ムスク

仕事を終えて帰宅する電車の中、なかなか女性に相手にしてもらえない調香師 K は媚薬なんていうものがあったら、
少しは女性が振り向いてくれるんだろうなーなどと、つり革につかまりながらぼーっと考える。

昆虫や一部の動物にフェロモンが存在することは科学的にも証明されているが、「ヒトにフェロモンが存在するか?」
については結論が出ていない。
確か10年くらい前に、ヒトの鋤鼻器(フェロモン受容器官)が見つかった。
でも鋤鼻器が存在するのは乳児期のみで、成人には見つかっていない。
しかも乳児期で見つかった鋤鼻器にも、神経回路は発見されていない。
どうやらヒトの鋤鼻器は退化したようだ。でもドミトリー効果などヒトのフェロモンを肯定する報告もあるし、
フェロモンを主嗅覚(通常の嗅覚)で感知している動物もいるのだから、完全に否定されたわけでもない。

多分、ヒトにリリーサーフェロモンは存在しなくて、もしかするとプライマーフェロモンだけは機能しているのかな、
と混雑した電車の中で孝太は一定の結論を導き出す。

と、前に立っているおじさんが読んでいる週刊誌に、フェロモン香水の広告。
ムスク配合のフェロモン香水とあり、おじさんは広告を熱心に読んでいる。
確かに香料に使われることのあった(現在はワシントン条約の対象であり輸入禁止)天然のムスク香料は、
ジャコウジカのフェロモンと言われている。でも待てよ。フェロモンは種特異的な成分のはず。
つまり、ハチのフェロモンはハチに、ジャコウジカのフェロモンはジャコウジカにだけ作用するはずである。

孝太は、おじさんに忠告したくなる。「騙されちゃいけませんよ、このフェロモン香水は多分ヒトには効きません。
女性がムスクの香りに寄ってくることは多分ないと思います」と。でも、まあ余計なお世話だし、
万一と言うこともあるし・・・。疲れた孝太は、つり革につかまったまま眠りに落ちる。

フェロモン香水を買ったおじさんが旅行に行く。夢にありがちな、やや無理のある状況設定。
なぜかおじさんの旅行先はチベット。旅行先で女性にモテているのかと思ったら、
おじさんの後を追いまわしているのはメスのジャコウジカ。
そうだ、おじさんはせっかく買ったのだからとムスク配合のフェロモン香水をつけているんだった。
配合されているムスクは本物だったらしい。

「あー、変な夢見ちゃった」と、乗り過ごした K。 そうそう、媚薬なんかに頼らず良い香りをつくろう。モテ無くたっていいじゃないか。
初心にかえろう。ヒトを感動させるような、メッセージ性のある香りを創るのが自分の仕事だったじゃないか。