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<<<<<<【メール講座】日本固有の領土「北方領土」>>>>>>
谷 和樹
NO. 4_________________________★☆★彡
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■■■■■「北方領土問題」に関する国際法(その1)■■■■■■■
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少し理屈っぽい講座が続きます。
問題の背景にある、ごく基礎的な事実関係の確認です。
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「北方領土問題」に関する「国際法」、あるいは「国際的な慣行」とは、
一般に次のことである。
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1 日露通好条約(通称「下田条約」)
ロシアと日本との間の最初の領土画定。
この条約は極めて重要。
授業でもこの条約を基本に組み立てるべきである。
1855年に日・ロ両国の最高立法権カ機関によって批准された。
ロシアはウルップ島からカムチャツカ半島に至るクリール列島に対す
る主権を獲得し、日本は北方4島に対する主権を得た。
サハリン(樺太)の帰属については、未確定のままに残された。
日露両国間のそれ以外の国境については、国際法の観点から何ら疑問
の余地がないものとされた。
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2 樺太千島交換条約
1875年。
ロシアはウルップ以北のクリール列島に対する所有権を、日本はロシ
アのサハリン全島の所有権を得た。
新しい国境線が確立され、新たな領土主権が適切に定められた。
日露両国間の国境は、ともに国際法の観点からみて確定した。
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3 ポーツマス講和条約
日露戦争(1904年〜1905年)における軍事的勝利。
その結果、日本は南サハリンを獲得。
日本の領土獲得は、この講和条約の中に明記された。
このようにして定められた領土主権と両国国境は、国際法の観点から
何ら疑問の余地がない。
日本による攻撃という道徳上の問題は、これらの権利に関する国際法
上の解釈には何の影響も与えない。
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4 日ソ関係の主要原則についての協定
1925年。
ソ連は「日ソ関係の主要原則についての協定」に調印・批准した。
これによってポーツマス講和条約が完全に有効であることを再確認し
た。
これはソ連が当時の国境線の合法的有効性を承認したことを意味する。
したがって、ソ連が対日参戦した1945年8月の時点で、日本は北
海道からカムチヤツカ半島にかけてのクリール列島および南サハリンに
対して疑問の余地のない合法的な領有権を所持していた。
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5 カイロ宣言
1943年11月27日。
アメリカ、中国、イギリスの代表は、「カイロ宣言」に調印した。
カイロ宣言では、日本国が
「暴カ及び貧欲により日本国が略取した一切の地域より駆逐せらるべし」
「同盟国の目的は、日本国より、1914年の第一次世界大戦の開始以
後において日本国が奪取しまたは占領したる太平洋における一切の島
嶼を剥奪すること。」
と述べていた。
これは、領土所有権に影響を与える国際法上の文書ではない。
日本は「カイロ宣言」の署名国ではなかったので、日本に対しては拘
束方も持たない。
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6 ヤルタ協定
1945年2月。
「ヤルタ協定」は秘密裏に締結された。
サハリン南部に対するソ連の権利が「回復」され、クリール列島はソ
連に「引き渡される」べきであると規定している。
これは、かなりの重みをもつ国際協定ではあったが、条約ではない。
日本は「ヤルタ協定」の署名国でなかったので、日本に対して何らの
拘束力をもつものではない
また、この協定では「クリール列島」とは一体どの島を指すのかに関
してはっきりとさせていない。
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7 ポツダム宣言
1945年7月26日。
アメリカ、イギリス、中国は、「ポツダム宣言」に調印した。
この「宣言」には、
┌──────────────────────────────┐
│ カイロ宣言の条項は履行されるべく、また日本国の主権は 本州,│
│北海道、九州および四国ならびに吾等の決定する諸小島に局限せら│
│るべし。 │
└──────────────────────────────┘
と述べられていた。
ソ連は、対日宣戦を布告した1945年8月8日に、カイロ宣言およ
びポツダム宣言の両方を承認した。
日本は、この「ポツダム宣言」を受諾した。
ただし、法律上の観点からいえば、「ポツダム宣言」はたんに連合国
の意図を宣言したものである。
その内容は平和条約のような領土問題を律する国際法上の文書の中に
組み込まれなければならない。
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8 サンフランシスコ講和条約
1951年9月。
これは国際法上の文書である。
原則的に、日本領土に関する戦時中のすべての宣言および協定(カイ
ロ宣言、ポツダム宣言、ヤルタ協定、その他)を確定するものだった。
この条約に調印することによって、日本は、サハリン南部とクリール
列島に対するすべての権利、請求権を放棄することになった。
ただし、日本人が「クリール列島」と呼ぶものの中に北方四島が含め
られているかどうかは確定されていない。
サンフランシスコ講和条約は、誰がこれらの領土に対する主権を獲得
するのかを規定しなかった。
それは、スターリンが(サンフランシスコ会議の最終段階に参加して
いたにもかかわらず)この条約への署名を拒否したからといわれている。
したがって、ソ連はこの条約の中のいかなる条項にも拘束されない。
サハリン南部とクリール列島に対するソ連の所有権は、国際法の観点
からいえば、まったく(どこにも)明記されていない。
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9 日ソ共同宣言
1956年。
ソ連と日本との間の外交関係の樹立および戦争状態の終結を規定し、
ソ連が、平和条約締結後に、歯舞・色丹のニ島を日本に引き渡すことを
約束した。
「日ソ共同宣言」は、一当事国だけによっては変更あるいは廃止する
ことはできない。
日ソ両国の議会によって批准されており、法律としての有効性を持っ
ている。
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ここまで見てくると、国際法上の条約(1855年の日露通好条約、
1875年の樺太干島交換条約、1905年のポーツマス条約、195
1年のサンフランシスコ講和条約)のどれをとっても、「クリール列島」
「北方領土」の最終的な地理的定義を与えていない。
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したがって、控えめに言っても次の結論にならざるを得ない。
─A──────────────────────────────
サハリン南部とクリール列島に対するロシアの主権の主張は「事実上」
の類のものである。
法律的には、つまり国際法を基礎とする場合にはロシアの主権は存在
しない。
事実上の占有は、これらの領土をロシアが占領し、統治していること
の結果に過ぎない。
─B──────────────────────────────
歯舞・色丹を日本に引き渡すロシアの義務は、国際法上明記されたも
のである。
─C──────────────────────────────
国後・択捉に対する日本の主張は、国際法上の分析において争点とな
る。
問題は、これらの島々が、日本がサンフランシスコ講和条約によって
放棄したクリール列島に含まれるのか否かである。
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第4回ここまで
(今回の参考文献)
木村汎
『日・米・ロ新時代へのシナリオ―「北方領土問題」ジレンマからの脱
出―』ダイヤモンド社、1993年3月、pp.54-60)
◆次回は「「北方領土問題」に関する国際法(その2)」をお送りします。
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