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                        谷 和樹
 NO. 5_________________________★☆★彡

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■■■■■「北方領土問題」に関する国際法(その2)■■■■■■■
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前回と重なる部分もあります。
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1 国際法の経緯

 日露和親通好条約(下田条約)

 1854年3月31日。
 日本はペリーとの間に日米和親条約を結んで開国した。
 1855年2月7日。
 日露和親通好条約(下田条約)を調印した。
 この条約が北方領土を考える上での最も基本の資料となる。
 その第二条は次のとおりである。 
┌──────────────────────────────┐
│ 今より後日本国と魯西亜国との境「ヱトロプ」島と「ウルップ」│
│島との間に在るへし「ヱトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全│
│島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す「カラフト」島に至│
│りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来の通たる│
│へし                            │
└──────────────────────────────┘
 プチャーチン提督は条約に署名するに際し、
┌──────────────────────────────┐
│ 将来の紛争を避けるため最新の調査を行った結果、択捉島は日本│
│国の領土であることが証明された               │
└──────────────────────────────┘
と述べている。 
 さて、144年前のこの条約は、今も効力を持つのだろうか。
 その後の日露間の経過を正確に見ていかなければならない。

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 樺太千島交換条約

 明治政府になって1875年、駐露特命全権公使の榎本武揚とロシア
宰相兼外相のアレクサンドル・ゴルチャコフとの間で「サント・ペテル
ブルグ条約」(樺太千島交換条約)が調印された。
 同条約ではロシアが樺太全島、日本が全千島列島を領有するとした。
 つまり日露通好条約は無効となった。
(法的には1895年に無効宣言があった)
 この時点で日本は樺太を放棄したかわりに、千島列島最北端のシュム
シュ島から歯舞までの全千島列島を領有したことになる。

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 ポーツマス条約

 1905年9月5日、日露戦争の講和としてポーツマス条約が結ばれ
た。
 この条約で日本は樺太の北緯50度以南の地域を得た。
 この地域は米国のセオドア・ルーズベルト大統領の仲介によりロシア
の合意を得て結ばれたポーツマス条約により合法的に取得された領土で
ある。
 しかし、戦争の結果として獲得したという点では「暴力的に」略取し
た地域とも言える。
 いずれにせよ、ソ連が日本の承認を得ずに暴力的に占領している北方
領土とは質的に異なる。

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 日ソ中立条約とその破棄

 次に重要なのは1941年4月13日の「日ソ中立条約」である。
 同条約では、
┌──────────────────────────────┐
│1 相互の領土保全と不可侵の尊重。             │
│2 両国の一方が第三国の軍事行動の対象となる場合は他方が当該│
│  紛争に中立を保つ義務。                 │
│3 同条約は5年間有効、一方が期限満了の1年前に破棄を通告し│
│  ない限り自動的に5年間延長される。           │
└──────────────────────────────┘
という、主に3点を規定していた。

 しかしソ連はこれを反故にしてしまう。
 同1941年8月には米英が「大西洋憲章」を宣言し、「領土の不拡
大」の方針をを明確にした。
 ソ連はその9月、政府宣言によってこの「大西洋憲章」に参加するこ
とを表明した。
 ソ連は残念ながらこれも反故にしてしまう。

 1945年4月5日。
 ソ連は「日ソ中立条約」を一方的に破棄した。
 その結果、条約の規定により1946年4月25日に失効することに
なった。
 ところがソ連は続いて中立条約が有効中の1945年8月9日、日本
に対して宣戦布告を行った。
 これは広島への原爆投下の3日後であり、日本降服のわずか5日前で
ある。

 同8月14日。日本はポツダム宣言受諾を通告した。

 8月28日。ソ連は択捉島に上陸、占領。
 これはポツダム宣言受諾後である。

 9月1日。国後、色丹島に上陸、占領。

 9月2日。日本はミズーリ艦上で降服文書に調印した。

 ところがさらに9月3日。
 ソ連は歯舞群島への上陸を開始し、5日までに全島を占領した。

 つまり、国際法上、北方領土の占領は日本が連合国の条件をのんで降
服し、軍事行動が停止されたあと、無血でなされた軍事占領である。
 上陸してくるソ連軍に対して、択捉島には13000人、色丹島には
4800人の日本軍がいたが、当然武器を捨てており、無抵抗であった。

 ポツダム宣言には
┌──────────────────────────────┐
│ 日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復│
│帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会をえしめらるべし   │
└──────────────────────────────┘
と宣言している。
 スターリンはこれも無視して北方四島に居住していた約17000人
の日本人の強制立ち退きを実施し、約60万人の日本軍人などをシベリ
アなどに連れ去った。 
 スターリンはその後編入作業をすすめた。
 1905年のポーツマス条約で日本が得た南樺太、1875年の樺太
千島交換条約で日本が得たクリル諸島、さらに1855年の下田条約で
日本が得た北方四島まですべてソ連領とした。

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カイロ宣言

 さらに1943年11月、ルーズヴェルト、チャーチル、蒋介石はカ
イロで会談し、日本国に対する軍事行動を協定して「カイロ宣言」を発
表した。
 その中には次の文言がある。

┌──────────────────────────────┐
│ 右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ1914年ノ第一次世界戦争ノ開始│
│以後ニ於テ日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島│
│嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満州、台湾及澎湖島ノ如キ日本国ガ国人ヨリ│
│盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ日本国ハ又│
│暴力及ビ貪慾ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セ│
│ラルベシ                          │
└──────────────────────────────┘
 まず「1914年以後」であるから、それより前の樺太千島交換条約
は有効である。
 これらは平和的な条約の結果として得たものであって「暴力及ビ貪慾
ニ依リ日本国ガ略取シタ」地域には該当しないであろう。
 南樺太は日露戦争の結果として得たものであるので、「暴力的」と言
えないこともない。
 しかし少なくとも北方四島が「暴力的」に該当しないことは明らかで
ある。
 「カイロ宣言」は単なる合意表明なので国際法上の効力をもたない。
 また日本は署名していないので拘束力を持たない。
 しかし、重要なのはその後の「ポツダム宣言」である。

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 ポツダム宣言

 「ポツダム宣言」はもちろん日本が受諾し、ソ連もまた参加した。
 そこには次のように書かれている。
┌──────────────────────────────┐
│八、「カイロ宣言」ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州│
│、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ│
└──────────────────────────────┘ 
 ここに至って、少なくとも北方四島が日本の島であることは明らかで
ある。
(第5回ここまで)
◆次回は「ソ連側の論拠」および「千島列島の範囲」などです。

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