☆★☆彡____________________________

  <<<<<<【メール講座】日本固有の領土「北方領土」>>>>>>
                        谷 和樹
 NO. 3_________________________★☆★彡

▽このM講は等幅フォントで、1行が全角35文字以上の設定でご覧下
さい。Outlook Expressだと、
┌──────────────────────────────┐
│ツール→オプション→読み取り→フォント(F)→       │
│プロポーショナルフォント→MSゴシック           │
└──────────────────────────────┘
に設定するときれいに表示されます。

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
■■■■■■「北方領土問題」の歴史的経緯(その3)■■■■■■■
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

 (イ) フヴォストフ=ダヴィドフ事件

 1792年。日本との交易を欲したエカテリーナ女帝は日本に使節を
送った(大黒屋三太夫事件)。
 しかし、老中松平定信は長崎以外においては外国との交渉・交易は一
切しないとの国法を盾に追い返した。
 そこで、十年後の1803年、アレクサンドル一世は親書を携えたロ
シア政府最初の公式使節団を日本に派遣した。
 言われたとおり長崎に入航したが、日本側は全く無礼な態度での応対
に終始し、交易も拒否した。

 1806〜07年にその「復讐」として起きたのがフヴォストフ=ダ
ヴィドフ事件である。
 ロシア将校の部隊が1806年に樺太、1807年に択捉島における
日本人集落、勤番を襲撃し、略奪、焼き討ちなどにおよんだ。
 その是非はおく。

 ここで意味するのは、
┌──────────────────────────────┐
│「北方領土」すなわち択捉、国後、そして樺太にも既に日本人が居│
│住していた。                        │
└──────────────────────────────┘
ということである。

 択捉、国後には江戸幕府が1799年以来藩士500名ずつを派遣し
て防衛警備にあたらせていたということだ。
 択捉は当時十年以上にわたって日本の植民地となっており、1000
人を超えるアイヌや南部、津軽両家の300名以上の藩士からなる守備
隊が駐屯していた。 

 (ウ) トレースキンの提案

 1813年、イルクーツク知事のニコライ・トレースキンは蝦夷奉行
宛に書簡を送り、ウルップ島を日露間の中立の商業中心地とする提案を
行なった。
 明くる1814年トレースキンはシベリア総督イワン・ペステリ宛に
八ヵ条からなる日本対策を具申した。

 第六条には次のようにある。
┌──────────────────────────────┐
│ 想定される日露間の国境の件。ゴロブニンの確認によれば、日本│
│政府はわが方からは十八島ウルップ、日本側からは日本人の移住も│
│行われている第十九島イトゥルプ島を自然の境界と見なしている。│
│ この方面からロシア国境の拡張を望むことは、現在の状況下では│
│無益であり、日本から求められることも何らしかるべき理由はない│
└──────────────────────────────┘

 これがロシアの公式見解として定着していった。
 当時のシベリア当局が択捉島以南を日本領と認めていたことは確かと
言ってよい。

〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°〜°

イ 条約の締結へ

 (ア) アレクサンドル一世の勅令

 しかし米英両国の接近が起こる。
 鯨等の動物資源、停泊地、通商関係の樹立を求めて千島列島への接近
を試みていた。
 ロシアのアレクサンドル一世は、このような接近に対するため自国の
領内を明示する必要があった。

 1821年9月4日、アレクサンドル一世は次の勅令を出した。
┌──────────────────────────────┐
│(前略)クリル諸島、すなわちベーリング海峡から始まってウルッ│
│プ島南岬北緯45度50分に至るまでの島々と港湾における商業、│
│捕鯨、漁業並びにあらゆる産業は、ロシア臣民のみが従事すること│
│ができる。                         │
└──────────────────────────────┘

 上の「クリル諸島、すなわち」の言は後に触れる1855年の下田条
約、1875年の樺太千島交換条約、1951年のサンフランシスコ講
和条約における「クリール諸島」の範囲に対する解釈としても重要であ
る。
 つまりアレクサンドル一世はクリル諸島を定義し、国際的に宣言した
のである。
 木村汎氏は鹿児島大学の郡山良光教授の次のような判断を紹介してい
る。
┌──────────────────────────────┐
│ ロシアに関するかぎり、1821年のアレクサンドル一世の勅令│
│の公布をもって日露間の国境が定められた時点とみなして差し支え│
│ない。                           │
│ 1855年の下田条約は単に日本に対するその確認行為にすぎな│
│い                             │
└──────────────────────────────┘

 日本とロシアの外務省が共同作成した『日露間領土問題の歴史に関す
る日本国外務省とロシア連邦外務省の共同作成資料集』でも、その序文
で次のように述べる。
┌──────────────────────────────┐
│ 19世紀半ばまでに択捉島とウルップ島との間に日露の国境線が│
│形成された。                        │
│ 1855年に2月7日付けの日魯通好条約により、この国境線が│
│法的に確定され、択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島は日領、│
│ウルップ以北の諸島はロシア領として平和裡に確定した。    │
└──────────────────────────────┘

(イ) ニコライ一世の訓令

 その1855年へ向けての動きが始まる。
 1852年、米国のペリーが日本に派遣される情報を得たロシアのニ
コライ一世はプチャーチンを長崎に向け派遣した。
 プチャーチンはペリーの浦和到着に遅れること約一ヶ月で1853年
8月22日に長崎に到着した。
 長崎到着前の2月2日、小笠原群島父島にいたプチャーチンに、ニコ
ライ一世からの追加訓令が届いた。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃<要チェック>                       ┃
┃★この追加訓令は「法則化社会科第1回全国大会」において、向山┃
┃先生が谷のレポートへのコメントの中で触れられたものである。 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

ニコライ一世の追加訓令
┌──────────────────────────────┐
│ クリル諸島の内、ロシアに属する最南端はウルップ島であり、同│
│島をロシア領の南方における終点と述べて構わない。      │
│ これにより(今日既に事実上そうであるように)我が方は同島の│
│南端が日本との国境となり、日本側は択捉島の北端が国境となる。│
└──────────────────────────────┘

 この追加訓令の発見は1991年のことである。
 ロシアの学者と日本の保田孝一教授がほぼ同時に別の経路で発見した。

(この項終わり)
==-==-==-==-==-==-==-==-==-==-==-==-==-==-==-==-==-==-==-==-==-=
第3回ここまで

◆次回は「法的根拠(条約・国際法の経緯)」をお送りします。

「北方領土を授業する」TOPにもどる