石楠花

木村 武は親友の伊藤 豊と石楠花の群生をみるために伊豆の山をめざす。
民宿で1泊し早朝に出発。
途中、コンビニでおにぎりや飲み物を購入。
一昨年見つけた秘密のポイントへは、最後に踏み後のない藪を漕いでいかなければならないが、
そこまではよく踏まれた登山道なので道をまちがえるなどありえない。
登山道に入るといきなりキツイ坂が続き、30分に1本の休憩をいれながらひたすら登ってきた。
3本目の休憩場所はちょうど別の登山口からの道が合流してくる分岐点であった。

豊は民宿からここまで口をつけてきたペットボトルが空になっているので
コンビニで仕入れた新しいボトルをあけようとしてスットンキョウな声をあげた。
「なんだこりゃ! 水じゃなくてグレープジュースじゃないか!」
「そのボトルも1本入れて」と豊がレジ横のケースの水を指差したはずを、店員が間違えて袋に入れたらしい。 
「入れたあなたが悪いのか、見てない私が悪いのか、ま、飲んでみるか」
一口含んで、「ゲ! こんな甘ったるいもの飲めやしない!」と吐き出す。
武が笑いながら自分のボトルを差し出し、豊も笑いながらそれを受け取った。

休憩のあとはなだらかな登りとなり気持ちにも余裕がでる。
目下、練習中といったうぐいすの歌声がきこえる。
時折現れる下界の展望が疲れを吹き飛ばす。

石楠花の群生地で花を満喫しながら弁当を楽しむ。
だが、帰途につくやいなや事故はおこった。

武が浮石に足をとられ転倒、5mほど滑落。
「だいじょうぶか!」 豊が近寄ってみると武は足をくじいたらしいが意識もはっきりしていて
「ありがとう、痛いけどなんとか歩けるよ」とゆがんだ笑顔をつくってみせた。
「無理すんなよ」と豊は自分より大きな武を背負って歩き出した。
しばらくがんばってみたが遅々として進まず、これでは夜通し歩いても下山できそうもない。
どうしたものかと困っている豊の心を察したのか武が口を開いた。
「悪いけど、俺、ここで休んでいるから下山して救助をたのんでくれないか?」
豊はすこし戸惑ったが、やはりそのほうがよいと結論付け、武のことばに従うことにした。

一刻も早くと走るように下山していた豊が足を止めた。
「どうもおかしい。 往きと違う道を下っているのではないか。」
岩や土がつくる道の表情、周りの木々の種類と量、光の差し具合に違和感がある。
「しかし、登りはほとんど1本道で間違えるような道はなかったはず・・・。」とさらに少し下ったところで、あり得ない沢にぶつかり、これで迷ったことが確定。
引き返し尾根筋まで戻ってみたが別の道は見当たらない。
あたりは薄暗くなっている。
戻る途中のどこかにあった正しい道を見落としたかもしれないと混乱しはじめる。
だが、さらに登って判断するという選択肢に賭けて急ぐ。

およそ1分ほど登ったところで、かすかに漂ってきたグレープの香りに気が付く。
ジュースを吐き出した光景がよみがえる。
「あ! あの分岐点だ!」香りに導かれ正しい道に復帰。
下ってくるとき、右にとるべき道を間違え、谷へ向かう左の道を下ってしまったのだ。
登るときは気づかなかったが左の道のほうが直線的でしかも踏み後がはっきりしている。
間違えやすい道だ。

携帯が通じるところに達し、民宿に救援を要請。
自分はすでに日が落ちた山道を再び登り武のもとに急ぐ。

自力で少しずつ下ってきている武のヘッドランプが見えた。


登山道の道標はありがたいものです。 他に岩にペンキで案内がかいてあったり、木に布切れがむすんであったりしますが大切にしたいものです。 今回は匂いが道しるべとなったお話でしたが、自然界には目に見えない匂いを信号に利用しているケースはたくさんあります。

フェロモンあれこれ
性フェロモン (麝香鹿etc
攻撃フェロモン (蜂etc
集合フェロモン (ゴキブリetc
道しるべフェロモン (蟻etc

フェロモンとは「生物学的に同種の個体間の通信としてつかわれる、ごく微量ではたらく化学物質」のことです。
1959年ドイツの科学者ブテナン(Butenandt)が、日本から2トンのカイコガを輸入し、20年以上かかってようやくつきとめたといわれる、
ボンビコールという物質がカイコガの性フェロモンであることを見出したのに端を発し、特に昆虫の世界での研究が進みました。 
ちなみにカイコガのメスのフェロモンの場合、3km先からオスをひきつけられるそうですが、
1匹のメスのもっているフェロモン量は理論上10億匹のオスをひきよせられる計算になり、その微量での効果のほどがうかがえます。
香料に関係するものとしてはムスク(麝香)が有名ですが、これは、
普段は単独で行動しているジャコウジカの雄が発情期にメスをひきよせるためにつかわれているものです。 
次の攻撃フェロモンは蜂が一斉に外敵を攻撃するとき発する信号であり、集合フェロモンはゴキブリなどが集合するために使われるものです。 
そして今回のテーマになっている道しるべフェロモンとしては蟻の行列に使われているものが有名です。

異性をの誘引するための性フェロモンのほか、蜂が外敵から巣を守るために発し、攻撃をうながすフェロモンや アリが行列をつくって行動するときの道しるべフェロモン、ゴキブリが仲間を呼び集める集合フェロモンは身近にみられるものの代表である。 フェロモンの研究は農薬を使わない天敵による害虫対策などにも及んでいる。

道しるべフェロモン

道しるべで思い出す童話にグリム童話の「ヘンデルとグレーテル」があります。
まずしい木こり夫婦が食い詰めて、二人の子供、ヘンデル(兄)とグレーテル(妹)を森に捨てる話です。
1回目はヘンデルが道中、道しるべとして白い砂利を落として来ていたので、それを頼りに無事家に帰れる。
しかし、両親は再度別の日に、薪を拾いに行くと言って、子供達を森に連れ出し置き去りにする。
今度はヘンデルは石ではなくパンくずを道中に落としていたので小鳥に食べられ帰り道が分からず迷子になってしまう。
そして迷って森をさまよっているうちにお菓子の家に遭遇する。 といったストーリーですね。
今回の話はグレープジュースが道しるべとなった話ですが、
実際、山では空気が澄んでいるせいか、かすかな匂いがはっきりと感じられます。 
特に人工的な匂いがきわだってにおうというのは皆さんも体験されているのではないでしょうか。

今年(2006)のはじめにNHKでアマゾンの葉きり蟻について放映していました。
この場面は野焼きによって失われた蟻の通り道が道しるべフェロモンの利用で復活する様子を説明する一画面です。
なんでも巣のありかを探すために四方八方に散った蟻が、巣を見つけるとより強力なフェロモンを地面につけながら戻ってくることで、
みんなが利用する通り道が復活するらしいのです。