くなって、これを引き起こし、そしてこっちを圧迫してこうなった、というようなものじゃなく、寿命で死ぬんだ。今回の臨終で直感的にそう思った。
義母は、義父を棺の中へ入ってもらう時も、
「こんなところへ入ってもうたら、もうしまいやな」と呟いた。
焼き場でお骨になった後、それを見つめながら
「こんなんになってもうたら、もうしまいやな」と呟いた。
息を引き取ってからも、もしかしたら息を吹き返してというのを0.01%でも、もっと少ない確率でも期待していたのかもしれないと思った。
「おじいちゃん」と「おばあちゃん」。でもこの2人はまぎれもなく愛し合っていたカップルであり、年齢など関係ない、離れることなくいつも一緒に生きて来た恋人同士だったのである。その2人の、「死」という理由での別れ。自分達に置き換えて想像してみても、どれほどその悲しみが深いか、、、。
「もうしまいか?」
この言葉が今でも私の耳から離れない。
義父は立派な経営者であり、立派な歯科技工士であり、立派な紳士であり、立派な大和魂を持っていた人であったと思う。人の悪口は決して口にせず、常に向上心があり、知識欲があり、貪ることはせず、質実剛健に生きていた。
常に勉強していた。いつも背筋を伸ばして座っていた。いつも皆の前では笑顔であった。いつもお洒落であった。いつも広い視野で世の中を物事を見ていた。常に疑問を持ち、それを自分で探究し解決していった。
作業場は見事なくらい整然と片付いていた。「机の上の状態を見れば、仕上がりの商品の状態が想像出来る」と言っていた。
使う道具の手入れも完璧であった。いつもメモを取りながら本を読んでいた。手間を惜しまなかった。
本物が好きだった。新しいものが好きだった。筋の通らないことを嫌った。
そんな義父が亡くなる3日前まで書いていた日記がある。亡くなる5日前の文章をここに記す。
12月15日(日) 入院46日 9F(ホスピスの階に来てから)13日
5時30分に目を覚ます。トイレに行き洗面を済ませ一度床で休み6時30分頃より窓側にて瞑想。
日の出6時56分だが8分後山の上に日の出である。
今朝は晴れているので、全影の太陽を拝むことができた。
今日また新しい朝を祝うことができました。ありがとうございます。
2つの光が左右に、小生の前面にはその後ろの光が当たる。有り難い事である。
本当に今日も生きて自然と共に生活出来る喜びを実感した。
今日もまた皆さんにお世話になります。
PM2時半過ぎ順子が明日香と見舞いにきた。
3時前に胃の調子が悪くなり寝ていたがトイレに行く。その後、胃がおかしくなり吐いた。
これが亡くなる5日前の文章である。これだけでもその「生き様」が現れている。
今でも尊敬する義父。冥福を祈る。
03.01.31
今夜、本当に久しぶりにテレビ番組を見た。いや、こう言うと嘘になるなぁ、毎朝NHKのドラマ「まんてん」を見ているから。この番組以外の番組を久しぶりに見た。これまたNHKのこっちは教育テレビ。夜10時から放送していた「ドキュメント地球時間」という番組である。まずタイトルにそそられた。「驚異の古代テクノロジー:第一回 精密機械」というタイトルだ。
以前より私は古代は現代よりももっと優れた文明があったと思っている輩であるが、古代の精密機械、古代のコンピューターというタイトルを付けられては見ない訳にはいかない。「もしかして、古代のマイクロチップでも発見されたのか」「いや、超能力をつかった伝送装置みたいなものか」など妄想は尽きないのであるが、今回発見されたのは、100年前に地中海の底から発見されていた不思議な歯車の塊が、どんなものであったのかが判明した、というものだった。コンピュータープログラムの基礎が詰め込まれた「天体運動測定器」と紹介されていたが、これがまた想像を絶する代物であった。2000年以上前にこれほど精密な歯車を作り、組み合わせて、天体の動き(太陽、月、それぞれの惑星等)をシュミレーションし、暦というものをその歯車の中に再現している。その時々の惑星の位置まで的確に表現する。1年を12等分し、4年ごとのサイクルまで計算しているという。何とも恐るべし。
今の現代人で、1から天体を観測して暦を作ることが出来る人がいるであろうか。やろうと思う人もいないだろうな。目の前にはカレンダーがあって、手元には携帯電話の時計があるのだから。夜、星空を見上げておおまかな星座を言える人はけっこういるかもしれない。今ならオリオン座の三ツ星や牡牛座のプレアデス星団(スバル星団:M45)くらいは知っている人も多いだろう。それを元にして南の方角が見当付き、そこからカシオペアや北斗七星から北極星を探してしまう人もいることであろう。今、どこにどんな惑星が見えるのか知っている人もいるだろうし、知らなくても金星(宵の明星:一番星)くらいは判るだろうし、木星、土星も見当がつく。しかし、そこから暦を作り、惑星がどのように太陽の周りを廻り、現在どの位置にあるか、そしてそれを歯車を使って一発で表現出来る様にしろ、と言われても無理な話である。パソコンが出来る人ならその手のソフトで再現出来るが、、、、そう、パソコンソフトなんだ。この歯車の塊は。
星は本当に見えなくなった。琵琶湖岸に行けば大きな夜空は広がっている。しかし、広い真っ暗な空だけであって、星があまりよく見えない。環境が整備されていて、どこも水銀灯だらけ。だからいいところ3等星くらいまでしか見えない。そんな嘆いていないで山へ登ればいいのだが、なかなかそれもねぇ。今は寒いし。ブルブル。星降る夜というのはここ20年くらい出会っていないなぁ。淋しいかな。うちの朋子と真一郎は与那国島で星降る夜を味わった。星がいっぱいで気持ち悪い、とか、たくさん見え過ぎて恐いというようなことを言っていた気がする。そうそう、その感じ。綺麗!と思う前に、恐いとか気持ち悪いとか、私もそう思った。星座なんて判らない。どれが1等星なのか2等星なのか、全部が明るい。だから星座が判らない。それでも見ているうちに見えて来る。
毎朝見ているドラマ「まんてん」もよく空を見上げる。主人公は宇宙を目指す気象予報士だから。絶対この目で青か地球をみちょっと、と燃えている。う~ん、気持ちは良く分かる。私が生きている間に、20万円くらいでちょっとした宇宙体験が出来る様にならないかなと思っているが、どうやら今の調子だと無理のようだ。せめて自分の子供の世代にはと思うが。それが無理なら政治を動かす人、経済を動かしている人には見に行ってもらいたいものだ。
私は今までに2回だけ飛行機に乗ったことがある。ハワイと長崎に行った時だ。その時飛行機の窓から見える地球に目が釘付けになった。子供が目を輝かせながら電車の窓から外を見る様に、たとえ見えるものが雲と海だけであってもそれが面白くて、不思議でたまらなかった。これが400kmの上空、いわゆる宇宙から見ると、青き地球に見えるんだよなぁと、気分は宇宙飛行士の気分だった記憶がある。いつまでも自然を見てドキドキしていたい。いろいろなものを見て、考えて、発見して、勉強して、手で触ってみたい。だって、ほんの短い一生、あっと言う間に終わってしまうぞぅ。
しかし、ここ大津の上空はどうしてこんなに飛行機が飛んでいるのだろう。かなり上空だからうるさい訳ではないが、夜、空を見上げてみて、飛行機が必ず2機から3機は飛んでいる。多い時は西に2機、東に3機、北に1機、南に2機見えたこともあった。あの飛行機すべてに200~300名ほどのお客が乗っているとすると、何だか不思議。その200名が整列して椅子に座って空を飛んでいることを考えると何だかおかしい。
03.01.24
今日は朋子の学校でのスキー教室であった。朝5時半に起きて弁当を作って、寝起きの悪い朋子を起こして朝ご飯を食べさせ家から出す。弁当はほとんど前の晩に仕込んでおいたので朝は楽だった。と順子が言っていた。私は目は覚めたものの起きられず寝ていた。それでもゴタゴタとした朝の音が気になって何度も目が覚めた。それでも今日は眠いことはなかった。
睡眠というのは不思議なもので、睡眠時間と昼間の眠たさはあまり比例しないことが多い。特に今日はそうであったのだが、まず夜の12時を境にして、それより少しでも早く寝ると、いくら夜中に目が覚めても朝はすっきりしていることが多い。極端な話、12時5分前に寝て、夜中の3時に起きても、何とかなるものだ。しかし、12時を過ぎてしまうとこれがまた不思議と朝がツラい。これも極端な話、夜中の2時に寝ると朝8時に起きると辛い。同じ6時間睡眠でも11時に寝て朝5時に目覚めた方がすっきりと起きられる。夜の10時から深夜2時までの間のどこか3時間を寝れば十分とも聞いたことがある。これが明け方4時から7時までだと死んだような目で起きなくてはならない。不思議である。結局昨夜は11時30分に床につき、夜中3時に目が覚めて、それから一時間おきに目が覚めてうつらうつらしていたが、朝は結構すっきりしていた。やはり疲れている時は12時前に出来たら夜10時頃に寝るのがベストかもしれない。
年齢が進むに連れて、朝早く目が覚めてしまうことしばしば。日曜日なんか特に早く目が覚めてしまう。長く寝られない。高校時代なんて24時間平気で寝られたのが、今はまず6時間ほどで目が覚めてしまう。長く寝ると言うのも体力がいるのかもしれない。
寝付きはもともと良くない。布団に入ってからいろいろと考えてしまったり、妄想にかられていることが多い。それもまた楽しいのだが、時には心配、不安や恐怖で眠れないこともある。未だにそうであるからつらいものがある。歯科医という仕事をやっている限り、こういった不安からは逃れられそうもない。夜布団の中で悩むのも歯科医の仕事のうちと考えている。
新しいHPは、完成するまで登録はしないと書いたが、結局yahooに登録申請して、昨日めでたく登録してもらった。昨日は一日で50のアクセスがあった。これであとはgoogleに登録されれば完了かな。他にインフォシークとか他どこだったかいくつか登録してみた。歴史が好きな人にとっては面白いと思うのだが、あまり興味の無い人も多いだろうな。取りあえず、今はこれが楽しく毎日翻訳しては更新しています。興味のある人はじっくり読んでみてください。
03.01.19
昨日の土曜日はいつものように朋子と食料の買い出しに出かけた。以前に行った商店街へ寒風の吹く中、自転車をこいだ。私たちが大津へ引っ越して来た頃は、何とも淋しい商店街であった。日曜日はほとんどのお店がシャッターを下ろし、人影もほとんどなく閑散としていた。その後、商店街は復活をかけていろいろと頑張ってきた。現在もそれは続き、やっと最近では今までのことが実を結びかけている。私たちが行った土曜日は、無料で陶芸教室をやっていたり、家族連れを相手に料理教室みたいなものをやっていたり。それぞれのお店もそれぞれの方法で頑張っている。
商店街は大きく分けて3つ。丸屋町商店街、菱屋町商店街、そして長等商店街である。上の写真は丸屋町商店街と菱屋町商店街の間にある道路で、この道路には今でも路面電車が走ります。大津の浜大津と京都を結ぶ京阪京津線です。
今日は何はともあれ「お茶」が欲しかった。それもスーパーで売っているのではなく、お茶屋さんのお茶が。江戸時代(多分)からやっているというお茶屋さんへ行き、特別高いお茶じゃないけれど、お茶を手に入れた。100グラムで600円の品である。普通の煎茶。やっぱり安くてもお茶屋さんのは薫りが立って美味しい。
次は魚屋さんで「しじみ」を買った。琵琶湖で採れたものだ。グラム120円也。200グラム買う。他にも小魚やら、それを炊いたものやら売っている。
そして、次は揚げ物。これも揚げ物だけを売っているお店がある。天ぷらやフライものの揚げたてを買うことが出来る。
それとお漬け物も買っておこう。これも老舗のが旨い。いろいろと説明を受けているとみんな欲しくなってしまうが、朋子の好きな奈良漬けとみんなの好きな白菜漬け、それとカブを麹で甘く漬けたものを買った。
あちこち寄って、足りないものは最後に小さなスーパーで買った。そして、その日のおやつは大判焼き。これも帰り際にそれだけを長く売っている名物おじさんのところで買った。
いろいろと廻ってたくさんのお店でたくさんの品物を買って、とっても満足感がある。ひとつのスーパーですべてが揃えられれば、それはそれで便利かもしれないが、不思議と買物した後の疲れというのは、スーパーの方が大きいのはなぜだろう。車で行くのでなく、寒い中自転車で廻ったにも関わらず、何か爽快感があるのが面白い。
この商店街までいく道筋は、自宅から1本道であるが、その道は旧東海道であって、その街道沿いにはまだまだ古い町並みが見られる。まだ下の写真のような家がチラホラとあり、とても情緒がある。
さて、これまでは昨日の話であるが、今朝(日曜日)は久しぶりに真一郎と2人で散歩に出かけた。昨年は冬の日曜日の朝は散歩に出かけていたが、この冬はまだ一度も行っていなかった。出発は8時と少し遅くなったが、電車に乗って京阪石場駅から粟津駅まで、そしてそこから歩いて自宅まで帰って来た。粟津の晴嵐(せいらん)で朝ご飯を食べた。冬の朝の散歩恒例の肉まんである。ここ晴嵐は近江八景のひとつでもあり、眺めの良いところ。琵琶湖から瀬田川へ変わるところである。遠くには近江大橋や膳所城趾が見える。
中心のシルエットは大津プリンスホテル、その根元の木が茂っているのが膳所城跡、その右に近江大橋。
そこから少し北上するとサンシャインビーチという名前の付いた場所があり、「ゆりかもめ」が羽を休めている。そこへ真一郎が駆け付けて行って、ゆりかもめを吹き飛ばして行く。そんな風景が上の写真。そこからもう少し北上すると、水辺が砂利から岩に変わる。
遠くには釣り船が見える。日曜日はいつも小さな釣り船が琵琶湖にたくさん浮かぶ。
今朝は少し湖面にガスがあり、遠くまで霞んでいた。それがまた何とも美しく、ちょっと雰囲気のあるところでシャッターをきってみた。遠くにシルエットに映るは比叡山である。
そんなこんなでおよそ2時間ほど歩いて帰って来た。冬の散歩は気持ちがいい。汗もかかず、喉も乾かず、身体は暖まり、すこぶる調子が良い。夏はすぐにシャワー浴びたり、冷たいものをガブガブ飲んだりしなければならないが、冬は散歩はまことによろしい。鈍っている身体をほぐすためにもまた冬の朝は散歩に行こう。
03.01.16
今日は木曜日で診療は午前中のみ。仕事を終えて順子と下の子供2人を連れて「TSUTAYA」さんへレンタルビデオの返却及び新規に借りてくる。目的は「アンパンマン」のビデオである。下の2人の子供が楽しみにしているものである。長女もアンパンマン、長男はウルトラマン、次女はクレしんで育ててもらったようなものかもしれない。そして4、5番目もアンパンマンとなっている。しかしまぁ毎回主人公のヒーローの首が飛び、頭を食べられるアニメも珍しいものだと思う。
夕方、朋子と真一郎を連れて大津駅前のアルプラザへ子供用の靴を買いに行く。朋子は気に入ったものがなかったらしく買うのをあきらめ、真一郎はサイズが合わない。長さは合うのだが横幅が合わないらしい。私と同じダンビロ足。Eが4つか5つないときついみたいであり、探すのに苦労する。こんなところが親と似るもので、私も足の横幅には苦労させられる。通販生活で売っているヤコフォームの靴も履いてみた。これは結構気に入ってかなり長く履いたと思う。靴底が擦れてしまって、修理までしたのだけど、すり減った部分を補ったのだが、その補った材料が少し堅いプラスティックみたいなもので、歩くとカコンカコンと音がする。タップダンスをする靴みたいなので、それ以来あまり履く頻度が少なくなり、現在ではまったく履いていない。それと減った部分を補ったら、どうも歩き方がぎこちなくなったような気がした。何だか足が疲れるような、何だか変な感じで、それもあって履かなくなったのかもしれない。靴や眼鏡や身体に身に付けるものはなかなか難しいものである。私はあまり身体にオプションを付けるのは好きではなくて、腕時計もダメ、指輪もダメ、もちろんピアスなんかもしていない。何も付けないのが良いというか、付けるとそればかり気になってしまって、外したくて仕方がない。特に金属アレルギー類もないのだが。眼鏡も仕事中と車の運転の時と、映画を見る時くらいだし。
さて、これから晩ご飯の用意だ。今夜は、おでんと餃子スープ、それと納豆。お漬け物も出そうか。寒い日はやっぱりおでんだね。ここのところよく食べるのが、キャベツの千切り。こんなものの売れ行きが非常にいい。ドレッシングを掛けたただのキャベツの千切りなのだが、1歳の明日香もバリバリと食べる。犬のスズまで大好物と来ているから、まさしく家族の好物である。キュウリもトマトもなし。サラダじゃない、やっぱりキャベツの千切りなんだよな。
焼き鳥屋に行くと、メニューに「キャベツ(塩)」「キャベツ(タレ)」というのがあり、この「キャベツ(塩)」が好物である。ただキャベツがグサッと大胆に切ってあり(1枚1枚剥いていない。ただ縦にザクッと全体の10分の1くらいに切ってあるだけ)塩が振りかけてある。それを自分でバリッとちぎっては食べ、ちぎっては食べするのである。これがまた病み付きになるほど旨いんだなぁ。
学生時代にサントリーホワイトとかの安い酒(それでも贅沢品だが)を買って来て、つまみを買う金まで回らなくて、キャベツをむしり取りながら食べた記憶があり、何とも懐かしさがいろいろと味付けをしてくれて美味しく感じるところもあると思う。学生時代は今月あと仕送りまで1週間あるのに残金が100円という時があって、その時は一人で近くの西友まで歩いていって、キャベツを1個買って来たということがあった。そのキャベツ1個でキャベツ炒め、キャベツの千切り、ゆでキャベツのサラダ、みそ汁の具、即席ラーメンの具などいろいろ出来るから何とか少しずつ食べて1週間乗り切った。モヤシも安いのだが日持ちがしない。やっぱりキャベツがいい。それでも最近はキャベツの芯の部分が美味しくない。苦い。以前はもっと甘かったのになぁ。生でバリッと食べると本当に美味しかったのに。最近は芯の部分は落としてしまうか、思いきり細かく千切りにして食べている。ほうれん草もそうだし、にんじんもトマトもみんな昔と味が違う。残念なことだね。子供の野菜嫌いも判るような気がするな。
03.01.14
ここ数日は、もうひとつのHPに掛り切りで、それがまた面白くて楽しい。私も以前は(今も?)テレビゲームにハマった。学生時代などは何日も徹夜でドラクエをやったこともあった。まだファミリーコンピュータの時代、ドラクエも1、とか2の時である。HPを作り上げて行く作業は、このゲーム感覚に近いものがある。いろいろなアイテムを駆使して、インターネットを冒険し、本を読んで知識を増やし、それらの情報を総合して作り上げて行く作業がシュミレーションゲームに似ていたりRPGゲームと似ていたりする。それがプログラマーの書いたシナリオに沿ってやることでなく、自分で作り上げて行くものであるからこれほど楽しいものはない。私がこうやってHPを書いて作っているのも、今までやってきたゲームの賜物なのかもしれないと思ったりする。もちろんゲームをやるにおいても、ただボーっとやっているのでなく、プログラマーとの戦いである。思いきり先が読めてしまうゲームや、やっていてつまらないし思うように操れないゲームはクソゲーと言ってすぐにブックオフなどに売られてしまうゲームである。中には本当に素晴らしいゲームもあるものだ。これはマンガも一緒で、マンガと十把一絡げにバカにしてはいけない。私の歴史好きも歴史マンガから始まったし、専門的なこともかなりマンガで学んだ部分も多い。マンガだけでは物足りない部分は結局本を読むことになる。それのきっかけになればマンガも十分過ぎるほどの価値はある。これはアニメでも同じことが言える。問題は受け手なのである。クレヨンしんちゃんもバカ殿も受け手次第では本当に困ったものになってしまう。あの番組がなくなればいいのかというとそういう訳ではない。あれはあれで大笑いすれば良い訳で、あれを実生活で真似してしまうのはどうしようもない訳である。もちろん実生活で真似して困ったもんだと思うこと、そんなセリフどこで覚えたの?ということがよくある訳だが、それはその時に親が不快な顔をすると「おや?」と思う訳で、テレビの中ではウケていたけど実際の生活の中ではこれは使ってはいけないのかも?と思うのである。そうするとギャグの世界と現実世界の住み分けが少しずつだが出来てくる。何でも「ダメダメ」では結局、「見たい見たい」にしかならないのであろう。
03.01.10
もうひとつ新しいHPを立ち上げた。「壱畳間の順庵」というHPである。「壱畳間」は、そう昨年12月15日の日誌で紹介した「私の書斎」である。トップページのモノクロ写真もそのページの日誌に掲載されている写真をモノクロで階調を落としたデータである。
「順庵」は、私のご先祖。私の祖父の曾祖父にあたる人である。「ヒーヒーヒーじいさん」になるかな。その順庵爺さんが書き残した旅日誌を現代語で書いていく訳であるが、原本はこりゃなんでも読むのは無理だぜ、というほど達筆?というか崩した行書で書かれている。もちろん墨で。どんな感じかはHPのトップページに原本の写真があるので見てもらいたい。とてもじゃないが、私はあの書は読み下せない。しかし、昭和53年頃にあの難解な文字を読み下してくださった方がいらした。故金井好道氏である。さすがの金井氏も読み取れない部分はあったらしく、その部分は正直に抜けているところがまた信憑性がある。
私はその読み下した文章を、その上に現代文に訳してみた。先祖の書いたものを読んでみたいという欲求はあったのだが、その解読した文章でさえ情けないことにすぐに理解出来ないのが情けなく、こりゃ時間をかけて訳してみよっかと思い、どうせなら貴重な資料でもあるし、HPで公表しちゃえとばかりに、まだまだ完成もしていないのにここで公表してしまっているという、何ともせっかちな話なのである。まだどこにも登録していないし、もちろん付いているアクセスカウンターも情けない数字を表している。完成していないからバージョン1.0に満たない、バージョン0.2と言ったところだろうか。バージョン1.0になったところでどこか検索サイトに登録してみようかと思っている。
気が向いた時に翻訳作業をしているが、情けないほど作業が進まない。古語辞典、広辞苑、漢語林、類語大辞典、その他歴史書、及びネット上の検索サイト、ネット辞書等等にお世話になりながら、思いきりのんびりペースでやっている。中学高校時代にもっともっと勉強しておけば良かったと今頃思っても仕方ないことなのだが、自分が成績が悪かった古文と漢文をこんなところでやることになるとは思いもしなかった訳である。それも誰にも押し付けられる事なく自らやろうとしているのが何とも不思議なものである。
実際にどんな文章を訳しているかと言うと、古文を知る人なら簡単なのかもしれないが、そっちの方にほとんどお知識がない私には????ばっかりである。例えば「鳥見等見付候得ば甚だむづかしく候。」(とりみとうみつけそうらえばはなはだむずかしくそうろう)と読むのかなと思うが、まず「鳥見」が判らない。調べたら江戸時代には「鳥見」という鳥を管理する役人がいたらしいのある。現代で鳥見と言えば、そう「バードウォッチング」、マニアの間では鳥見と言うらしい。でも江戸時代では役人なのだ。その役人に見つかると、とってもやっかいな事になるよ。と言っていると思う。この鳥見を探すだけで20分くらいかかってしまいましたからねぇ。困ったもんです。それでも今はネットがあるからまだ楽です。行程を地図で追うのもマピオンさんに頼りっきり。これは便利です。名所旧跡もgoogleで検索して、そこの名所旧跡のHPにジャンプ。歴史に関してもそれぞれの町の市役所のHPで結構紹介されているのでとっても役に立ちます。それでも一番活躍するのは漢語辞典かな。難しい漢字ばかりだし、古いタイプの漢字が多いから大変。「實」も読めない。実はこれは「実」の古い漢字なんだけど、こんな事から調べなくちゃならないから、やっぱり中学高校時代にもっと勉強しておくんだったと思う次第である。
HPではまだ群馬県から出発して、利根川を舟で下り、江戸まで出て、そこから鎌倉へ。鎌倉を見物して箱根越え、箱根の関所を通過するところまで。下調べではすでに三保の松原まで進んでいるが、まだまとまっていない状態。いつになったら更新出来るのやらという感じだ。この道中日記が終わったら、その後にまだ「旅中心得」という項目もあるし、「お小遣い帳(雑費手控)」も訳さなければと思っている。まだまだ先は長そうだ。
それでも自分の先祖が通った道を辿って行くというのは楽しいものだ。その時その場所でどのように感じたかが、書いてあるし、著者の年齢も今の私と近い。私は今年で数えで41歳(前厄)、著者は42歳(大厄)である。ほぼ同い年なのになぜこんなに難しい表現が出来て、行書体で墨書で書けるんだ。とことん自分が情けなくなってくる。同い年の先祖が書いたものを、子孫は多くの辞書と格闘しながらでなければ読む事さえも出来ないとは。それも一度読み下したものをである。
江戸時代は学問は「読み、書き、そろばん」と言われていたが、これは日本語が読めて、文字が書けて、そろばんが出来るというタダそれだけではないのである。「読み」は「論語」を読む事。「書き」は墨書で書く事。そろばんは今で言う数学である。現代よりももっと高度なことをやっていたのかもしれない。私も論語は勉強するが、かじる程度である。習字は中学以来やっていない。数学も「数2B」まで。微分積分も、もういちど教科書を開かないと出来ない状態。江戸時代の和算の大家「関孝和」は微分積分もあっさりこなしていたという。足し算でさえ計算機を使ってしまっている私たちとは違う。
この旅日記を訳しながらいろいろな事を考える。今の日本人はこんな状態でいいのか。この爺さんはこんな凄いものを残してくれたが、自分は何を残せるのであろうか。負の遺産ばかりのような気がする。昔の先祖は凄かったと思うようなことが残せるのだろうか。残せるように、これからでも頑張らなければならないなと身を引き締めることである。
03.01.06
年末年始のお休みも今日で終わり。明日からはまたいつもの日常がはじまる。明日はちゃんと朝家族全員起きられるだろうか?まずはそれが心配である。身体がもう休日の身体になってしまっているために、またいつもの身体に戻るまでは数日かかるだろうなと予想している。
先日、夜遅くにNHKテレビにてカーペンターズの特集をやっていた。順子が幼い頃から好きだったこともあり、私も興味をもって眠い目をこすりながら観はじめた。兄妹のデュオであるが、妹のカレンは既に亡くなっている。全盛期及びカレン死亡のニュースの時も私たちは青春の真っ盛りの時だったので、その時のことがいろいろとフラッシュバックして、カーペンターズの曲を聴いているとたくさんの思い出が蘇る。
このカーペンターズの曲は、聴けば聴くほどその素晴らしさが判る。歌っている曲はほとんどが誰かの曲をカバーしたものである。それをアレンジしている。デビュー曲でさえビートルズの「涙の乗車券」であるから。使っている楽器もその当時のものであるから現代の先進的なエレクトリックな楽器とは違うし、レコーディング技術も現代の方がクリアで精密なものが簡単に出来るはずではある。しかし、その古さをまったく感じさせず、どちらかと言えばカーペンターズの曲の方が全てにおいて勝っているのはいったいどういう事なのだろう。ハーモニーの素晴らしさ、楽器のバランスの良さ、およびそのテクニック。歌詞の素晴らしさ、カレンの若さにして、あの歌詞をあそこまで理解し表現出来ていること。全てにおいて勝っている。完成されているのである。その完成度がクラシック音楽を聴いているかのごとく安心感があるのである。私自身は中学の頃からバンド活動をしていて、ロックや当時のクロスオーバーやらフュージョンミュージックを主に演奏し聴いて来た。ギターやベースやドラム、キーボードも一通りやってきて、自分で多重録音をやって1曲を仕上げてというのもアマチュアなりにやってきたが、それだけにその凄さがひしひしと身に染み込んでくるようである。
番組の中でデビューする前にレコード会社に送るためのデモテープを録音した経緯を兄のリチャードが話すシーンがあった。当時エコーをかけることが難しいし、高価であったためにメンバーでお風呂場に入ってシャワーの下で歌って録音したと言っていた。自分にもその記憶がある。当時、エコーやリバーブというものはスプリングリバーブかテープエコーであったが、それさえもアマチュアでは手に入れるのは大変であった。仕方なくお風呂場でやったり、反響のする部屋まで行って録音したものである。しかし、その当時のデモテープをテレビで聴いたが、これがまた素晴らしいものであり、とても素人の仕上がりではなかった。
現在では全てが簡単に出来る。デジタルレコーディングも安価で自宅で出来る時代である。自分のカラオケをCDに焼くということも経験のある方もおられることだろう。しかし、問題なのはそういうったクオリティでなく、実際の歌唱力、表現力、歌詞の理解力、それらのバランス感覚なのかもしれないと思った。どんなに音質が悪くても素晴らしいものは素晴らしい。ある程度のテクニックでそれらしく聴かせてしまえることもあるが、それだけであって、何も心に響くものがない。順子の好きなチャゲ&アスカもそうであるが、とても日本語を大切にしている感じがする。まじめに曲を作っているなと感じる。こだわりが強いのである。自分の作品として自信のあるものだけしか世に出さないという感じがする。藤山一郎という人がよく言っていたことであるが、卒業式や紅白歌合戦の最後に歌われる「ほたるの光」、藤山氏はこの曲をあまり歌わなかったし、好きではなかったようである。なぜなら、出だしの「ほたーるの」の部分のアクセントが、日本語の「ホタルの」というアクセントとは違うからである。普通に話す時にはあの曲のようなアクセントでは言わない。これはもっともなことである。最近はそういったことを無視した歌が多過ぎる。普通に話すように歌える曲、これが難しいのである。
道具はどんどん進化して行く。それに伴って仕上がった作品は進化して行っているのだろうか。ワープロが出来て書かれる文章は進化したのであろうか、絵を描く道具が進化して昔を越えるほどの素晴らしい絵が描ける様になったのであろうか、音楽でも絵画でも文章でも、あらゆる分野において道具は進歩した。しかし、出来上がるものその分だけ素晴らしくなっているのであろうか。疑問である。もう一度基本に戻って考えてみなければならないことである。
02.12.31
年末年始の休業に入って、大掃除やら銀行廻りやら何かと気忙しい日々だが、昨日と今日と家族で自転車に乗って近くの公園やら買い物やらに出かけた。それがまた楽しいものである。自転車5台を連ねて走る姿は、我ながら何だか恥ずかしいような何とも言えない感じだ。周囲の人もみんな振り向くし。昨日は大津市の長等神社の長等公園及び商店街での買い物へ、今日は膳所城跡の膳所公園へ行った。膳所公園など何もない公園なのだが、大きい木に登ったり、落ち葉や木の実を拾ったり、追いかけっこしたり、ひっつきムシ(トゲトゲの付いた草の実)を投げ合ったりで、ひとしきり盛り上がる。お金も掛からず十分楽しい。却って遊園地などに行くと、あれやこれや不満が出て来て、みんな機嫌が悪くなったり、こっちも折角連れて来てやったのに文句ばかり言ってなどと口煩くなったりして結局近場で家族でワイワイやっていた方が楽しかったりするものである。
今夜は大晦日。我が家では年に一度の「何時まででも起きていていい日」である。昨年は朋子と真一郎は明け方4時頃まで起きていたらしいが、今年はどうなることやら。一つの約束があって、何時まででも起きていていいが、元旦の朝は家族揃って挨拶をして、一緒に朝食を食べるということ。さっき寝たところと言っても叩き起こす。これだけは守る。その食事が終わったら遊ぶなり、寝るなり自由である。
朋子は数日前から風邪のせいなのか、鼻づまりが続いているようで、食事の時も鼻が詰まっているから味が判らないと言う。食事中に「ぶぅ~」と鼻をかみに行くと、「これで味が判るようになったぁ」と言い、
鼻を「かめばかむほど味が出る」
と言って笑わせていた。
今夜は「年越しそば」を食べる。実家から送ってもらった群馬県尾島町特産の「大和芋」とテンプラで食べる。蕎麦は乾麺でいく。これも群馬の美味しい乾麺だ。テンプラは自分で揚げようかと思ったが、今年は商店街で美味しい天ぷら屋さんがあったので、そこでいくつか買い込んで来た。先日、うちの従業員の人に聞いたのだが、天ぷらを揚げる時にマヨネーズを入れるとパリパリのサクサクになるらしい。まだ試してみていないが今度試してみよう。
私の実母の実家は米屋さんをやっていて、米屋というのは正月3が日には蕎麦を食べるらしい。正月から餅など贅沢なものは食べないという商人らしい風習だ。だからお餅は大晦日に食べるらしい。やっぱり食べるんだ。イスラムのラマダン(断食月)みたいだな。
今日は午後からおせち料理の準備。煮豆と栗きんとんを作らなくちゃ。
元旦の朝はお雑煮。我が家のお雑煮はと言うと、普通です。これはみんな普通だと思っているもんである。自分が子供の頃から当たり前のように食べて来たからそれが自分にとって「普通」なんです。だけど普通のお雑煮なんて「ない」。みんなそれぞれ違う。地域による差もあるだろうし、とは言え、大抵は隣の家の雑煮と自分の家の雑煮は違うことが多いもんで、やはりそれぞれ受け継いできたものがあるのであろう。
それで我が家の「普通」のお雑煮は、ダシはカツオと昆布で取る。「ほんだし」で済ませてしまうこともある(特に2日、3日)、でも元旦は頑張ってちゃんとダシを取ることが多い。鍋に水を入れてカツオ節を入れて煮立つ直前に取り出す。昆布も一度煮立ってから、すっと湯通しするようにするだけ。
具は決まっている。全部で6種。ダイコン、ニンジンは短冊切り、椎茸と長ねぎ、小松菜(青菜なら良い)、それとお餅。お餅は角餅で、焼いてから入れる。
味付けはシンプル。塩としょうゆだけ。しょうゆは香りだけで、ほとんどは塩だけという感じである。みりんも酒も入れない。
順子の家は、白みそ仕立て。具は「かしら芋(やつがしら)」と「かしわ(鶏肉)」だけである。この2つの風習が合体して、我が家では元旦と2日は私の実家のお雑煮、3日は白みそ仕立てのお雑煮という儀になっている。こうやって風習は変わっていくのだね。うちの娘の時代には、これがまたアレンジされて受け継がれていくのだろう。現在当たり前のようにやっている風習みたいなものも、もしかしたらほんのちょっとした理由で始まったのかもしれないし、ちょっとしたことで大きく変化してしまうものかもしれない。歴史的に大いに意義のあるものの中にもそういったものがあるのかもしれない。
それではみなさん良いお年をお迎えください。今年も1年読んで下さってありがとうございました。
02.12.30
2002年ももうすぐ終わろうとしている。来年もまた新しい魂をいただけたらと思う。新しい年の魂。そう、それがお年玉(年魂)であります。今年も一年間ありがとうございました。いろいろとありました。楽しいことも悲しいことも辛いこともうれしいことも一杯ありました。感謝、感謝です。
本当に久しぶりに表紙を入れ替えました。いかがでしょうか?ダイヤルアップの方、重いでしょうか?ごめんなさい。内容はあまり変化ありません。この年末年始に少しずつ更新していくつもりです。取りあえず表紙のページと自己紹介のページの家族写真(このページの写真も一緒)、それともっと詳しいプロフィールのページの私の写真(これもこのページの私の写真のアレンジです)を入れ替えました。作成ソフトは、adobe GoLive5.0、Photoshop Elements2.0、photoshop5.5等を使いました。MacOSXと9が混在の環境なので煩わしさはありますが、それでも一度もフリーズすることなく仕上がりました。これは凄いことだ!!GoLiveも5.0からX対応の6.0にグレードアップしたいところですが、なかなかその1万円ちょっとが出せないもんです。取りあえずなんとかなってますからね。これでOS9が使えなくなったらすぐにでもグレードアップしますが、なんとか出来るからなぁ。Photoshopも最新バージョンは7だったでしょうか。これも未だに5.5を使っています。それでもElementsが思う以上に安くて使い勝手の良いソフトなので、とても気に入っています。OS9(クラシック環境)を使うのはGoliveを使う時だけとなり、なんとかこれも改善したいなと思いますが、なんとかなっているからなぁ。Macを知らない人にとっては何の話か全然判りませんよね。
年末の大掃除、これが全然進みません。やる気が起きないから。なぜやる気が起きないか。掃除をするそばから子供達が散らかしていくから。5分前に掃除したところがもうすでに掃除をする前より散らかっている。怒鳴り散らしてみても、何しても効果なし。そんな訳で掃除のやりがいのある場所からやることにします。トイレやお風呂、押し入れの掃除や「私の書斎」の整理など。居間は掃除機をかける程度で、大晦日に一気に片付けて、元旦はきれいな居間で朝を迎えられたらと思いますが、きっと無理だろうな。
台所もやらなくてはと思いながら、これがまたなかなか進まない。なぜか、今は冬休みで子供が全員揃っているから、朝昼晩と3食フルで作らなければならないから。1食作れば散らかり、後片付けして、片付け終わったら次の食事の準備という感じ。一日中食事を作っている気分になる。なんだか休みの日の方が疲れそうだ。今日も1週間分の食料を買い込んで来たが、買い物カゴ3つ分。それでも野菜は実家から送ってくれるという淡い期待のもとに減らしてのことだ。だんだんみんな食べる量が増えて来た。育ち盛りだから当たり前だが、子供が多いことで「食わせる」という基本的なところでヒーヒー言っている状態。まだ万里子と明日香がさほど量を食べないからまだしも、これがあと3年もしたら・・・。今はまだ1回の食事でお米が4合で足りる。3年後は1升くらい炊かなくてはならなくなるのではと心配している。まぁお金を出せば真っ白い炊きたての御飯が食べられるのだからこれほど幸せなことない。戦中戦後はお金もお米もない状態で、子供は腹を空かせて泣きわめきの状態。想像を絶すると思った。子供に食べさせるということ。これは思う以上に大変なことだ。しつけや教育も大切なことだが、まず食べさせること。それもマトモなものを食べさせること。誰か知らない人が作ったものを温めて出すのでなく、親が生き物の生命を絶ち、その命を自分の子に与えるということ。そんな基本的な動物的親の本能を満たすことは、とっても大事なのかもしれない。
02.12.15
今日は何も予定のない、のんびりとした日曜日。早起きの真一郎でも朝7時半に起きだして、ダイニングのファンヒーターのスイッチを入れてその正面で本を読んでいる。昨日、市立図書館で借りてきた冒険小説だ。8時を回って私が起きて玄関に新聞を取りに行き、それを広げて真一郎の隣で読みはじめる。しばらくして妻が起床。それを期に私は席を立ち朝食を作りはじめる。朝食は「たらこしめじスパゲティ」。我が家の日曜朝の定番メニューである。30分ほど過ぎた頃に朋子、由香里が着替えて2階から降りてきた。「おはよう」「おはよう」とやっと家族が動きだしたという感じだ。万里子と明日香はまだ隣の部屋で寝ている。朝食が終わり、それぞれがそれぞれのことをやりはじめる。朋子はコミックを読みはじめ、真一郎は読書、由香里もマンガを読んでいる。妻は洗濯を始めている。私はパソコンでメールチェック。そのうちに子供達は自分の部屋の掃除を始めた。下の2人も起きてきて騒ぎだした。妻が下の2人に朝食をあげている。ここでパソコン部屋に隠っている私に声が掛かる。「部屋に籠っていないで2階を片付けて来てよ!」「はいはい」とわたし。そうこうしているうちにもう昼御飯である。こんな優雅な時間は矢のように過ぎ去ってしまうもので、それだから貴重なのかもしれない。
今日の昼御飯は「たこ焼き」。生地を作って、材料を刻んで、道具を用意して。大きなボール一杯の生地。太い1本のタコ足を刻み、ネギに紅ショウガにキャベツ、青のり、かつお節などを用意する。朋子と真一郎には、まず私が焼く手本を見せて、「自分が食べる分は自分で焼きなさい」という。それでも他の家族の分は私が焼くことになるので、ひたすら「たこ焼きマシン」に成り切った。数回焼くうちにコツが掴めてきて、かなり見栄えの良いものが焼けるようになった。これは子供達も一緒で、これがまた上手に焼いている。レンジの周りはすごいことになってはいるが。「だれがその汚いの掃除するのよ!」と妻が叫んでいるが、やはり食事を作るものの方が強い。子供達も慣れたもので「お母さん、後片付けはよろしくね」と笑顔で去っていく。
昼御飯を食べ終わると、真一郎は慌てて自転車に乗って出かけていく。今日は午後1時から囲碁教室に行くことになっている。真一郎が出かけた直後、さぁ行くぞ!と私と朋子と由香里と万里子で自転車に飛び乗り、本屋へ出かけた。今日は風もなく天気は快晴、サイクリングにはもってこいの陽気である。キコキコとのんびり由香里のペースに合わせてペダルを踏む。ちょっと遠回りだけど気持ちが良いので湖岸を通っていく。今日は見晴しもよく天上のブルーが湖上に向けて美しいグラデーションを成している。本屋で文庫を3冊、朋子も2冊、それとCDを2枚借りて来た。妻の探していた本も見つかったのでそれもついでに。
真一郎は3時に帰ってくるのでそれまでに戻ろうと早めに店を出て、それでもまだ時間に余裕があったので湖岸で暖かいココアを飲んだ。買って来た本をチラッと見つつ、湖岸の石畳みに腰をおろして飲むココアはまた格別にうまいものだ。
家に無事到着し、子供達と家の前で戯れて、犬のスズと遊び、玄関を掃除し、しばらくの時間は「あの時間は何をしていたんだろう」とあとで考え込んでしまうようなことをしていたと思う。それからは私はパソコン部屋(我が家ではそう呼ぶ)に籠って、借りて来たCDをパソコンに録音したり、メールチェックしたりとのんびり過ごし、そして今これを書いている。
今年はちょっとしたリフォームをしたので、何と私の書斎が出来た。「書斎」である。かっこいい。前述した「パソコン部屋」というのがその書斎なのだが、私のスペースはまさしく歯科医院の院長らしく、、、「1畳」。「1畳?」な、なぜだ。子供部屋は5人で20畳近くあるというのに、なぜ一家の主人である私の書斎が1畳なのだ。文句を言い出したらキリがないが、書斎があるだけでも幸せというものだ、と自分を納得させるしかない。今までなかったのだから「0」と「1」の差は格段の差がある。そうだ、私には「書斎」があるのだ。
しかし、この書斎が実に使い心地が良い。要はパソコンデスクとパソコンチェアと3段の自作の棚だけなのであるが、狭いだけに「落ち着く」。これに限る。その上狭いから小さなオイルヒーターですぐに暖まる。すべてのものが姿勢を変えずに取り出すことが出来る。ものぐさには最適。ただ背中合わせに子供のパソコンがなければ・・・・。
子供が私の背中の後ろで生意気にもインターネットをやっている。またゲームをやっている。うるさい。一人で物思いに耽る部屋、自分の「個」「私」というものを実現出来る唯一の空間が、やはりここも子供に占領されそうになっている。歯科医師でなく、夫でもなく、父親でもない、それらを全て脱ぎ捨てた存在になって、その空間に佇んでいたいところなのに、なぜ?たった2畳強の物置き部屋。その2畳の半分でさえ子供に奪われてしまう父親の寂しさ。これも仕方のないことなのだろう。なんってったって私には「書斎」があるのだ。そうだ、世の中には書斎のないお父さんも数知れずいらっしゃることだろう。その中で例え1畳であっても「書斎」があることだけでも感謝しなければならないのだろう。ひたすらそれを自分に言い聞かせる日々であった。せつない・・・・。
02.11.30
先月くらいからか、土曜日の夕御飯作りは朋子の当番となった。毎週土曜日は仕事が終わって昼御飯を食べて一休みしたら朋子と一緒に食料品の買い物にいくことが習慣となっている。その時に朋子に夕御飯のメニューを決めてもらい、それ用の買い物もしてくる。今日はその土曜日。いつもは自動車で大きなスーパー(ジャスコやマックスバリューなど)に行くのだが、今日は先週に朋子が新しい自転車を買ったこともあり、ちょっと離れた商店街に自転車で出かけた。首にはマフラーを巻き、身を縮こませながら、今ではちょっと寂れてしまった商店街にペダルを踏んだ。以前に立ち寄った時にはもっと寂れていたと思っていた商店街が今日は思いのほか賑やかであった。まずは八百屋さんで野菜を買って、肉屋と魚屋と、それとお漬け物も欲しいな。明日の昼はてんぷらうどんにしよう。ちょうどここに天ぷら屋さんがあった。いも天にエビ入り掻き揚げ、かぼ天、いか天と仕入れた。なかなか楽しいものである。それに安いし、無駄なものを買わなくても済む。スーパーでは、試食させてもらったら何だか買わないと悪い気がしちゃってついついカゴに入れてしまったりするが、それがないからいいかも。それでも店頭にはたくさんの商品が並んでいるから目移りしてしまう。確かにスーパーでの買い物は1ケ所でみんな用事が済んでしまうから楽なような気がする。でも何か物足りないんだよな。商品の種類も豊富だし、品質も良いような気もするし、何が足りないんだろう?と思う。人から物を買うという実感が足りないのかもしれない。良い品が安く買えればそれでいいのかもしれないが、何か物足りなさを感じてしまうのは、こうやって今日のように小さな商店街のお店でひとつの商品を手渡しで売ってもらった時に、なんともいえぬ満足感があることに由来する。それまでは当たり前にスーパーで買い物して満足していたのにおかしなものだ。
それで今夜は朋子と一緒に夕御飯を作った。朋子のメニューは、ごはんに味噌汁(じゃがいも、タマネギ、油あげ。にぼしのダシ)、焼きサンマ、カボチャの田舎煮である。それに手のあいた私がポテトサラダを作ることになった。1時間かけて無事にそれらのメニューが出来上がり、みんなで美味しく食べた訳であるが、朋子が作るように変わったことは、いろいろある。
まずは朋子がいろいろとうるさい。
「まずいなんて言ったらぶっ殺す!」
「おかずがまだたくさん残っているのに、ふりかけなんかで御飯を食べるな!」
「残さず食べろ!私が作ったものがまずいのかぁ!」
と言ってどなり倒している。
それでもこれは良いしつけになる。朋子も作る人の気持ちが判るようになって、いつも作ってくれた人に気を遣うようになった。下の妹たちが「もうお腹が一杯で食べられない」と言っても、出されたものはちゃんと全部食べなさい。と言う。「そんなまずい顔をして食べるんじゃない」「最後のひと粒まで残さず食べな」と口煩い。いつも親が言わなければならないことを全部言ってくれるから楽であるが、もし生まれ変わっても朋子の子供には生まれてきたくないな、なんて思ってしまう。(汗)
02.11.27
親孝行というものを考える歳になってきた。「何を今頃言っているんだ!」と叱られそうであるが、すねっかじりの現代っ子である私としてはホント数年前、特にふるさと群馬を去って、両親と遠く離れてしまってからひしひしと親のありがたみを感じる。本当に何を今さらであるが、情けなくも事実である。最初に親の大変さが分かったのが、自分に子供が出来た時だった。みんなそうだと思うが、自分で育児をやりはじめて自分の親もこうやって大変な思いをして自分を育ててくれたんだなぁと感慨に耽った。しかし、それは親孝行をしなくちゃというところまでは行かなかった。親に対して優しくはなったが、まだまだ親は元気だしまだまだ孝行する時間は十分にある、それよりも自分自身を確立する方が優先であり、それを親は望んでいると思っていた節がある。でもそれは違う。親孝行というのは誰のためにやる訳でなく、人間として本能的にやらなければならぬものである。他の動物で親孝行をするものはいない、人間だけである。人間であるならば親孝行は当たり前としてやるべきことなのだ。言い訳はいらない、ただやるのだ。息をするのと同じように、息をしなければ死んじゃうから息をするのでなく、勝手に息をしちゃう訳で、義務でやるべきことではない。そんな感じかもしれない。それを自慢する訳でもなく(息をしていることを自慢するやつはあまりいない)たんたんとやる訳である。
それじゃ私が私なりにやっている親孝行はなんだというと、まずは葉書や手紙を書くこと。手紙の内容なんて普段の出来事を書くだけなのであるが、30分もあれば書けてしまう。それと電話。
あとは数カ月毎に「家族新聞」というのを発行している。家族の様々なイベントをデジカメで撮影しておき、それをA4の紙にコメントを付けて印刷する。1回の発行にA4を4枚くらい、それと手紙を添えて送る。この新聞は親戚や仲人さん、及び友人にも送ることがある。
夏休みに帰省した時は上げ膳据え膳をしてもらったりしている。これも親にとっては大変だと思う。もちろん手伝ったりはするが、なにせ今では勝手分らぬ家なもんだからおいそれと手が出せないというのもある。それでも年に数回は群馬から大津へ来てくれる時がある。それが先日の23、24日の連休だった。
いつも来てもらった時は今の私に出来る限りのことはさせてもらうようにしている。まず一番は食事。数日前から私がメニューを考え、買い物に行き、関西ならではの材料を使って作ったりする。もちろん料理長はわたし。こどもたちにも少しは手伝わせてあげる時もあるが、手の抜けない箇所は必ず自分でやる。そして慎んで配膳する。
食事の他は、その時こちらで一番良いところ、美しいところに行き観光してもらう。今回は丁度秋の葉が紅に染まっていたのでそれを京都へ見に行った。しかしこれが失敗だった。あまりの混雑に閉口した。情緒もなにもなく、人込みのなか人々の「気」に負けて帰ってきた。どっと疲れた。とても両親に申し訳なかった。ある程度予想はしていたのだが、あれほど混雑しているとは。結局家に帰ってきてひたすら親といろいろな話をした。父とは日本の古代史の話。母とは育児の話、料理の話、健康の話。そして父と碁を打った。息子の真一郎も打ってもらった。真一郎は祖父と何度も打ちたがった。祖父はそれに応えてくれた。それに刺激を受けたのか、両親が帰った後も囲碁の勉強をしている。今度会って碁を打つ時はもう少し上手になっているようにしようと思っているらしい。
昨日の勉強会(先哲に学ぶ人間講座)では、「感謝する喜び」は「神からのプレゼント」ということを学んだ。両親に感謝し、親に孝行が出来たことは大変な喜びである。そしてそれは神からのプレゼントだということを知り、心からうれしくありがたい気持ちになった。親孝行したいと思う時に親はなしというが、私はそれをしたい時に親があり、そして孝行出来たことは誠に幸せなことであると思う。これも親と離れたから出来たことであり、近くに住んでいたり同居であったらならこんな気持ちになれただろうかと思う。近くに住む時よりも今の方が親の事、親の心を身近に感じるのは不思議である。お金をかけてプレゼントをしたり、旅行に連れていってあげたりはしていないが、親子であることを感じあう喜びというのは今回の2日間で何となく実践出来たかなと思う。
毎回、親と別れる時は「これで今生では最後」と思って別れる。だからとても悲しい。だから1分1秒が大切であり、精一杯のことをしたくなる。悔いの残らぬように。一言一言を噛み締めながら話す。脳に刻み込むように。
親父の好きな言葉「一期一会」、私もいつもそんなつもりで人と会いたい。
02.10.05
近頃、我が家で一番躾(しつけ)にうるさいのは長女の朋子かもしれない。下の妹弟を叱る回数が一番多いのが両親よりも朋子なのである。「ほら、しゃべってないでちゃんと食べなさい!」「よそ見しているからそうやってこぼすんでしょ!」といちいちうるさい。親が叱る前に叱ってくれるので、親の出る幕がない。「トモ、たまにはお母さんにも叱らせてよ」という始末である。「お母さんがちゃんと叱ってくれないから私が叱らなくちゃならないんでしょ!」「はいはい、悪かったわね」と親まで叱られている。「『はい』は一回でいいの!」とは言わないが、何とも変な会話である。
子供が多いと意外にも、どんどん育児は楽になる。逆に思われる方が多いと思うが、実際は子供が多い程育児は楽だと思う。家事はいろいろ大変だけど。何しろ子供達だけでみんな勝手にやってしまうから。兄姉が仕切ってうまくまとめてくれる。「子供は1人で手一杯、2人目3人目なんて想像も出来ない」という方がいらっしゃるが、育児が大変なら2人目3人目を授かることであると思う。そんなに育てるお金がないという方もいらっしゃるが、1人でも5人でもお金の掛け方次第で、結局ある分しか掛けられない。だからうちも5人に食べさせるだけしかお金を掛けていないように思う。習い事もしていない、塾にも行っていない、洋服もよそのお宅からいただいたものばかりだし、本はこれもいただきものと正月にいただいたお年玉でちびちび買うか図書館で借りて読む。やはり食費が一番かさむ。家族7人だから7人乗りの大きなワゴン車が欲しいなとも思う。でも現在はワゴンRという軽自動車1台。それでも何とかなるものだ。群馬の実家へ帰省する時や家族みんなで出掛ける時はレンタカーを借りればいいし、普段は燃費もいい、車検も税金も安い軽自動車が一番。一度乗ったらやめられません。
勉強に関してもあまりうるさく言わないことにしている。私は子供に「勉強しろ」とは言ったことはないはずである。ただ学期末の通知表の時だけは、お互い正座して1人ずつすごすごと見せに来させる。私は居間に正座して待っている。そこへ1人ずつ通知表を持って入って来て、私の前に正座して「お願いします」と通知表を渡す。私が難しい顔をして一通りそれを見た後、「よし、次も頑張れ」とだけ言って返す。余計なことはあまり言わないことにしている。言われなくても自分で判っているはずだからである。こちらがあまり言わないと子供が自分で解説してくれる。解説というか言い訳だ。今学期はあれがうまく出来なかったからこの教科の成績が悪かったやら、これはこの次は頑張るつもりやらいろいろ喋る。それを聞いた上で「よし次も頑張れ」で済むのである。
母親はいつも「宿題は?時間割りは?」と叫んでいる。それはそれで良いと思っている。定時に時報が鳴るように、こういった母親のセリフはないと寂しいものである。それでも最近は「もう終わってる」という返事の時が多くなってきた。私が子供の頃でもそんなことは滅多になかったのに、変なやつだと思う。晩御飯の前に宿題が終わっている?私はそんなことがあっただろうか?寝る前に慌ててやるか、学校へ行ってからやるか、提出する授業が始まる直前にやるか、やらずに忘れるか。そんなところだったと思う。暇だったか宿題やっちゃった、なんて聞くと、こいつは変なやつだ、なんて思ってしまう。
「親が子供にしてあげられることって、子供の幸せを喜んであげることくらいじゃないんでしょうか?」と、先日終わってしまったNHK朝ドラ「さくら」の中で、主人公「さくら」の祖父(小林亜星)が、さくらの父(娘婿)に言ったセリフが頭に残っている。そうだよなぁ、そんなことくらいしかやってあげられないよな、と思う。いろいろやってあげても迷惑なことが多い。善かれと思ってやっても、やってもらって子供もラッキーなんて思っても、本当に子供のためになっているのかと思うと疑問である。だから子供の幸せを喜んであげる、18才くらいまでは家に住まわせてあげて飯も食わせてあげる。学校にも行かせてやる。社会のルールをそれとなく教えてやる、くらいのことしか出来ないよなぁ。後はオレから勝手に盗めってもんだ。
そんなことをいつも子供にも言っているもんだから、先日長女の朋子が「私は18才で結婚して子供を産む」「そしてお母さんより1人多い6人の子供を産む」「『6人も産んだのにどうしてそんなに綺麗で若いの?』って言わせてみせる」と言っている。「そうか、頑張れ」と言ったものの、「待てよ、18才ということは、あと7年じゃないか」「7年後にオレはおじいちゃんか?」「まだオレは46才じゃね~か!」
7年後に子供が出来ると一番下の明日香がまだ8才。8才でおばちゃんか?う~ん、そんな近未来とは思わずに安易に「そうか、頑張れ」なんて言ってしまった。
育児の期間なんてあっという間。昨年産まれたばかりの明日香がもう「ハイハイ」をしなくなってしまって歩いてばかりいる。おいおい早すぎるぞ。もっともっとハイハイしていてくれ。そんなハッキリと喋るな、もっとバブバブ言っていろ。そんなに急いで大きくならないで、もっともっと親を楽しませてくれ。
気がつきゃおじいちゃん。お父さんなんて呼ばれている期間なんて本当に短いのかもしれないな。こりゃ人生、ちょっと慌てないと「取りこぼし」が多すぎることになっちゃうぞ。
02.09.30
最近ハヤリの「カスピ海ヨーグルト」。我が家も種菌をいただいて以来、毎日作って食べています。まずはあまり酸っぱくなくてクリーミーで美味しい。8時間から12時間で出来上がりなので、前の晩に作っておけば次の日の朝には食べられる。1回に1リットルの牛乳を使い、それに種菌を大さじ3杯いれてよく振り、キッチンペーパーで蓋をして室温で8時間から12時間で出来上がり。そのまま食べても美味しいし、我が家では最初は蜂蜜を入れて食べていましたが、今は黒ぶどうというのかな、商品名は「ベリー」。それをジャムを作る要領で砂糖だけで煮込んで、ヨーグルトソースを作り、それをかけて食べています。これが子供達にも好評でみんな1日に2回3回と食べます。だから1リットル作ったヨーグルトが確実に1日でなくなります。毎日牛乳を買いに行かなくてはならないし、毎日糠漬けを手入れするように、毎日欠かさずの作業が続きますのでいつまで続けられることやらです。ベリーの季節が終わったら今度は何でソースを作ろうかと思案していますが、何か良いものはないかな?私はどちらかというと下痢症、家内は便秘症、朋子も下痢症。ヨーグルトを食べ始めてからそれがすっきり治りました、となれば良いのでしょうが、なかなかそううまくは行きません。私は最初食べた時は下痢をして、それが数日で治まり、今はヨーグルトを食べても食べなくても同じ様になりました。朋子も一緒かな。家内は変化なしか、ちょっとはマシになったかな、という程度です。ダイエット効果に関しては、確かに食前に食べるとかなり腹にたまるので、食事量は減ると思います。実際私は体重変化は500グラム減、家内は逆に少し増えたみたい。ヨーグルトを食べても同じように食べていたらやっぱりヨーグルトの分だけ太るだろうなと当たり前の結論になりました。それでも何より美味しい!安い!手軽で新鮮。それだけで十分かなと思います。私は牛乳を飲むとすぐさま下痢をしてしまっていましたし、普通のヨーグルトでもそうでした。それがこのヨーグルトを食べても大丈夫。これはうれしい限りです。
種菌というのは、まぁただのカスピ海ヨーグルトです。新しく出来たヨーグルトを最初に食べる前に種菌として新しく作るヨーグルト容器に移してから食べます。だから永遠に作って行くしかないのです。冷凍して保存も出来るそうですが、まだ試していません。毎日永遠に作り続けることは恐らく無理だと思うので、ダメになってしまう前に冷凍保存しておこうかなと思っています。牛乳は普通の牛乳でOK。低脂肪乳でも出来ますが、ちょっと時間がかかるし、種菌を少し多めにした方が良さそう。特濃牛乳はOK。コーヒー牛乳は試していません。当たり前か。最初は低温殺菌牛乳の方がいいかなと思って使っていましたが、やっぱり微妙に美味しいけど、毎日のことなので値段の安い普通に牛乳に戻ってしまいました。
どこで種菌を手に入れるか。うちは友人から分けてもらったので入手先は判りません。ごめんなさい。
カスピ海ヨーグルト関連のサイトです。
STEIN (自家製ヨーグルトを食べよう)
無人島
ヨーグルト三昧
02.09.28
最近更新していないなぁ、この前はいつ更新しただろう?と思って自分のHPを見たら「ゲッ!」3月から半年も更新していなかったんだ。あれからいろいろな事がありました。由香里が小学校に入学し、小学生が我が家に3人となりました。授業参観は1人10分ずつくらい見ては次の教室へという状態。私が休みの時は夫婦でそれぞれの教室へ行ったりします。それでも時間が微妙にずれたり違う日にやってくれるとゆっくり参観出来たりします。
家を少しだけリフォームしました。子供部屋が出来た。上の3人にロフトタイプのベッドを購入。1段目のない2段ベッドみたいなものです。10数畳の部屋にそれを3つ置いてなんとか少し仕切りみたいにはなったかな?という状態です。
由香里のベッドだが万里子がいつも上がってくる
他には、私に新しい趣味が出来ました。40の手習いですが「囲碁」をはじめました。まだまだ超入門者で思いきりヘボ状態ですが、ヘボなりに楽しんでやっています。妻からは「じじ臭い」と言われながらも息子も一緒にはじめて、男2人で渋く囲碁を打っています。きっかけは皆さんのご想像通り「ヒカルの碁」です。マンガです。「囲碁入門」とか「初歩の囲碁」というような本を買って来ては判らずも碁石を並べて雰囲気を味わっています。出来たら羽織り袴で扇子を持ってやりたいところですが、さすがにそこまでやると家族の女子から「うちの男どもはどうかしちゃったんじゃないか」と思われるので押さえていますが、息子と2人は完全に形から入って行くタイプのようで、まずは道具を揃えて並べてニヤリとするやつらです。
初心者用の13路盤で打っています
夏は群馬に帰省しました。大津へ引っ越す前に住んでいたところへ行って、ご近所だった人たちと酒盛りしてきました。隣のお宅が4人姉妹、向いのお宅が男女2人兄妹でうちの子供5人を合わせると3世帯で11人の子供達。大人が3夫婦で6人。17人での食事はなかなか楽しかったです。
今は、運動会も無事に終わり次は小学生がそれぞれ別の日に校外学習といういわゆる小旅行に行きます。5年生の朋子は今週鈴鹿サーキットのあたりにホンダの工場見学と遊園地に行く様です。またそれぞれお弁当持参。運動会は朝早くから起きて3つの弁当を作りました。今は昔と違って親とは一緒に食べません。過激な競技も少なくなったと思いきや、5年の朋子は男子と一緒に騎馬戦をやってきました。リレーもありましたが、選抜選手を選ぶのではなく、全員でいくつかのチームに別れて走ります。リレーの選手に選ばれたよ!というフレーズはなくなりました。うちの子供は参加しませんでしたが、ブラスバンドの演奏が素晴らしかったです。私も小学生の頃、ブラスバンドのリーダーでトランペットを吹いていましたが、その当時とはレベルが違います。スクエアの難しい曲をばっちり決めていました。私が思わず大きな拍手をしてしまいました。それほど素晴らしい演奏でした。
末娘の明日香も大きくなりました。もうヨチヨチと歩いています。言葉も少しずつ出てきてなかなか面白い時期です。5人兄弟の末ということで、かなり強い。上の兄姉に負けていません。これからが面白くなりそうです。これからまたこれを機に頻繁に更新出来ればいいなと思っています。懲りずにまた覗いてみてください。
02.03.18
「うどんの作り方」
久しぶりにうどんを打ってみた。
今までに何度も打ったことはあるが、いつも出来はまちまちでなかなか「我が家のうどん」というものが定まらない。今度こそはと分量を計り時間も計ってやってみた。
粉は群馬の実家から送ってもらった群馬県産の地粉。農林*号という名前がついている。
用意するもの。麺棒、コネコネするボウル、広いテーブル、塩水を作るカップ、包丁とまな板、ビニール袋(買い物袋2枚)。くらいかな。
材料:粉、水、塩 だけです。粉はスーパーで売っている「うどん粉」で良い。薄力粉と強力粉を半々でも大丈夫だと思う(試したことがないから責任はもてません)。
1人前100グラムの粉として、5人前を作る。ちなみに今回大人2人、子供3人で500グラムではちょっと足りなかった。これに天ぷらでもあったら十分かもしれない。
問題は水加減と塩加減。今回は
粉500グラム:水200cc:塩30グラム でやってみた。
塩は初めてうどんを作る人にとっては「えッ!こんなに塩を入れるの?」というくらいの量だろう。あらかじめ200ccの水に30グラムの塩を混ぜて塩水を作っておきます。その塩水を3回くらいに分けて粉に足していき、ちょうどオカラみたいな感じになればOK。それを後でまとめていきます。まとめて一塊にしたら、それをビニール袋に入れて部屋のちょっと暖かい目のところに置いて1時間半から2時間くらい寝かせます。
時間が来たら今度はそれを2重にビニール袋に入れて足で踏んで伸ばします。まとめては足で踏んで伸ばし、それを15分から20分くらいやります。これは子供にまかせると喜んでやってくれます。これを十分やると麺にコシが出ます。これが終わると生地はツヤツヤになり生き生きしてきます。それをまた袋に入れて1時間以上寝かせます。
時間が来たら、ツヤツヤの生地を袋から取り出し、打ち粉をしながら伸ばしていきます。500グラムだったら2つの塊に分けた方がやり易いです。2ミリ程の薄さになったらそれを布団をたたむように折り畳んで包丁で切ります。太さはまぁお好みで良いでしょう。常識の範囲内で。
麺を打ち始める時にお湯を湧かしておきます。家にある一番デカイ鍋を使います。デカイほどいいです。大量のお湯で、天空を竜が舞うようにうどんが舞う茹で方が理想。
茹でる時間は10分。火加減を調節しながら、溢れないように常に鍋の側についていて、箸でうどんを泳がせていましょう。10分たったら1本すくい上げて水で洗って味見。きっとそこで感動するでしょう。茹加減を確認したら、一気にそれを冷水に入れて何度も洗います。表面のぬめぬめがなくなるまで洗います。洗い終わったらザルにあげて出来上がり。
美味しい手作りうどんなら、薬味なんていりませんが、今回は大根おろしと刻みネギを用意しました。麺ツユも手作りは難しいので市販の麺ツユを使いました。市販の麺ツユが嫌いな方は、うどんに大根おろしをのせてそれに醤油をかけるだけでも美味しいです。他には納豆をのせて食べるのも美味しい。きっときっとこの方法で納得のうどんが出来るはず。これを読んでいるお父さん!頑張ろう!
02.03.16
曽野綾子氏が「ほんとうの話」という本の中で次のようなことを言っている。
『この頃、民主社会を気持ちよく動かすためによく口にされる言葉、権利と義務は、使用法がまちがっているのである。権利は、自分がすぐ行使するものではない。他人がそれを持つことを承認するためのものである。
これに対して義務は、相手に要求するべきものではない。それは、誰がやらなかろうと、自分が黙々と遂行すればいいものなのである。
めいめいが、この二つを守れば、社会は必ずうまく行く。』
しかし、今の社会ではまったく反対のことを言ったりしているという。他人には義務を要求し、自分の権利ばかりを主張している。そうしないと「損だ」「得だ」という観念だけなのかもしれない。何でも「損得」で考えることはとても合理的な面もあるが、たくさんの落とし穴もある。目先の損得だけに捕らわれず「得」でなく「徳」を「損」より「尊」にしたいところだ。(ただの語呂合わせ)
損得と言えば、よく買い物する時も「こっちの方が得だよ」「あと500円買えば駐車料金がタダになる」「まとめて3つ買えば安くなる」という感じで、結局その時財布から出る金を多くなっても「得した気分」になる方を選ぶことがある。時には時間も掛けて、交通費まで出して100円数10円安いものを求めていく。これは趣味なのか特技なのかはたまた病気なのか。「買い物依存症候群」なんて病名もあるくらいだから。
私の信念は、その時に財布から出て行く金が少ない方が、結局は「安い」と思っている。あと500円買えば駐車料金がタダになっても、その駐車料金が300円だったら、500円のものは買わず、300円の駐車料金を払う。その方がその時払う金は200円少ないのだから。
「得した気分」にさせるマジックに引っ掛かってなるものか、と思っているから、そのように行動するが、これが結局のところ「得」なのか「損」なのか、二宮さん教えて~。
02.03.12
昔、暦は太陰暦と言って月の周期を基準にしていた。その月の1日目は必ず新月(月が見えない『朔【さく】』)であり、15日(十五夜)は必ず満月であった。現在は太陽暦であり、15日だからといって必ずしも満月とは限らない。人間は1人で勝手に生きているように感じるが、少なからず自然の影響を受ける。月の影響も大きいらしい。潮の満ち引きも月の引力によるものだが、その影響も赤ちゃんの出産と関係があるようであるし、女性の生理も月の周期と同じらしい。月の状態によって精神的なものも変化するとも聞く。満月の夜に狼男に変身するのもそれを参考にしたものであろう。人間なんて大自然からみたらホンの小さな存在であり、人1人の命なんて微々たるものである。それを「人の生命は地球より重い」なんて福田元首相が言っちゃったもんだから何だかおかしなことになってきたようだ。もちろん命は大切なものであるし、粗末にしてはいけないことは間違いのないことである。しかし最近は、自分は凄い人間なんだ、選ばれた人間、自分はこんな小さな仕事をするようなちっちゃい人間じゃない、ビッグになる、、、、と言っては仕事をさぼったり熱意や情熱を燃やす事が出来ない人が多いという。自分に自信を持つ事は大切なことではあるが、自分というより人間というものを過大評価し過ぎることはあまり良い結果をうむとは思えない。
「自分なんて全然大した人間じゃない」「才能なんてまったくない」
だからこそ、「自分に出来ることをコツコツとやるしかない」
と思った瞬間に道が開けてくるのだと思う。こつこつと継続してやれることが自分の才能だ、と思う事が大切なのだと思う。
汚れたこの世の中を浄化しようと思うなら、まずは目の前にある空き缶やゴミを拾う。まして自分で捨ててはいけない。人類すべて愛するよりまず目の前の人を愛する。(もちろん恋愛感情ではない)そんな小さなことでもそれをコツコツ続けていくと、いずれは大きな波になると思う。その波動が人から人へ共鳴し、少しずつ大きくなるからである。仏教でいう「一隅を照らす人になれ」である。
私も歯医者であるが、虫歯を目の前にして考えてしまうことが多い。自分に何が出来るだろうと。穴は塞ぐ事が出来てもそれがパーフェクトな「治療」と言えるものなのだろうか。虫歯を削り取って穴を塞いで治療したつもりになっているが、それが再び虫歯になってしまった時、もしかしたら私がいじらずにあのままほっておいたらこんなことにはならなかったのでは、歯医者で削られたがために一時は良かったが、長い目で見たら結局歯の寿命を短くしてしまったのではと心配になったりする。削らず詰めずにしてそのまま一気に悪くなりボロボロになることも多い。しかし、不思議なことにいじならないでおいて、数年後みてみたらそのまま進行もせず痛みも出ないでいる場合も多いのである。こういったケースを見てしまうと、またその夜は悩むのである。布団の中でいろいろ悪い頭を酷使して自己嫌悪になったり、はたまたあるひらめきがあったり。「あの虫歯は患者さんの歯の手入れが悪かったから再び虫歯になったのは仕方ない」と思うのは簡単であるが、それでは何も進歩がない。それでは手入れをどうにか工夫出来るようアドバイス出来なかったのか、あるいは生活習慣に問題があったのか、遺伝的な要素は、食習慣は、精神的には、環境的にはどうであったか、私に何か出来ることがなかったか、様々な要因を考えてみる。それらいろいろ考えると「自分に出来ることなんてちっぽけなこと」と思えて来る。しかし、そのちっぽけなことだけど、全力で考え全力で行動する。それしか出来ないのだからそれをコツコツやるしかない、と思う。
02.03.10
朝6時30分。赤ん坊の明日香がお腹が空いて目を醒ました。そのついでに早起きをして眠い目をこすりながら着替えをして、朋子と真一郎を連れて休みの日恒例の「朝の散歩」に出掛けた。2人を連れて気持ちの良い朝靄の中、古い街並を歩いた。私の住むいわゆる下町風情溢れる場所から歩いて20分くらいすると、今度は古い城下町に入る。ここは昔は膳所(「ぜぜ」と読む)城の城下町で近隣には神社や寺も多い。昔ながらの商店もある。道は細く、城下町特有の入り組んだ迷路みたいになっている。不規則なクランク、行き止まり、東西南北を判らなくするように工夫されており、一度に軍勢が入れない仕組みになっているようだ。私は車を運転する時にはいつも東西南北が分かっていないと運転出来ない。「ここを右」「その先の看板を左」ではなく「そこを東へ」「西へ」と考える。そういう人間にとっては実に困った道だ。のんびりと45分くらい歩いて膳所城跡へ出た。その近所にはマクドナルドがあり、そこで朝食をとった。「朝マック」いわゆるジャンクフードと呼ばれるものであるが、こういう時は大変美味しく感じる。月に1度か2度くらいは家族で行くこともある。子供はいつもハッピーセットなのだが、目的は付録のおもちゃ。5人もいると1回で全種類のおもちゃが揃う時もある。こういう時は子供が多いといいもんだ、と変に感心したりする。
今朝は7時前に出発出来たので、全部歩いて家に到着してもまだ9時前だった。私達の到着を待って、順子は髪を切りに行った。なかなか髪を切れない順子も今日はさっぱりしたようだ。
クランクの道の写真です
午後は「たまにはお出かけしようよ」という子供達の嘆願に答えて、「るるぶ」やらインターネットで検索したりして結論は、「わんわん王国」へ行こう!ということになった。犬が曲芸をしたりするのを見たり、犬のレース、ふれあい広場ではセントバーナードやハスキー犬の大型犬に触ってナメ回したり出来る。子犬のふれあいコーナーでは、みんなだっこしたまま座り込んでいた。そして見ていて大丈夫かなこの人と思う程、子犬に癒してもらっていた感じがあった。犬のレンタルもしてくれる。といっても20分犬を散歩させてくれるのだが、これも私達にとっては何でお金を払って犬の散歩をしなくちゃいけないの?と思うが、犬が飼いたいが飼えない人にとっては何ともうれしいサービスだろうなと思う。散歩している時の顔はみんな幸せそうでした。それにしても犬って凄い力を持っているなぁと感じた。あれほど人を元気に、そして落ち着いた顔にしてくれるのですから。ふれあいコーナーで、日なたで子犬を抱えてぼーっと眠るようにしゃがみ込んでいる人をみると、つくずくそう感じた。それが1人2人じゃなく、10数人もである。ふれあいコーナーには20匹くらいの子犬がいただろうか。しかし、フリーで歩いている子犬がほとんどいないのである。みんな抱きかかえて座り込んで眠ったようになっているからとっても異様な雰囲気でした。
「わんわん王国」シベリアンハスキー犬と真一郎
今日のyahoo!でお薦めのコーナーにあったHPが、とてもよかったのでここに書いておきます。「ある男の自分史」というHPなのですが、思わず一気に全部読んでしまいました。私もこんな感じでもっと素直に思うまま文章を書いてみたいな。飾らず、特に笑わせようともせずに思ったまま感じたままに、テクニックに走らず、知識をひけらかすことなく書けばきっとすーっと身体に頭に入ってくるんじゃないかなと思いました。
02.03.09
春を揚げる
今日は患者さんから「ふきのとう」をいただいた。「これを刻んでおツユに浮かべますと春の香りが漂ってきますよ」と聞き、早速今日は試してみる事した。午前中で仕事を終え、いつものように朋子と買い出しに出掛けた。野菜コーナーを物色していると今日は「山菜」が揃っていた。「ふきのとう」も頂いたことだし、今日は春の山菜の天ぷらを揚げることにした。「青こごみ」「タラの芽」「山うど」を仕入れた。いただいた「ふきのとう」と合わせて立派な山菜の天ぷらが出来そうだ。
ご存じの通り、「タラの芽」はタラノキの若芽で、タラノキはウコギ科の低木落葉樹であり全体にトゲがある。ちなみに「ふきのとう」は蕗(フキ)の若い花茎。「青こごみ」は、オシダ科の多年生シダである。見た目はゼンマイかな。
それぞれを小麦粉と氷水を混ぜたものに放り込んで次々と揚げて行く。パリッパリに揚げるのはなかなか難しいものである。油の温度と衣の温度と揚げている時間とが関係しているようだが、その時によって出来上がりが違ってしまう。それだけにうまく揚がると本当にうれしい。
天つゆを作って大根おろしをすって、その他に塩で食べた方が美味しいものやマヨネーズやケチャップが合う時もあるが、今回は天つゆか塩が美味しいようだった。
今回の絶品は何と言っても「ふきのとう」だった。あの香りは何とも言えない。アサリの澄まし汁も作ったが、それに「ふきのとう」を刻んだものを浮かせたがこれもまた素晴らしかった。「春だなぁ~」としみじみ感じさせてくれるものであった。「タラの芽」は素材が悪かったのか、調理がいけなかったか、あまり香りが楽しめなかった。「青こごみ」も結構イケた。ふきのとうに続いて美味しかったのは「うど」。葉の部分を揚げたが、これもあの独特の香りが天ぷらにすると一際引き立つ。
「うど」は全部食べられる。葉は天ぷらに、毛の生えた皮はきんぴらにするととっても美味しい。茎の部分はサラダや酢みそ和え、味噌汁の具にもOK。独特の香りがあるので子供には不評の場合があるが、「うど」を知るためにも一度は食べさせておきたいと思う。キンピラなら一番抵抗なく食べられるかなと思う。
だがしかし、今回のメニュー、ウケたのは、大人だけだった。子供達にはすこぶる不評。「これは大人の味だね」とか「ちょっと苦手だな」と作った人に気を遣った言い方をしてくれるが、「まずいから食べたくない」というのが判った。難しいものである。大人の方は少しずつ年令と共に欲しいものも変化していき、油っこいものは少なく、肉より魚、炒めるより煮る、という様に変化していくが、子供は今はこってりが大好き。魚より肉、煮物よりも焼き物、炒め物が好き。こればかりは仕方がないが、結局は作る人が食べたいものになってしまう。その時に子供にも調理を手伝わせ、食べたいものを聞き、少しずつお互いの好みを摺り合せていくことにする。そのうちには、親と子供では違うメニューを用意しなければならなくなるかもしれないと思う。
02.03.08
「あ、出た。出たよボツボツが」
そうそう、やっぱりあの40度の高熱3日間は突発性発疹だった。昨日の夜から全身にボツボツが出て来て、今は痒いのだろうと思うが機嫌が悪い。顔や頭を私の服にごしごしとこすりつけて掻いている。今夜は久しぶりに熱も下がったのでお風呂に入れた。4日間もお風呂に入っていなかったのでおむつかぶれは出来ているし、頭も痒そうだったので、今日は全身きれいに洗ってあげた。普段は頭を洗うと嫌がるのが、今夜は頭をガシガシと洗ってやると目を細めて恍惚の表情をして、寒い冬山で雪まみれの猿が温泉に入っている時のような感じでいる。よほど気持ちよかったのであろう。
風呂上がりに1枚写真を撮ってみた。
腕や足にはさほど出ていないが、胸とお腹、そして背中は凄かった。取りあえず、突発性発疹だったということで一安心。これでもう大丈夫だろう。熱ももう下がった。食欲も出て来た。しかし、この突発性発疹は兄弟でも出方が様々でした。今までの子は軽くて熱は判らないくらいで急に発疹が出て気がついたということが多かったように思うが、これほど熱が出たのは初めてだった。この娘の人生最初のウイルス性疾患はなんとか無事に経過出来たと思う。
02.03.07
今夜はフルコース
木曜日は診療は午前中で終わり。午後は大抵銀行へ行ったり買い物へ行ったりと野暮用が多いのだが、今日も銀行へ行って来た後、こたつで少しだけウトウトしたらもう午後4時半になってしまった。朋子も帰って来ていたので一緒に晩御飯を作る事にした。
「それじゃ今夜はフルコースを作ろう」
と気合いを入れて冷蔵庫を漁ったが大したものはなかった。
鶏のもも肉1枚、腐りかけたトマトが2個、一切れ100円で買った鮭が2切あった。
「よし、これでフルコースを作ろう!」
まずは、もも肉を一口サイズに、腐りかけたトマトの皮を向いて種を取りみじん切り、たまねぎ2個もみじん切り、ニンジンを乱切りしてニンニク、バターで炒めてワインと水、コンソメを足して煮込んだ。取りあえずこれで「とりもも肉のトマト煮」が出来上がり。次は魚料理。
鮭の切り身を茹でて骨や皮を取り半分に切って皿に乗せ、その上にカップコーンスープをちょっと濃いめに溶いたものをかけて、パセリがなかったから青海苔をちょっとだけ降る。これだけで見た目は立派な「サーモンのコーンクリーム風味」の出来上がり。たったの5分。
さてサラダは、ハムが数枚あったので、それを切って、キャベツの千切りとゆで卵のみじん切りにマヨネーズとコショウとからしをもぜたもので済ませた。
スープは時間がなかったので、いつもの味噌汁。大根、ニラ、油揚げ、豆腐入りだ。にぼしでダシをとって田舎味噌を入れた。
ごはんは炊きたてほかほか。
材料費は全部で1000円もいっていないだろうな。それを赤ん坊を除いた6人で食べるから1人頭200円もいかないぞ。
ひとりにつき5枚の茶わんとお皿。洗い物が大変だったが気持ちはとっても豊かになった。
作るのに1時間ちょっと、食べるのは10分。それでも家族揃ってワイワイと食べられた事、「しあわせ~」の瞬間です。
今週の「スズ当番」は朋子。今夜も食事が終わった後朋子と一緒に散歩に出掛けた。真一郎と一緒に散歩しているとずーっとゲームの話になるが、朋子との会話は自分の性格についての話が多く楽しい。
「私はテストなんかでは緊張しないんだけど、人前で何か発表するとかとなると無茶苦茶緊張してお腹が痛くなるんだよね」という。
「失敗したらどうしよう」「みんなに笑われたらどうしよう」「恥じをかくんだったら死んだ方がマシだと思っちゃう」と言う。「算数の計算とか出来なくても、大人になったらどうせ計算機でやっちゃうんだし、出来なくても全然気にしない、それにうちの親はテストで悪い点を取っても怒らないし、だけど、恥じをかくのだけは絶対にイヤ」らしい。「テストの点をすごい気にする子がいるんだけどね、別に悪い点取ったって殺される訳じゃないんだから・・・」 恥じをかいたって殺される訳じゃないと思うが、その辺の価値観が面白い。
でも朋子の気持ちは判る。私もそうだったかもしれない。今はこうやって自分で書いた文章をHPに載せちゃっていたりするが、子供の頃は自分の作文を発表するなんて裸になるくらい恥ずかしかった。
それでいて朋子は何かを発表する、なんて事になると率先して手を挙げるらしい。そんなに緊張してイヤなら手を挙げなければいいじゃないと思うが、「私は口先だけなんだよね。その時はやりたいと思って手を挙げちゃうんだけど、いつも後で後悔する」この辺が私には理解出来ない。私は絶対に手を挙げなかった。
明日は「6年生を送る会」そこで朋子は何かセリフを言うらしい。それも自分で手を挙げてジャンケンで勝って手に入れた役である。それで今夜は緊張してドキドキらしい。とっても変なやつである。順子はそういうのは得意だし、好きだったらしい。私は出来るなら避けたかったことだ。その2人の子供だから変な風に混ざってしまってこうなってしまったのか、何とも複雑なかわいそうな娘である。
02.03.06
明日香がまた熱を出した。先月も喘息様気管支炎で熱を出したが、今回はまた様子が違う。鼻水がちょっと、咳もちょっと、ただ熱だけが40度くらいが今日で3日目。前回のこともあったので、今回は早めに連れて行こうかと午前中に連れていった。「突発性発疹じゃないのかな?」と思いながらも、上の兄弟たちはこれほど熱は上がらなかったので「?」だった。これで今日熱が下がってその後発疹が出て来たら間違いないんだけどなぁと思いながらも病院へ連れていった。案の定という訳ではないが、先生も「これで熱が下がって発疹が出れば突発疹だし、風邪だとしても熱が下がれば問題ないでしょう。」ということだった。お決まりの抗生物質と風邪薬と解熱剤をもらってきた。病院から帰ってから明日香はひたすら寝続けた。上の兄弟たちも祖父母の家に行ってもらって、静かに寝かせた。昨夜も2時間おきに目が醒めて泣いた。今日はよほど眠たかったのだろう。目が醒めた明日香は熱も下がって御機嫌だった。何だか寝て起きたらすっかり治っていたという感じだった。やっぱりもう1日様子を見るのだった、なんて思ったが結果オーライで、とにかく今はやけに機嫌がいい。まだ発疹は出ていないようだが、これから出て来るかな。突発疹は薬もなんにも必要ないから「そのままほっておく」。40度の熱が出てもミルクを飲み、お茶を飲み、おっぱいを飲んでくれたのでさほど心配はしなかったが、やっぱり3日も40度が続くと一度診てもらった方が精神衛生上いいかも。
突発性発疹:ヘルペスウイルス6型というウイルスによる感染症。赤ちゃんが最初にかかる感染症で、6ヵ月以前にかかることもあります。通常39度位の熱が、3~5日つづき、解熱後全身に細かい赤いポツポツがでます。
02.03.03
今日は「ひなまつり」桃の節供である。桃の花が咲くにはまだ日があるが、これは明治時代に暦が太陰暦から太陽暦に変ったため1ヵ月ほどの誤差が出て来たためである。今は梅の花と沈丁花の香りが楽しめるが、旧暦の桃の節供は桃や菜の花を飾ったらしい。「桃の節供」は「上己の節供」とも呼ばれた。「上己の節供」はもともと中国から伝わったもので、江戸時代までこの日は、人々が海や川に行く日だった。「磯遊び」をして「みそぎ」をいたということである。この「磯遊び」が今で言う「潮干狩り」である。「けがれ」を雛人形に託して流してしまおうというのが「流し雛」。また「雛の国見せ」と言って、女の子たちが雛人形を持って小高い丘などに登り、羽織りなどでしつらえた座に座らせ、「国見」をさせた風習が「雛壇」に変化していったらしい。
一番庶民に広まったのは江戸時代。元禄バブルの時。町人や下級武士の家でも、女の子の祭りとして競ってお雛様を飾るようになった。あまりに調子に乗り過ぎたので幕府からお触れ書きが出たそうだ。「蒔絵を使ってはいけない」とか「人形の大きさは24センチを超えてはいけない」とか。「お内裏様とお雛様」という貴族社会への憧れも強かったとのことである。
我が家も今日は「ひなまつり」。女の子が5人(妻も含む)もいる我が家は、子供の日(端午の節供)よりもこの日の方が盛り上がる。
雛壇を飾り(順子が子供の頃買ってもらったもの)、朋子と由香里は晴れ着を着せてもらった。この晴れ着の順子のお古である。お昼御飯は「いなり寿司」。晴れ着は、どこに来て行くこともなく1時間ほどで脱いでしまった。今日は琵琶湖毎日マラソンなので、それの応援に行くのにその着物を着て歩いて行くにはちょっと大変だったので、それにその晴れ着で家中走り回るものだからすぐに着崩れてしまい、収拾が付かなくなったというのもある。
今朝は早くから真一郎が私を「散歩にいこう」と揺すった。眠い目をこすり着替えていると朋子も起きて来た。近所の散歩で済ますつもりが、結局JRに乗って京都まで行き(といっても2駅だが)、そこから東寺さんまで行った。東寺さんは弘法さんのお寺で毎月21日には「弘法さん」と言って骨董市をやっているのだが、なぜか今日は「ガラクタ市」といって、それをやっていた。私ははじめて見る事が出来た。さまざまな骨董品、がたくた品がフリーマーケットみたいに小さな店が並びます。ついつい色々と見入ってしまい、「これいくら?」と声が出てしまう。結局何も買わずでしたが、また行ってみたいと思うところでした。
明日香にとっては今日が「初節句」。「そういえばそうだなぁ」と思い出したくらいで何とも呑気なことである。取りあえず今日まで何事もなく無事に育ってくれたことに感謝です。
参考文献:「祝祭日の研究」「祝い」を忘れた日本人へ 産経新聞取材班 角川ONEテーマ21
02.02.28
月日の経つのは早いもので、今日で2月も終わり。1年の2/12(1/6)が終わってしまったことになる。来月は修了式、終業式。我が家はお受験には縁がないのでそういった勉強準備は必要ないが、次女由香里の入学準備が控えている。といっても、3人目ともなれば慣れたもので差し迫って焦る気持ちはない。ただ学習机を買ってあげるかどうか思案している。朋子、真一郎と買ってあげてしまったので由香里にもと当然そうなってしまうが、それを置く場所がない。いや、あるにはあるのだが4番目、5番目のための置き場所はない。現在、妻の順子の学習机(かなり古いもの)を由香里用として置いてあるが、それをそのまま学習机として使ってもらおうかと考えている。どこの家での同じだと思うが、学習机で宿題などをやっているのを見たことがない。ただの自分のための物置きとなっているのが実状である。とは言え兄姉は買ってもらったのに、どうして私は新しい机が買ってもらえないのだろうと思うのは自然な気持ちであろう。私は親から愛されていないのでは?と不安に思うかもしれない。それを考えると置き場所がとか、お金がという理由で買わずに済ますのはどうだろうかと考えてしまう。このような事で悩んでいるうちは幸せなのでしょう。
たぶん、かわいそうだけど由香里は新しい机は与えてもらえないだろう。その代わりに何か別の物で補おうと思っている。兄弟が多いとこんな些細なことでも悩まなくてはいけないが、こんな悩みは幸せな悩みだからいくらでもOK。
今年の正月に友人からもらった年賀状には一時もてはやされた「マーフィーの法則」が書いてあった。その中でいくつかポンとひざを叩いたものがあった。
バルックの考察 「ハンマーを持つ人には、すべてが釘に見える。」
これを歯科で言うと、「タービン(歯医者でキュイーンと虫歯を削る道具)を持つ歯医者には、すべてが虫歯に見える」とも置き換えられる。何とも恐ろしいことだ。こうはならないよう気を付けねばならない。
「人生の道」の法則 「すべてが自分に向かってくる場合は、反対車線を運転している。」
今までの人生の中でこんな時もあったように思う。そうかあの時は反対車線を走っていたのか。
子供の相対性理論 「高速で移動する乗り物の中では、時間はゆっくり進む。」
これも納得。子供と一緒に新幹線に乗って移動する時、ただただ座っていることが出来ない子供達は、あっちうろうろしたがり、早く到着してくれないかなと思いながら時計を見るが電池切れで止まってしまっているのではと思うほど針が動いていないと思う時がある。なるほど相対性理論はここでも働いているのだと妙に感心した。
ウィルオウパイの法則 「機械は、動かないことを誰かに見せようとすると、動く。」
家電が動かなくなって修理に持っていき「何をやっても動きません、どうなっているのでしょう。」と店員さんにそれを披露しようとすると、何事もなかったかのように動き出す。「いや、さっきまではまったく何しても動かなかったんですよ、おかしいなぁ」と正常に動いているのに「おかしいなぁ」もないもんだが、そんなもんである。歯医者でもそうだ。歯医者に来るまではかなり痛かったのに、歯医者を目の前にするとまったく痛くなくなったりする。虫歯の穴でもあれば、「あぁ、これが痛かったのですね」となるが、虫歯の穴もない場合がある。その時はこちらもいろいろと想像してみて、きっと「これかな?」思うようなところがあればそれを指摘しますが、まったく何でもなければ取りあえずレントゲンを撮ってみて、噛み合わせを調べてみて異常がなければ様子をみることになる。好き好んで歯医者に来る人はいないので、大抵は嘘でないことは明確である。
マーフィーの法則に似たもので「アーゴの法則」というものがあります。パソコンに関するマーフィーの法則ともいいますか、なかなか面白いです。
02.02.26
「BOOK OFFブックオフ」という古本屋へはよく足を運ぶ。家族で出掛けて1時間くらい時間をつぶす。それぞれが本を抱えて1時間後に集まる。途中ですれ違っては、
「何かいいのあった?」
「うん、探してた曽野綾子のが2冊、100円であった」
などと会話をかわしては、またそれぞれに別れていく。
子供は子供でコミックコーナーやらゲームコーナーやらをうろうろしては物色している。「早く帰ろう!」という文句も出ない。1時間ほど楽しんで、順子は数冊の文庫とコミックを私は8冊ほどの文庫とハードカバーを、子供達は1冊ずつの本を抱えて集まった。みんなほとんど全部100円コーナーから探して来たものだ。私は曽野綾子の文庫を3冊、大石静の文庫を2冊、その他軽いめのハードカバーを3冊ほど仕入れた。これで800円は本当に安い。この8冊で2週間以上は楽しめるかな。
親には昔「中古のものは出来るだけ買うな」と言われたような気がする。以前にそれを持っていた人の「思い」が入っているからだとも言う。お金がないために泣く泣く手放したのかもしれない。やたらと思い出の品かもしれない、中には怨念があるのかもしれない。それを受け継いでしまう恐れもある。今では文庫本でそこまでの品はないとは思うが、時々100円の本の中には、たくさん棒線が引いてあるものがある。私は本にはあまり線をひいたりしないが、多くは赤鉛筆、次に赤のボールペン、そしてラインマーカー。線が引いてあるとどうも読みづらい。意識しないようにしてもどうしても意識してしまう。その棒線部ばかりが際立って見えてしまって、その本がまるで箇条書きの羅列みたいになってしまう。「行間を読む」というものがなくなってしまう。「本を読む」ということは、合理的には済まないのであろう。あらすじだけ覚えても仕方がないし、読んでいる時間というものが大切であり、その時間が楽しいのである。
子供の頃は、挿し絵が少ないと読みたくなくなったりしたが、今では逆に絵があったりすると逆にイメージが崩れてイヤな時がある。だから好きな小説なりが映画化されるのはあまり好まない。間違いなくイメージが崩れるからだ。例え主役が好きな女優であっても、やっぱり「違う!」となってしまう。製作する側もそれぞれがいろいろとイメージを持っているであろう。しかし、いろいろと制約がありすぎて妥協に妥協を重ねてあのような結果になると思うのだが、まぁそれは自分の読んだ本とは別物と考えれば良い訳で、自分のイメージと違うからと出来が悪いと批評してはいけないのであろう。あれはあの監督が作ったあの本と似た話を映像化しただけ、と思えば腹も立たない。映画を観て、これの原作が読みたいと思う時がある。でも読んでみると全然イメージが違っている場合も多い。映画の方が良い時もある。
やはり一番壮大なものは、自分の頭の中で描くイメージであって、それを如何に実際の映像として表現するか、または文章として、はたまた音楽として表現出来るか、その表現力にかかっているのであろう。彫刻家も彫って作り上げるのでなく、その石の中から掘り出すのだという。すでにその石の中には素晴らしい作品があり、ただそれを掘り出すだけだ、という。最初にその石の中に作ったのは神だともいう。だからこそ出来上がった時は神に感謝をする。何事もそういう気持ちが大切なのであろう。
ps;ホームページに葉っぱを降らせてみましたが、ちゃんと3枚の葉がひらひらと舞っているでしょうか?ネスケ6.2では葉が左上に張り付いて微動だにしませんが、IEではちゃんと舞い降りてくれます。再読み込みすると何度でも上から降って来ます。自分で作っておいて何だかいつもぼーっと見てしまいます。
02.02.22
仕事を終えて家へ帰ると、お腹を空かせた子供達がピーピーと鳴いている。「もう死ぬ程お腹が空いた」「気が狂いそうだ」と大袈裟である。確かに大人だってお腹が空けばかなり機嫌が悪くなる。赤ん坊だったら大泣きする。部屋に入り、仕事のカバンを置くとすぐに台所に入り、まずは味噌汁のための湯を湧かす。味噌汁の具は何にしようかな、と冷蔵庫の野菜室を覗き込む。そして、今日のメインは何にしようか、他には何を作ろうかと冷凍庫、冷蔵庫、野菜室と隅から隅まで探し、そこでメニューを考える。
そうだジャスコで1尾200円で買った「うなぎの蒲焼き」(不本意ながら中国産を目先の安さだけで買ってしまった。いつもはブロッコリーも国産にこだわっているのに、極力すべて国産を買おうと心に誓ったはずなのに、うなぎが1匹200円!?何とも情けないが気がついたらうなぎが勝手に買い物カゴに入っていた。何とも生きのいいうなぎなんだろう)が残っていたのを思い出し、それを細かく刻んで日本酒で茹で、ささがきしたゴボウとうなぎのタレと共に煮込んだ。本当ならそこに溶き卵を入れて柳川風にするのだが玉子が切れていて、仕方なくカタクリ粉であんかけにした。ハクサイの漬け物と簡単な野菜炒めが今日のおかず。味噌汁はエリンギとニラと大根。
取りあえず今夜も家族皆をお腹一杯にさせることが出来た。そして家族みんなで会話をしながら晩御飯が食べられた。うん、これが幸せ。
犬の散歩に行って、子供を風呂に入れて、寝かせてやっと自分の時間。350mlの缶ビールを一気に飲み干し、落花生を摘んでニュースを見ながら新聞を広げ、落花生のカスが散らかっていると文句を言われながらも赤ん坊をかまい、パソコンの前に座れるのが11時。この文章を15分程で書いてアップロードし、布団に入って12時半頃まで本を読み、寝る。
こんな夜が、「いつもの夜」かな。
今夜の10時のニュースで雪印食品が解散と報じていた。前社長の名前は吉田升三(よしだ ますぞう)氏。この名前が最高。「よしだますぞう」「よし だますぞう」「ヨシ!だますぞー!」と、何とも今回の事件を象徴しているではないか。こんな事でおちゃらけないとやっていられない、何ともやるせない事件でありました。
02.02.21
「風邪は経過させるもの」
野口晴哉(のぐちはるちか)著「風邪の効用(全生社)」の中にそう書いてあります。風邪をいかに早く治すかではなく、うまく経過させるにはということが書いてあります。薬で症状を押さえるのは何も意味がないどころか、せっかく風邪をひいてくれたのに、悪い部分をリセットしてくれるものを、悪いものを身体の中に押し込めてしまうとのこと。風邪の本質について書かれた数少ない著書であると思う。私も少なからず衝撃を受け、目からウロコが落ちた。「風邪が体の掃除になり、安全弁としてのはたらきをもっていることが判るだろう。」と書いてある。自分の経験からしても納得出来る。風邪をよくひく人の方が身体が敏感であり、他の病気に罹りにくい。風邪をほとんどひかない人ほど癌や脳いっ血とか心臓障害等になる傾向が多いらしい。無病だと威張っていた人がぽっくり重い病気にやられてしまう。風邪をひかないほど「丈夫」なのではなく「風邪に鈍い」のだそうだ。風邪をひくと癌にもなりにくいと書いてある。また風邪が重いのは、やはり「鈍い」のだそうだ。
そのひいてしまった風邪をどう経過させるかがいろいろと書いてある。お風呂への入り方、私は風邪をひいた時はお風呂はダメだと思っていたが、お風呂に入って治すのだそうだ。入り方は、「寝際には入らない」(寝際に入るのは、極く疲労した身体を弛め休める、そういう時に限られる)、野菜のアク抜きのように疲労物質を取るにはぬるい湯に長く入るのは良いそうである。風邪の時は「アチッ」と思うような湯にサッと入って引き締めるらしい。アチッと思う温度は個人個人違う。歳がいくほど温度は上がる。その熱い湯に入ると身体が赤くなる。その赤くなり方に偏りが出るらしい。左右の足の赤くなり方が違ったら、赤みの足りない方を余分に湯に付けて赤くしてバランスをとる。それが本当の「足湯」らしい。風呂に入らず「足湯」だけにするのでなく、風呂に入った後の後始末として行うのが足湯とのこと。
「自分は何々をしたら必ず風邪をひく」と思っている人は、必ずそれで風邪をひく。この時期は必ず風邪をひくと思い込んでいる人は、そのようになるらしい。寒いと風邪をひくと思っている人もそうらしい。その思い込みだけで風邪はひくらしい。
その他、風邪に関する衝撃の内容がたくさん書かれてあるこの本は、初版が昭和37年。書店ではほとんど見かけたことがないが、全生社のHPから購入出来る。ちなみに1800円。他にも野口氏の著書はたくさんありどれも勉強になる。興味のある方は一読されるが良いと思う。
02.02.15
今夜、万里子は祖母の家にお泊まりに行った。妙に静かな夜。静寂に鹿威(ししおどし)が「こーん」と鳴るような感じである。家の中がいつもうるさい元凶はあいつだったのかと改めて納得した。残りの子供達もうるさいのはうるさいのだが、格が違う。悲鳴がない。走り回らない。喧嘩がない。奪い合いがない。そうか「アイツだったんだ」。
それでも、いないと何だかもの足りないのは不思議だ。いつもと違う。それだけで何かもの足りない。おかしいなぁ、何が足りないんだろう、そうか万里子がいないんだ!こういうのはしょっちゅうある。「あ、誰々を忘れた!」ホームアローンという映画の世界だが、あれはよく判る。我が子を忘れるなんてとお叱りを受けそうだが、困った事にこれは現実なのだ。
子供の名前を呼ぶ時にも、上の2人はまず間違えないが、3人目から下はよく間違える。「由香里!じゃない、万里子!違った、明日香だ」なんてザラである。子供の方も「おば、おじ、違う、お母さーん」なんて言う。私なんてその次に呼ばれる。これで「スズ」より後に呼ばれたら張り倒してくれようかと思っているが、まだその機会はない。
私も小さい頃は、親から呼ばれるのに兄の名前を言ってから次に呼ばれた。その時はとても腹が立った。だから自分はそうならないようにしよう。ちゃんと一発で間違えずに呼ぶようにしようと心に誓ったのに、このザマである。だからちゃんとその時は謝るようにしている。
今夜はせっかくの静かな夜なのに、朋子の算数の宿題を見てやる事になってしまった。「算数は、お父さん得意だったから、まかせなさい」と、大見得を切ったがあっさりくじけた。小学校4年生の算数とたかをくくっていたのが間違いだった。
問題:長さ2メートルのテープを、よし子さんの方が妹より30センチメートル長くなるように分けます。どのように分けると良いですか?
これを式を書いて答えを求めるのだけど、式が出て来ない。答えはよし子さんが115センチメートル、妹が85センチメートル。式は。正解は知らないが5分も悩んでしまった末に出したのが、200-30÷(割る)2=イコール85 200-85=115 方程式は使えないので、これでいいのかなぁと思いながら答えを書いた。正解はどうなのか、あとでまた娘に聞いてみるつもりだ。今年のセンター試験も一応得意分野は解いてみた。難しいが半分くらいは、問題が理解出来る。「解ける」じゃなくて問題が理解出来るというだけ。こういう風にやる勉強はクイズを解くみたいで楽しく出来る。だけど受験の当事者だった時は面白くも何ともなかった。歯科医師国家試験の合格が判った時は「これでもう勉強しなくて済む、試験を受けなくて済むんだ!」と心から思った。でも試験はないが、勉強はそれからの方がやったかもしれない。それも楽しく勉強したかもしれない。勉強の楽しみを知ったのも卒業してからだ。「勉強って楽しいんだ」と思うなんて思いもしなかった。知りたい事を学ぶ、これほど楽しいことはない。でも今はそう思っても、受験生当時にその事を言われてもまったく耳を貸さなかったと思う。当たり前だよな。
02.02.14
万里子と明日香の喘息様気管支炎もようやく峠を越して、もう普段通りの元気さを取り戻した。万里子が病気で静かだと、こうも家の中が「静寂」というものを感じられるのかと感心してばかりであるが、それもほんのひとときだったので、やっぱり賑やかがいいなぁと思うし、賑やかなのが幸せなんだなと感じる。
峠を越すで思い出したが、実際に峠を越えるということは人間の身体にとってかなりの負担になるらしい。どこかで聞いた話だが、救急車で急病人を運ぶ時、どうしても隣の街の大きな病院へ運ばなければならず、それも一山越えていわゆる峠を越えて行く時には峠を無事に越えられるかどうかが気にするところらしい。無事に急変せず峠を越えたら救急隊員はほっとするとも聞いた。実際に峠を越えるということは思う以上に大変なことなのです。
今の時期、学校と幼稚園の行事がいろいろあって母親は忙しい。幼稚園も「おゆうぎ会(うちではワクワク劇場といいます)」の練習に本番、母親が演じるのもあるので大変。学校も今は毎月授業参観があるんです。来年からは3人が学校だから教室を駆け巡ることになりそう。まだ小学校だけだからいいけど、これが中学と小学校が重なったらと思うとぞっとします。その上、中学校はかなりの急な坂を登ったところにあるから、私は行きたくない。そんな事を言ってはいけないだろうけど、面倒だなぁと思う。
入学説明会なんてものもあるし、来月はもう卒園式、終業式。春休みでちょっと休憩したら入学式、そして恐ろしい家庭訪問。何が恐ろしいって部屋が汚いこと。この荷物はどこへ隠そうか、どこを通って一番まともな部屋にお通りいただくか。ここだけはちょっと目を閉じていてもらってという訳にもいかず、その道筋及び目に入るところを片付けねばならない。ほんの20分程度なのにこの気の遣いよう。こういう姿を子供達はちゃんと見ている。それだけ先生は偉いんだなと思う。それが大事だと思う。親が先生を軽く思ったら、子供も先生を軽く見る。それこそ教育というものが成り立たなくなる。学校の先生にいろいろ反論もあるかもしれない、自分と教育論も違うかもしれない、それでもやはり学校の先生はたてなければ学校での教育は成り立たないのである。教えるものと教えを受けるものと立場は全く違う。個人の自由というものをそこに入れてしまうとおかしなことになる場合が多い。うちの子供も私がさほど教えていないのに算数四則やたくさんの漢字が書けたり読めたり出来るようになった。これは凄いことじゃないだろうか。本来は親が教えるべきことじゃなかろうか。本当にありがたいと思う。こんな愚息共に教育をしてくれるなんて、当たり前じゃん、と思ってしまえばそれまでだが、それをありがたく思う気持ちが大切であるし、当たり前で当然で出来ればもっと、と思うのは欲張りすぎじゃないかとも思う。それが先生の仕事なんだし、我々の税金からその給料が出ているんだから当然という考え方は間違っていると思う。警察官が犯罪者を命懸けで捕まえたり、消防士が命懸けで炎の中の人を助けに入ることも、それが仕事だから当然で、当たり前、そのために我々は税金を払っているのだから、、、と思うのはやっぱり違うだろう。お金のために給料をもらうためだけに犯罪者を捕まえたり、火の中に飛び込むのではないからである。「仁」での行動であり「義」での行動である。何事も合理的に考えてしまうと日本の社会は矛盾だらけになってしまうかもしれない。無駄ばかりかもしれない。しかし、それらの中で本当に無駄の部分も多いかもしれないが、よく判らないがこの無駄みたいなことをやっておくとスムーズに事が進むということもある。「すべてのものには意味がある」というように無用に思う事でも何かしら意味があるのかもしれない。
02.02.11
私はNHK朝の連続テレビ小説が好きだ。あの「いかにも」というお決まりの展開、お決まりのキャラクターの性格も何だか見ていて落ち着く。そんな人のいいヤツはいないだろうと思いながらも、ちょっと雰囲気の違ったキャラクターが出て来ると逆に「これじゃダメだ」と思ってしまう。典型的な日本人、いやNHK的日本人なのかもしれない。そうさせられてしまったのなら恐ろしいことだ。
今やっている「ほんまもん」というドラマ、これがまたいい。木葉の旦那があまりに理解がありすぎて優しすぎて気持ちが悪いが、あれはあれでいい。お母さん役の風吹ジュンさんも好きだ。バファリンだかノーシンのCMのキャラクターそのままのような気がするが、それはそれでいい味が出ている。
どうしてこの連ドラが好きか、自分でもよく判らないが、毎日見ないと気が済まない。見逃してしまった日は、歯を磨き忘れたような、水戸黄門で最後に印篭が出て来なかった時のような完全に物足りなさが残る。人生においてはどうってことないことなのだが、朝食は絶対に御飯と味噌汁と決めている人がトーストとコーヒーを食した時のようなもどかしさを感じる。
今日は晩御飯にその「ほんまもん」の中に出て来た「トンポーロー」を作ってみた。いわゆる豚の角煮なのだが、たまたま「ほんまもん」のHPを覗いてみたらそれのレシピが書いてあったので、それを見ながら作ってみた。最初に豚肉を米のとぎ汁で1時間煮る、というところから始めて、合計2時間半ほどかけて作った力作だった。思ったより肉は柔らかくならなかったが、自宅でここまで出来たら上等と御満悦で皆で食べた。しかし、ちょっとたくさん作り過ぎたのか、他のおかずが多かったのか、一切れだけ肉がどうしても残った。「あと1個、だれか食べない?」「もうダメ食べられない」「あとひとつだけなんだからさぁ」たった一つだからと思うが入らない時は入らない時はあるもんだ。結局その1個、明日になったらひからびちゃって美味しくないかもしれない、と今ならスズ(犬)が喜んで食べてくれるかも、と、スズめしにいれてやることにした。今夜の「スズめし」はごはんに煮干し、それに鮭の入った石狩汁、それに「トンポーロー」だ!!!喜べスズよ。エサ入れの器の一番下にトンポーローを置き、その上にごはん、そして煮干し、その上から汁をかけた。山盛りの器をみてスズは狂喜乱舞。顔全部を器に突っ込んでいるように見える程、ぱくついていた。犬はみんなそうかもしれないが、好物から食べるような気がする。御飯の底のトンポーローは見えないはずだが、鼻先を突っ込んでその角煮をみつけ、ほじくりだしまっ先に食べた。続いて煮干し。最後に惰性で御飯を流し込んでいたように見える。好物は後に残しておく犬もいるのだろうか。煮干しを嘗めて綺麗にした上で隅に置いておき、最後に目を細めながらその煮干しを頂くような犬がいるのだろうか?
さぁていつかは「ごま豆腐」に挑戦するぞ。ごま豆腐の心得を唱えつつ、プチ武士道を目指す私はいつかは美味しいごま豆腐を作ることをひとつの目標にするぞ、と、ここだけで小さな声で言っておこう。
02.02.10
今日は子供会主催のボーリング大会。仕事が終わってから近くのボーリング場に駆け付けた。もうすでにゲームははじまっており、2ゲームから参加した。最近のは子供用にガーターにならないようにフェンスが設けてあり、溝に落ちずにピンまで転がっていくから、左右のフェンスにドタンバタンと当たりながらまるでピンボールを見ているようだ。朋子、真一郎、由香里の3人を連れて行ったが、由香里はまだ一番軽いボールを両手で抱えるのがやっとの状態。一番軽いボールは指を入れる穴が5つあいているのだ。全部の指を入れてそれを左手でも支えて両手でゴロンと投げる、というか落とす。思いきりスローモーなボールにはハエがとまりそうなくらいゆっくりと転がっていく。このままピンまで届いてもピンに跳ね返されそうな感じだが、これがコースがよければ7本くらいは倒れてくれる。スコアもコンピューターがやってくれてただひたすら投げるだけで済むから楽だ。私は子供の前でいいところを見せなきゃと頑張ってみたが、まず第1投目はこれがまぐれでストライク!面目を保った。その後は崩れてしまったが、何とか138点は取れた。3年ぶりにしてはまずまずかな。でもすでに今日は右肩が張っている。無理は出来ない歳になってしまった。
ボーリング大会が終わり家に帰って来たら案の定眠くなってしまい、私と赤ん坊と妻とで1時間ほど昼寝をした。5人も子供がいても昼寝は出来るもんだ。朋子、真一郎、由香里は外へ遊びに行き、万里子は祖母の家に行っている。4時から5時頃まで昼寝をして5時過ぎに外で遊んでいた子供達が帰って来る音で目がさめる。のそのそと起きだし晩御飯の支度にかかる。
今夜は昨日から煮ておいた「鳥の手羽先と大根の煮物」、サラダとコロッケと納豆がおかず。汁は煮物のだしを味を整えて、茹でたほうれんそうを入れたもので済ませた。コロッケは冷凍のものである。最近はやっぱり歳のせいかな、煮物が多くなってきた。肉よりも魚が多くなってきたし、炒めもの揚げ物よりも煮物が多くなったような気がする。以前は圧倒的に炒めもの、揚げ物が多かったのに、やはり身体が欲しがるものが変って来たのであろう。今日はサラダを出したが、やっぱりお漬け物がいい。でも、子供達はそれでは満足しないようだ。大根の炊いたものはあまり好まない。コロッケはバクバク食べるけど。
偏食が多いのが真一郎。一応何でも食べるがほっておくと納豆ごはん、きなこ御飯、ふりかけ御飯しか食べない。とにかく御飯さえあれば満足らしい。何でも好き嫌いなく食べるのが由香里。でも一番元気なのは真一郎で何でも食べる子の方が身体が弱いのはどういったことなんだろう。「ごはん食い」ほど元気な傾向にあるようだ。何でもバランス良く食べるのが良いとされているがそれは本当なのだろうか?よほど片寄った食事もよくないだろうなとは思うが、おかずは適当につまむ程度で好きなものはたくさん食べること、そして御飯と旬の野菜の入った味噌汁は必ず飲ますようにしている。もちろんカロリー計算もしていないし、その時に安かったもの、旬のもの、そして自分が食べたいものを目安に買って調理しているつもりだ。おやつはおやつの時間だけ、飲み物はお茶か水、家にはジュース類はない。夜はフルーツを食べる。今はリンゴかミカン。
親は時々夜食を食べてしまう。これが太る原因だと思うが、なかなかやめられない。私は酒を飲みながら何かをつまんだり、順子はチョコを食べたりしている。子供もそれは知っていて、子供達は「お夜食」のことを今でも「親食」だと思っている。ちょっと前に朋子がお夜食のことを本気で「親食」と書いていたので大笑いをした。大人になったら夜に食べてもいいんだ、と思っているらしい。今も夜の11時過ぎだが、今夜のおかずの残りをレンジで温めている。大根だけが2切残ったので食べてしまおうとしている。これで熱燗と一緒に味のしみた大根をからしをたっぷりつけて食べると、う~ん、もうこれくらいにして親食の時間にします。
02.02.09
私が月に一度お世話になっている勉強会「先哲に学ぶ人間学講座」で、「今年の目標」ということで個人的に自分で決めた事に「常に2冊の本を併読していること」と書いた。私自身は年の初めに目標など決めないのであるが宿題ということで書いてみた。常々2冊3冊程度は併読しているので大丈夫かなと目標として頑張るものでないものにしてしまった。これじゃいけないよね。目標と言うからには「月に10冊読む」とかにしなければならないのでしょう。頑張り屋ではない私は取りあえずこれでいいや、ということで書いてしまった。それでもそれからその目標はほとんど意識していないが、いつものように常に2冊3冊は併読している。今年に入ってもう10冊は読んでいるかなと思う。
私は毎晩こたつで座椅子に座って読むか、寝る前に布団の中で読むかであるが、合計平均1時間前後は読んでいるかなと思う。読む本はかなり片寄っているかな。題名に「日本~」とか「歴史」とかがついているのが多い。昨年は古代史関係が多かった。今は総合的歴史書、啓発もの、俗に言えば「右翼」的な本が多いようである。左翼的なものは最近敬遠している傾向にある。新聞も「産経」だしなぁ。
ここ数冊は武士道に関するものを読んでいる。今の時代、日本人が失ってしまったことによっておかしくなったものに武士道精神があると思う。う~ん、右翼的だぁ。明治のある時期、やはり武士道が流行したことがあった。内村鑑三の「武士道」、山岡鉄舟の武士道、福沢諭吉の著書が相次いで出版された。今はその時と似ているとも言う。これからは武士道精神を取り戻すべきだと言う人もいる。私もそうだと思う。が、どこまで自分に武士道らしきものが出来るかなとも思う。
小さい頃から甘やかされて、物欲のかたまり、精神修行は縁がなし、目先の利益に振り回されて、見た目を気にする。これじゃダメだなと思うが、それだからこそ武士道への憧れというものがふつふつと湧いてくる。まずは武士道関係の本を読み、自分に出来る事からちょっとずつ「プチ武士道」を実践していきたいと思っている。
02.02.07
ごはんを炊いておくのを忘れた。みんながお腹が空いたと叫ぶ中、どうしようかと思った。それじゃ「にぼうと」を作ろう!「にぼうと」は群馬弁というか我が家だけかもしれないが、一般的には「ほうとう」と言うのかもしれない。小麦粉(地粉)をこねて、のばして幅広く切るだけ。名古屋の「きしめん」よりは厚みがある。薄くしなくていいので簡単に出来る。麺棒がなくても大きめのすりこぎでもOK。大根、にんじん、ごぼう、長ねぎ、豚バラ肉、しいたけ、大根の葉、小松菜、何でも放り込んで煮込む。だしはかつおとこんぶでなくてもよい。煮干しでもいいし、それだけ野菜ををいれたらだしもいらない。味付けは醤油だけでもOK。味噌味でも美味しい。身体は温まるし、栄養もばっちり。我が家の味の出来上がり。今は「かぶ」が美味しいから、それをあっさりと浅漬けにして出すと、これがまたうまい。
下の2人の喘息様気管支炎がなかなか治らない。2才の3女はもう元気になってはいるがまだ咳が続く。微熱もあるようだ。赤ん坊の4女はヒューヒューゼーゼーが続く。熱も少しある。今日は病院で吸入をしてもらって少し楽になったようだが、まだいつもの元気がない。それでもミルクは飲んでくれるからまだ安心である。これで寝られず、水分が取れず脱水症状となったら入院だろうなと思う。次女の時にそれは何回もやった。いつでも「あの時よりもマシ」と思うから気が楽なんだろうと思う。咳込みがひどい時は「このまま呼吸が出来なくなって死んじゃったらどうしよう」とかとても不安に思った。それでも何とかなってきた。熱性けいれんの時も「もうだめだ」と思った。それでも何とかなってきた。一歩間違えばということもあるからあまり安心ばかりはしていられないが、心配し過ぎるのも子供に不安させてしまうからどうかなと思う。親はいつでも子供に対して安心なんてことはないのでしょう。やれやれと思えるのはいつになることやら。こうやって少しずつ鍛えられて行くのでしょう。とにかく早く治ってほしい。
02.02.06
毎日のようにメールを書いているが、本当はメールよりも葉書や手紙の方が好きである。キーボードを叩くことも好きだけど葉書に絵を描いたり筆で字を書くのも好き。書いている時間は受け取る相手を思い浮かべて書く。話し掛けるように書く。若い頃はずっと筆無精だったのが、いつの頃からだろう葉書を書くのが好きになったのは。まずひとつの目標をもっている。出来たら週に一度、少なくとも月に数回は群馬の両親に葉書を書くこと。そして月に一度は家族新聞を作って両親や親戚、仲人さんに送ること。いただいた手紙や葉書にはすぐにお返事を書く事を心掛けている。こちらからは絶対に縁は切らない事。出来る限り続けて行きたいと思っている。初めてお会いした人、ご縁をいただいた人にも出来たらお葉書を出したいと思っている。これもなかなか難しいが心掛けたいことである。
電話はあまり好きではない。こっちが忙しかったり、ゆっくりしたい時にも遠慮なく呼び出し音が鳴る。だから携帯も一応持ってはいるが、ほとんど持ち歩かない。必要な時だけ使うことにしている。毎月の支払いがもったいないと思いながらも、やはり便利なことは確かであるし、待ち合わせの時や出先での連絡では必要と思う時も多いからである。うちの妻も電話が嫌い。長電話もそれほど?はしない。やっぱり手紙や葉書で済む用事ならそれで済ませたいものである。いつもメールでやり取りする友達にもいきなり葉書を出してみるのも新鮮かもしれない。やっぱり手紙ってもらってみるといいもんだね、と言われると何だかうれしい。返事が来るというのも楽しみ。郵便受けをのぞくのが楽しみになる。出さなけりゃ来ない、当たり前のことだけど、直筆の手紙をもらうことの喜び、最近味わいましたか?時には懐かしい友達、離れて暮らす御両親、従兄弟とか、おじさんおばさんとかに突然手紙を書いてみよう。きっとまた新たな世界が広がるかもしれません。
パソコンでメールばかり書いていると、漢字がなかなか出て来ない時がある。選択肢の中から選ぶ事は出来てもゼロから漢字を出そうとすると「なんだったっけ」ということになってしまうことが多い。いつも片手にポケット辞典を持って手紙を書いているが、情けない限りだ。日本語をもっともっと極めないといけないなと感じる。英語も必要だけど、まずは日本語をちゃんと書けて話せるようにならなければなと思う。「読み書きそろばん」というのは死語になってしまったが、ちゃんと日本語を話せて日本語を書けて理解するには、読書と手紙が有効だと思う。小学生でもちゃんと話せる子はたくさんいる。大人でもちゃんと話せない人が多い。挨拶が出来ない人も多い。人の話が聞けない人も多い。言葉だけの問題じゃない、人間性の問題かもしれない。人として精進出来ていれば英語が出来なくても欧米人と対等に会することは立派に出来るはずだと思う。そのためにはまずは日本語をしっかりと身につけることであろうと思う。
02.02.04
いつまで続くかこの連続更新。きっと性格上三日坊主だろうと自分で確信しているのだが。
39度の熱を出していた万里子だが、今日もまだ熱が高い。咳き込みも続いている。喉は腫れていないし咳と発熱なので肺炎まではいっていないと思っていた。それでもちょっと長いなぁと思いながら、午前中は祖母に預けて夫婦で仕事に出掛けた。昼に様子を見に帰って来たら祖母が「病院へ連れて行かないなら明日は看てやらない」と言われてしまったので、仕方なく夕方病院へ連れて行った。診断名は「喘息様気管支炎」。やはりインフルエンザや肺炎ではなかった。もうピークは越えていると思うからまた明々後日に連れておいでということだった。病院から帰って来たら何だか少し元気。熱も少し下がったみたい。病院では吸入やっただけらしいから、行かなくてももうすぐ治っていたのかなと気楽に考えている。でも取りあえず少し安心した。何とも呑気な親だこと。
HPを少し変えてみた。比叡山から見た琵琶湖の写真を加工してメニューを付けてみたけどちょっと重いかな?自分がADSLにしたもんで、つい重い画像にしてしまいましたが、表示に時間の掛かった方ごめんなさい。そのうちまた変えると思います。
犬の「スズ」を毎晩散歩に連れて行くのだが、私は毎日なのだが毎回ひとり子供を連れて行く。「スズ当番」というのを決めて一週間交代で長女と長男がやる。朝のエサとトイレ、夕方のトイレ、夜の散歩である。スズ当番でない者は食事の後片付けが待っている。この散歩が最初は面倒だったが、数ヵ月続けているうちに段々と好きになってきた。まずは体調が良いこと。出来たら両手を振って歩きたいところだが、どうしてもヒモを持たないといけないので不自然な歩き方になるのが不満だがそれでも歩く事は気持ちがいい。寒い日や雨の日は行きたくないが、そんな日はスズも行きたくないらしく早々に帰って来ることにしている。それと楽しみなのが、散歩中の子供との会話である。学校での事、勉強の事、友達との事、なぜなに攻撃もあるが、家では話せない事が話せるので重宝している。なかなか2人っきりになる時間もないし、これっていいかもと思う。星が見えていたら星の話、月が見えていれば月の話、人工衛星が飛べば人工衛星の話、無謀な車が走ったり、落ちているゴミひとつでも会話がはずむ。お互い機嫌が悪くてほとんど話をしない時もある。ひたすらどうでもいいことばかりだらだらと話を聞かされる時もある。まぁそれでも共通の時間を共有しているだけでいいかなと思う。子供と話をしていると、自分はその当時どうだったか、どんな考えをしていたか、どんな体験をしたか、いろいろ思い出し、その時に還れる。これは子供をもったものの特権かな。子供の数が多ければ、その回数も多くなる。子供の時の気持ちに戻るってひとつのリラクゼーションみたいな感じ。瞑想にも近いものがあるような気がするな。その時流行っていた曲を思い出したり、テレビ、ラジオ番組を思い出したりね。「仮面ライダー」や「ウルトラマン」は私が子供の頃からあるし、ファミコンは私が大学時代に発売された。初代ファミコンはこんなだった、スーパーマリオは最初マリオブラザーズだったし、それより前は野球とテニスと麻雀ゲームだったかな、なんてことを思い出した。遊戯王カードはなかったけど、仮面ライダーカードがあって、スナック菓子1つに一枚付いて来ていた。それを集めて友達と交換したりしたこと、複雑なカードバトルはなかったから、今の方が凄いな。それでも当時はベーゴマとかやっていたから、そのベーゴマをヤスリで摩って加工したりしていたので手先は今の息子より器用だったように思う。組み立てる飛行機もプラ
02.02.03
おぉ、珍しく連日の更新だ。今日は節分、お昼前から友人に誘われて近江一の宮の建部大社へ正式参拝へ行って来ました。正式参拝すると何だか気持ちが引き締まります。清清しい気持ち。昨日から3女の万里子が39度以上の熱を出し寝たきりになっています。参拝は私と上の子供3人で行って来ました。
「普通、子供が熱を出したらすぐに病院へ連れていくんじゃないの?」と長女が言う。「う~ん、そうかもね」子供の39度の熱は日常的なもんだし、いつもと違う症状でもないし、取りあえず水分は取れているし、食事も少ないけどちょっとは食べているし、大丈夫じゃないかなと行って連れていかない。万里子はひたすら寝ています。時々目を醒ましては辺を見回し、親がいることを確認するとまたバタンと寝てしまう。いつものように薬も飲ませていません。う~ん、いいのだろうか?
先日も長女の左目から涙が止まらなくなって、常にポタポタと流れている。充血はしていないみたいだし、おかしいなぁと思っていました。前髪が長くて目に入っているんじゃないかなと、目に入らない程度に前髪を切ってあげたら、少しずつよくなってきて3日目にはすっかりよくなった。何か他に原因があったかもしれないが、今はOKだ。この時も「眼科に行く」「普通は連れていってくれるんじゃないの?」と聞かれたが「まずは自分で治してみて、それでもどうしても治らなかったり、不安に思ったら相談すればいいんじゃないの」と誤魔化した。いいのだろうか?
夜寝てからゲホゲホと咳が続く時がある。喘息かな?と思って次女の時は病院へ行って気管支拡張剤やら吸入やらやったがなんだかずるずると引き摺った。このまま本格的な喘息になるのではと思っていたが、飲み薬、吸入もやめちゃってほったらかしていたら、そのうち治ってしまった。赤ん坊の明日香も寝付くまでゲホゲホやる時があるが、何もしていない。ちょっと部屋の掃除をしないとほこりで咳き込むのかな?と思う程度。掃除をすると不思議と咳は軽くなるみたい。そうか掃除をしないからホコリを身体に入れまいと出そうとするのか、と無理矢理こじつけてまた医者へ連れていかない。いいのだろうか?
これは我が家流だから、これがいい!なんて言えません。誤解の無きように。
02.02.02
2002年最初の更新は1月を過ぎて2月になってしまった。あれから家族みんな大きな病気もせずに過ごさせてもらっている。昨年6月に生まれた明日香も体重が10キロほどになり肉塊と化している。5人兄弟の普段の風景は、今これを書いているのは土曜日の午後、仕事を午前中で終わらせて長女と私で食料の買い出しに行って帰って来てほっとしているところ。時間は午後4時である。順子(妻)は明日香に母乳をあげている、長女はこたつでマンガを読んでいて、長男は外で近所の子供と遊んでいる声が聞こえて来る。次女はこたつでクレヨンでお絵書き、3女は昼寝をしている。私はそのこたつの脇のパソコンデスクの前でこれを書いているところ。とっても静かな午後である。これがよくある風景といえばそうである。兄弟は女が多いせいかやっぱり男中心の兄弟にくらべればかなり静かなのではないかと思う。大抵休日も大袈裟なお出かけはしないで近所を散歩したり、本屋へ行ったりビデオを見たり程度である。ひとごみが嫌いなものですから子供達に「どこかへ行こうよ」と言われてもなかなか腰が上がらない。お金も掛からないし、散歩がいいな。家族みんなで散歩したらそれだけで取りあえず面白いしね。
今年に入って一番の変化は、インターネットが常時接続になったこと。いわゆるADSLを導入したことかな。申し込んで10日ほどで無事開通して、毎月の支払いもほとんど変らないし、電話代を気にしなくていいし、それに転送が早いのでストレスがかからない。平均して1.5Mbps~3Mbpsは出ているかなと思う。8M契約だけどまぁこれくらい出ていれば十分だ。デメリットはインタネットショッピングに手を出したこと。楽しくてよいのだが、衝動買いに走ってしまいそうになる。これを押さえるのがねぇ難しいんだよね。いろいろな商品を探すのも楽しいし、同じ商品でも安いところを探すというのをやっているだけでも何だか楽しい。デパードでウインドウショッピングをするのは私は疲れちゃってダメなのだが、このショッピングなら楽しい。そして時には順子も呼んで「こんなのまで売っているよ」と引きずり込む。ちなみに最近これで買ったものは、CD1枚(失恋ソングスという私が20代の頃の失恋ソングばかり集めたCD。一曲目が明菜の「難破船」、「会いたい」とか「元気を出して」「シャイニングオン」とかが入っている)、子供のゲーム(TSUTAYA Onlineで9割引だった!ゲームボーイカセットが400円代)、スプリッター(ADSL用の器具)、こんなもんだろうか。どうして買い物ってストレス解消になるんだろう。お金は減るのにね。何だか気持ちがいい。パソコンから「ありがとうございました」なんて笑顔で言ってくれる訳でもないのに、お金を使うのって何だか楽しい。それに飽きたら恐いけど、いろいろ調べて小さな買い物をすることって結構豊かな気持ちにさせてくれるのは間違いないかもしれない。だから毎週の食料の買い出しも好きだ。今日はこれが安い、これが美味しそう、これであれを作ろうと考えるとワクワクしてくる。こんな男はめずらしいかもしれないが、それを長女と一緒にやれることが楽しいのかもしれない。いつまでこれが出来るか判らないけど。
明日は節分。今日買い物に行ったら妙に「いわし」を大袈裟に売っている。何故かと思ったら、節分には「ひいらぎ」の小枝にいわしを刺して軒下につるしておくらしい。ひいらぎも「御自由にお持ちください」と置いてあった。いわしは1匹98円とさほど安くはなかったので5匹で198円の「めざし」で済ませた。これでもいいのかな?
今年最初の育児日誌だけどたいしたこと書けなかったな。これからもあまり期待しないでください。(^_^);
01.08.30
またまた久しぶりの育児日誌になってしまった。あれからいろいろな事があった。まずは6月16日に4女が生まれたこと。名前は「明日香(あすか)」。もう2ヵ月半ほどになるがお陰さまでぶくぶく太って元気一杯である。おっぱいとオムツが大丈夫ならいたっておとなしく、本当に親孝行である。3番目までの子はいろいろ大変だったが、4番目5番目は乳児の間はまったく手が掛からない。親の気持ちにも余裕があるせいかもしれないが、何事にも心配だった1人目の時は、寝ない、おっぱいが出ない、飲まない、泣き止まないなどなど毎日が大変だった。今では良き思い出だけど。
夏休みは毎日子供が勢ぞろいだからうるさくて仕方がない。「にぎやか」を通り越している。女3人で「姦しい(かしましい)」だから、女が全部で5人だと「うるさい」となる。これは男からの視点だけど。それでも男の子が4人だと「喧しい(やかましい)」になるのか、おそらく女の子の方が断然おとなしいだろうと思う。
夏休みに入ってすぐに小学校4年の娘と2年の息子2人で、関西空港から飛行機に乗って「与那国島(よなぐにじま)」に行った。初めて親から離れて暮らす。それも2週間。島では午前中は勉強と海水浴、午後は牧場で馬とか犬の世話をしていたようだ。その2週間で2人はかなり自立したように感じる。2人にとって一生の宝物になったと思う。親から離れることは大切なことだと思う。親が早く死ぬのが一番の教育とも言われているが、何だか判るような気もする。子供は自分でどんどん自立しようとする、それを邪魔するのは親なのである。危ないからダメと言って自立を抑制してしまい、子供もそれに従ってしまいがちになる。親から離れれば親は口出し出来ないから自分で危険を判断して行動し、そして学習する。子供を信じてみましょう。
上の2人がいない2週間で2女(年長)が変った。今まで上の2人に頼りっきりだったのが自分がいきなり一番上になった。それが良かった。家の手伝いも率先してやるようになり、下の妹の世話も積極的にやるようになった。今までは上の姉兄に遠慮していたのかもしれない。「お前はいいんだよ」と言われてばかりだったから、それがなくなって一皮剥けたのかもしれない。
与那国島で犬と遊んだ所為か、長女と長男が「犬が飼いたい」と言い出した。今までにも何度か言われたことがあったが、ごまかしてきた。でも今回は本気のようだ。与那国から犬を連れて帰るという。それはどう考えても無理だから余程欲しいのだったらこっちで買ってやると言った。「絶対にお前ら2人で面倒をみるんだぞ」と念を押し、「どうせそんなこと言っても結局親が面倒をみることになるんだろうな」と思いつつ、飼う事にした。赤ちゃんがいるのにこの上犬まで飼うことにとは。生後2ヵ月の柴犬を飼う事になった。やっぱり子犬は手放しでかわいい。スリスリしたくなっちゃうほど。子犬の世話は今のところ約束通り進んでいる。「え~、今日はヤダ!」なんていうこともある。玄関がおしっこと糞だらけ、それを全部拭き取って綺麗に雑巾掛けしてこい!と叫ぶ。それが出来ないなら捨ててこい!ということになる。それでも何とか頑張ってやっている。そんな大変な時期も過ぎて今は少し楽になってきた。エサも水も散歩も交代でやっているようだ。私は今までにエサも糞の始末もやっていない。あえてやらない。まぁ何とかなるもんです。
最近は2歳になる3女が手が掛かる。ちょうど長女が2歳の時みたいに我がままを言い、泣叫び、我を通そうとする。こっちがキレそうになるがその前に兄姉がキレてくれる。そして相手をしてくれる。長女の時は親がやるしかなかったけど、今はその点まだ楽である。それでもこっちがキレそうな時は遠慮せずキレようと思っている。でもその一歩手前でやめてしまうから、どうも中途半端でいかん。たまにはドカンと怒りたい、という時もあるのに。(^_^);
さて、夏休みも残すところあと1日。宿題は?そう御多分に洩れず今年も終わっていない。80%は終わっているようであるが、最後の仕上げが残っている。今現在も「宿題やらないの~」と親が聞いても「いいのいいの、何とかなるから」と気楽なもんである。そうやって去年も何とかなったから今年もまぁいいかと思っている。自分もそうだったから何とも言えない。与那国行く時も「宿題なんか持って行かなくてもいいんじゃないの」と言うと「持って行く」と言う。「そんなもん持って行くな、向こうでいっぱい遊んでこい」と言うと、意地になって「持って行く」と言う。面白いもんだ。「やるな」というと意地でもやると言うし、「やれ」と言うと「絶対にやらない」という。これも使いようだなと感じた。結局は子供の人生、親がどうしろと言っても結局は子供の人生なのである。我が家では18歳で家を出て行けと言ってある。家が狭くて仕方がないから早く出て行ってくれ、と言ってある。そのためには急いで自分で料理が出来るようにならなければならない。食べるためには仕事をしなければならない、仕事をするには勉強しなければならない。料理を教えてと子供が寄って来る。教えないけど手伝うのは許す。教えないといろいろ知りたがる。でも教えない。だからよく手許を見ている。「これどうやって作ったの?」「味付けは何」それは教えてあげる。何でもかんでも教えてしまうとやっぱりダメみたい。手取り足取りやったんじゃ自分で学ぶということが出来なくなる。
長女は10歳。家を出るまであと8年しかない。あと8年しか。こりゃもうすぐだわ。もっともっと育児を楽しませてもらわなくちゃ。あっと言う間に育児が終わってしまう。
子供5人犬1匹の7人家族。なかなか楽しいぞ~。
01.03.23
「勉強なんてキライ、でもデキルよ」
と、長男が言う。う~ん、面白い表現だと変に感心してしまう。長女は勉強はキライ、出来ないから、となる。でも絵を描く事、工作をすること、文章を読み書きすることは得意だし好きなようである。長男は勉強はキライと言うが端で見ていると好きなようにも見える。自分からやっているから。べつに「やりなさい!」なんて一度も言った事はないが自分からやっている。長女はひたすらやらない。マンガや本ばかり読んでいる。
我が家は、方針という訳ではないが学習塾にはやっていない。娘は造型教室といって絵や工作をする教室に月に2回お世話になっている。長男はチャレンジという通信教育をやりはじめた。どれも自分からやりはじめたことであり、どちらも自分ひとりで出来ることである。
勉強は必要であると思う。小学校で教わる内容は生きて行く上で必要だと思う。細かい内容のことを言えばキリがないが、テストの問題を見ても首をかしげることは多々多々あるが、それでも少しずつ本当の事を本とかを読んで学んで欲しいと思っている。私が教えられることは教えることにもしている。
自分もそうだった。学校の勉強は大キライ。本ばかり読んでいた。本を読んで学んだことの方が多いだろう。教科書はいつも全部学校の机の中。かばんの中には日替わりに本を数冊忍び込ませてひたすら授業中に読んでいたと思う。小学校、中学校はそれでもなんとか授業について行けたがさすがに高校では落ちこぼれた。バンドをやって本を読んで、星をみて、に明け暮れた。どうして学校の勉強は面白くないのか。どうしてあそこまで日本史をつまらなく教えられるのか、どうしてあそこまで数学をつまらなくさせるのか、本当はとっても面白いものなのにと思う。今でも日本史なんかは大好きでいろいろと本を読むが飽きる事はない。数学も受験シーズンは必ず高校受験のテストを解いてみたりです。結構これがクイズを解いているようで面白い。もちろん自分が受験の時は面白いなんて思わなかったけど。
今ではパソコンのことで判らないことは自分で本を買って勉強したりする、それがまた楽しい。こうやって自分の知りたい事を調べる勉強することはまことに楽しいものである。こういう楽しさをいかに教えるかが難しいのであろう。「教わる」ではなく自分で「学ぶ」のである。これはとっても面白いことなのである。
娘も自分の好きな絵を描く事だったらいろいろと調べて研究してとやっている。これはとても良いことだと思う。そういうことで伸びていって欲しいと思っている。きらいな学科を克服するのでなく、好きなものをとことん自分なりに勉強する力をつけること、それが大切なことだと思う。
家では宿題くらいはやってもいいが、それ以外は学校の勉強はしなくて良いと言っている。テストの結果が悪くても決して怒ったことはない。「うちだけだよ、悪いテスト見せて怒らない親は」と娘が言うが、べつにそんなことはいいのである。今は外に出て、自然と接して、人と接して、たくさんの経験をして、その体験からどんなことでも身に付けて欲しいと願う。小学生の今しか経験出来ないこと、子供の視点、子供の感覚、感情、それを脳に刻み込んで欲しい。子供の時の感情やら、その時の感動は一生忘れることはないし、大人になってそれがとても役に立つものである。童心に戻ってというが、その童心がちゃんと育っていないとロクなことにならないと思う。子供は子供らしく、子供の時に子供が体験するべきことを体験しておかないといけない。砂場でドロドロに遊ぶべき時にお稽古をしていたんじゃいけない。子供同士で喧嘩して殴り合う時に、大人が間に入って裁判をしちゃいけない。安全第一じゃ何も経験出来ないし、清潔潔癖じゃ免役も発達しない。もっと子供を信じて、子供の生命力を信じて、見守ってみよう。1回じゃ出来ないけど、2回目3回目にはちょっとは上手になるよ。だから手を出さないで。口で教えるよりまずやらせてみよう。親よりうまくやっちゃうかもしれないよ。
ぎゅっと抱き締めてベロベロなめまわす過保護はいいけど、心も行動もしばってしまう過干渉はやめよう。
01.03.09
いやぁ参った参った。これほどインフルエンザが感染力があるとは。
3月2日から始まった長女の風邪が、4日には長男が、5日には妻が、感染しました。7日には祖母と次女が、昨日は3女が熱を出しました。さてさて私は逃げ切れるかどうか。現在は最初の長女は回復し咳が残るのみ、長男も熱は下がり少しだるいだけ、妻も熱は下がり咳が残るだけ、次女は38度ちょっとの熱で真っ赤な顔をしてうなっています。3女はなんだか今日はもう熱がなくやたらと元気です。私ももちろん元気です。
思い返してみると、結婚して妻が風邪で寝込んだのは初めてかもしれません。妻が言うには記憶がある限り、風邪で寝込んだのは初めてと言います。学校もほとんど休んだことがないという信じられない人間です。風邪気味でちょっとこの日曜日はごろごろしているわ、というのはあったが、本格的に熱が出て起きあがれなくなったというのは初めてらしい。今回私だけが無事というのも信じられないが、寝込んだのが初めてというのも信じられない。
元気が一番、健康が一番、つくづくそう思う。時々仕事が忙しかったりすると「風邪でもひいてしばらく寝たい」なんて思うが、実際にそうなるとやはり元気が一番だと感じる。
これだけ家族で重症でも結局なんだかんだ言って病院へは行かなかった。絶対にいかないぞ!なんて頑張った訳ではないのに。何だかそういえば行かなかったなぁ、という程度である。毎日それなりに少しずつ回復していったし、薬も飲みたがらないし(仕事柄抗生物質やらはあるのだが)、病院へ行くのも面倒だし、外は寒いから出るのイヤだし、連れて行く人もいないし、銀行へも行ってないからお金がないし、結局行かなかった。それで1週間かかったけどほとんどみんなこじらせることなく(肺炎とか脳炎にもならずに)治ることが出来た。う~ん、安上がりな家族だ。ワクチンを打ったら大丈夫だったかもしれないけど、4000円くらいするし、今回の病気でいろいろな事を学べたし経験出来たし、家族皆で一緒に何日も一緒にいられたし、お互いに思いやることが出来たような気がする。テレビもなくてもいいと思えた、無性に本が読みたくなったり、それとお母さんの有り難みが判ったと思う。病気というものはたくさんの事を教えてくれるものです。せっかく病気になったんだから何か学ばなくっちゃね。でも本当にこじらせなくてよかった。
しかし私だけどうして感染しなかったのだろう。もしかしてこれから?クワバラ、クワバラ・・・・
01.03.03
風邪が流行っています。先週から隣のクラスが学級閉鎖になったとか、だれそれが風邪で入院したと聞いていたら、うちも長女が熱をだしました。いきなり40度の熱です。ふらふら状態。夜はうなされるし、何も食べないし、頭が痛い、のどが痛い、からだ中が痛い。自家製はちみつレモンを作ってあげて飲む以外はひたすら寝ています。薬もあまり飲ませないし、飲みたがりません。だからいつもひたすら寝ています。病院へも連れていっていません。それでも今までは何とかなってきました。どうせ病院へ行っても、、、、という気持ちがあるからもしれませんが、もちろんちょっといつもと違うぞという時は緊急でも病院へ行きます。だからうちは医療費がほとんどかかりません。子供が4人もいるのに。やっと今夜から玉子豆腐とトマトシチューを口にしました。水分だけとっていれば死ぬ事はないかなと、40度でも気楽な親です。今夜作ったトマトシチューは、私と息子で作った栄養たっぷり愛情たっぷりのシチューだから、これで元気になるでしょう。
風邪をひくと身体に無理矢理寝かされて、食欲も抑制されて、ひたすら寝るようにさせられます。風邪をひいたら「栄養をたくさんとって」と言いますが、食欲がない時に無理矢理食べてもやはりあまりいいことないかもしれません。これは体験上のことですが。消化することってかなり大変なことだから、そのパワーを免役にまわした方が効率は良いような気もします。水分はとらなければいけませんが、食べ物は必要最小限でいいのではと思います。食べられるのならそれなりに食べてもいいでしょうけど。うちでは40度が2日続いても解熱剤や抗生物質などは飲ませません。今までの経験上のことだから全然すべてにあてはまりませんけど、解熱剤で風邪が長引いたことはあるし、熱性痙攣もおこしたことがありますから、それで懲りました。いろいろと説があり、こうするべきだという御意見たくさんあるかと思いますが、うちではひたすた身体の訴えに素直に従うことにしています。それでもヤバイ時はあるもので、うちでも風邪から入院になったり、死ぬ瀬戸際まだいったこともあります。その時はやはり「これは尋常じゃないぞ」という状態で、「見るからにやばそう」という状態でした。その時は何も迷わずお医者さんにお世話になりました。
うちの子供たちも「寝てれば治るから大丈夫。」と言って病院へ行こうとしません。別にお医者さんが嫌いな訳ではないのですが、自分でも寝ていれば治ると思っているのかもしれません。さすがに自分でもヤバイぞと思う時は、「病院へ行く」と言いますから、その時はもちろん連れて行きます。あるお医者さんが引退する時にやった講演の中で、「ほとんどの病気は足湯に入って、ゆっくり寝れば治る」と言っていたような気がします。ほとんどの病気がどこまでかは判りませんが、何となく判るような気がします。でもヤバイ時は迷わず病院へ行きましょうね。
風邪の時は、うちでは「自家製ホットはちみつレモン」「温かい緑茶」「しょうが湯」「にんにく味噌汁」を飲ませます。子供から欲しがることが多いです。「にんにく味噌汁」は別ですが。これは私の実母に飲ませてもらったものです。私もちょっと風邪ぎみだなと思ったら寝る前にしょうが湯や甘酒やホットはちみつレモンを飲んだりして、足を温めて、早めに布団に入り、ひたすら寝ることにしています。それでもひく時はひきますけどね。
病気の時は子供にひたすらやさしく、やさしく。気持ち悪いくらいやさしくします。間違っても「あんな寒い中遊びに行くから風邪なんかひくんだ」「罰があたったんだ」「もう風邪ひかれると困っちゃうわよ」「どうしてこんな時に限って風邪なんかひくんだろうね」ってなことは言わないように。ぎゅっと抱き締めて、出来たら隣に添い寝してあげて、出来るだけ側にいてあげましょう。それが一番の薬かもしれません。
01.03.01
「え~!明日は雨なのー、ちゃんと約束したのに~」と息子が叫ぶ。
「誰と約束したの?」
「靴と」
どうやら昔子供の頃やった「あーした天気になあれ」と靴を蹴りあげるやつらしい。あれは靴との約束。子供らしい面白い発想だなと思った。
歯医者と天気は関係ないように思えるが、これがそうでもないのである。気圧の谷が来る前から歯が痛くなることも多い。歯のうずきで明日の天気が判るってこともある。気温が大きく変化した時、数日前は「もう春だねぇ」と言っていたのが、また冬に逆戻り、「三寒四温」で暖かかったり寒かったりが交互に来ると身体がついていけなくなる。身体を適応させるのも大変である。若い頃はそんなことは感じなかったが、35才を過ぎたあたりからか、人間は環境の変化に一生懸命適応させながら生きていると実感出来る。寝る時の枕の高さなども若い頃はどんな高さでもガーガー寝られたのが、今ではちょっとの高さの変化で首がこったりする。若い頃は24時間でも続けて寝られたのが、今ではそうもいかない。寝るのも大変と思う事もある。気圧の変化、気温の変化、湿度の変化などにより身体はさまざまに変化をし適応しようとする。
明日の天気はどうかな?明日から寒冷前線の通過かー。すると明後日あたりは急患さんが来られるかな、今の予約だとちょっときついかな、なんて事を考えたりする。
月齢が満月とか新月だったりとかも関係があると思う。データはとってはいないがきっと何かあるだろうなと感じる。
旅行に行くとどうして歯の具合が悪くなるのだろう。
季節の変わり目はどうして急患さんが多いのだろう。
正月はどうして詰め物が取れるのだろう。
緊張するようなイベントがある時は歯の具合も悪くなる。
どうして金曜日の夜から痛くなるのだろう。
喧嘩をした後や、怒られた後、怒った後、寂しい時、悲しい時、なぜ歯は痛くなるのだろう。
明け方に痛くて目が醒めるとどうしていつも4時か5時頃なんだろう。
どうして布団に入ってから痛くなるのだろう。
パソコンをやり過ぎると、肩が凝って、首が凝って、目が疲れて、頭まで痛くなって、どうして歯まで痛くなるんだろう。
たくさんの「どうして?」これは皆さんそうなんです。それには理由があるのです。意味があるのです。
先日、新しくアドビのGoLive5.0というHP作成ソフトをバージョンアップしたものですから、表紙をいろいろと変えたのですが、なかなか思ったレイアウトにならずまだまだ不満はありますが今の型で取りあえず落ち着いてしまいました。アニメーションも入れたいな、javaも使いたいな、もう少しカラフルに、ハイセンスなレイアウトにと思いながらなかなか頭に描いたものを再現するには実力とセンスが足りないようです。出来るだけシンプルに、内容は濃く、を目指して(言い訳にして)、これからもマイペースで更新していきたいと思います。
01.02.14
長方形のコタツから6つの身体がニョキニョキ伸びて、まるでマイコンチップみたい。さすがに正方形の小さなコタツでは小さくて、足がからみ合いすぐに喧嘩になるので実家から少し大きめの長方形のコタツを借りてきた。これだとみんなが足が伸ばせて具合が良い。これでもう一人子供が増えたらどこに座るのだろう?まぁその時はその時何とかなるかなと。
今日も1歳8ヶ月の末娘と5歳の三女が喧嘩をしている。4歳の年の差があるのに対等に喧嘩しているところが情けない。大人気ないとは言わないが、2人で泣きながら叩きあっているのを見ると何だか笑ってしまう。家族は誰も止めようとしないし、まったく無関心。親は笑って傍観している。子供が泣くことに関してまったく動じない親であるが、子供もそれでどんどん一人でエスカレートしていく。泣いている自分に酔っているようにも見える。いかに派手に大袈裟に悲しい顔で泣くか。鏡で自分の顔を確認しながら「よしこの顔なら同情を誘えるかな」という顔を一瞬してから大泣きする。なかなかの演技派である。大粒の涙をこぼし、抑揚を付けながら泣く姿はなかなか見物である。お決まりではあるが、一応泣き終わった後は「よしよし」と抱いてやったりする。それがないとどうも終わりにならないらしい。子供も一応起承転結というか、あらかじめおおまかなスクリプトを考えているのかもしれない。その後はスッキリした顔で機嫌よくなる。これで精神的バランスをとっているのかなと思う。長男も泣く時はハデだ。叱られて悔しい時は一人で階段を降りて(我が家は2階に居間があり、1階は玄関と物置きのような部屋がある)1階へ行き、大声で泣叫ぶ。「ぐわぁ~、ぐおぉぉぉ~、どりゃぁぁぁ~」とひとしきりすさまじい声で泣いた後、ケロッとした顔で2階に上がってくる。これですっきりするらしい。大人も同じかなと思う。なかなか大人は泣けないが、泣きたい事はたくさんある。そんな時は泣けるところへ行き、大声で泣くのがいいのかもしれない。私が大学時代1度留年したのであるが、その時に親に申し訳なくて申し訳なくてとても自己嫌悪に陥った。そんな時に母から電話があり、留年の事は何も咎めずにただ「身体だけは大事にしな。風邪ひかないようにね」と言われた時は、一人暮らしの部屋でまくらに顔を圧し当てて「 吠 え た 」。もう絶対に親に迷惑はかけまいと思った。1時間くらい泣いていたかもしれない。涙も枯れ果ててというのはこういうことをいうのかなとも思った。しかし、その泣いた後の爽快感は何とも言えなかった。「これからだ!これから頑張ればいいんだ!」と思えるようになった。大人も泣いていいんだ。人知れず大泣きしよう!今までためていた涙を流そう!
近頃困ったことに涙もろくなった。テレビドラマというものはほとんど見ないのであるが、映画や読書で、あるいは誰かの結婚式で、新聞の投書欄を読んでなど、「ええ話やなぁ」と思うと「ほろっ」ときてしまう。なかでも一番弱いのが、結婚式の花嫁の両親への手紙である。「お父さん。私が小さい頃病気で熱を出したときに、おぶって病院へ駆け込んで入り口を叩き『開けてくれ~!』と叫んでくれましたね。私は恥ずかしかったけどとてもうれしかった。」なんていうのを聞いてしまうともうダメだ~、それ以上言うな!もう一言いったら泣いてしまうぞ、というところまでいってしまう。どうしても自分の娘と重なってしまうのだろう。今からこれでは先が思いやられる。長女ももうすぐ10歳。18歳で家を出るとして「あと8年しか一緒に暮らせない!」ではないか。人生はあっと言う間。もっともっと育児を楽しまなくてはもったいない。あと8年で何がしてあげられるだろう。子供というものは親を育ててくれる。子供が親を大人にしてくれるもの。「大人」というとまたいろいろな意味があって何だか悪いイメージがあったりするが、良い意味で自分を高めてくれるということ。「子育ては親育て」とはよく言ったものである。子供達にうまく自分を育ててもらいましょう!
01'01.24
あんなに大騒ぎしても21世紀は当たり前のようにやってきた。これが21世紀の世の中なのかな。いつもと変わらない毎日は数十年前に思っていた「未来」ではないような気がするがよくよく考えてみるとそうでもないかもしれない。確かにたったの10年前と比べてみても違いはかなりある。10年前私がパソコンをはじめた頃。70万円以上払ってマッキントッシュを買った。延々と続くローンと思っていたがもちろん今は払いきっている。今ではその高価なマックの数十倍の処理能力のものが10万を切る値段で売っている。そして我が家にもiMacと、このパワーブック、そして職場にもうひとつのマックがある。この3つのマックの合計金額も70万には届かない。
10年前と違うところは、この居間を見渡してみるとそのパソコン以外には何だろう?まずは子供が増えていることだな。電化製品はほぼ一緒のような気がする。。沸騰ポットは何故か電気のいらない魔法瓶に変わっている。レーザーディスクもなくなっている。ほとんど使わないが携帯電話というものが置いてある。熱帯魚の水槽がなくなっている。ベッドがなくなった。ファミコンが64になっている。石油ストーブがしまってある。カセットテープがなぜか部屋にころがっている。小学校1年の息子が当たり前のようにパソコンをやっている。取りあえずこんなもんであろうか。10年一昔というが我が家の居間ではそれほど「未来」になっている感じではない。私のパソコン環境に関してはどうだろう。パソコン通信だったのがインターネットになったという大きな変化はあった。しかし日常的にやっていることと言えばそう変わったところはないような気がする。毎日メールを書き、掲示板をチェックし、フリーウエアをダウンロードし、たくさんのフォーラムをのぞく。そして時々オフ(オフラインミーティング)に参加する。これが10年前のパソコン環境である。それが今は、emailを書き、フリーウエアをダウンロードし、いくつかのホームページを覗き、自分のホームページを本当に時々更新し、、、。いやいや何も変わっていないかもしれない。処理能力は何十倍にもなっているはずなのに、相変わらずキーボードで10年前と同じスピードで文章を書いている。頭の回転は何十倍にはなっていないことは当然である。98のMS-DOSでパソコン通信やっていた時と今ではどこが違うのだろう。グラフィックやサウンドに関しては大きな進歩があると思うが、実際に私自身が10年前にやっていたことはそれほど変わっていないような気がするのは気のせいだろうか?もちろんパソコンがある生活とない生活ではまったく違うと思うが(私にとって通信をやることに関してだけだが)、10年間で驚いたほどの変化がないもんだなとつくずく感じる。これがパソコンがない生活だとインターネットの変わりに手紙やファックスなどを用いてコミュニケーションをするのかもしれない。雑誌を通して知り合った人とやり取りを行うことは可能である。もちろん情報交換にはパソコンよりも時間はかかるもののまた違った愉しみがあることは間違いない。メールでやり取りするのは便利でいいが、私も手紙や葉書はよく利用する。メールを送れる人にも
私は目標というものを掲げない。今年の目標、21世紀の初頭にあたっての決意などその場で聞かれたら何か適当に答えるかもしれないが、結局すぐに忘れてしまうと思う。今度はここまで進むぞ!というものを決めてもまったくそこまで達したことがないと思う。しかし、自分が決めた道をはずれていなければそれで良いと思う。あまり頑張りたくないのかもしれない。辛抱強く頑張って最大限の努力を精一杯一生懸命に力の限りやり抜き通すなんてことをやっていたら私は1年もたないだろう。情けないとも思うが、これでいいかなと思う。目標を決めたり、何かその時に決意することは結構なことだと思う。しかしそれにとらわれてしまうのはどうかと思う。取りあえず毎日を一所懸命に生きて、目の前の出来事を瞬時に判断し選択し、自分に出来る事を着々とこなすことくらいしか出来ないみたいだ。それさえも十分出来ているとも思えないが。
21世紀初頭にあたり取りあえず今年の目標は、自分はもう若くないと思うこと。(こんなことを書いているのが情けないが、最近よく妻からも言われるもので)今年からパッチ(ももひき)をはくようになった。ちょっと寒くても頑張ってきたのに、一度はいたら脱げないぞと判っているのに今年からはきだした。これも自分はもう若くないからと自覚したからであろう。先程学校から帰ってきた小学校1年の息子は驚くほどの薄着で帰ってきた。上は長そでの薄いポロシャツ1枚だけ、下は下着のパンツと半ズボンだけである。この真冬の雪でも降るのではと思うような天気のなかで。それでいて暑い暑いという。走って帰ってきたから余計に暑いという。何とも信じられない感覚だ。
「お願いだからもう一枚着てくれ。見ているこっちが凍えてしまいそうだ~」
00'11.5
あっという間に月日は過ぎ去り今年も残り2ヶ月となった。昨年5月に生まれた4人目の万里子も今ではヨチヨチと歩いている。離乳食の時期はいつだったのだろう?与えた記憶がないところが育児のいい加減さが判る。歯磨きもまだやってはいないが、上の兄姉と共に歯ブラシはくわえている。気が付いたら歩いていた、気が付いたらカタコトをしゃべっていて、気が付いたら会話している。親は御飯をあげておむつ(これはまだはずれないが、上の子供もトイレトレーニングというのはほとんどやったことがない)を替えて、お風呂に入れて、手を引いて歩いているだけ。あとは上の子供達がうまくやってくれている。兄弟が多いとその点は本当に楽である。親が育てるというか、兄弟同士でうまく生きていくという感じが強い。兄弟間でいじめもあるし、仲間はずれにもされる。陰に隠れて悪いこともやっているだろう。それでも全体としては仲良く元気に育っていると思う。4人も授かって良かったとつくずく思う。
4人でも満足していたが、神はまだ私達に修行が足りないと感じているのか、それともこれ以上私達に幸せを与えてくれるのか、きっと深い深いお考えがあるのだと思うが、5人目を授かってしまった。
4人目を授かった時は少し戸惑いがあった。不安と喜びとが交叉し頭の中で現実的なシュミレーションをやってみて将来の不安も少なからずあったが、今回はひたすらうれしい。いろいろと考えてしまうとそりゃ心配も不安もあろうが、ケセラセラである。
来年の6月17日が予定日となっているが、その時に上の姉兄は10才(女)、8才(男)、6才(女)、2才(女)となり、一番上が20歳の成人の時にまだ生まれくる子供は小学校4年生ということになる。一番下が20歳で私達は58歳。よし、まだ60前だ。何がよしだか判らないが何とかそれまでは頑張らねば。何も頑張るかは決めていないが、、、、。まぁ子供達で何とかしてくれるだろう。自分が自分らしく生きることしか出来ないし、それを見て欲しいも何も見られてしまうわけだから、子供の育児のためとか気にせず自分は自分の人生を生きるのみである。とは言いながらも育児ということを気にしながら行動してしまうだろうなと思うが、自分はそれをあまり意識していない。良い父親を演じるということは非常に疲れるし続かないしすぐにボロが出る。実際の見本は私の実父しかないのだから後は頭で考えても仕方がない。
子供が大きくなるにつれ、食費がかさむようになってきた。本当によく食べる。今日は日曜日だが、朝昼晩と家族の食事を作る私は、休みの日は一日中食事を作っている気分になる。嫌いではないからいいが、これが苦手の人ならたまらないだろうなと思う。食事の準備をして食べさせて後片付けを終えるとすでに次の食事のメニューを考えている。外食などとんでもない。1回外で食事をすればマクドナルドで安くあげても3000円弱はいく。それ以外のところでは5000円は軽く超えるし、今日はちょっと贅沢になんて言ったら1万円がひらりと飛んでいく。1回の買い物で8000円くらい、その食材でなるべく1週間はもたせるようにする。野菜は旬の安くて美味しいもの、肉は特売の安いもの(おもに鳥肉やブタコマ、バラがメインかな)、乾物も多く利用する。魚も旬の安いもの(さば、いわし、あじ、が多い)。なんと「糠漬け」もやっている。毎日かき混ぜないといけないが、これで1品になるし、子供がむしゃむしゃ食べてくれるので頑張り甲斐がある。治療中に私の手が糠味噌臭いと感じた方ごめんなさい。夏の間は冷蔵庫に入れていたが、最近少し涼しくなってきたので外に出してあげたら一気に発酵が進み、1日に2~3回かき混ぜてあげないと御機嫌が悪くなる。御機嫌が悪くなると味にすぐ出るので大変である。それでも新鮮な野菜を入れてあげると本当に美味しい。ちょっと古くなっちゃったから糠床へ入れちゃえとやるとやはり美味しくない。その日に取れた新鮮な野菜、そのままでも食べられるような野菜を入れると1日で本当に美味しくなる。最近はもうきゅうりが高くなってしまった(1本30~50円くらい)ので、他のものを探している、かぶも出てきたし、ダイコンも少しは美味しくなってきた。何だか育児から程遠い話になってしまった。
話を戻して、やはり5人は多いかなぁ。周りを見渡すと5人兄弟はもう1家族ある。6人という家もあるらしい。知っている中では5人が最高。やっぱり今どきめずらしいよな。先日幼馴染みの友人からこんなことを言われた。「子供をたくさん作っただけで世の中に大きな貢献をしている。それだけでもかなりの偉業だ。その偉業を成し遂げたらあと他のことは余分なものだから適当にやるがいい。」という内容のことだった。この言葉には何だかとても気が楽になった。またいろいろと悩んでいた時だっただけにこの言葉はうれしかったなぁ。
5人の子供。来年からはどんな生活になるのだろう。楽しみ楽しみ。しばらくするとそれぞれみんな食事の時に自分のお茶碗をもつだろうから7人家族で御飯茶わんが7つ、味噌汁椀が7つ、おかず皿が7つ以上、箸が14本。う~ん、洗い物が大変そうだ。いつまで7人揃って食事が出来るのだろう。きっと思ったほどは長くないんだろうな。子供達には「18才になったら家から出ていけ」と言ってあるので、長女が末っ子と一緒に暮らすのはたったの8年。やはり短い。今のうちに十分楽しませてもらわなければ。もったいない、もったいない。時間がないぞ、人生なんてあっという間だー!
00'3.5
「わたしピアノ習いたい!」
とうとう来たか、このセリフ。そんな感じだった。今度小学校3年生になる長女がピアノ教室に行きたいと言い出した。今までは我慢していたのか、そういった事を一言も言わなかったのが、先日友達の家に遊びに行った時、うちの娘以外の友達はみんなピアノを習っていて、自分だけ仲間に入れなかったとのことだった。我が家はまだ誰も習い事をしていない。周りの友達はスイミング、バレエ、英語、学習塾などなど多岐に渡って通っているようであるが、うちは皆無である。別にそういう方針という訳ではないが、送迎する時間もないし、お金もないし。ひとり行かせれば次の子にも行かせない訳にはいかないし、出来たら行かせたくないなと思っていた。(親の勝手だが)
私自身は小学校の時に書道教室へ通っていた。一応四段を持っているが、今現在書いている字を見ると到底それは想像出来ない。それほどヘタである。ピアノを習いたかったが、それは親に「お前はやらなくていい」ということで叶わなかった。私の兄は習わせてもらったのに、ということをずっと根にもっていたのは事実である。それだけに悔しくて自分で独学でバイエルをやり現在に至る。絵画も習いたかったがこれも叶わず、好きでちょこちょこと描いていた。今でもピアノと絵は下手の横好きで続けている。
こういった狭い少ない経験から考えた場合、やりたいけど出来ないという状況は人を貪欲にさせるような気がする。やらされるとやりたくなくなるもの、ダメと言われるとやりたくなるものである。勉強も同じである。学問はそもそも面白くて仕方のないものである。それを勉強ということになるとどうしてあれほどつまらなくなってしまうのだろう。もっと知りたいという欲求は尽きないものだと思うが、何がつまらなくしているのだろう。学問は覚えるものではなく、発見すること。自分でどれだけ考えて調べて発見し、そして感動しまた探究していく。ただ暗記して、その暗記能力を試すテストをするだけならそれは間違いなく学問ではない。
話が横道にそれたが、結局「ピアノ教室」の件は、、、、。娘に私が使ったバイエルを渡して、これで自分でやってみなさいと言った。妻は子供の頃習っていたので基本は出来るし、私も少しなら教えられる。学校が終わって家に帰ってきて「宿題した?時間割りは?」その上に「ピアノの練習したか!?」が増えるのはあまり好まない。好きな時に好きなだけ弾くのがいい。自分で独学でやるのに限界を感じたらその時に習わせればいい。それまでに変な指のくせがつくからという意見もあろうが、別にピアノで飯を食う訳ではなかろう。(わからないが) とにかく送迎は出来ないし、みんなに習わせるお金もない。だから習わせられない。それでいいかなと思う。それでもやりたければ学校で練習するなり、友達の家でやるなり、自分なりになんとか考えるだろう。近くのデパートの楽器屋さんへ行っても、弾き放題弾かせてくれる、やろうと思えば何とかなるものだと思う。そんないい加減に考えているが、専門家に言わせれば間違いなのかもしれない。もっと早い時期に正しく学ばせないとだめなのかもしれない。でも現在おかれている環境ではこれが精一杯である。ということで、我が家では習い事は今のところ回避された。しかし、絶対に習い事はやらせないと考えているわけではない。出来る限りのことはしてやりたいという気持ちはどの親でも同じだと思う。
00'1.2
久しぶりの育児日誌になりました。いつの間にやら2000年になってしまい、2000年問題も多くの人の努力で大きな影響もなく通り過ぎた感じに終わった。
2週間ほど前から長女が熱をだし、それが治まったら次女が、そして3女が年末から熱をだし、群馬に帰省するつもりが企画倒れになってしまった。これは、今回は帰省するなということだなと思い、家でおとなしくしていることになった。もし帰省していたら途中で事故を起こしたかもしれない、病気をしたかもしれない、と考え、暇な正月だけど無事に終わったから善しとしよう。何よりも元旦に家族揃って新年の挨拶が出来たこと、それだけでも幸せである。3年前は次女が正月から入院だった。家族揃って新年から「あけましておめでとう、今年もよろしく」と挨拶が出来たことは何よりも幸せなことだろうと思う。
昨年秋より市波治人師について勉強させてもらっている。歯科についての勉強だが、学ぶことは歯科の分野だけに留まらず、医学(解剖、生理、病理など)、人類学、日本世界歴史などに及び、全身の中の一部として歯をみるように心掛けること。そういった目でみると今まで見えなかったものが見えてくる。これは他の分野でも同じことではないだろうか。医学においても各科細分化されすぎて全体をみることを失っている。それによって見失っているものはかえって多くなっているのではないだろうか。物事を顕微鏡的にみることも大切であるが、同時に一歩退いた目で全体をみることも必要だと思う。この治療はその歯にとっては必要であるが口の中全体にとっては、身体全体にとってはどうであるか、それらを総合的に判断し結果的にプラスが多いことにならなければならないのである。まだまだ私もこの道を歩み始めたばかり、先はかなり長そうである。今年もいろいろ「気付き」があれば良いと思う。既成概念にとらわれず独自の視点で独自の考え、独自の発見が出来ること、それが出来れば悔いのない人生になるだろうとも思う。
99'6.16
4人目の子供は大変である。親が大変なのではなく赤ん坊が大変だと思う。上の兄姉には寝ているところを起こされ、つつかれ、頭をなだまわされ、鼻の穴に指を入れられ、体操をやらされて、だっこされて、見ていてもかわいそうである。お腹がすいて泣きじゃくっても相手にされず、おむつが濡れても泣いても気が付いてもらえず、本当にかわいそう。それでもたくましく、うるさくても、つつかれても良く寝る。ひとり目の子供の時は、ちょっと泣けば、やれおむつかお腹が空いたか、それとも具合が悪いのかとあたふたしたものでした。だっこしてもあやしてもおむつを替えてもおっぱい飲んでも泣き止まず、もう限界だと思うこともしばしば。今は子供に「万里子ちゃんが泣いているよ」と言われても、「万里子ちゃんはそれが仕事だからちょっと泣かしておきなさい」で済んでしまう。万里子は必死に泣く。ほとんどやけくそで泣いているようにも見える。上の子供達がいい加減に泣き声がうるさくなったのか、あやしにかかり、だっこしたりする。「お母さん、いい加減におっぱいやったら!」「おむつが濡れてるよ!」と言われる。まぁ4人目はこんなもんかな。取りあえず、これが当たり前のように書いていますが、実はこんなことは全然当たり前なことではなく、数々の奇跡の上に成り立っているものと思わなければならないのだと思います。まずは生きていること、元気であること、ちゃんと呼吸していること、おっぱいが出ること、おっぱいを飲んでくれること、どれも奇跡なのである。それらすべてに感謝しなければならないのだと思います。たくさんの幸せの集まり、たくさんの奇跡の集まり。これを当たり前の事と思ってはいけないのだと思う。自分は世界一の幸せものだと思っています。そしてそれが皆様のお陰様なのです。
99'6.5
お久しぶりの日記帳になってしまいました。家のこたつをしまってしまったらノートパソコンを置く場所がなくなりピアノの上に置いておいたらその上に洗濯物を乗せられ日記が書けませんでした、と言い訳しておこう。
周りの皆様のお陰をもちまして5月29日(土曜日)午後8時3分に4人目の子供が無事生まれてきました。3716gの女の子は妻にしては難産でした。4人目にして初めて立ち会い出産をした私はとても感動させてもらいました。以下、その立ち会い出産記を記してみます。
立会い出産記
妊娠が判ってしばらくした時、今までは考えてもみなかった「立会い出産」というものにとても興味をもちました。出産には男は追い出されるものと考えていた私は、最近は立ち会う人もいると聞いて「物好きな人もいるもんだ」と思っていました。しかし、4人も子供がいて一度も立ち会わなかったというのも何だか悔しく思い、これを逃すと一生のうちで2度とチャンスはないと考えると無性に立ち会ってみたくなり、出産を見学(失礼な言い方だが)してみたくなった。人に聞くと「とても感動する」「子供に愛着が湧く」「女のすごさ、大変さが判るようになる」などなどいろいろアドバイスを受けた。ふむふむなるほどそんなものかと思っていた。「きっと泣くぞ」とも言われた。いやいや今までに出産のビデオは見たことあるし、大学でも出産ことは簡単ではあるが学んできた、だいたい想像はつく、きっと想像をちょっとだけ越える程度だろうと思っていた........。
その日、妻は歯科医院で仕事をした。土曜日は午前だけの仕事なので午後1時過ぎに家に帰り2人で昼食をとった。「このままだとまだまだ出てきそうもないから、ちょっと西武デパートでも歩いてくる」と言って出掛ける準備をしトイレに入った。なかなか出てこない。私はピアノを弾いていた。「今日はずいぶんと長いなぁ」と思っていた時にトイレから顔をチョイと出した妻の口から出てきた言葉は「産婦人科の電話番号は何番だったっけ?」。。。。。「破水」だった。
立会い出産を希望したものの、仕事があるから簡単に出来るとは思っていなかった。仕事中に抜け出す訳にもいかず、休日か平日夜だったらとは思っていた。まさか土曜日の仕事が終わった後だとは思わなかった。予定日前にも深夜に何回か陣痛らしきものが来ていた。一度は深夜に起きて着替えて入院準備をして次の波が来たら病院に電話をしようというところまでいった時もあった。しかし、そのまま陣痛は消えた。それから落ち着いて眠れぬ日が続いた。今か今かと、今日か明日かと思うと、仕事をしていても落ち着かない。そうそうするうちに予定日が過ぎ、3日経過した。そんな慌ただしさもちょっと落ち着いて「全然出てきそうもない」と話していた時だった。
トイレから出てきた妻は「どうやら破水したみたい。間違いない。」という。急いで入院準備をし、病院にも電話を入れた。近くに住む両親に3人の子供を見ていてもらおうと連絡をとったが、留守だった。子供に事情を話した。「赤ちゃんが生まれそうだから、お母さんを病院に連れて行ってくる。3人でしっかり家を守っていてくれ」と言い残し車で3分ほどの産婦人科医院へ足早に車を走らせた。
病院へ着いてすぐに内診していただき、そのまま入院。病室へ入り点滴をしてもらう。静脈の確保だろう。陣痛はまだきていない。まだしばらくかかりそうなので、スリッパやお茶のティーバックやらの忘れ物を取りに家に帰った。買い物に行っていたという両親にも連絡がとれ、事の次第を伝えた。再び病院へ戻り病室で妻とひたすら待つ。あまりに暇なので私は文庫本を読んでいた。山田太一の「親が出来る事はほんの少しばかりのこと」という本だ。1時間ほど経っただろうか。内診しますからと看護婦さんが呼びにきてくださり、私は1人部屋に残された。ひたすらその本を読んでいた。それを読み終わり、意味もなく窓から外をみたり、部屋の中をウロウロしたり、何とも動物園の熊状態になってしまった。1時間、2時間と時間はどんどん過ぎていく。内診をすると言って出ていった妻はどうしているのだろう、そのまま出産になってしまったのだろうか、立会い出産を希望することはちゃんと伝わっているのだろうか、何か問題がおこったのだろうか、といろいろ想像力をふくらましていた。再び本を読み返した。
しばらくすると看護婦さんがタオルがあるかと聞いてきて、それを渡した。「いい陣痛が来ていますから、あともう少しだと思いますよ。立会い分娩を希望されているのですよね。その時がきたらお呼びしますのでもうしばらくお待ちくださいね。」とのことだった。この言葉でちょっと安心した。しかし、それから2時間たっても呼びには来てくれなかった。本も2回目が読み終わり、いい加減にやることがなくなってきたので、行儀が悪いなと思いながらテレビをつけた。巨人ー阪神戦だった。しかし、いつものように見ていて落ち着かないのは当たり前か。いろいろとチャンネルを回してみてもおもしろそうなものはやっていなかったので取りあえずテレビをつけていた。今から考えてもそのゲームのことは何も思い出せない。
結局4時間ちょっと待ったところでお呼びが掛かった。私はさてとと、ふんどしをキリッを締め直し、いやズボンのベルトをきゅっとしめて分娩室に向かった。看護婦さんが手洗いをするようにと言った。白衣を羽織りいそいそと室内に入っていくと、そこには強いライトを浴びた「扉」があった。その「扉」は、あっちの世界とこっちの世界を隔てる扉、今まさにその扉をあけて赤ちゃんが登場するのである。
「途中、私と看護婦さんと先生で話が盛り上がっちゃって、ちゃんと酸素を吸えなかったから赤ちゃんの心拍数が下がってきちゃって、ちょっとやばかったんだよ」と妻。私はどんな顔したらいいのかなと苦笑い。「どうもお世話になります。よろしくお願いします」と私。私が入ってきたところで初めてのいきみに入るらしかった。「どう?痛い?」と聞くと。「痛いなんてもんじゃないよ」とあっさり返された。冗談も言える状態ではないようだ。それから生まれるまで私は一言も言葉を出さなかったと思う。
陣痛の波がが来る。
「さ~て、それじゃ行くよ。それ、イチ、ニのサーン」
「う~~~~んっっっ」
「もう一回すぐ息吸って~、イチニのさ~ん」
「う~~~~~ん」
「はい、ちょっと休憩休憩」
それがくり返し行われた。
「センセイ、また来ました。」
「よ~し、まだまだまだ、はい大きく吸って~、イチニのさ~ん」
30分から40分ほどこれが続いただろうか、時間はあまり良く判らなかった。ただ判っているのは私は何もしていなかったこと。ただの傍観者であったことだけだ。
「はっ~、はっ~、うぅぅうう~、あっぁあああ~、、、、」妻が発する声も今まで聞いたこともないような声だった。先生も看護婦さんも「頑張れ!もう少し」と常に励ましていてくれた。わたしはと言えばただ呆然と声も出さずに見ていた。手も握っていなかった。ただ見ていた。
「赤ちゃんの頭が見えてきたよ、もう少し。頑張れ!」と看護婦さん。先生はお腹を押し、扉を探る。「さてもう1回、イチニのさ~ん」
やっと頭が出てきた。完全に「紫色」だ。間をおかず身体もゆっくりとこぼれ落ちるように羊水と共に出てきた。身体は血の気がある。取り出された赤ちゃんは口と鼻からバキュームを入れてもらい20秒から30秒後にやっと産声をあげる。この間、私を含めてその場にいる人たちはきっと息を止めていただろうと思われる。緊張の瞬間である。「ふんギャ~」と産声をあげ、しばらくすると徐々に顔に赤みを帯びてきた。まだ太いへその緒で結ばれている。手足はまだあまり赤くない。かなりの無酸素状態だったようだ。周りの酸素をむさぼるように赤ちゃんは声をあげ酸素を取り込む。それとともに全身に血液がまわりはじめる。やっと一安心。だと思った。
みんなが大きくためいきをついた。「頑張ったね、女の子さんですよ」「お疲れさん、よくがんばったね」先生と看護婦さんから労いの言葉をいただいた。私は呆然と佇んでいた。目には大きな涙を溜めて。「ありがとうございました」という言葉を出すと涙がこぼれ、声を出して泣いてしまいそうだった。ひたすら頭を下げていたと思う。妻と見つめあった。「お疲れさま」と言えた。
しばらくしてやっと先生たちに「ありがとうございました」と声をだして言えた。何回言っただろう。数えきれないくらい言ったと思う。まだこれでお産は終わった訳ではなかった。「後産」胎盤を出すのだ。これもけっこう痛そうだった。ニュルって出てきた胎盤はなかなかグロテスク。袋状になっていて袋の底には肝臓みたいな、血液の固まったようなものがあってそこから太いへその緒が繋がっていた。それがはがす訳でもなくスルっと出てきた。不思議なものである。この間に赤ちゃんは産湯につけてもらいきれいにしていただいた。体重を計ると「3716g」そんなにあったのかと驚いた。きれいになった赤ちゃんをまじまじとみて、思わずニヤっとしてしまった。4人目でも何人目でもうれしいものである。そして何にか判らないが手を合わせてお礼を言った。
「無事に生まれました。ありがとうございます」
立ち会ってみて、分娩室は男の入るところじゃないと言う気もした。とにかく何の役にもたたないのである。邪魔なのである。私がいたことで妻は少しは心強い気持ちになったのだろうか。安心したのであろうか。これも本当のところは判らない。ただわたしとしては立ち会って良かったと思う。それはこういったものナマで見ることが出来た、いい経験をした、凄い体験をしたという気持ちが強い。妻と気持ちが通じあえたとか、2人で産んだなんてことはほとんどない。妻と赤ちゃんが頑張った、そして先生と看護婦さんの手伝ってくれた。私はそれを見ていた。それが事実である。「女性は凄い」これは実感である。長生きするのも当然のような気がする。少しは出産の大変さが判ったでしょと言われる。その通り、想像以上のものであった。あれは大変だ。産後にしばらく休むのも当然であり当たり前のことである。あれを知っていれば妻にももっと優しく出来るような気がする。今はそんな気がする。子供を産めることをうらやましく思いさえする。
しかし、出産とは不思議なものである。いろいろ考えてみればみるほど不思議なものである。このシステムを考えた人(神?)は半端じゃなく凄い。それが自然というものであれば、自然の偉大さはとてつもないものである。到底人間の知識、知恵の及ぶところではないと思う。すべてがうまい具合に出来ているもの。すべてに意味があり、小さなことにまで気を配り絶妙のタイミングでそのプログラムが着々と行われていく。その壮大なドラマをナマで見る事が出来た私は本当に幸せものです。まだこのドラマを御覧になっていない方々。必見ですよ。機会があれば必ず1度は体験させていただいてください。
4人目の子供は1人目と大違い。1人目の子供は30分おきに起きては泣き、だっこから降ろせば泣き、おっぱいは出ない、飲ませば吐く、夜も眠れず、イライラつのる。ノイローゼになるのではと思う程でしたが、さすが4人目ほとんど手が掛かりません。母乳は出るしよく飲むし、よく眠ります。ひたすら寝ます。お腹が減ったら起きて泣いて、たらふく飲んでまた眠ります。夜も1時から7時頃まで寝ますから、ただ部屋にベビーベッドが増えただけといった感じです。まぁこれからまた変わってくるとは思いますが、今のところは心も身体も休めています。そして家族みんながやさしくなっています。名前は6人の家族を紡いでくれるようにと「綾子あやこ」と名付けました。これからこの赤ちゃんが我が家にとってどんな役割を果たしてくれるのでしょうか、楽しみでなりません。そして5人目は授かるのでしょうか。またそれはあとのお楽しみということで。おっと綾子が泣いているのでこの辺で失礼します。
99'4.27
テレビを置く高さというのは難しいものだ。テレビ台の上に置けば子供には高く大人にもちょっと高い。床にそのまま置くと子供には丁度良いが大人にはちょっと低い。子供は一番良い位置を探して立って見たり、コタツテーブルの上に座って見ようとする。しかし、コタツテーブルの上に座ることは我が家では禁じられている。だから正座して見るか座って背中を丸めて首をあげるというとても悪い姿勢で見ることになる。これが悩みの種である。寝転がって見たりするのも良くない。立って見るのも疲れる。ソファでもあればいいが我が家にはない。やはり今どきのテレビ台というのはある程度の高さのあるソファに座ってみるように出来ているのかもしれない。コタツで座ってみるには高すぎる。そのため姿勢が悪くなり、これがまた噛み合わせにも関係すると思う。
それと食事をしながらテレビを見る事。これがいけない。我が家では食事の時はテレビは完全に消すことになっているが多くの家庭ではテレビを見ながら食事をしていることだろう。テレビを見ながらだと横を向いて食べることになる。首を横に向けて噛み合わせるととてもバランス良く噛むことは出来ない。これがいつも決まった方向を向いて食事をするとなるとやはり問題である。やはりいろいろなことを考えてみて食事中はテレビを消すべきであろう。子供はテレビを見ると「こぼす、気が散る、だ液が出づらい、噛む回数が減る、味わいが減る」などいろいろなデメリットがある。こぼせば親が怒る、怒られれば美味しくない、せっかく作った人に失礼、いろいろな面で悪循環に陥る。大好きな子供番組であっても、親がどうしても見たいニュースであってもやはり消すべきであろう。大人のニュースは特別ではない。プロ野球中継も特別ではない。やはり消した方がいい。子供よりお父さんからまず不満がでそうだな、、、、。まずは大人がやらなければ子供には何も言えない。ジュースもお菓子もまずは親がやめること。しつけはまずは自分からである。
99'4.25
昨日から一気に3冊の本を読んだ。神戸幼児殺人事件の手記である「淳(じゅん)」と「「少年A」この子を生んで」、そしてベストセラーの「五体不満足」。どれも3時間前後で読み終える本だったが、なかなか考えさせられるものがあった。読みたい本はたくさんあり過ぎて困るというか、うれしいというか、とにかく時間が足りない。子供が音楽に合わせて部屋を走り回っていても、ビデオで盛り上がっていても、その脇で読書が出来るようになった。少しの時間があれば少しだけ読むことが出来る。時間がないから本が読めないというのはやはり言い訳だろう。自分も確かにそういう言い訳をしていたからなぁ。
さて今度のゴールデンウイークはどうしようかと考えている。妻が臨月を迎えるので旅行というものは出来ないが、子供だけを連れて日帰りでちょっと出かけるくらいは出来そうだ。「子供に海らしい海を見せたい」という希望がある。まだ大きく広がる海を見せたことがない。先日福井に行った時、思う以上に近いことが判ったのでぜひ子供に水平線を見せたいと思っている。車で3時間弱、ちょっと出掛けてみようと思う。やはり琵琶湖とは違った迫力を感じてくれるであろう。
99'4.16
毎日更新のはずが、このざまで情けない。続ける事に意味があるということで細々とマイペースで続けることにします。メニューの(ほぼ毎日更新する予定)というのは消そうかと思いましたが、やっぱり自分にむち打つために残しておこうと思う。
昨日妻が産婦人科へ検診に行った。順調だった。今回は性別が判った。「女の子」らしいとのこと。どちらにしても元気であることに感謝感謝。これで女男女女となり家族構成は男2人に女4人となる。また家族の雰囲気が変わるだろうな。楽しみ楽しみ。
今日は患者様から老人会でちょっとお話をしていただきたいという依頼を受けました。どんなことを話そうかと今いろいろと考えている。だいたい骨組みは決まった。全身の健康と歯の関係および「青春」について。何だか老人会のみなさんに青春とは変だと思うが、そこが意外なところ。青春とは10代20代の頃のことではなく、気持ちの問題だということ。それを歯のことに関連づけてお話したいと考えている。まだ細かいところは何も考えていないが何とかなるだろう。今から楽しみです。結婚式などのスピーチ以外で、また歯科医師として話をするなど初めてだからとっても緊張する。2年前まで人前で話すなんて考えてもみなかったし、自分はそういうのが苦手で人前では何も話せないと思っていた。話してもきっと面白く話せないし、きっと失敗して、恥をかくと思っていた。でもヘタでいい、ヘタがいい、と思ったら楽になった。かっこつけず自分なりに話せばいいやと思ったらとても気が楽になった。カラオケも最初は絶対に歌わなかったけど、一度歌ったら結構好きになったしなぁ。最近歌ってないけど。たまには歌いたいなぁ~。
99'4.6
明後日から学校と幼稚園が始まる。今日は妻と長女との間にひとつの約束が出来た。2年生になったら「宿題は?時間割りは?」というガミガミをやめるという。毎日このセリフに追われ、「はいはい」と応え重い腰をあげる。このセリフをやめると自分から動かなければならない。自分で宿題をかたずけて、自分で時間割りを調べて準備しなければならない。当たり前のことだがこれが彼女にとっては難しいことだったようだ。忘れたら忘れたで自分の責任、自分で何とかすることに決めた。娘はホッとする反面、少々不安なところもあるようだ。「やっぱり毎日言って」と言い出すが、もう遅い。今辞めなければこれからもずっと言わなければならないだろう。妻も不安なようだ。ほっておくと本当に毎日忘れそうだからだ。実際にそうなるかもしれない。でもそれでも今回は決意したようだ。私はそれに賛成である。「お母さんが言ってくれなかったから宿題忘れた」などと言い訳するくらいなら、大いに自分で恥をかいて欲しい。今はたくさん恥をかいて学んで欲しい。たくさん失敗して恥をかいて欲しい。
99'4.5
「赤ちゃんって何でできるの?」と7歳の朋子が聞いた。「何でってどういう意味?」
「例えば、お母さんに修行させるためとかさぁ」
これには驚いた。赤ちゃんはお母さんに修行させるためのものか。う~む、そうなのかな。でもそれも少しあるかもしれないなあ。「そうだとしたらまだあと1人くらい出来るかもしれないよ」「どういう意味じゃそれは!」まぁ何ともおませな娘だことで。
5歳の真一郎はこんなことを言った。「赤ちゃんがたくさん出来て、たくさんの家族になって、みんな元気で賑やかなおうちになるといいね。」「たくさん家族がいて賑やかなのって好きだな。だって楽しいもん」「4人だけじゃ少ないかな?」と聞くと「うん、5人か6人兄弟がいいな」とのこと。でも育てるの大変だぞと言うと、「大丈夫、ボクが育てるから」と頼もしい答え。しかし、5、6人はどうかな、お母さんの体がもたないかもしれないな。(笑)
99'4.4
昨日の日曜日は朋子と真一郎を連れて登山に出発した。朝7時に起床し、お弁当を作って、車にのって目的の山のふもとへと向かった。標高300メートル弱の小さな山(三上山)は、高さはないが近江富士というだけあって途中はなかなか急な斜面がある。登山口にある神社でお参りをして、いざ出発。子供達は前の晩から楽しみで仕方なかったようで、当日朝も目覚ましが鳴る前から起きていたようだった。弁当も自分でつめた。水筒も自分で用意した。タオルに財布にバンドエイドにとそれぞれ自分のリュックにつめた。
山へ登ると人が変わる。いつも喧嘩ばかりしている姉弟もお互い助け合ってやさしくなっている。すれ違う人とも大きな声で「こんにちは!」と挨拶する。草花に顔を近付け声をかける。木に抱きつき話し掛ける。清水をすくって飲む。がんばってがんばってやっと山頂へ到着。そこに広がる絶景を見た子供達の生き生きとした瞳は忘れられない。眼下に広がる琵琶湖がまた美しかった。来て良かったと思った。
登山は下りがキツイ。ひざががくがくしてきた。でも子供達は元気である。そこから希望ヶ丘公園まで歩いてそこでフィールドスレチックまでやって、それでもまだ足りずひたすら走り回っていた。私はしばし休憩。午後2時頃にやっと帰ることに賛成してもらい、家に帰る事が出来た。私はバタンと倒れ1時間半ほど昼寝をした。子供達は外へ遊びにいった。何とも凄いパワーだこと。
昼寝から起きたら2人の絵日記が出来上がっていた。それを見て「やっぱり行って良かった」と思った。また行こうと思った。穏やかな自然は人をやさしくしてくれる。自然が人をつくってくれる。
99'3.30
「神様には悪いことした事が全部バレバレなの?」と聞く長女。「そうだよ、影で悪い事したことも、誰も見ていないところで善いことをしたのも全部お見通しなんだよ」と答える。人の前だけで善いことをするのじゃなく、神様はいつも見ていてくれるから見ていないところで善いことをしてもちゃんと誉めてくれるんだ。誉めるっていうのは自分にうれしいことが起こるってこと。今日楽しい事があったのは、この前あの善いことをした御褒美なのかもしれないね。「ふ~ん」
こんな会話をしていてふと考える。自分はどうかと。人の前だけで善いことをやりがちではないか。人の見ていないところで悪い事をやっていないか。人の前ということでなく、子供の前では善い大人を演じ、子供がいないところではありのままの自分でいる。これが当たり前なのか、そういうものなのか。
99'3.29
先週から子供が春休みに入った。一日中家にいる。でも私たち夫婦は仕事。それでも子供は3人でコロコロ遊ぶ。子供の遊びには親はいらないようである。食事の時間には近所の祖父母の家へ行き食べさせてもらう。自宅にもご飯が炊いてあるのでお腹が空けば自分でご飯をお茶碗によそって適当なおかずで食べる。上の子が下の子に食べさせる。みごとにひとつの社会が出来上がっているようだ。
仕事から帰ってきたらこたつの上に1枚のメモが置いてあった。これは笑えた。
「ガイア、ティガ、ダイナへ、、、、、いずみちゃんをたすけたければここにきなさい」
ウルトラマンへの脅迫状らしい。いずみちゃんとはリカちゃん(人形)の友達である。どうやら息子のウルトラマン人形と長女のリカちゃん人形とでお人形さん遊びをしていたらしい。リカちゃんのいずみちゃんがお茶を飲んでいるところへウルトラマンが遊びに来る。「あれ?今日はお仕事ないの?」とリカちゃん。「昨日怪獣やっつけちゃったから今日は暇なんだ」とウルトラマン。「今日は美味しいお茶が入ったから飲んでいって、いつもご苦労様」そこへ昨日やっつけられたナメゴンがやってきて、「昨日は参ったよ、あんなにやることないじゃない」と何だかすごい会話をやっている。子供3人でこんなおママごと。楽しそうでしょ。
99'3.28
今日はパワーブック(PowerBook1400cs/133)のシステムを入れ替えた。と言ってもバージョンアップしたのではなく、バージョンダウンをした。8.5を入れていたが、あまりにも遅いので7.5.3に戻しました。う~ん、快適快適。(笑)ことえりでの入力も早い。ネットスケープもコミュニケーター4.5から一気にネスケの2.01まで下げた。う~ん、十分十分、それに早い早い。何をやるにも早い。
最近パワーブックが遅いなと嘆いていまして、こりゃG3のパワーブックを買わなければいかんかなと思っていたところ、まずはHDDを掃除してシステムを入れ替えようと思い、バックアップしてHDDを初期化してふりだしから始めた。ちょっとは早くなったがやっぱり遅い。PowerPC603eにはマックOS8.5は重荷かもしれないと、もともとのシステムに戻したら、やっぱりこれが快適。何も問題ない。ちょっとした便利な機能はなくなったけど、それでも十分。しばらくパワーブックはこれで行こう!
99'3.25
今日は午後から休診。ハローワークへ行って求人募集を出し、床屋へ行って、家へ帰ってきて夕食の支度をした。今夜はまず煮豆を作った。そしてメインは中華。とり肉とチンゲンサイ、にんじん、たまねぎ、しいたけを炒めて塩、こしょう、みそ、しょうゆ、豆板醤、患者さんからお土産にいただいたXO醤で味付けをし、だしを入れあんかけ状態にした。ごはんにかけて食べると中華丼のようで美味しかった。
子供にも手伝わせた。これがやっかいであり楽しくもあり、必要なことだと思う。3歳の娘にも手伝わせる。たとえそれがスープを運ぶだけのことでも、またそれを運ぶ途中にこぼしてしまったとしてもやらせる意味はあると思う。自分の手伝った料理は一生懸命に食べる。こぼしてしまってもそれを拾って食べる。自分で拾わせる、自分で拭かせる、「もったいない」という事を教える、これらを徹底しているつもりである。それでもこれだけ食べ物が溢れているとなかなか実感として「もったいない」と思わせるのは難しい。それをどう思わせるか。まず親が本気で「もったいない」と思うことかもしれない。
99'3.24
やりたいことがたくさんありすぎて困ってしまう。
子供ともっと遊びたい。ピアノが弾きたい。ギターが弾きたい。曲を作りたい。バイオリンかチェロを習いたい。水彩画を描きたい。油絵も習いたい。はがき、手紙が書きたい。凝った料理を作りたい。ゆっくりパソコンで遊びたい。ホームページを充実させたい。時間を気にせずロールプレイングゲームがやりたい。ゆっくり本を読みたい。山歩きに行きたい。電車の旅に行きたい。温泉に入りたい。勉強がしたい。あげたらきりがない。
人生は本当に短い。あっという間に終わってしまいそう。さて何をやろうかと考えている暇もない。毎日を一生懸命生きる。今、死んでも思い残す事がないように生きたいものである。
この連休は結局どこにも行かず家にいました。天気が悪かったこともありましたが、私は家で水彩画を描いていました。子供は子供同士3人でコロコロ遊んでいました。妻は妻でゴロゴロしていました。お金も掛からず家族5人水入らずでずっと過ごしました。こんな休日も嫌いじゃない。取りあえずみんな一緒にいよう。今だけかもしれない、今日だけかもしれない、明日は判らない。一緒にいられる時は一緒にいよう。
99'3.19
昨日は久しぶりにデパートに行った。広告に気に入った絵があったのでそれを目的に見に行った。目的の絵を仕入れたとたんにドッと疲れが出てきた。人込み、混雑、人の波、人、人、人。どうもこれには弱い。人に酔ったようだ。帰り真際にはふらふらになって、押し出されるようにデパートから出てきた。帰りの車の運転も眠くてしかたなかった。家に着いたら熱っぽい。頭が痛い。食欲もなく早く寝た。身体が寒い。どうやら風邪をひいたような感じになった。明日は仕事なのにまずいなと思いながら必死に寝た。朝起きたら熱はないもののまだ身体がだるい。熱っぽい。何とか仕事をこなしたがまだ本調子ではない。
どうして男は(私だけかも)人込みにいるとストレスが溜まるのだろう。妻はすこぶる元気。人込みに行くと元気が出るという。ストレス解消になるという。いやはやなんとも判らないものである。目的もなく人込みをブラブラするのがストレス解消だという。私は公園や山へ行ってブラブラするのはストレス解消になり元気が出てくるが、妻はそれの方がストレスが溜まるという。これは男と女の差なのかもしれない。夫婦というのは難しいものである。
息子はデパートに行く時は留守番しているという。どうやら息子も嫌いらしい。公園や山に行く時は絶対に行くのに。娘はデパートには御機嫌でいくのに、自然のなかに行くのはそれほどでもないみたい。やっぱりこれは男女の差なのかもしれないと思った。デパートに行くと暇なお父さん方が休憩所でタバコを吸っている姿をよくみるが、最近は全館禁煙。休憩所も禁煙である。なかなかたばこを吸うお父さんの居場所がなくなっていくようである。私もしばらくデパートには行きたくない。この連休はちょっと自然に触れてパワーを充電してこよう。妻は「今度は一人でゆっくりウインドゥショッピングしてくる」と言っている。私もそうしてもらいたい。なかなか夫婦は難しいものである。
99'3.17
病院の屋上から琵琶湖が望める。今日はポカポカの小春日和。湖面もきれいな明るい緑に輝く。自然は芸術家。なんてきれいなんだろう。切り取って残しておきたいが、絵に描いても、写真に撮ってもこればかりは再現出来ない。目に心に刻むしかないのであろう。
子供も日々の笑顔は芸術的である。これもビデオに撮っても、写真に撮ってもそのまま残せるものではない。思い出として刻むしかない。画像として残しても、なんで違うのだろうと思う。どこが違うのか、判らないがあの雰囲気は残せない。笑顔は笑顔でもそこから何か発するものがあるのであろう。それを受け取っているものがあるのであろう。なんだろう、なんでしょうね。笑顔から何が出ているのでしょう。それを受け取るととっても元気になるんです。親って。子供も同じじゃないかな。親の笑顔を待っているのかもしれない。親の笑顔で元気が出るのかもしれない。みんな笑顔で家族が成り立つのかもしれない。
99'3.16
今の世の中は変な世の中。不景気を回復させるには「いらないものを買う」のが良いという。なくても良いものが売れる時には景気が良いという。地域振興券もそれの一貫。半年の間に無駄遣いをしなければならない。いらないものでも買わなければならない。貯蓄は出来ないのである。無駄がいっぱいあればあるほど豊かになる。
こんな世の中、やっぱりおかしい。いつまでも続くはずがない。どこかで歪みがくるはず。子供の教育上にもよくないんじゃないのかな。お金を大切にして、無駄遣いするんじゃないよ。貯金しておきな。という、よく私達が親に言われたことの反対を国が無理矢理やらせるのですから。これじゃダメだよな。一時的に数字の上で面目がたつのかもしれないけど、結局悪い種を植えてしまったようなもの。そのうち変な花が咲いてしまいそう。
さて地域振興券、どうしよう、、、、。
99'3.15
絵本を読むのは楽しい。子供に読んであげるというよりも自分が読みたい。子供に読んであげるのを口実に自分で声を出し声優さん気分で読む。大人が一人でやっているとカッコ悪いが子供に読んであげているとなると思いきってなりきって出来る。子供も盛り上がる。
絵本の世界は別世界。夢の世界。何でも思い通り。自分も主人公。
時には読んであげる事がとっても面倒な時もあるけど、こっちも楽しんで読んじゃいます。「がおォ~、ガオォ~」スパーミラクルチョースペシャル怪獣がやってきたぞ!こんなんでその気になってくれるなんてやっぱり子供ってチョロいもんだな、と思いきや、結局遊ばれているのは親だったりします。いつも遊んでもらっている、楽しませてもらっている、喜ばせてもらっているのは親ばかりなんですよね。
99'3.14
今日は朝から小春日和。久しぶりに家族で琵琶湖畔まで散歩に出掛けた。おやつを持って、お絵書きセットを持ってみんなでワイワイ散歩。琵琶湖についたら偶然にもいつも仲良くしてもらっている御家族に合った。子供達同士総勢6人でワイワイ遊びだし、私は琵琶湖をスケッチ。2枚ほど絵を描きあげて子供達と一緒に遊んだ。何も遊具もないのに子供達はみんなでよく遊ぶ。犬が来ればみんなで追い掛けまわし、釣りをしている人のところへ集まっては覗き込む。岩場の探検。面白い石探し。石蹴り。凍り鬼。遊びは尽きない。みんなでおやつを食べてまた遊ぶ。4時頃になり風が冷たくなってきたので「そろそろ帰ろうか?」と言ってもみんなでブーイング。
こんな日曜日っていいなって思う。夫婦も子供を眺めて目を細め、子供について語る。自然の中で無心に遊ぶ子供の姿って本当に美しい。いろいろと学ばされます。
今日私と長女が描いた絵は田舎の曾祖母とおばあちゃんに送ってあげようと思う。
99'3.12
うちの子供達は恥ずかしいことに一人も3歳前におむつが取れたことがない。これはうちの場合ひとえに親の怠慢に他ならない。トイレトレーニングというものをやったことがないのである。3歳の次女もまだ取れていない。生活の中のほとんどのことは出来るのにおむつだけがはずれない(トイレを教えない)のである。出たら教えてくれるが、出る前には言わない。うんちをする前には部屋からすっと消えて隣の部屋へ行き閉じ隠っている。しばらくして出てくると「うんちでた」とポツリ言う。自分でおむつを持ってきて、自分でおしりにあててあとは留めるところまでやる。そこまで出来るならトイレに行けるだろうと思うがそれがなかなか難しい。上の2人も次女由香里のおむつ交換をやってくれる。うんちのおむつも取り変えてくれるので助かる。上の姉兄も「はやく自分でトイレに行ってよね、大変なんだから」とぼやく。文句をいいながらもいつも手伝ってくれることには本当に感謝している。
おむつが取れるのは遅いが取れる時は早い。3日で取れる。あまり自慢にもならないがほとんどおもらしはないし、寝小便もない。トイレも上手にやる。これはやはり子供が気を遣っておむつをしていてくれるのかなとも考える。その方が親が楽だから。長女の時は最初1、2回トイレトレーニングをやった。だが結局腹がたつだけで何も進歩はなかった。親も子もイライラした。こんな思いするならずっとおむつの方がいいと思った。それからトイレトレーニングはやめた。あきらめは早い方である。きっとこれから生まれてくる子供も3歳過ぎまでおむつをしていることでしょう。それに母乳も長いこと飲んでいるだろう。こんなことはあまり人には言えないが、うちはこれでいいやと思っている。
99'3.11
今日は妻がお腹の子供の検診に行った。もう8ヶ月だというのにまだ3回目の検診。なんとも不養生なこと。それでも取りあえず順調なようなので一安心です。時々お腹が張ることがあるのですが、これは4人目ともなると子宮が下がってきやすいので疲れ過ぎないように気をつける様言われてきたようです。超音波の写真を見せてもらっても股間についているものははっきりせず、今日も性別は判らなかった。こればかりはどうしようもないのですが、やはり早く知りたいものです。もう男女両方いますからどちらでもいいと言えばいいのですけどね。
今回の出産は何とか立ち会いたいなと思っています。以前までは立ち会いなんてとんでもないと思っていましたが、4人もいて一人も立ち会っていないというのも何だかもったいないような気がしまして、もうこれで最後になるだろうし(多分)、まさか自分の娘の出産に立ち会うのもなんだし、最後かと思うと無性に立ち会いたくなりました。4人目はかなり早く出てきそうなので陣痛が来たらすぐに駆け付けられれば良いのですが、仕事中だと難しいだろうな。患者さんたちも楽しみにしてくださっているので「すぐ行ってあげなさい」と言ってくださるとは思いますが、なかなか困難でしょうね。でも出来たら立ち会い出産を経験したいと思っています。またその時は報告させていただきます。
99'3.9
昨夜は勉強会へ行ってきました。毎月1度の勉強会はかれこれ1年ほどになります。勉強会と言っても歯科に関するものではなく「先哲に学ぶ人間講座」というもので、昔の凄い人からいろいろと生き方について学び、それを仕事に生かしていこうというものです。集まるメンバーは社長さんやら所長さん、学校の先生、等などさまざまな職種の人が集まります。医療関係はわたしひとり。毎回10人程度で学びますが、昨日は「吉田松陰」と「孟子」。なかなか難しいのですが、言っている事はけっこうシンプル。やさしく解説してもらうと、なるほど現在でも十分通じるなと思います。もちろん自分が行っている医療にも十分応用出来ることで、医療にあてはめて考えていかなければならないことだと思います。
吉田松陰は29歳で殺されるわけですが、自分が29歳の時はどんなだったろうと考えると、本当に恥ずかしいほどです。29年間にどれだけの経験をしたのだろう、どれだけのことを学び考えてきたのだろうと思うとやはりそこから自分達は学ぶべきことがあるのだろうと思います。吉田松蔭が当たり前のようにやってきたことは私達にとってはまったく当たり前ではないことであり、それぞれ置かれた環境によって学ばされることは違うもの、そこからどう学ぶかはそれぞれの人の「志し」次第ではないでしょうか。材料はいくらでもある、ヒントはいくらでもころがっているもの、見えないのはそれを見ようとしないからではないのかなと思います。あれもこれも「ない」と考えるより、あれもこれも「ある」と考えることが大切なのだということを学びました。
99'3.7
当院の治療のお手伝いをしてくださるスタッフを募集致します。受付及び治療のお手伝いをしてくださる方(パート)、治療方針に賛同してくださる歯科技工士さん(院内勤務)を募集致します。技工に関してはまずはベテラン技工士(義父)の指導のもと、しっかりとした技工の基礎を学んでいただきます。受付に関しては、患者さんに喜びを与えられる明るく元気な方を募集します。経験及び年令、性別は問いません。
自然に学ぶ医療を一緒に実践する意欲のある方、メールかお電話で御連絡ください。
077ー527ー1655 栗原歯科医院
99'3.6
暖かくなりました。今日は病院も暖房を切って、私も長い白衣を脱ぎ半袖の白衣1枚でいられました。お彼岸が過ぎるまではまだ寒い日がくると思いますが、三寒四温で確実に春が近付いているようです。季節の変わり目には体調を崩しやすいもの。それが暖かくなる変化でも身体がそれに適応するのは大変なことです。あまり無理をしないようにしましょう。
人間がバランス崩す原因は大きく分けて3つ。「気圧、食事、心」です。飛行機に乗って違う文化の国へ旅行へいって変わった食べ物を食べて、言葉が通じないというストレスを受ければ大抵みなさん体調を悪くします。若いうちは大丈夫でもある程度年令のいった方では要注意。病が峠を越すと言いますが、峠を越えれば一安心というくらいで、山の峠を越える事は例え車で越えるにしても身体にとっては大きな負担になります。急病の患者さんを運ぶ時も峠を越える時が気を遣う時、峠を越えれば一安心と聞きます。
これから季節の変わり目。気圧、食事、心に気を配り生活しましょう。
99'3.4
今日は木曜日で診療は午前中で終わり。午後からは2時頃遅い昼御飯を食べて、幼稚園のお迎えと長女が小学校から帰ってくるのを待ってから買い物へ出掛けました。しかし、一緒に付いてきてくれたのは末の由香里だけ。妻と由香里と私の3人で買い出しへ行きました。久しぶりに由香里は一人っ子状態。とても大喜びで両親を独占です。親を一人で独占出来るなんて本当に滅多にないこと。そりゃもう大騒ぎで大はしゃぎでした。店ではほぼ決まったものを買い込むのですが、今日はいわしが安かった。5尾で90円。ブリあら、ブタのこま、とりのむね肉、など安いものばかりです。ほうれん草も3束120円で激安!ダイコン1本98円。キャベツ一個100円。などなどこの調子の安さ。うれしくなります。え?店の名前を教えて欲しい?内緒内緒。知りたい人はメールで。でも滋賀県だから県外の方では無理ですよね。
一人っ子の由香里は帰ってきてからも御機嫌でした。昨日書いたことなんて嘘のよう。家に帰ったら上の2人の質問攻撃。「一人でジュース買ってもらわなかった?」「何か美味しいもの食べてきたんでしょう」「おみやげは?」兄弟同士の嫉妬は恐いものです。それだけに親を独占出来るということはどんなに素敵なことか。どんなに幸せなことか。一人っ子には判らない気持ちだろうな。
時々、一人ずつ一人っ子気分を味わわせあげます。私と2人だけで喫茶店に入るとか、本屋へ行くとか。そして「みんなには内緒だぞ」って、ちょっとしたものを食べたりしちゃいます。これが子供にはとってもスリリングで何とも言えない快感なようです。
99'3.3
最近、末の3歳の娘(由香里)の機嫌が悪い。原因は何なのか。近頃上の2人の姉兄が結託して由香里をのけものにする。すると由香里が怒る。怒るとまた上の2人がからかう。すると由香里はもっと怒る。由香里も負けてはいない。上の2人の行動を正論でしかったりする。「ちゃんとパジャマをしまいなさい」「シンちゃん(兄)うるさい!静かにしなさい」と偉そうに言う。すると真一郎が腹をたててまた喧嘩になる。上の2人はからかっているつもりだろうが由香里は真剣である。だんだんと周りを攻めるようになる。ちょっとしたことでも「キレル」感じになる。何が原因なのだろうか。
親が共働きで由香里はいつも祖父母と留守番。長女は学校、長男は幼稚園。自分は家で留守番。これがやはりひとつの原因ではないかと考える。 長女と長男は2人でゲームをする。由香里は出来ない。ゲームの話しにはついていけない。ゲームが始まると由香里はまたのけもの、邪魔扱い。これも問題である
由香里は親から特別視されている。まだ小さいから、まだ出来ないから、といろいろな事が許されることが多い。これが上の2人には面白くない。親も悪いのだと思う。どうしても甘やかしてしまうところは確かにある。
これら諸々の事を解決してくれるのがこれから生まれる4人目の子供かな、とも考え期待している。由香里も幼稚園に行くようになればまた変わるだろうなとも思う。
取りあえず見守ることにする。
99'3.2
昨夜、妻と脳死について話し合った。それぞれの立場になった時にどう思うか。
まず自分が脳死状態になったら臓器を提供しても良いかどうか。これはお互いに提供しても良いと思った。しかし、私は妻が脳死になって臓器を提供することにおいて些かの抵抗を感じた。人工呼吸器なしでは生きられない状態とはいえ、まだ温もりが有る状態で臓器を持っていかれること、悪く言えば死ぬのを待っている人がいる状態で臨終を迎えること、妻の身体が切り刻まれること、身体の一部が欠けるということ、これらにとても抵抗を感じた。人の役に立つためには仕方のないこと、その方が皆が喜ぶ、本人もそれを望んでいた、提供しないと世間から白い眼で見られる、もろもろを考えると現実として臓器提供を認めてしまうかもしれないなという危惧はあるが、本心は「そんなのイヤ」と思うだろう。今回の脳死移植手術でも御遺族の気持ちを考えるととてもとても心が痛む。ドナーカードは本人の気持ちよりも残された人の気持ちを最優先するべきだと思う。自分の身体は自分だけのもののように考えているが、決してそうではない。
次に自分の子供、あるいは妻が移植を受けなければならないような状態になった場合どうするか。気持ちの上では、何か助かる方法があるならば多少お金が掛かっても助けたい、これが親あるいは夫として当然の気持ちだと思う。移植という方法を知らなければ諦められるかもしれないが、知ってしまったからには、その可能性が少しでもある限り何とかしたいと思うだろう。自分の家族は移植を受けたいが臓器提供には抵抗があると書くと、何と身勝手なと思われるだろう。しかし、その身勝手さが人間であると思う。現実問題として移植を受けようと思うと数千万円のお金が掛かるという。であるから移植手術を受けられる人はお金がなくてはならない。貧乏な国では夢のまた夢の話しであろう。今でも飢餓で死んでいく子供たちがたくさんいるのだから。次元を変えて考えれば、その手術費用があればその数千倍の人の命が救われるかもしれないのである。だからと言って移植手術に反対する訳ではないが、どうしてもドナーカードに記入するにはまだ自分の中で考えがまとまらず答えが出せない状態である。
人工呼吸器がなければ脳死というものはあり得ない訳であるが、つい先週義祖母の臨終に触れ、安らかな人の死というものをみた。チューブもコードもなく家族が見守り、医者が手をとっての最期。人の死というものはこうあるべきだなと思った。人間の尊厳という言葉を持ち出すと卑怯かもしれないが、残された人にとっては一人の家族の死というものはとても大きな大きな事であり、死んでいらないんだったらその臓器頂戴という感じではないと思う。人の役には立ちたいが、う~む、難しい問題です。
恐いのは、脳死になったら臓器提供するのが当たり前ということになってしまうこと。臓器提供しないことは冷血人間、自分のことしか考えない自分勝手な人、移植を待っている人の身にもなって、あなたが移植を承諾しなかったから私の子供死んだ、なんてことを言われるようになってしまったら大変なことになる。アメリカ人と違って日本人は家族のひとの臓器を提供することにおいて抵抗を感じる人が多いと思う。アメリカのようには割り切れないところがあると思う。合理的ではないかもしれないが、それが日本人の尊厳であり大切にしなければならないものでもあるかと思う。
なかなか歯切れの悪い文章ばかりになってしまった。結論はまだ出ていません。だからドナーカードも持っていますが、記入していません。まだまだ考え中です。今回の報道を見て自分の家族が脳死になったら移植を承諾しないぞと思った人が多いと思う。あれだけプライバシーを守ってくれといってもこの通り。
頑張れ日本人!このままじゃいかんぞ。私達があなたが何とかしなければならないのでしょう。患者さんが変わらなければ医者や歯医者は変わらない。医者や歯医者が変わらなければ患者さんも変わらない。みんなが変わらなければ政治もマスコミも医療も変わらない。待っているだけではだめなんです。文句だけ言っていても、ぐちっているだけでもだめ。かわらなきゃもかわらなきゃ。と、自分に鞭を打つ。(^^;
99'3.1
「わたしは大きくなったら、お父さんみたいにピアノが弾けて、お料理が出来て、歯が痛い人を助ける歯医者さんになりたい」7歳の娘が言う。「それもよかろう」と答える。
父親の役目とはなんだろう。まだよく判らないが、子供からみたら「社会の窓」なのかもしれない。「社会の窓」というとズボンのチャックを連想するが、そこにあるものは男性のシンボル。あながち間違いではないかもしれないなとふとほくそ笑んだ。
父親はどうやっても母親にはかなわないものだと思っている。どんなに優しくしても結局お母さんにはかなわない。でも、父親の役割は生き方そのものを見せて影響を与えることかもしれないと思う。何もしゃべらなくてもいい、やさしくしなくても、何も買ってあげなくても、どこかへ連れていかなくてもいい。いつも子供達の目標であるような生き方をしているだけでいいのかもしれない。演じることはない。いつもありのままをさらけだして自分なりに頑張って生きていればいいのかもしれない。言葉で叱らず眼で叱る。御機嫌はとらない。子供より妻を大切にする。頑固に生きる。
父親は一番身近な「他人」なのかも。父親を馬鹿にするような子供は社会を馬鹿にし、大人を馬鹿にする。父親の座っている前を平気で横切る、寝転んでいる頭の上をまたぐ、父親の枕であそんだり踏み付けたりする、などは私の時代だったらとんでもないことだった。私は頑固にそれらのことやったらむちゃくちゃ怒る。本を踏むとか投げるとかもそうだ。テーブルの上にのる、父親が食べる前に食事に手をつける、父親より先に新聞を読む。どうでもいいじゃないと思うこともあるが、けっこう頑固にこだわる。もう意地になっているかもしれない。
私も義父母に対して以上のようなことをやるのは決してない。言葉も丁寧に話す。親が祖父母を大切にすれば子供も決して馬鹿にはしないと思う。父親はそういった社会のルールを教育するものでもあると思う。
99'2.28
人との縁というのは本当に不思議なものです。必要な時に必要な人があらわれるものであって、不必要な縁はまったくといってないと思います。家族、友人はもとより、偶然に出会った人、ちょっと街でぶつかった人、毎日来られる患者さん、すべて必要があって必然のもとに私の前に現れる。いや自分がその人にとって必要なのかもしれません。
嫌な人に出会ったな、と思うこともしばしば、どうしてこんな人ばかり自分の周りに集まるのだろうと思う時もあります。それは自分が引き寄せているに他ならないのでしょう。どんなに嫌な人でも自分を育ててくれるもの、でもそこから逃げてしまっては何も進歩がないわけで、一期一会どんな人にも全力をつくすことが出来たらと思います。
そのような眼で周りの人をあらためて見直してみますと、「この人は自分にとってどういうことを教えてくれる存在なのだろうか」と考えます。その人の良いところだけを見て、なんてことは意識せずにその時の気持ちでありのままを見つめれば良いのでしょう。自分が変われば相手も変わる。その人が自分に対する態度で、自分が相手に対している態度が見えてきます。「人は鏡」そのものなのでしょう。
子供も同じで自分の鏡でもあります。子供の様子がおかしい時は自分を写してみる。なかなか気付くのは難しいのですが、そういう眼で自分を見つめなおしてみると見えてくるものがあるのではと思います。
縁はその時の自分の状態を教えてくれます。周りの人の様子を見て、自分は今どういう状態なんだろうと考えます。必要だと思う人が去っていったり、迷惑な人ばかり集まる、男運、女運が悪いといった時は要注意。その逆にどんどん素晴らしい縁が広がる時はその道が間違っていない証拠。そのまま突き進むべし、と言ったところでしょうか。必要以上に儲けず、人に、社会に喜びを与えるような方向でいけば間違いはないと信じて私も頑張っています。またあなたとどこかでお会いできたらうれしいです。(^_^)
99'2.27
我が家では、私が主に食事を作ります。私が料理が好きで得意であることと、妻が料理が比較的苦手であること、共働きであるからです。後片付けは主に妻と子供の役目です。子供達には積極的に手伝いをしてもらいます。みんな3歳から包丁を持たせます。7歳と5歳の子供には一人で料理を作らせたりもします。もちろん私が常にそばについていますが、包丁で切ることから火を使うことまで全部やらせます。最初はこちらも「危ないから」ということでビクビクしながらでしたが、少しずつやっていくうちにかなり上手になってくるもので、今では5歳の息子も一人で5人分の「肉野菜入りの焼そば」と「玉子スープ」くらいは作ってしまいます。7歳の娘がこの前作ったものは「とり肉のトマトソース煮込み」とポテトサラダ、玉子スープとほうれん草のおひたし、それと御飯です。私が口だけだして手は一切出さずにやりました。これが結構自信になったようですし、それからも御飯を研いでくれたり、野菜を切ったりは毎回手伝ってくれています。
自分でやるとかなり関心をもち、これはどうやって作ったの?といろいろ聞いてきます。それに私が料理をしているのをじっと見つめて技を盗みます。スーパーへの買い物も一緒に来て一緒に品定めをします。いつも買うものは大体決まっているので、ほうれん草とダイコンとと自分で走って取ってきてくれたりします。
何でもやらせること。子供だから、もう少し大きくなってからではなくて、今からやるのです。子供は何でも出来ます。それをやらせないで経験させない、感動させない、関心をもたせないのは親なのです。子供はなんでもやりたがります。でも最初に「お前はいいの、危ないから邪魔だからあっちへ行っていなさい」と言われては、もう2度と手伝うものかと思います。最初は手伝ってもらう方がかえって時間がかかったり教えるのが面倒だったり、ちらかす、指を切るなどいろいろありますが、それも最初だけです。時間もかかったし、ぐちゃぐちゃにちらかったし、指も何回も切りましたが、今ではそれらがとても良い経験となっているはずです。自分が作った料理を家族が美味しそうに食べてくれることは本当にうれしいものです。
生きることの中でとても大切な「食」に関して、自分で作って食べられるということは大きな自信になります。小さいうちから親から与えられてばかりでは何も進歩がないし、いつまでもそれに甘えてしまいます。最低でも自分の食器くらいは自分で流しのところまで持っていくようにして、出来たら自分で洗わせましょう。時には目玉焼きでもいいから自分で1品作らせてあげましょう。それがきっかけで興味を持つかもしれません。料理とは楽しいものです。食べてくれる人がいるときは尚更うれしいしやりがいがあります。それを奥さんだけにやらせておくのはもったいないぞ!(^_^)
99'2.25
昨日の葬儀で両親が疲れているため、今日は末の3歳の由香里を仕事場である病院へ連れていって待ち合い室で遊ばせておきました。何も構わないのですが、何が楽しいのか御機嫌で一人で遊んでいました。親と同じ空間にいるだけで安心しているようです。
自分もそうでした。親が何もしてくれなくてもただいてくれるだけでそれで安心して一人で遊んでいられた。一人の時は寂しくて寂しく仕方なかった。祖母が留守番にきてくれていても、やはりその寂しさは変わらなかった。遠くで救急車の音でもしたらもう不安で不安で仕方なかった。親にとっては子供が元気でいてくれるだけで親孝行だと思います。これは子供も同じことで親が元気でいてくれるだけそれでいいんじゃないかなとも思います。お互いに心地よい波動を出し合うことがいいのかしれません。だから出来るだけそばにいてあげる、それが親として基本的体勢にしようと思っています。
99'2.23
義祖母を偲んで
昨日は日誌をさぼってしまいましたが、実は義祖母が永眠いたしました。1899年生まれで今年が1999年、数えで101歳でした。最後は火がふっと消え入るような安らかな死でした。家族に見守られ、主治医に脈をとってもらいながら、眠るように火が消えました。身体にはチューブもなにもなく、蘇生術もおこなわず、本当に静かな死でありました。これぞもっとも幸せな最後だろうなと感じました。1年程前からほとんど寝たきり状態ではあり、少々のボケ症状もありましたが何とか義母の介護のもとしっかりと生活をしていました。亡くなる前日までまだまだ大丈夫な感じでしたが、当日朝からいつもと違う感じがあり、念のため主治医に往診していただいて、その後すぐに息を引き取りました。
万事都合が良いときを見計らったように去っていく義祖母は、全てを知っていて去っていくのか、全部これが仕組まれたものではないかと思うようなタイミングの良さには驚くばかりです。
人は、病気や事故で死ぬのではなく、寿命で死ぬという感じがします。生きることに意味があるように、死ぬことにも意味があるのでしょう。それが死ぬ本人はもとより周りの人間を含めた上で意味をなすものだと思います。病気にも意味があり、痛みにも意味があるのでしょう。それをどう学ぶかは受け取る側の姿勢次第であり、その出来事が無駄になったりとても有意義なものであったりします。学ぶヒントは何回も出してもらえます。しかし、それをヒントと思わないどころか、それから逃げていることが多いのです。見方によってそれらは変わってきます。同じ現実でも見方によっては不幸なことになったり幸運なことになったりします。思い出したくない過去でさえ見方によっては、あの過去があったからこそ幸せな現在があるとも考えられます。それらをどうとらえるか、それが問題なのでしょう。
今日はお通夜でした。うちの子供達はお菓子やジュースが食べ放題飲み放題なので大喜び。義祖母の死に関してはまだ「死」という観念が判っていないのでしょう。7歳の娘にしても寂しがったりはしていますが、やはりまだ「死」というものが「恐さ」として理解していません。今日もお通夜に集まる人たちを見て出た言葉が「おばあちゃんて人気者だったんだね」とポツリと言ったのが何とも面白かったです。私自身、「死」というものに対する恐怖心をもったのがいつ頃なのかあまり覚えていませんが、小学校の高学年か中学のころには「いつかは自分も死ぬ」という恐怖で眠れない時がありました。もちろん今でもあります。今は死ぬことの恐さよりも、死ぬまでにやっておかなくてはならない事の多さへの焦りがあるかもしれません。自分が癌の疑いが掛かった時には、やはり死の恐怖がまず来ましたが、次に考えたことはそれまでの間どう生きるかです。時間がない。残された家族の事が心配。やらなくてはならないことがたくさんある。それへの焦りが大きかったような気がします。死の恐怖は身体が震える程ありましたが、頭で考えていることは残りの人生をどう段取りをつけるかです。不思議なものです。
明日は葬儀。もう少し「死」というものと向き合って考える時間が出来そうです。義祖母ちゃんありがとう。
99'2.21
今日も寒いです。どこかへ出掛けようかと思いましたが、外は寒いし、ひとごみは行きたくないし、どこかへ行けばお金が掛かるしで、結局家にいます。本を読んだりゲームをしたり、子供と戯れたり、食事やおやつを作ったりで何かと時間は潰れて、あっというまに休日が終わっていきます。これが「どこかへ行けなかったからつまらない日曜日だった」ではなくて、今日もみんなで一緒にいられたと喜び、お金を使わなかったと喜び、風邪をひかなかった、家族みんなで明るく食事が出来たと小さい喜びがたくさんあったと思えば、そう思えるものです。お金を使って喜びを得ること、何かを買って満足すること、美味しいものを食べて満足することなど、これらは誰でも出来ること。小さなことでも喜びに感じられることは誰でも出来ることではありません。与えられた幸せの価値観で考えるのでなく、もっと素朴に人間として幸せを感じられたらそれで良いと思います。
脳が壊れてしまわないように4つの安全弁があると言います。1つは睡眠。第2はお酒。第3は歌と踊りのなかにあるリズム。第4は勝負ごと。だと言います。しかし、それらは誰でも出来ること。その手段に頼らなくては脳を守れないというのはノウがない。そこで人間だけにしか出来ない行為で脳を守る方法は「喜びの心を体得すること」だそうです。喜びを得るために勉強し仕事をするといいます。仕事をすることに、勉強をすることに喜びが体得出来れば、私達の心のうちは十分に晴れるそうです。それらが出来ないときに睡眠、酒、歌と踊り、勝負ごとに「うつつを抜かす」ことになるのでしょう。
酒や歌や踊り、勝負ごとは時々息抜きに楽しむようにして、くれぐれもうつつをぬかすことのないよう気を付けましょう。私も酒は時々飲みますし、音楽も大好き、賭け事は最近は御無沙汰ですが、やりだすと抜けだせない性格なようです。どれもうつつをぬかしていた時がありました。その時はやはり精神的に不安定でだらだらした生活をしていました。今から思えばあの時期も必要だったと思いますが、あの時は毎日が不安で辛かったし、寂しい時でした。きっと何かから逃げていたのでしょう。小さな喜びなど感じる器官が麻痺していたのかもしれません。あの時のことがあるから今は小さな喜びも感じられるのかなとも思います。
99'2.20
お正月に子供が親戚などからいただいた「お年玉」、今までは親が取り上げて貯金していた。今年は試験的に子供に持たせたままです。無駄遣いするのではないか、なくしてしまうのではと心配しましたが、これが意外ととても大切にしています。長女がいただいた1万2千円は、まだ1万1千円残っています。何を買ったかというと、そのお金を入れるお財布とハンカチ。「そのお金でゲームのソフトも買えるよ。あれもこれも買えるよ。」とそそのかしても、勿体無いから使わないという。こりゃぁ親が持っているより安心だなとまた来年も子供に持たせようと思っています。どこまでお金の価値が判っているのかは判りませんが、親よりは無駄遣いしないような気がします。(^^;
「お年玉」とは、「お年魂」と書くらしいです。その年の魂を毎年正月に戴く。その魂をどう生かすか。それは自分次第なのでしょう。今年は卯年で、私達夫婦は年男、年女です。そして5月に生まれるであろう4人目の子供も卯年生まれ。同じ干支が3人揃うと縁起良いそうで、なんだかそれだけでもちょっとうれしい気持ちです。同じ干支が家族に2人いる場合は、その干支と同じ人形や置き物を置くと良いそうです。我が病院では夫婦2人なので、うさぎの置き物を置いてあります。でもそれはペアなので1羽多いかなネ?(^^;
99'2.19
5歳の息子が「足し算」に興味を持ちはじめた。一桁の足し算ですが、いろいろと大変そうです。もちろん私が教えている訳じゃないし、幼稚園で教えている訳でもない。幼稚園の友達同士で流行っているらしい。中には一桁の足し算は完璧の子供もいるそうです。我が家の方針としては5歳から足し算なんて覚えなくても良いと思っているのですが、子供が楽しく自分から学ぶ姿は取りあえずほっておくことにしています。5歳くらいの子供は勉強を覚えることよりももっともっと基本的なものを注ぎ込みたい。もっと体をつかって友達と遊ぶことに時間を使って欲しいと思っていますが、なかなかそうも言ってられないのかもしれません。 興味深いことは、5歳で足し算が完璧に出来る子供は不思議と「一人っ子」が多いということです。これにはどういう意味があるのでしょうね。
99'2.18
今日も「脳と人間」からのお話。人間の脳は生まれてから3年までで約6割以上が出来上がるそうで、7~8歳で9割以上が出来上がるそうです。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものでちゃんと科学的根拠をもっているのだそうです。福沢諭吉さんの言葉もうなずけます。「子供のしつけはことばによるべからず、目によらしむべし」 乳幼児のしつけがいかに大切であるか。どうせまだ判らないのだからではなく、何でも吸収する時期だからこそ良いものを注ぎ込むべきなのでしょう。こうも書いてあります。
「赤ん坊をしつけることは、母親や父親、あるいは兄や姉が自分をしつけることに他ならない」 我が家も数カ月後に4回目の赤ん坊のしつけを行うことになりますが、出来る限りのことはしたいと思っています。しかし、3人目の娘でさえ目に入れても痛くない状態ですから、4人目はほとんど孫をみるように甘やかしてしまいそうで自分が恐い。(^^; 気負うことなく肩がこらない程度に頑張ってみようかと。それでもまぁ自分が自分に正直にまじめに生きることしか出来ないので、それ以上のことまでマニュアルに従うようにやる気はありませんが。いつでも元気に笑顔でリラックスしてやっていきましょう!
99'2.17
現在読んでいる本「脳と人間」によると、人間にとって一番満たされなければならない欲は「集団欲」だといいます。人間は一人では生きていけない。孤独な環境にいると人間は精神的に狂ってしまうそうです。その集団欲を簡単にかつ効果的に満たす手段は「皮膚の圧迫」いわゆる肌のふれあいスキンシップだそうです。私もやたらと子供に触ります。頭をなでて、抱き締めて、だっこして振り回して、顔中嘗めまわし、ぐちゃぐちゃにしちゃ痰「ます。集団欲を満たすぞと思ってやっている訳ではありませんが、ただ好きでやっています。自分の集団欲を満たしているのかもしれません。小学生ともなると体重もかなり重くなりますが、腰が痛くなるのも覚悟でだっこしておんぶしてと振り回してやり、ギューッと抱き締めます。これをやると不思議としばらく御機嫌。お互いに少し照れるところはありますが、子供も私もまんざらじゃない顔をしています。こういうのって私としては続けられるだけ続けたいな思っていますが、いつまでやらせてくれるやら。 孤独ほど苦しいことはないと、大平洋をひとりぼっちで渡った堀江謙一さんも言っています。寂しいと心も体も壊れていきます。家族に必要なのは、それを入れる器(家)や家族を飾るもの、美味しい食事などよりもやはり家族自体の「絆」なのでしょう。食欲、性欲、集団欲などの本能を一番効率良く安全にそして安価に満たすものが家族であるとも書いてありました。なるほど。それではその本能を効率良く安全にしかも安価に家族の中で満たしている家族が今どれほどあるでしょうかねぇ。
99'2.16
家が狭いのもオツなものです。我が家は狭いというほど狭くないかもしれませんが家族5人で実質2LDK。LDは10畳ちょっとあり、6畳と8畳の部屋があります。8畳は家族5人で寝る寝室。6畳は3人の子供部屋。他にもうひと部屋6畳の物置きがあり、そこは妻のコミック本棚とタンスと通路で終わりです。ほとんどの生活はDKだけで済みます。 子供部屋は長女の机がメインで、長男の1畳ほどのスペースがカラーボックスで仕切られています。あとはみんなのおもちゃがごちゃごちゃと散らばっている状態。がらくた置き場といっても過言ではないでしょう。LDも似たようなものですが、一応こたつとダイニングテーブルがあります。いつでも何をするにも家族みんなでLDに集まってそれぞれの事をやっています。本を読む人、テレビを見る人、ゲームをする人、走り回る人、寝る人、すべてLDでやっています。それぞれの個室があればもっと気ままに広いスペースで好きなことが出来るのでしょうが、私はこれが結構気に入っています。 子供が寝た後は、こたつが書斎になるし、パソコンもノートだからヒョイッと持ってくればコタツトップのインターネットマシンです。寒い部屋でやるよりこたつでハンテンを来てやった方が暖かいし、愛する妻がお茶を入れてくれるし。(^_^) 子供もちょっとの空間でいいから自分だけのスペースがあればそれで満足みたいです。長男のスペースなんて1畳もないでしょう。それでもそのスペースに自分の好きなポスターを貼ったり、大切なものをしまったりします。カラーボックスを机にしてその上で本も広げたりします。一番大切なのは、長女に泣かされた時に隠れて泣く場所が必要なことです。その場所は誰も手を出せない長男だけのスペースなのです。たとえそれが1畳間にカラーボックス1個でも。長男にとっては大事な大事な自分の城なのだと思います。 これから問題なのは長男が小学校に入った時に机を買うかどうか。長女には買ってしまったから買わない訳にはいかないでしょうが、どこにそれを置くかです。次女の時はどうするか、これから生まれる子供はどうするか、と考えると頭が痛くなるのでまたその時に考えることにします。後先考えたら4人も子供を作れませんし、5人目はどうしようかな、なんて夫婦で暢気に話せません。私達夫婦より長女の方が心配します。「もう子供はいいからね!私が大変なんだから」と。夫婦は呑気に「5人くらいいても賑やかでいいかもな、4人も5人も一緒だろう」などと言っている始末。まぁこればかりは授かりものですから、授かった宝物はありがたくいただかなくては。そしてどんどん私達夫婦を立派に育てて教育してくれなくちゃ!なんてね。(^^; さて次はどんな子供が出てくるのだろう。今からとても楽しみでワクワクします。
99'2.1
「たぬきうどん」というものがある。私は群馬県出身ですが、関東では一般的に「たぬきうどん」というと「天かす」がのっているものいいます(たぶん)。これは日本全国そうだと思っていましたが、実は関西での「たぬきうどん」は「油揚げ」がのったうえに「あんかけ」になっているものを「たぬきうどん」というらしいです。「きつね(けつね)うどん」は味付けした?油揚げがのったもの。これは一緒。大阪方面では「天かす」のことを「ハイカラ」といい、関東でいうたぬきうどんのことをハイカラうどんというのを聞いたことがあります。 関西での「天ぷらうどん」は、えび天。かきあげ天ぷらがのったものは「かきあげ天ぷらうどん」といいます。関東での「天ぷらうどん」はかきあげが当たり前で、えび天がのっているものは「えび天ぷらうどん」となります。「にしん」ののっかったうどん、そばは関東ではあまりみかけませんよね。 関東では牛肉よりも豚肉。関西では豚肉より牛肉。「肉じゃが」を作る時に関東では豚肉を使うことが多いのですが、関西ではほとんど牛肉。居酒屋の定番メニューの肉じゃがが関西と関東では違うし、「もつ煮」も関東ではよくあるのが、ここ関西での居酒屋にはあまり見かけません。スーパーへ行っても関東では「白モツ」といって牛のモツが売っているのに、ここ大津では見たことがありません。 息子のゼルダの伝説は昨夜めでたくエンディングを迎えました。パチパチパチ。今日は全然育児と関係ない話になりました。ちゃんちゃん。
99'2.14
今日はバレンタインデー。妻と娘からチョコをもらいました。う~んやっぱりチョコは美味しい!しかし、今日は恐れていた出来事がおこりました。いや全然たいしたことじゃないのですが、息子がやっているゼルダの伝説のゲームでやっとガノンドロフのところまでいって最後の最後ガノンを倒すちょっと手前で末の娘がまたやってしまいました。ブチッ。データが全部消えたわけではないのですが、せっかく手に入れたダイゴロン刀がなくなってしまいました。 息子は怒りを通り越してぼうぜんとたたずみ、次第に目には涙が、、、。うーこれぞ男泣きだな(嘘)なんて思いながら、末の娘に文句も言わず手もあげず辛抱している姿がなんともいじらしかった。そんな息子を逆撫でするように、長女と次女が「ちゃんとセーブしてないからいけないんだよ」と、「おいおい」恐るべし姉妹だこと。男はだまって堪えることが美徳だと言ってやりたかったがまだこいつには早いな。私自身もよく判ってないしな。(^^; しかし今読んでいる「脳と人間」は面白い。いろいろと考えさせられます。脳を元気にするには「喜び」が大切。喜びをもって仕事、勉強をするということ。これが自然に出来れば一番良いのだけどな。
99'2.13
子供が可哀想だから、欲しがるからということで甘いお菓子やジュースを与える、自分がやらなくてもおばあちゃんがおじいちゃんが与えてしまうという話はよく聞きます。それがお菓子やジュースではなく高価なおもちゃだったりもします。これが良いことなのかどうか。良くないと思っていても何となくズルズルと過ぎてしまっているのが現実ではないかと思います。大切な子供を甘やかせて、自分はやさしい親でありたい、子供に御機嫌をとる、いつも一緒にいられないから子供に負い目がある、子供の笑顔だけがみたくてついついやってしまう、そんなことが日常になってしまうと、最終的に可哀想なのフは子供自身なのだと思います。授かった子供をいかに社会に役立つ人にするか、ひとりの人間として生き甲斐をもって生きていけるようにするか、それは親の役目のような気がしますが、それに対して親にどれだけの事が出来るかと思うと大したことは出来ないと思いますし、結局は自分自身子供自身でそのすべを獲得しなければならないのだと思います。親は少なくともそれの邪魔はしてはいけないと思います。善かれと思ってしてしまっていることが子供の発育の邪魔になっていることが多々あります。子供はひとりでは悪くなりません。子供に道徳や倫理を言葉で教えるのではなく、見せるだけでいいのです。親がやっていることは真似するのですから。まずは大人が変わらなければならないんだろうなと思います。子供の前でだけ演技していてもダメ。自分の生き方を変えないと変わらないのかしれません。
99'2.12
子供の行動で何でもないことのようでも非常に腹の立つことがあります。たいていは自分が持っている欠点をそのままやったときかな。妻の欠点であることを娘がやっても腹が立たないのに、自分の欠点であることを娘がやるととってもイライラします。子供は親の鏡とは良く言ったもので行動、言動そのまま真似します。恐いくらい。 昨日だったか、長女が家のカギを実家から預かってそれを家のどこかに置いて忘れてしまった。妻は「大事なカギをそのへんに置いておくからいけないんだ。」と少しヒステリックに言いますが、実はこれ妻がよくやること。あれがどこかへいっちゃった。確かこの辺に置いたはずなんだけど、といつも探してばかり。それと同じことを娘がやるととってもイライラするようです。私はそれを見てクスクスとほくそ笑んでいます。「またはじまった」と。 私が怒ることはなんだろうな。ゼルダの伝説というゲームを途中でセーブしてあったのを消された時かな。(^^; このゲーム5歳の息子もやっているのですが、今まで3回大事なデータを消されて最初からやっています。犯人は3歳の娘。1度はあ ともう少しで最後の敵だ!というところでブチッ。2週間かけてコツコツとやってきたのがパー。だから息子はすでに攻略本が書けるくらい途中までは詳しい。でもまだ最後の敵までは行っていない。きっとまた末娘に消される運命なのでしょう。今は「水の神殿」で悪戦苦闘しています。私は今、子供達とスマッシュブラザーズをやるのがストレス解消になっているかな。でも負けてばっかりだからついむきになってしまう。子供相手に大人気ないワザを使ったりしてしまう。う~ん反省反省。もっと大人にならなくちゃ。
99'2.11
毎日毎日子供に教えてもらうことばかり。それら日々感じたことを学ばされたことを書いていこうと思いこのコーナーを設けました。今まで日記というものはほとんど書いたことがなく日記帳を買って意気込んでも3日坊主で終わるのが関の山でした。これもいつまで続くか判りませんが出来るだけ書いていこうと思っています。白衣を脱いで父親に戻り謙虚な気持ちで子供と接し、子供を見つめながら自分発見の旅へ出発します。 現在、小学校1年(7歳)の長女、幼稚園年中(5歳)の長男、3歳の次女、そしてまだ見ぬ子供(数えで1歳になるのかな、5月に出産予定です)の育児をやっています。一昨年まで私は勤務歯科医師、妻は専業主婦としてやってきましたが、昨年歯科医院を開業してからは夫婦で歯科医師、子供は妻の両親にみてもらうことになりました。朝、長女を学校に送りだし、私が出勤し病院の準備、妻が次女を実家へ連れていってから長男を幼稚園に送り、そして出勤。従業員はいないので病院始業の準備は私が一人で行います。朝一番の患者さんを診療している途中で妻が出勤してきてやっと病院が賑やかになります。昼休みに妻は大きなお腹を抱えて幼稚園のお迎えと銀行、郵便局、買い物などを済ませ、午後の診療にはいります。夕方7時頃に帰宅し、私が晩御飯の支度、妻は洗濯と部屋の片付け。。食事を済ませ後片付けが終わり、家族みんなでお風呂、着替え、歯磨き、本読み、夫婦で子供を寝かせ付けてやっとひと段落。これがほぼ毎日の日課です。 開業してからは旅行へも行っていないし、外食もほとんどしていません。子供ためにやったことと言えば「休日はいつも一緒にいること」だけです。これも子供のためというより出掛けるのが面倒だったに過ぎないのですが、それでも何がいいのか子供は休日を楽しみにしています。いつもの近所の公園、いつものスーパーにみんなで行くだけでも5人みんなで行くと大イベント。みんな楽しそう。お菓子を買ってもらえる訳じゃなし、おもちゃを買ってもらえる訳じゃなし、それでもみんなでワイワイ出掛ければ楽しい大イベントなんです。 何も手伝ってあげられないからみんな子供達だけでやっちゃう。親が怠慢だから子供にしかられる。何も教えていない、教わってばっかり。でも子供は親の真似しかしない。親と同じセリフを言う。同じように喜び、笑い、怒り、哀しみ、寂しがる。一人が変だとみんなが変になってしまう。家族って不思議な集団です。