さりげなき"最後の晩餐"

堀田耕之祐 昭和20年3月30日沖縄慶良間列島付近海域で戦死。海軍中尉。行年25歳

父・堀田徳治




 長男耕之祐の二十五年の生涯――その思い出はあまりにも数多く、限られた紙数では、とても書き尽くせるものではありません。
 最終の期間の学徒出陣(昭和十八年十二月十日)で海軍入隊後のことをあげても、幾つかの思い出が、いまもあざやかに目に映じてまいります。
 例えば十九年二月、大竹海兵団での面会、同年七月武山から長崎県川棚町魚雷艇訓練所への転属の途中、汽車のなかでの、ほんの束の間の面会等々、いちいち書いていたら際限はありませんが、私どもに最も深い印象として残っているのは、十九年十二月二十七日、入隊後一ヵ年ぶりに、一泊二日の休暇を得て帰省した時のことです。
 年があければ出撃する予定とかで、最後の別れのためにこの休暇が与えられたようでしたが、事実その通りに、最後の決別となったのであります。もう三十年も昔のことになりますが、その日の事柄は不思議によく記憶に残っております。いま、その記憶をたどりつつ思い出として書くことにいたします。
 その時、ちょうど私は用事で遠くに出かけておりましたが、私の出先を知っていた耕之祐が徳山から打った電報をみて、急きょ馳せ帰ったわけでした。当時すでに交通事情は悪くなっていて、夜の十一時をすぎてようやく家に帰り着く始末でした。
 しかし、耕之祐はぐっすり寝込んでおりましたので、寝顔をのぞいただけで、話は明日に…と、私もそのまま就寝しました。
 翌朝八時ごろ起きて、裏の井戸場へ洗面にいくと、ちょうどそこで顔を合わせた耕之祐は、「お早よう」とも言わず、のっけに「うちの水はうまいなあ」、しみじみした調子で申します。それで私も、「よく眠れたかい?」といった調子で、それが朝の挨拶になりました。
 その井戸はいまも残されてありますが、十数年前に市営水道が敷かれたため不用となり、石でフタをして使っておりません。
 朝食後は親子三人、火鉢をかこんでの話です。耕之祐が徳山にいるということは、電報の発信局でわかっていましたが、くわしいことは何も語ろうといたしません。ただ、戦況がよほど悪いということ、例えば、「いまの海軍の現有戦力をお父さんが知ったら、さぞピックリするだろうなあ」などと、聞く私が少々ギョッとするようなことを洩らしておりました。だが、『回天』とか『特攻隊』とかいった言葉は、ついに一言も聞かれず、わずかに、「年が明けたら出撃する」ということだけを、少し誇らしげに申しておりました。
 実際の戦況を知らぬ私は、「なーに、日本は敗けやせんよ。最後には必ず勝つさ」という甘い気持ちで、「出撃するのはフィリピン方面か、それとももっと南の方面か」とまったくピントはずれの質問をしたことですが、耕之祐はおそらく、心中苦笑していたことでしょう。しかも私は、「この次ぎ休暇で帰ってくる時は、お母さんにワニ革の一つくらい土産に持ってきてあげるんだな」と、とんでもないことを言ったものです。
 すると耕之祐は変な表情をして、顔をすっと横にそむけました。おかしな素振りだなとは思いましたが、別に深くは考えず、それでその場はすみました。だが、いまにして思えば、「親父はまだ何も知っちゃいないんだなあ」と、歯がゆい気持ちでしたろう。
 話しているうちに正午となりました。耕之祐は昼食後、村の戦死者の宅を十軒あまり弔問すると、海軍少尉の軍服に着替えて出て行きました。遠からず自分も、その人たちの仲間入りすることを考えていたことでしょう。
 私の家に古くから出入りしていた"孫次郎の爺"という人がおり、耕之祐を幼いころから、わが子わが孫のように可愛がり、耕之祐もまた"爺い々々"と、よくなついていましたが、彼は弔問の途中、その家にも立ち寄って挨拶をしております。終戦後の話になりますが、耕之祐の戦死が確定し、それが村中に知れ渡りますと、孫次郎爺は宅へ駆けつけてきました。そして、
「学徒出陣した時は、爺よ、ぼくが帰ってくるまでは死ぬなよ、と言ってくれたが、十九年末の時には、たまたま風邪をひいていた私に、よく養生をして早く元気になってくれ、といたわってくれただけで、ぼくが帰るまで死ぬなよ、とは言わなかった。もうあの時は死ぬ覚悟で、その別れにきてくれたわけだったが、わしはそれを少しも気づかなかった」
 と泣き伏しましたので、私どももそれにひかされて、ともに熱い涙に暮れたことでした。この爺も約二十年ほど前にこの世を去りました。
 弔問を終えて家に戻ってから、耕之祐の帰省を知った村の人が数名挨拶にきてくれましたが、親子水入らずの話の邪魔をしては…との心づかいからか、みな早々に引き取って行きました。そのあと、また私ども三人は、取りとめのない話を飽かずにしたのでしたが、そのなかで耕之祐は、こんなことを言い出しました。
「お父さん、ぼくも死に、雄三(耕之祐の弟で陸軍飛行隊に入隊中でした)も死ぬということになると、堀田の家も絶えてしまうが、そうなったらお父さんはどうする? まさか世をはかなんで、何もかも捨てて隠棲するなんてことはないだろうね」――私は思わずドキリとさせられましたが、すぐ切り返しました。「お前たちが二人とも死んだからといって、うろたえるもんかい。私はまだまだ俗っ気の多い男だ。熊谷直美のマネなんかできないよ。安心せい」
 しかし、これは必ずしも腹からの言葉ではなく、ただ単なる負け惜しみ、心にもないことを時のはずみで口走ったわけですが、いま思い出して耕之祐に対し恥ずかしい感じがいたします。
 また、このとき妻は、「耕之祐、この戦争はほんとに勝てるの?」と聞きました。私はつまらんことを聞くわいと思いましたが、彼はすぐそれに返答せず、しばらく黙っておりましたが、ややあって顔を上げると、「うん、勝つよ。お母さん、最後にはきっと勝つよ」と答えました。私は即座に、「大丈夫勝つよ」と答えなかったのに、いささか不満と不安みたいなものを感じ、戦況は私どもが考えている以上に悪いのだなと、おぼろげながら気付いたことでした。
 私はふと何気なく、「お前も出撃するのだから、記念に何か一筆書いてはどうか」と勧めました。と耕之祐は案外素直に、「うん書こうか」と言うのです。そこで、ちょうど唐紙の持ち合わせが家にあったので、筆硯をそろえて、半切を三、四枚並べると、まず「尽忠殉皇」と書いて一たん筆をおき、「もう一枚…」といって書いたのは、「回天偉業」の四文字です。そして次の一枚には、「轟沈」とも書きました。
 この時、まだ回天特攻隊などということは、夢にも知らなかった私は内心、「回天偉業」などと、ありふれた文句を書くわいと思ったのですが、戦後、この「尽忠」と「回天偉業」の書を対幅に表装して、耕之祐の年忌には必ず床にかけ、彼を偲ぶよすがとしております。
 とかくするうち、初冬の短い日は西に傾きました。少し早いが夕食をとることにして、妻の心づくしの膳につきました。当時のことですから、たいした料理のできるはずはなかったのですが、田舎だけに、かえって材料の入手に便利だったのか、いろいろな手料理が並びました。深いことを知らぬ私と妻は、それこそ舌つづみを打って、楽しくお相伴したことでした。
 食事中に私が冗談半分で、「この次に親子水入らずで食事するのは、いつごろになるだろうかなあ」と言うのに、耕之祐は乗って来ようともせず、ただ、むずかしい顔つきになったのをおぼえています。おそらく彼は、心中深く文字通りの"最後の晩餐"として、味わっていたに相違ありません。
 食事がすむと、親戚のものや村の人など、三十人近い方々が見送りにきてくれました。門を出る時、耕之祐は二度三度と、振り返り振り返り我が家を眺め入っておりました。いつもとは変わった妙な素振りだなと、ちょっと気にかかりましたが、多勢の人たちの話に取りまぎれて、私は軽い気持ちで歩き出しました。
 阪和線和泉府中駅まで一キロ半ほどの道のりを、すでに自動車の便を得られなくなっていた私たちは、幅二メートルの野道づたいに三々五々、耕之祐を中心として話しながら近道してまいりました。
 府中町に入る手前で、野道は街道に合流しますが、その時、偶然にも私は耕之祐と肩を接して並びました。あるいは耕之祐が自分から、肩を寄せてきたのかも知れません。彼は私の耳もとに口を寄せるようにすると、低い声で、
「お父さん、さっきぼくは"回天偉業"と書いたでしょう」と申します。私は冷やかし気味に、「平凡な文句やったのう」と答える、と、彼は「後で思い当たるよ」といって口をつぐみました。
 その一言が、私の胸にドキンときました。これは大へんだ、何か知らぬが、耕之祐はドエライ危険なことをやるのだなと、初めて気がついたのです。そして、そのトタンに今日一日の彼の言葉のはしばし、行動、変な素振り等々、すべてが何か引っかかってくるようなことばかり。これはもう"還らぬ覚悟"だな、と、やっとそのときに感じ取ったのです。
 耕之祐のそうした極限状態に身を置いた、心の動きなどを少しも察し取ろうともせず、ただ今日一日を耕之祐とともにいて、心浮きうきと甘い気持ちだった私は、頭から冷水を浴びせかけられた思いで、心中ガックリとなり、「うん」といったきりで、そこから駅まで四、五百メートルの道を歩きながら、一言も口がきけなかったのでした。
 府中町のほぼ中央に泉井上神社という立派なお宮があり、道はその鳥居の前を通っております。耕之祐がそこで深々と頭を下げて祈っているのを、私はうつろな目で眺めたなり、彼の武運長久を祈ることさえ忘れて、ただ軽く礼をしたまま通りすぎたのであります。当時すでに乗車が制限されていて、府中町では、私と妻のただ二人だけが大阪駅までの切符を買い、あとの方とは駅頭でお別れをつげたわけです。
 大阪駅は混雑していました。彼の発車までにはまだ時間があったので、待合室で休みましたが、語り合うことはいくらでもあるはずなのに、何も話すことができず、私は落ち着きなく、人々の間をただあっちこっちと動き回るだけです。妻はというと、これも耕之祐と話をする様子もなく、ただじっと彼に寄り添っているばかりです。妻は耕之祐と私の、野道でのやりとりをまだ知っていなかったし、したがって、私の受けた心のショックを知るはずもなかったのですが、やはり母親の第六感とでもいうのか、何かを敏感に感じ取っていたのです。
 言葉もなく、耕之祐に寄り添ったなりで、離れようともいたしません。やがて、改札の時間がきて、私どもも長い行列のなかに入りました。フォームへ出るのにも、かなり時間がかかったはずでしたが、妙にそれが短かったのです。そしてフォームに立ちましたが、いよいよこれが最後の別れかと思うと、万感こもごも到って、口を開くのも何かむなしい感じでした。
 妻は相変わらず口もきかず、耕之祐にぴったり寄り添ったままです。だが、私どもの気持ちは耕之祐の心にひしひしと伝わっていたようです。そんな心の重圧に苦しくなったのでしょう。彼は語りかけてきました。
「お父さん、いつまでこうしていても同じだよ。遅くなるとお母さんが野道で難儀するから、もうこのへんで帰って下さい」
 私は何やら物足りぬ思いでしたが、しかし、いくらいても惜別の情は尽きません。耕之祐の勧めをしおに、思いきって別れることにしました。
 私は耕之祐の手をしっかりとにぎって、最後の言葉をかけました。「しっかりやってくれよ。頼むぞ」。彼は「はい」と力強く答え、妻に「お母さん、元気で暮らして下さい。さようなら」と言い、妻はこれに大きくうなずいただけでつにいに無言でした。
 後日、妻に「別れぎわに、なぜもっと言葉をかけてやらなかったのか」と尋ねたところ、妻は「言おうとしても、ものが言えなかったのです。言葉に出せば、大きな泣き声に変わってゆきそうで…。もしそんな愁嘆場を演じたら耕之祐に恥ずかしい思いをさせるから、じっと我慢して、とうとう一言も言葉がかけられなかったのです」と、泣きくずれたのであります。
 このように、私どものフォームでの決別は、一見きわめて簡単で、むしろあっけないほどでした。大阪駅を出て府中駅に戻り着いたのは十時近くでした。それからさっき来た暗闇の野道をたどって帰路につきましたが、途中、私は妻に「耕之祐はもう帰ってこないぞ」、重苦しい声にならない声で告げますと、すでにそれと察していたのでしょう。しばらく黙って歩いていた妻は、とうとう声をあげて泣き出しました。私もつられてともに泣きました。誰もいない夜の野道です。人目のないのを幸い、私ども二人は手放しで泣きながら、家にたどりついたのであります。
 そしてその年も暮れ、昭和二十年の新年が来ましたが、耕之祐は出撃の様子もなく、一枚の葉書も来ません。後で聞けば、『回天』の特攻艇の製造が、材料不足のため間に合わず、おくれたからだそうです。今日か明日かと心の動揺に耐えているうち、とうとう四月二十日すぎ、葉書が二枚(一枚は私あて、一枚は妻に)配達されました。ペン書きです。

   敵は愈々本土に迫らんとして居ります。
   戦局はまさに本土を戦場化せんの悲壮な様
   相を呈して参りました。
   私も愈々神州護持の一翼を担ふ光栄を得る
   ことになりました。為す所なく過して来た
   二十五年の人生の万分の一の御恩返しが出
   来れば幸甚と思ふて居ります。父上様には
   呉々もお身体をお大切に          敬具
   (以上原文のまま。ただし、前文の挨拶は省略)

 妻にもほぼ同じ意味の葉書でしたが、それには「二十五年の深い御慈愛を有難く思ふ」の文句が添えてあります。この葉書はすなわち、耕之祐の絶筆でもあり、また遺書でもありますから、いまも大切に保存しております。
 妻と私は、それぞれの葉書を手に、「いよいよ出たぞ。危いのう」、と顔を見合わせたことでした。まだそのときは、『回天特攻隊』の名はもとより、その実体などは知るよしもありませんでしたが、とにかく、きわめて危険な作戦に突入していることは想像できましたので、一縷の望みを万一の僥倖に託して、耕之祐の武運をひたすら祈ったのでした。
 私どもがこの葉書を受け取ったのは四月二十日すぎでしたが、耕之祐が『回天特攻隊白龍隊』として、光基地を盛大な見送りのもとに出撃したのは、これに先だつ三月十三日でした。一たん佐世保に寄港したようでしたが、そこから秘密裡に沖縄に向かったとのことです。しかし、その後の消息は一切不明で、残念ながら戦功らしいものもなかったようであります。
 以上の出撃の顛末は、終戦直後、拙宅にご弔問にきて下さった、友人であり同僚であった中谷氏から詳細にうけたまわった話ですが、中谷氏ご自身は三月十三日光基地において旗を振り、声を枯らして万歳を叫んで、耕之祐らの出撃を見送って下さったとのことでした。
 かくて耕之祐は、海のどこかで水漬く屍と果てましたが、弟の雄三は幸い無事帰還してまいりました。そして、復員三年後に嫁を取り、いまでは男の孫が三人できております。耕之祐が憂えた堀田家の祭祀の絶える心配はありません。地下の耕之祐も満足して瞑目していることと存じます。


回天刊行会発行『回天』より