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第2時 北方領土占領の経緯と、国際法上の位置づけ


谷 和樹


択捉・国後・色丹・歯舞の北方領土は、我が国固有の領土である。
北方領土の問題を小学校の社会科で扱うとすればどのような授業が考えられるか。
具体的な授業プランとして考えた。その第2時である。



※ 児童が調べてきたノート等をクラスで紹介する。
(「正保御国絵図」を提示 資料8) 145kb

発問1:この地図を見て、わかったこと、気づいたこと、ほんのちょっとでも思ったことをノートに箇条書きにしなさい。
(指名なし発表)

<説明>
これは、江戸時代の初め、1644年ごろに日本人が書いた北海道の地図です。
この地図には北方領土が書かれています。
これは北方領土が書かれている地図では一番古いものです。
ロシア人が同じ北方領土を書いた地図で一番古いのは1713年で、67年も後のことです。

この頃から北方領土にはたくさんの日本人が住んでいました。
江戸幕府は武士をおいて北方領土を守っていました。
しかし、この頃は国どうしの法律、国際法や条約で国境が決まっていたわけではありません。

(資料9「北方領土略図」を提示) 12kb

発問2: 日本とロシアの国境が国際的な条約で決まったのは1854年のことです。
「日ロ和親条約」と言います。
この時、日本とロシアの国境は、図のABCのどこに決まったと思いますか?

では、日ロ和親条約を読んでみましょう。(資料10 下記)

日ロ和親条約(1854年)
第2条
今より後、日本国とロシア国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあること。
エトロフ島は日本にぞくし、ウルップ島とそれより北の方、クリル諸島はロシアにぞくする。

<説明> 国境はBに決まったのですね。
このように、国と国との国境や領土というのは、国どうしの平和条約によって決まるのです。
ところが、その後、日本は戦争に負けました。
日本が戦争に負けたのは1945年の8月15日です。
8月14日に、ポツダム宣言という文書を日本が受け入れて戦争に降服したのです。

板書
8月15日→日本降服

ところが、ロシア(ソ連)は8月28日にエトロフ島に上陸して、武器を捨てていた日本軍の前で占領してしまいました。

板書
8月15日→日本降服 
8月28日→ソ連がエトロフ島を占領

さらに、9月1日には、国後島と色丹島にも上陸して占領しました。

板書
8月15日→日本降服
8月28日→ソ連がエトロフ島を占領
9月 1日→ソ連が国後島、色丹島を占領

9月2日には、日本はミズーリというアメリカの船の上で降服文書に調印しました。
でも、その次の日の9月3日にソ連は歯舞諸島に上陸し、9月5日には全部占領しました。

板書
8月15日→日本降服
8月28日→ソ連がエトロフ島を占領
9月 1日→ソ連が国後島、色丹島を占領
9月 2日→日本は降服文書に調印
9月 5日→ソ連が歯舞諸島を占領

この時、日本とソ連はお互いに戦争をしないという条約を結んでいましたが、ソ連はその条約をやぶって降服した日本の北方領土を占領してしまいました。
でも、これは日本が戦争に負けたのだからしかたがないのでしょうか。

国際的な条約にはどのように書いてあるでしょうか。

カイロ宣言(1943年)
1914年の第1次世界戦争の開始以後に、日本が奪い、占領した太平洋の島を剥奪する。

カイロ宣言は、戦争に勝つことになるアメリカと、イギリスと、中国が作ったものです。
これには、1914年以後と書いてあります。
だから、1854年の日ロ和親条約で決まったことはそのまま生きています。

ポツダム宣言(1945年)
八条 カイロ宣言の条項を守ること

日本が降服した時のポツダム宣言には、カイロ宣言を守れと書いてあります。
ポツダム宣言は、ソ連も認めている条約です。

1951年9月8日に、日本はサンフランシスコ平和条約を結びましたが、ソ連はこの平和条約に調印しませんでした。
この時、日本の代表はこんなことを言いました。

「日本開国の当時、千島南部のニ島、エトロフ、クナシリの両島が日本領であることは、ロシアも反対しなかったのであります。」
(吉田茂全権の発言を要約)

また、アメリカは、1956年にこんなことを言いました。

アメリカは、歴史上の事実を注意深く調べた結果、エトロフ、クナシリの両島は、北海道の一部である歯舞諸島、色丹島とともに、常に日本の領土の一部をなしてきたものであり、正当に日本の主権下にあるものとして認められなければならないとの結論に達した。
(ダレス国務長官「日ソ交渉に対する米国覚書」)

指示:今日の勉強で思ったことをノートに書きなさい。

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