記念品

竜夫はタンカーの乗組員である。
午後の一仕事で汗だくになり休み時間に風呂を使う。
(八戸-苫小牧を結ぶフェリーには主にトラック運転手たちが利用する大浴場の設備があるがこのタンカーの設備はそれをはるかに凌ぐ、
ちょっとヤリスギといわれても仕方のない、温泉旅館の露天風呂に匹敵するものである。)
「極楽、極楽 ってか」竜夫は爺様のせりふをはきながら思い切り伸びをする。
湯船につかり、開放感のある窓から海をながめていると、風呂の水と海の水がつながって見え、さらに船のゆれに同調してお湯がゆれるので、
なんだか波間をただよっているような錯覚に陥りさえする。

風呂をあがり、愛用のゆかたに着替え、のぼせぎみの頭と体を冷ますためにデッキの風にあたっているときだった。
ふとしたはずみで大して揺れてもいない船から一回転しながら海に落下。

竜夫が見えないと同僚が騒ぎ出したときは既に落水してから30分は経過していたであろう。
タンカーを停船させ、救助のボートをだしたがまるで干草の山から針を探すようなもので発見はほとんど絶望視されていた。

竜夫は泳ぎには自信があったが、むやみに泳ぐのは賢明でないので、潮に乗って浮いているだけというふうに心がけた。
しかしかれこれ2時間になる。 さすがに疲れてきた。

突然なにか殺気のようなものを感じて振り返ると、黒い背びれがこちらに向かってくるのが見えた。
「サメだ!」「どうしよう!」
海水浴中、サメにおそわれたらふんどしを流すとよいという話を聞いたことがある。
ふんどしはつけていないが風呂上りに着ていたゆかたをできるだけひろげその影にかくれるようにしてみた。 
するとどうだろう、巨大なクラゲかエイとでもみたのか、サメが脇をすり抜け去っていく。
どこか怪我して出血していたら、血のにおいをかぎつけられ、確実に食われていただろう。

一難去ったが残っていた体力を消耗したせいで、もはや浮いていることも限界だ。
そのとき50cmくらいの浮遊物が手にふれた。
木材ともちがうプラスチックのような質感の物体である。
かろうじて残っていた生き延びる意欲がそうさせたのであろう、浮遊物を体にくくりつけてみると完全に休むことができ、
まだすぐには死なないなと思えてきた。

それからまもなくであったと思うが朦朧とする意識の中で救助のボートが近づくのが分かった。
「竜夫!」 「おまえよくがんばったな!」 「さあ、その汚い流木みたいのをはずしてやれ!」
同僚は竜夫を引き上げ、命の浮き輪となった浮遊物を捨てようとした。
「頼む、俺のおろかな不注意と君たちの深い友情の記念にそいつを持ちかえらせてくれ」

記念品は居間の暖炉の脇におかれ、たまに開かれるホームパーティーで話す竜夫の武勇伝の小道具となった。

だが彼はその不思議な物体がアンバーグリスという貴重な香料原料であることは知らない。


竜夫が海で拾ったアンバーグリスは、本人はしりませんが、実はたいへん貴重な香料原料だという話ですが、ここでは動物性香料についてお話します。
動物性香料
ムスク(麝香)WWFのHPより
シベット(霊猫香)
カストリウム(海狸香)Yahoo!キッズ図鑑より
アンバーグリス(竜涎香)

香料の種類はいくつくらいあるのかと聞かれても正確にはこたえられません。 
1000はくだらないことは確かですが、そのうち主な天然香料は200くらいあろうかと思います。 
そして天然香料のほとんどは植物由来のものでして、動物由来の天然香料は実は4種類しかありません。
ここに示したのがその4種類ですが、話にでてきたのはそのうちのひとつアンバーグリスというものでした。 順に説明していきますと、まずは麝香鹿からのムスクがあります。
ジャコウジカは右上の写真のような姿をしたチベットなどに生息する小型の鹿です。 
角がなく牙があるのが特徴です。 
香料はこの鹿の下腹部にある写真のような香嚢から採取するのですが、そのためには鹿を殺してしまうことになり、
動物愛護の観点から今はほとんど入手できなくなっています。 
たいへん貴重で価格は先ほどのジャスミン、ローズが100万クラスなのに対し1000万クラスになります。
次はシベットですがこちらは、エチオピアなどで飼育もされている右下の写真のような山猫から香料が採取されます。 
そしてカストリウムは川、湖に生息するビーバーからとられます。 4つ目は、テーマになっている抹香鯨からのアンバーグリスですが、実はアンバーグリスの正体はいまだになぞになっています。
通説は抹香鯨の体内にできる結石のようなものとされていて、捕鯨が盛んだったころは船上でみつかることもあったようです。
自然には海に浮いているものや岸に打ち寄せられたものが漁師などに発見されて香料が抽出されました。 非常に高価な香料原料で、インドシナの海岸に打ち寄せられたアンバーグリスを拾った漁師が億万長者になったという話は誇張ではありません。
アンバーグリスもワシントン条約などで入手困難なのでムスク同様、香水には合成の代替品使われます。
香気成分の分析結果については雑誌香料No.219に粟野、田村の論文が詳しい。