伊47潜と回天作戦 (創始者黒木大尉と仁科中尉)



学研:太平洋戦史シリーズ「伊号潜水艦」より

文=上原光晴


 最新鋭で大型の潜水艦、伊四七潜が佐世保工廠で竣工したのが昭和19年(1944)7月10日。三週間後の八月一日「○六金物」と称する人間魚雷の採用が決まり、回天一型と命名される。海の特攻である。

 同年11月から終戦が迫るまで、伊四七潜は、回天を戦場に運ぶ母艦として、当初は敵の泊地攻撃に、次いで航行艦襲撃に、敗色覆うべくもないこの時期にあって、日本の崩壊を食い止めようと死力を尽くし戦った。

 名艦長折田善次少佐の指揮下、その名から「シナズ」といわれたこの伊四七潜水艦は、同じく回天を運んだ伊号の精鋭艦三六、五三、五八と並び、最後まで生き永らえる。これら四隻のうち伊四七潜は、伊三六潜とともに出撃最多で、戦果をあげ、空の特攻と共に米海軍を震えあがらせた。しかも、回天搭乗員をめぐる数々の人間ドラマをはらみ、戦史に強烈な彩りを添えている。 


黒木、仁科の運命の出会い

 昭和一九年秋のこと、伊四七潜の艦長折田善次の妻久は、呉駅に近い料理屋ふうの建物から、一人の若い、長身の海軍士官が出てくるのに出会った。

 平成九年(一九九七)一○月現在、八○歳の久は、横須賀馬堀海岸のマンションで語る。

 「髪型が、いまの木村拓哉のような・・。頭の後ろに束ねて後ろに垂らしている。目が異様に鋭く、長い軍刀を持ち、脚の中ほどの高さの半長靴をはいていました。目の前に、宮本武蔵が現れたような、そんな感じでした」

 帰宅した夫に話したら、「ニシナというんだよ」と、答えるのみだった。

 話を冒頭に戻す。太平洋防衛の要衝サイパンを死守せんとするあ号作戦が一九年六月に展開されたが、その前後を含めて戦闘に参加したわが潜水艦三六隻のうち、一挙に一九隻が未帰還となる。米海軍の対潜掃蕩作戦がいかに熾烈だったかを物語るものであった。

 開戦後二年八ヶ月間に失った潜水艦は九二隻にのぼり、精鋭潜水艦の数は急減、組織的作戦はできなくなっていた。海上兵力も同様で、空母の多くと母艦搭載機の大半を失い、海上制覇を争う機能を失っていた。

 回天特攻作戦が、具体化したのはこの頃である。二人の若い士官が推進力となる。一人は回天発案者の黒木博司機関大尉、他の一人は、兵学校出身の仁科関夫中尉である。

 黒木大尉は、岐阜県下呂村湯之島出身。産婦人科医の父弥一は治療費をこちらから求めない好人物で、のちに病院長、山梨県下の村医に迎えられるまで家計は苦しかった。母わきは「百人の人にそしられても、一人の正しい人に褒められるように。百人の人に讃えられても、一人の正しい人に笑われないように」と、子どもたちに説いた。

 下呂小に残っている性行査定は、黒木を、「努力、勉強につとむ。技術に秀で、社交的にして明朗」と、純真な性格を記している。少年時代から模型の船をつくったりするのが得意で、県立岐阜中から一三年一二月、技術者の側面を持つ海軍機関学校に五一期生徒として入校。海軍兵学校七○期にあたる。

 海機在学中のある日、水雷術の教官が生徒の眠気ざましに「最も理想とする魚雷は何か」と質問した。数人が迷答、珍答を出したのち、黒木が「人間が操縦すれば百発百中」と答え、教室をわかした。人間魚雷の開発の芽が、早くもきざしていたのである。

 黒木は海機卒業後、17年8月、潜水学校にはいり、最初から甲標的搭乗を「熱望」した。甲標的とは、開戦時、真珠湾を襲った二人乗りの小さな特殊潜航艇のことで、海軍部内用語である。当時、甲標的の搭乗は兵学校出身者に限られていたので、実現は困難だった。が、彼はとうとう目的を果たす。主任指導官は、「国を憂える彼の情熱には圧倒された」と語っている。

 黒木は、同年2月、潜水学校普通科機関学生を卒業し、呉海軍工廠の魚雷実験部井元事務所に着任し、甲標的の第五期艇長講習員となる。井元事務所というのは、井元正之少佐が部隊長を務める甲標的訓練部隊の仮の名称で、呉軍港に隣接する倉橋島の大浦崎にあった。のちのP基地である。

 黒木は、18年4月1日から一年間「鉄心之心」と題し、全文血書の日記を一日も欠かさずつづっている。後に示すように、憂国の至情あふれる内容であった。

 仁科関夫(海兵71期)が、潜水学校を卒業し、第六期艇長講習員としてP基地に着任したのは18年10月。仁科は、教育者の家に生まれた。父染三は長野県出身、数学を専攻、大阪府師範学校長などを歴任した人物。母初枝も、高等女学校の数学の教師。

 仁科は、一歳のころから大津市の健康優良乳児として入賞。五歳のとき、母に冷水摩擦が健康によいといわれ、合格して兵学へ出発する朝まで欠かさなかった。よいと思ったことは、徹底的にやりとおす性格である。

 小、中学校(旧制)をほとんど主席で通し、大阪府立天王寺中学校を四年で修了、兵学校もトップで近い成績ではいった。点取り虫になるなと父親にいわれ、剣道、登山に力を注ぐ。剣道は卒業時、19歳で四段の允許書をもらっている。一流の教師であった染三は、「生死超越の道は多方なるべきも、要は『敬神の念』を高め、信仰に生くることと存候」と、息子に書き送っている。

 18年12月、P基地で士官宿舎の部屋割りが変更して、黒木と仁科の二人は同室となる。運命の出会いであった。

 黒木は、仁科に出会うまで、まだ人間魚雷をイメージに強く描いていたわけではなかった。むしろ彼は、機関学校士官として甲標的のディーゼルエンジンの馬力を高める研究に熱心で、この面からしばしば上層部に進言している。

 黒木は仁科に惚れ込んだ。仁科は秀才で端正な顔立ち、品行方正。黒木の好むタイプである。仁科は仁科で、黒木の実行力、血を絞って日記をつづる異常な情熱に「ものすごい人がいるものだ」と驚き、海軍で一年先輩のこの人物を畏敬の目で見た。

 黒木は血書の日記「鉄心之心」の19年元旦に、「死ノ戦法ヲ達シ誓ッテ皇国ヲ護持セン」と記している。甲標的にあきたらず、必死の兵器を模索、やがて○六兵器(回天)の創案に至るのである。


◆ 人間魚雷の採用と黒木の死

 一方、仁科はこの年の二月、ある日の午後、甲標的の訓練で大きな事故を起こす。

 当直に立っていた同期の神山政之少尉は、「特潜(甲標的のこと)が海底に突っ込んだ」との知らせを受けた。呉工廠からクレーンが届き、吊り上げる。事故発生後15時間。炭酸ガスが充満する艇内で搭乗員はかすかに息をしていたが救出に成功。それまで神山は、その搭乗員がだれなのかは知らなかった。

 救出した日、神山は士官宿舎の二階に悄然として上がってくる仁科とばったり顔を合わせる。仁科はバツが悪そうに、にやっとした。「(遭遇したのは)仁科だったのか」と、神山は確認した。

 しかし、その後は、以前にもまして明るく仁科作業をつづけた。一度失った命なのだと、腹をくくっているように見えた。

 だが、事故の際、炭酸ガスで視神経をやられたのか、彼の視力は1.2から0.2か0.1へと急速に衰えた。

 同期の久良知滋中尉が8月ごろ「目の調子はどうか」と尋ねたところ「0.4か0.5ぐらいに回復した」と答えているが、実戦には厳しい視力である。

 黒木は、仁科から兵科出身でなければ知らない魚雷の性能について学び、仁科の助言を得て、回天の設計図を無数に書き直していく。仁科は強力なパートナーであった。

 黒木が19年5月8日「現戦局に対し急務所見」と題した血書に、「人間魚雷ヲ完成シ徹底的連続攻撃ヲ敢行シ以テ敵ガ海上勢力ヲ完封スベキナリ」という文字が見える。彼が回天を本格的に考えたのは、19年にはいってからであり、4月以前であることがうかがえる。生産力の巨大なアメリカとまともに戦って勝てるわけがない。しかし人口比では一億二千万対一億人と、わずかな違いだ。こちらが一人で千人の敵を殺せば勝てる。そのためには体当たりして一艦を沈め得る強力な爆薬を抱えた魚雷が必要だ、と考えた。

 仁科は、黒木のこの考えに賛成し、黒木と仁科のコンビは、上京して精力的に海軍上層部を回り、人間魚雷の採用を説いて回った。

 二人の決意は海軍当局者を感動させたが、必死必殺の兵器の許可は出せない。最初のうちは、「時期を待て」といってしりぞけていた。しかし、二月に要衝の一つ、トラック島が大空襲に遭い、当局は二人の提案を無視できなくなってくる。

 二月二十一日、黒木と仁科は、人間魚雷による狭水道通過、碇泊艦攻撃法の採用を海軍省軍事務局員の吉松田守中佐に進言。吉松は、これを「作戦効果が大きい」と評価、軍令部に連絡する。26日、軍務局第一課長の山本善雄大佐は、呉工廠魚雷実験部に「○六金物」という呼び名で、三基試作を下令した。

 五月。脱出装置の設計がむずかしいため試作基の設計が進まず、黒木と仁科の主張により脱出装置を取り付けないことにきめる。

 六月に試作基が完成。八月に兵器として採用され、九月に山口県徳山湾の入り口にある大津島に回天の基地が設けられた。搭乗員が順次着任、訓練がはじまった。

 悲劇はそのすぐあとで起こる。回天の搭乗訓練がはじまった二日目の九月六日、黒木は、海軍の学校で同期(「コレス」と呼ぶ)の樋口孝大尉(海兵70期)操縦の的(艇のこと)に同乗していて海底に突っ込み、二人とも殉職した。天候の悪化で波浪が大きくなり、これに災いされて俯角がかかりすぎ、着底して惨事に遭ったのである。

 二人は冷静に対処し、あらゆる手段を講じたが万策尽きる。酸欠で呼吸困難のなか、倒れるまでの10時間、黒木は後輩のために2000字におよぶ事故の教訓を書き残した。


◆ ハンディと闘いながら

 ここで回天の構造を簡単に説明する。

 回天は、気泡の航跡を残さない93式酸素魚雷を改装した一人乗りの兵器で、初期の一型は全長14.75メートル、直径1メートル、全重量8.3トン、最高速力30ノット(時速50キロ)。上げ下げ自由な役1メートルの特眼鏡(潜望鏡)を備え、潜行、浮上、変針、変速が自在。また自動的に一定の深度、速力で直進できる。頭部に1.55トンの強力なTNT火薬を付けている。普通の魚雷の3倍強の破壊力で、一発でいかなる巨艦をも撃沈させることができる。

 搭乗員は懐中時計と砂時計を頼りに、一人で全ての機器を操作する。エンジンに点火しないで「冷走」して燃料切れとなったり、気筒爆発、震度計の不備による海底衝突などの事故があったりで、殉職者も出した。人手不足による整備員の技術ミスがめだった。スクリューを逆回転できない構造なので、後進がきかない。

 そのため目標からずれた場合、少し遠回りしてから追跡するという不便さもあった。ハンディと闘いながら、搭乗員たちは必死必殺の訓練に邁進した。

 竣工して佐世保から伊予灘に回航された伊47潜では、黒木が殉職したころ、初代艦長折田善次少佐のもと、二ヶ月間の特別訓練を終えていた。

 折田は鹿児島出身。海兵59期。彼の乗った潜水艦は沈んだことがなく、悪運の強い奴だというので、「悪次」というあだながあった。豪放磊落な性格だが、敵のソナーにキャッチされぬため、ごく小さな音も出すまいと、裏に麻糸を縫い付けた草履をはいて艦内を歩く、細心な神経を併せもっていた。

 折田は自信を込めて、乗員の訓練に全力を注いだ。戦局が悲観的であればあるほど一層力がはいる。結果は天のみぞ知る、という考えに徹していた。伊47潜は縁起のよい船だとして「同期の桜」のような悲壮な歌は禁止した。

 折田は、急速潜航訓練に特に力を入れた。見張り員の艦内突入、主機関の給配気弁閉鎖する動作はすさまじい速さであった。折田は鞭を手に、動作の遅い乗員を容赦なくひっぱたいた。この結果、発射管8門を持つ4,000トンkの大きな艦体は、敵を発見し、急速潜航が発令されて全没するまでに40秒、という空前の記録を打ち立てた。それまでの潜水艦で、59秒を出して、一分を切れたと大喜びしたのを考えると隔世の感があった。

 副長格の選任将校は、海兵69期の大堀正大尉。悠揚迫らぬ性格で楽天的、明朗。しかも闘志満々。兵学校生徒時代、起床動作はつねにトップで、下級生は下を巻いた。折田と名コンビを組んだ。


回天特別攻撃隊を編成

 西カロリン諸島に集結中の大規模な敵機動部隊に奇襲をかけ、これを「覆滅」せんとする第六艦体(潜水艦)の作戦計画にもとづき、10月下旬、呉在泊の旗艦筑紫丸で作戦の打ち合わせがおこなわれた。折田の妻久が仁科を見たのは、この時期と思われる。

 回天特別攻撃隊が編成され、第一次作戦を玄作戦、出撃隊を菊水隊と命名。菊水隊は、伊36潜、伊37潜、伊47潜の三隻潜水艦で編成され、回天搭乗員は一隻に4人ずつ計12人が乗り込む。第一次出撃隊は、兵学校、機関学校、予備学生出身の士官ばかりだった。士官先頭の海軍の伝統に立ったものであった。

 伊47潜の回天搭乗員は、仁科関夫、福田斉両中尉、佐藤章、渡辺幸三両少尉である。仁科は、黒木の遺骨を胸に乗り込んだ。黒木も、実戦に参加したのであった。

 福田は機関学校出身。仁科に似て長身。きびきびした言動。航海長の重本俊一大尉によると、彼の体からは、間もなく死地に赴く人とはとても思えない明るさが発散していた。ユーモラスな絵をよく描いた。作戦の成功を祈って幸運のカードを引こうとでもしているのか、トランプの一人遊びをよくやっていた。黒木の遺志を体し、機関学校の名誉を担って、特攻の第一陣に参加したのである。

 佐藤は大正7年生まれで、四人のうちの最年長者。九大法学部を卒業後、予備学生を志願した。逼迫する戦局を見て、いずれは自分にもふりかかってくるに違いない生死の苦悩を解明しようと、禅の修業に進み、托鉢に回ったこともある。海軍に身を投じてから、国難を救うためには回天特攻しかないと確信するに到る。佐藤は、すでに結婚していた。妻に宛てた手紙のなかで「他に嫁ぐもよし。ただ汝は私の永遠の妻なり。この世において、たとえ他人の妻たるの名を仮せられようとも、余の妻たるに変わりはない。極楽にて待っている」と書き送っている。

 渡辺も、予備学生からきていた。慶大経済学部出身。医師だった父親が早く亡くなり、苦労して育ったが、そんな素振りは見せなかった。容姿端麗、静かなもののいいかたをする紳士。艦橋に上がってきては、重本航海長の天測を珍しそうに見ていた。この人のどこに強烈な特攻魂があるのかと、疑われるほどたった。彼は姉に宛てた遺書のなかで、伯父が出してくれた奨学金は、自分の遺産のなかから利子を加えて返してほしい、と頼んでいる。苦労人の彼は、人生に借りを残してはならぬと考えていたのだろう。

 回天は四基ずつ三隻の伊号潜水艦の甲板に木製のバンドで固縛され、11月8日、三隻は大津島基地を出撃した。伊36潜と伊47潜はウルシー島泊地へ、伊37潜は単独でパラオ島のコッソル水道へ。

 航行中の伊47潜。仁科以下四人の起居動作は、乗り組む以前と全く変わった様子がない。乗員の邪魔にならぬようして、米軍の艦船の模型を出し、向きをさまざまに変えて側的の訓練をし、海図を広げては、どこを進むか、熱心に研究する。攻撃日が迫っても、淡々として、にこやかで、落ち着いている。食事のあとでは、軍医長や手すきの乗員を相手に、囲碁や将棋に興じていた。

 折田艦長ら乗員のほうが緊張した。折田は乗艦のまえから食欲が衰えていたが、ますます食が細った。どんなことがあっても四人を無駄死にさせてはならない、と思い詰めていく。ともすると、フネのなかが重苦しくなる。回天の四人は、明るく振る舞った。それを見るのが、乗員にはいっそう辛かった。

 二日目と三日目は荒天で高波が後甲板の回天にぶつかった。回天が壊れぬようにと、針路ノ選定、速力の調節に神経をけずる。夜間は搭乗員を回天のなかに入れて、操縦装置や電話の点検、テストをした。


◆ ウルシー泊地に二本の火柱

 16日に、ウルシー泊地の飛行偵察の報告が入電。ウルシー環礁内に戦艦、空母、輸送船など約200隻がいるとわかり、艦内に喜びと引き締まった空気が流れる。

 19日未明。潜望鏡をのぞいていた折田艦長が「おっ、敵艦がいる。大型だ。たくさんいる。7000(メートル)だ、航海長見ろ」と重本に観測を命じた。

 リーフ(環礁)越しに、直線距離で7000メートルの近距離に敵艦がいる。懐中深く飛び込んだためか、監視の哨戒艇はいない。ウルシーには10ほども小さな島があり、その間にリーフが横たわっている。折田は慎重に島を回り、リーフを避け、敵艦に最も近い射程距離を選んだ。敵の一番手前の艦と伊47潜との距離は一万余メートルと推定された。

 20日、午前0時30分。浮上した伊47潜で、搭乗員に回天乗艇命令が下される。

 ハッチの蓋が開かれ、まず3号艇と4号艇の佐藤、渡辺両少尉がそれぞれの艇にはいり、操縦装置や計器に異常のないことを確認して、整備員にハッチを閉めるよう求めた。

 整備員はすくみ、金縛りにあったように動かない。動けないのだ。

 搭乗員は再度、閉めるように強く求めた。整備員は嗚咽をこらえながらハッチのボルトを締めた。

 次いで福田中尉が、挙手の敬礼をして全乗員に「お世話になりました。いきます」と、いつもの元気な声で別れの挨拶をし、2号艇へ。

 最後に仁科中尉が、感謝の意を述べ、乗員と握手をかわし、1号艇の人となった。

 いよいよ発進である。5分置きに見送ったその情景を、折田は、戦後の24年秋に、週刊朝日の記録文学に応募して入選した「人間魚雷」のなかで、要旨次のように表している。いずれも「会心の突撃を祈る。何かいうことはないか」と電話で問うた折田への、彼らの返事である。

 「仁科中尉は、『お世話になりました。後続艇をよろしくお願いします。後を頼みます。――出発します』と、平常と変わらぬ淡々たる口調だ。4時15分、用意、発進を令した。

 次いで3号艇。佐藤少尉は、『無事にここまで連れてきていただいて有り難うございました。昼間見たあのデッカイ戦艦に必ず命中します。艦長以下乗員一同の武運長久を祈ります。――出発します』

 渡辺少尉は、『お世話になりました。落ち着いていきますからご心配なく。伊47潜万歳』に、こちらからも『渡辺少尉万歳』

 見事な発進ぶりで駛走していった。

 最後は2号艇福田中尉。

 『縦舵機の調子はよいか』

 『ご心配かけました。作動良好です。――出発します』

 4時30分『用意』『発進』を令すると、バンドがはずれ、回天が起動し、電話線が切れる瞬間に、最後の雄叫びのみが私の耳を打った」

 泊地の真ん中に真っ赤な比の塊が盛り上がり、吹き上がって大き火柱となった。命中、5時7分。つづいて5時11分、同じ方向に火柱。命中二発目を折田は確認。

 一方、伊36潜の回天は、4基中3基が架台から離れないなどの事故があり、今西太一予備少尉(慶大)の3号艇だけが20日午前4時54分、発進した。

 コッソル水道に向かった伊37潜は、水道西口で敵に発見され、敵護衛駆逐艦の爆雷が命中し、回天を積んだまま、雄図むなしく悲壮な最後をとげた。

 ウルシーの戦果は(米側では「被害」)、給油艦ミシシネワ一隻だけと、米側は公表していた。ところが、最近になって、戦艦ペンシルヴァニアも撃沈されていたという情報が舞い込んできた。これは、ミシシネワ乗組員の子息でウイスコンシン州在住の戦史研究家マイク・メアが調べた結果で、平成8年4月、回天顕彰会の渡辺久名誉会長(元海軍少佐)に送られてきたものである。(*1)

 メアはこのなかで「米海軍の報告によるとミシシネワとペンシルヴァニアはそれぞれ一基の回天によって沈められた」「ミシシネワは回天が発進した時刻と地点の関係から見て今西艇が撃沈したと私は思う」と伝えている。二隻撃沈説は新説であり、これが事実とすると戦史を書き換えねばなるまい。折田が見た二本の火柱は、この二隻だったのだろうか。

 ただし米海軍年史は、ウルシーの被害はミシシネワ一隻のみと記載している。回天関係者は、今西艇のミシシネワ撃沈説は確度が高いとみている。また、メアは、回天五基のうち二基がそれぞれ海と空から撃沈され、一基が砂州に衝突して爆発したとしている。(*2)


◆ 金剛隊、多々良隊の編成

 菊水隊につづき、西太平洋敵泊地を奇襲するため、伊号6隻で回天特攻金剛隊が編成された。その一員として伊47潜は12月25日、大津島を出航、赤道を越えてニューギニア北岸中央のフンボルト湾内ホーランジア泊地の襲撃に向かった。

 30日朝、グアム島の西300海里洋上で、ドラム缶をつなぎ合わせた筏に8人がうつ伏せになっているのを発見。骨と皮だけで息絶え絶え。筏を艦に引き寄せて全員を救出した。米軍の進攻でグアム島の日本軍は島の北部に追い詰められ、生存者はジャングル生活を送っていた。この8人は、米軍飛行場の焼き討ちを図り、海から進撃しようと筏を組み、海岸に近づいたが風と潮流に妨げられ、沖に押し流されてしまったのだという。漂流32日目で救助されたのであった。

 隊長川久保輝夫中尉ら回天搭乗員4人は「私たちの身代わりに二倍の8人が生還してくれた。めでたいことだ」と手をたたき「どうせ不用品だから」と、自分たちの衣服や日用品を与えていた。

 奇跡的に助かった喜びに感きわまって泣く8人と、必死突入を控えた4人を見比べ、そのあまりにも対照的な情景に折田は言葉を失った。川久保の次兄と折田は同期であり、折田は幼いころからの川久保を知っている。二人は偶然、金剛作戦で乗り合わせたのだが、あの幼子がたくましく成長し、死を眼前に無私、快活に振る舞っている。折田は、こみあげてくるのを押えあぐんだ。

 1月12日、フンボルト湾の北50海里に到着。湾内には50隻ちかい艦船がいるらしい。12日午前1時、搭乗員乗艇。4時15分、折田は「一号艇用意、発進」と下令。

 川久保の発進を確認。つづいて松村実上等兵曹、佐藤勝美二等兵曹、原篤郎中尉。

 電話線が切れる最後の瞬間、次々に「大日本帝国万歳」と絶叫していくのを、折田はきいた。

 5時12分、ホーランジア方向の水平線に大きな赤味がかった橙色の閃光が噴出。一発命中を確認。間もなく電信室が「われ潜水艦の攻撃を受けつつあり」を意味する敵のSOS連送の緊急電波をキャッチ。泊地が大混乱に陥った状況をつかみ、全基突入に成功と認め、伊47潜は急速潜航して帰途についた。

 明けて20年3月、沖縄戦開始。

 回天特攻多多々良隊を編成。伊号47、56、44が回天を合わせて20基積んだ。歴戦の強者47は戦陣を承って29日、山口県の光基地を出撃する。

 予想どおり敵は待ち構えていた。その日の午後4時すぎ、日向灘沖で北上するグラマン編隊と遭遇、急速潜航。翌30日午前2時半すぎ、種子島の東方25海里で艦影2を発見。急潜したが敵のレーダーに捕まる。巧みに包囲され、回避運動4時間。抜け出せぬ状態のなか、敵の爆雷攻撃がはじまる。21発目で、ようやく終わる。「艦内異常なし」との報告が、不思議なくらいであった。

 回避運動12時間の末、やっと離脱に成功したのである。種子島付近で浮上してみるとね重油漏れが予想以上にひどかった。折田が大堀先任将校らと漏油対策を話し合っているところへ、敵の小型機が飛来。急速潜航20メートルで真上に大爆発が2発。爆弾の破片が艦橋を直撃、一番潜望鏡が漏水で使用不能に。が紙一重で命びろいした。

 回天も3基が損傷しており、折田は作戦続行をあきらめて帰途についた。沖縄周辺の敵の警戒が、いかに厳重であるかを痛感した。31日、大津島に帰着。回天を下ろし、修理のため呉に回航。これだけ破壊されてよく帰ってこられたと、基地の隊員は驚いた。


◆ 伊47潜、最後の大戦果

 菊水、金剛、多々良、とつづいた回天隊の泊地攻撃は、敵の防潜網、対潜攻撃の強化に阻まれて継続困難となった。そこで司令部が考えてたのが、洋上を走っている艦船を狙う航行艦襲撃である。ソロモン海戦以来、輸送任務に追われること久しかった潜水艦を、本来の役目に立ちかえらせようとする作戦である。

 洋上回天戦の第一陣として最精鋭の伊47潜と伊36潜の二隻が選ばれ、天武隊が編成され、沖縄とマリアナ諸島の中間付近を作戦海面とさだめた。折田は、四回目の艦長出撃である。回天搭乗員は、隊長の柿崎実中尉をはじめ、前田肇中尉、古川七郎上等兵曹、山口重雄一等兵曹、新海菊雄、横田寛両二等飛行兵曹の6人。実は前回の多々良隊のときと同じ顔ぶれなのである。柿崎たちは、

 「またお世話になりにきました。よろしくお願いします」と微笑しながら、桜を一枝ずつ手にしてイ47潜に乗り込んできた。「今度こそ本懐をとげるのだ」と、決意のほどが眉間に見えた。柿崎隊長は、「特別の配慮は一切ご無用。魚雷発射と同じ気持ちで、回天発進を命じてください」と、折田に挨拶した。

 4月20日、光基地から出撃。前回はさんざん叩かれたので、豊後水道を出るまえに、魚雷はもちろん回天も、いつでも発進できるように準備した。

 5月1日夜、レーダー室から待望の報告。「敵発見。輸送船団らしい」

 時化模様で真っ暗だから回天戦は無理、と折田は判断。「魚雷戦用意」を発令。

 白鉢巻の柿崎中尉が艦橋にきて、「回天も使ってください」と懇願。「無理は絶対いかん」と、折田ははねつける。船影4000メートルで、「発射雷数4、魚雷深度3メートル、発射始め」。やや間を置いて「用意、テー」。三分経過。潜望鏡の視野に、火柱がぱっと一本。同じ場所に二本目が。ややあって視野の右側に三本目の火柱があがる。二隻は沈没確実と判断した。

 この戦闘の興奮がさめやらぬ二日午前9時すぎ、聴音室は原音を補足。柿崎隊は、柿崎の「さあ、いくぞ」の声もろとも、各自の回天へ駆けだす。まず一号艇柿崎注意と三号艇山口一曹。コレスの佐丸幹男機関中尉が、「柿崎、しっかり頼むぞ」と、肩をたたく。「さよなら」と柿崎は一言だけ、笑って右手をあげ、回天の下部ハッチを開き、中に消えた。二つの艇が発進。やがて、前後して二つの大爆発音が起こった。

 つづいて二号艇、古川上曹。海軍に入籍以来、魚雷一筋に生きてきた古川上曹は、快調な熱走音を出して突進。聴音室が二つの音をとらえた。敵のフネと、古川艇である。二つの音は弱まり、いったん消え、また大きくなってきた。逃げる駆逐艦を全力で追いかけている回天の奮闘ぶりが、聴音室で手にとるように分かった。突入、と思うと間もなく、大轟音が余韻を引いて伝わってきた。

 伊47潜は5日間、沖縄とグアムを結ぶ敵の補給線上に進出した。6日朝、レーダーが目標を探知する。敵巡洋艦である。

 五号艇、前田中尉が発進。魚雷も併用する。爆発音がとどろき、前田中尉の体当たり轟沈を確認。残り二基の回天は、電話の感度不良で発進できずに終わった。

 折田は大戦果をおさめたあと、潜水学校教官に転出。伊47潜は二代目艦長鈴木正吉少佐指揮のもと7月19日、沖縄南東海域に進撃したが、連日の荒天に妨げられて会敵できず、8日11日帰投。戦後米軍に引き渡されて海没処分に付され、激闘の生涯を閉じた。

 伊47をはじめ回天戦は、かなりの戦果をあげたことが推測できる。が、アメリカの公式発表はミシシネワと駆逐艦アンダーヒル(伊53潜、7月24日ルソン沖)二隻撃沈だけとしている。これに対し、魚雷と回天攻撃の区別が不明瞭なのではないか、英艦船に突入したとすれば、米側の記録には載るまい、との見方が旧潜水艦関係者のなかにある。

 菊水隊の仁科は、敗戦を予期して「自分たちがいしずえとなって日本は立派になるのです。自分たちの死は決して無駄ではありません」と折田に所信を明かしている。

 「仁科たちが理想とする日本になったのだろうか。情けないな」

 折田は、平成3年8月、肺炎がもとで他界するまで、深い思いを込め、しばしば妻の久に語りかけていた。



(*1) 実際のペンシルヴァニアは、大戦を生き延び、1946年7月ビキニ環礁で行われた原爆実験等放射線の研究に使用されている。
   →ペンシルベニア(ウィキペディア) (-2009.12.02-)

(*2) 近年解禁された米国側秘密資料により判明した菊水隊5基回天の戦闘状況はおよそ下記の通りです。研究者、執筆者の方は精査な確認をお願いいたします。

   1.大型油送艦ミシシネワに突入。撃沈。
   1.巡洋艦チェスターに突撃中、駆逐艦ケースにより撃破。
   1.巡洋艦モービルに突撃中、同艦の攻撃により撃破。
   1.リーフに座礁。自爆(推定)。
   1.リーフに座礁。自爆(推定)。

*関連リンク (-2012.6.14-)
フラッシュ『回天特別攻撃隊』