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                        谷 和樹
 NO. 6_________________________★☆★彡

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■■■■■■■ ソ連側の論拠 及び千島列島の範囲 ■■■■■■■
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◆ソ連側の論拠

 ソ連が根拠としていつも言うのは「ヤルタ協定」と「サンフランシス
コ講和条約」である。

1ヤルタ協定

 「ヤルタ協定」は1945年に行われたルーズヴェルト、チャーチル、
スターリンの三巨頭会談での協定である。
 この中でルーズヴェルトはスターリンに対し次のように述べた。

┌──────────────────────────────┐
│終戦に際し樺太の南半分とクリール諸島がロシア側に引き渡される│
│ことに何らの問題もないであろうと思う            │
└──────────────────────────────┘

 ここで問題となるのは「クリール」諸島の範囲である。
 ヤルタ協定の日本訳文面では「千島列島」となっている。
 日本はこれを「ウルップ以北」ととらえる。
 1821年のアレクサンドル一世の定義である。
 しかしソ連はこれを「全千島列島」ととらえるのである。

 さらに問題は「ヤルタ協定」の法的拘束力である。
 これは連合国の三首脳の方針を述べたに過ぎないものだ。
 第一に米国政府の公式覚書にもヤルタ協定について次のように書いて
ある。

┌──────────────────────────────┐
│領土移転のいかなる法的拘束力を持つものでないと認める    │
└──────────────────────────────┘

 第二にヤルタ協定は秘密協定である。
 日本は参加も調印もしていない。
 領土移転は両当事者国の承認がなければ法的根拠があるとは言えない。
 現在ではロシアの専門家(ゲオルギー・クナーゼ等)もそれを認めている。 

2 サン・フランシスコ講和会議

 1950年に朝鮮戦争が勃発する。
 米国は対日の戦後状態を清算しようとする。
 その結果締結された1951年のサン・フランシスコ平和条約。
 その第2条には次のようにある。

┌──────────────────────────────┐
│日本国は、千島列島並びに日本国が1905年のポーツマス条約の│
│結果として獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するす│
│べての権利、権限及び請求権を放棄する            │
└──────────────────────────────┘ 

そして25条には次のようにある。

┌──────────────────────────────┐
│但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准している│
│ことを条件とする。                     │
└──────────────────────────────┘

 この25条が重要なのだ。
 なんと、ソ連はこのサン・フランシスコ講和条約に署名していない。
 ちゃんと会議に参加していたグロムイコソ連全権は、条約の他の条項
が不満として、調印せずに帰国してしまった。
 フルシチョフは後にこれについてスターリンの外交上の誤りであると
し、次のように書いている。

「わが国は調印すべきだった。どうしてわが国が調印しなかったのかわ
 からない。たぶん虚栄心か自負心の問題だったのだろう。」 

 繰り返すが、領土移転は両当事者国が相互に合意する平和条約によっ
てのみ発生する。
 したがって、ヤルタ協定、サン・フランシスコ講和条約は北方領土に
対するソ連の主張の根拠にならない。

◆千島列島の範囲

 しかし、サン・フランシスコ講和条約で日本が「千島列島」を放棄す
ることに同意していることも事実である。
 そこで「千島列島」の範囲に北方四島を含めるかどうかの論争が発生
しているのである。
 サン・フランシスコ講和会議での吉田茂全権は次のように発言してい
る。

┌──────────────────────────────┐
│千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだと│
│のソ連全権の主張は、承服いたしかねます。日本開国の当時、千島│
│南部のニ島、択捉、国後両国が日本領であることについては、帝政│
│ロシアもなんらの異議を挿まなかったのであります。      │
└──────────────────────────────┘

 最も問題なのは、サン・フランシスコ講和条約における「千島列島」
の定義がどこにも書かれていないことである。
 これはダレスがわざと留保したという説もある。
 同条約の起草国である米国の意図はどうなのか。

 1956年、講和条約全権であったダレス国務長官は「日ソ交渉に対
する米国覚書」の中で次のように述べている。

┌──────────────────────────────┐
│米国は、歴史上の事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は│
│(北海道の一部たる歯舞群島および色丹島とともに)常に固有の日│
│本の領土の一部をなしてきたものであり、かつ正当に日本国の主権│
│下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論│
│に到達した。                        │
└──────────────────────────────┘

 さらに1957年、米国政府はソ連宛書簡の中では次のように述べた。

┌──────────────────────────────┐
│米国政府はこれらの文書(ヤルタ協定とサン・フランシスコ講和条│
│約)における『クリール列島』という辞句は、従来常に日本本土の│
│一部であり、したがって正義の上からは日本の主権下にあるものと│
│認められるべき歯舞群島、色丹島、または国後島、択捉島を含んで│
│いないし、含むように意図されもしなかったということを繰り返し│
│言明する。                         │
└──────────────────────────────┘

 この米国の解釈に対してサン・フランシスコ講和条約に調印した48
カ国のどの国からも異論が出ていない。

(補)
 日本共産党などはもっと過激であり、四島だけじゃダメだ、千島列島
は全部返せという主張である。
 これは1875年の樺太千島交換条約を有効とする論だ。

(第6回ここまで)
◆書き出すとあれこれと欲張りすぎて、予定が大幅に伸びてしまってい
ます。
 いつになったら授業プランにたどりつけるのか。
 すみません。

次回は「村井淳志氏への疑問」です。

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