エレベーター

「キモイオヤジ!近くに寄るんじゃねえ!」「うぜーんだ!、おまけに臭ぇー臭ぇー!」
「だったらクゼーじゃん!」「きゃはは」「っはは」
酒井琢磨は仕事帰りの電車で前の席に陣取った女子高校生たちに囃し立てられた。
周りの乗客も生徒たちをいぶかるどころか同調して哂う。
それほど琢磨の風采はひとが避けたくなるような空気のようななにかを発している。
けっしてみすぼらしいとか、やくざっぽいとかいうのではなく、ごく普通のサラリーマン風なのに。
彼は大人になってからこのかたずっと周囲の人間に溶け込めずにきたのだ。
いや、子供のころをかんがえても親のスキンシップすら受けた記憶がない。
琢磨は早くに死んだ両親の遺産を相続したため経済的ゆとりがあり、現在、高層マンションの29階に一人で住んでいる。
バタン!どドアを閉め、ソファーに体を投げ、なんども大きな息をして沸騰した気持ちを冷まそうとした。
「チクショウ!、どいつもこいつもふざけやがって!」
ひとからあからさまに嫌われることなど毎度のことなのに、この日は、どうにも怒りが収まらない。
電車の1件だけでなく、会社でも会議の席で下っ端のガキにいやみを言われた。
酒井さんはコミュニケーションがとりにくいとかなんとかぬかしおって!
あの時も上司を含めた全員で哂いやがった。
その分が今日の怒りを増幅させていた。
「殺してやる!」
家を飛び出し、下りエレベーターにのったときには白く凍りついたような顔をしていた。 背広の下に包丁をしのばせて。

27階から二人の若い女性が乗り込んできた。
連れというのでなく、二人は入り口の左右に分かれて立っている。
奥の壁中央にもたれかかっていた琢磨は小さく1,2歩前進し、やおら左の女性に無言で切りつける。
「ギャー!」「だれかー!」エレベーターボックスは修羅場と化した。
だがエレベーターが地下2回の駐車場についたとき運良く非番の刑事が乗り込んできて琢磨はその場で取り押さえられた。

被害者の女性も、切りつけられずにすんだもう一人の女性も琢磨との面識はなく、これは通り魔事件である。
「二人の女性のうち左の女性をやったのはなぜだ! どちらでも良かったのか?」
取調べの刑事の質問に琢磨は答えた。
「いえ、右の人より左の人のほうがより私を避けようとしていたからです。」
「そんなことどうしてわかる? 二人はただ静かに後ろ向きに立っていただけだといっているが?」
「その通りです刑事さん、でも私には匂ったんです。」
「右の人のつけている香水が、もっと近づいても大丈夫だよと言っていることが」


コミュニケートフレグランス

人には他人にこれ以上近づいて欲しくない領域というものがあり、それをパーソナルスペース(PS)とよぶ。
筆者は、コミュニケーションに関する研究の第1人者である北星学園大学の大坊教授との共同研究で、
特定の香水がコミュニケーションを良好にする効果があることを暗示するデータを得た。
その研究成果はSCCJ 45回研究討論会にて発表したが概要は以下の通りである。
タイトル: 香りのパーソナルスペースへの影響について
香りのコンセプトを「コミュニケートフレグランス」とする、世界の調香師対象の、創作香水コンペを開催した。 
応募作品から2種の香りを選びパーソナルスペース(PS)測定実験の試料とした。
調香師が感覚的にコミュニケーションをよくするとする香りを科学的に検証するためである。
被検者は大学生、男女計28名である。 前後左右から接近する実験において、
部屋に香りを充満させた条件では面積換算で最大50%のPS減少が認められた。 
気まずさの領域を減少させる傾向については原因は不明ながらつぎのことも確認された。
@実験に用いた2種の香りのうち、効果が大きかったのは嗜好性のやや劣る香りのほうであった。(香りの好みが要因とはいえない) 
A前後左右4方向のうち、後方接近に顕著な減少がみられた。 
B接近者が女性の場合、女性被検者より男性被検者のほうが、効果が大であった。