コート ダ ジュール
雅夫は交通事故で入院し、現在、植物人間状態である。
家族や交友関係者が見舞いに来て話しかけるが全く反応を示さない。
調香師の孝太も時間を見つけては、親友が回復していることを祈りながら、病院をおとずれる。
「いつもいつもすみませんね、残念だけど全く回復の兆しがみえないの」と付き添いの洋子は涙ぐむ
「大丈夫ですよ奥さん、そのうちきっと元気になりますよ。」孝太はそういうしかなかった。
なんどとなく見舞っているうちに孝太はどうかすると雅夫がピクリと反応することに気が付く。
他の誰にもみせることのない反応は孝太が病院に来る直前まで調香研究をしていた日に限られていることを発見する。
そういう日は使っていた香料の匂いが体にしみついて残っているのだろう。
雅夫の視覚、聴覚、触覚などの回路は閉ざされているが、嗅覚だけがチャンネルを空けて助けを待っているのに違いない!
脳の匂い記憶に関する機能を突破口に脳神経のネットワークを修復できるのではないか。
孝太は、さまざまな香りをテストした結果、とくにマリンノートに大きな反応をすることをつきとめた。
海の香りとよばれるマリンノートは実際にはメロンのようなフルーティーノートや青臭いグリーンノートでつくられる香調である。
この香りを鼻に近づけると、まぶたの下で眼球が小刻みに動く、REM睡眠のような状態が観察される。
元気だった雅夫と二人でフランスに旅行したことがある。
香料のメッカといわれる南仏のグラースをメインにパリやニースを訪ねる旅である。
香りグルメの二人の旅は最初から最後まで香の話題とともに進行したものだった。
すばらしい自然、美しい街、おいしい料理にワイン、あらゆる場面で香りの専門家である孝太のウンチクがそれらをさらに印象深いものにした。
マリンノートで思い出すことといえば旅のはじめドゴール空港に降り立ったときに出会った美しい女性のことである。
その女性はカルバンクラインの香水”エスケープ”をふりまいて歩いてきた。
”エスケープ”はキャロンという香料のグリーンが自己主張する強烈な香りだけど彼女の雰囲気とよくあっていた。
「ボンジュール マドモアゼル」 雅夫が声をかけたのをきっかけに一緒にお茶を飲むことになった。
パリに住む女性は雅夫たちと同じニース行きの便にのることがわかり旅はにわかに華やいだ。
「赤毛で青い瞳の美人をおぼえているかい?」
「マチルダって言ったっけ、彼女とても君に惹かれていたいたみたいだったよな。」
「あっ! 今、気がついたけど洋子さんはどことなくマチルダに重なるところがあるじゃないか。」
孝太はマリンノートにとどまらず、見舞いのたびにムエット(香りの試験紙)につけた様々な香りを実際にかがせながら
楽しかった旅行をトレースし、根気よく雅夫に語りかけた。
「グラースではジェラールと友達になり、彼の家に招待されたな。」
「彼が今年の品評会にだす予定の自家製ワイン、レモンワインといったかな、それをふるまってくれたがあれはうまかったなあ」
「グラースを後にするあの日は、君の運転するレンタカーでカンヌにくだったよね。」
「途中、バースルーの山を背景に広がるローズ畑によったけど、みごとだったなあ。」
ローズの品種はセンチフォリアだったけどやはりダマスクローズよりさわやかな香りだと雅夫がいっていたのを思い出す。
「車からながめたいくつもの集落は、緑のなかに点在し、みんな絵になっていたよね。」
それらの集落にはたいてい、生活圏の中心となっているらしい塔があり、こじんまりとまとまっている。
やがてコートダジュールに入り緑だった風景は一変した。
コートダジュール(Cote d'Azur)は紺碧海岸と訳されるがAzurは青い色素アズレンと同義である。
「文字通りの紺碧の海と明るい海岸を目の当たりにしたときの開放感といったらなかったね!」
そして奇跡が起こった。
雅夫が白すぎるヨットの帆でもみるような眩しげな目の動きを見せ、
「牡蠣が食いたいな・・・。」と小さな声を発した。
コートダジュールと香料のふるさとグラース
南フランス、プロバンスの地中海沿岸をコート(海岸)ド(of)アズール(青)、続けてコートダジュールとよんでいます。
海岸線のモナコ、ニース、カンヌ、サントロペなどが有名ですがグラースはカンヌから17kmほど山間に入ったところにある、人口4,5万の小さな町です。
これは私が訪れた折にとった写真ですが、標高350mの山間にあるのどかな風景がみられる地域です。
グラースはグルノーブルからカンヌにぬける「ナポレオン街道」上にあったので、元来、交易の盛んなところでしたが、
16世紀ごろは皮革産業で栄えた街でした。 それが、香料関係者なら一度は訪れたい、“香料のメッカ“となったのは
匂い革手袋の流行がきっかけでした。 地中海性の温暖な気候が香料植物の栽培に適していたのでこともあり、
手袋用の香料が盛んにつくられ、消費され、そして革産業が衰退しても香料産業は残ったというわけです。