生き残り特攻隊員の心境








語り手:小灘利春(在八丈島第二回天隊隊長、兵学校72期)
河崎春美(在高知県須崎第23突撃隊、予科練甲13期)
聞き手:磯部 博(海上自衛隊横須賀地方総監部・三等海佐)




隊員の募集

磯部 「当時は国のため、ということで覚悟は出来ていたでしょうから、多くの方が志願されたと思うのですが、隊員の選抜要領といいますか、どの様にして選考されたのですか?」

小灘 「予備士官や予科練出身者の場合は純然たる募集です。志願者の中から更に厳選して搭乗員を決めています。
 兵学校出身者の場合、こういう兵器を使うべきだという意見を出した人は、搭乗員に採用されています。それ以外は兵学校出身者は指名です。転勤命令で来ます。後になると、行くかどうか質された人もいますが、我々の場合、志願するか否かなど誰も聞いてくれませんでした」

磯部 「一方的に指名ですか?」


訓練合間のスナップ写真(兵72期同期生)
前列左より:小灘中尉、柿崎中尉、川崎中尉。後列:土井中尉、福島中尉、窪添主計中尉


小灘 「いきなり指名でした。我々はこの様な大きな働きが出来る配置は光栄でもし聞かれれば当然志願しました。指名されたのは、適任であると認められた証拠であると、今でも誇りに思っています」

 
訓練状況

石本 「戦争中ということで訓練時間に余裕が無かったと思いますが、技量的に訓練時間は充分だったのでしょうか?」

小灘 「人員に対して回天の数が少ないし、整備に手間が掛かるので、例え望んでも訓練回数を増やせませんから、速成の域を出ません。ですが自分で訓練し、他人の訓練を見て、毎晩の研究会で激しく討論研究しましたから、向上は案外早かったと思います」

河崎 「乗るのは大体20回から25回です。一時間として延べ25時間、最初は30〜40分位ですから先ず20時間でしょう。その程度で卒業レベルに達しなければ、これは出撃させてくれません」

小灘 「ある程度適性を見て人選していますが、その上で実際にやらせてみて、見込みなしとなったら直ぐ後回しです。少しでも優秀な人をどんどん先に出撃させていきました」

磯部 「当時皆さん独身で?」

河崎 「回天の場合原則として独身が条件でした。妻帯者が二人だけいました。一人は戦時中に結婚し、一人は入籍せずそのままでした。二人とも予備学生出身者で、後はすべて独身です」

磯部 「その間、親御さんの心配は?」

河崎 「要するに募集要領に後顧の憂い少なき者、という条項がありました。兄弟のあることが前提でした」

小灘 「でも今思えば許婚者なり、恋人がいた人は大勢いたのではないかと思います」

磯部 「出撃前に、家族のもとに帰る休暇のようなものはあったのですか?」

小灘 「ありました。しかし搭乗員の誰もが自分はこういう任務に就いている、ということは話さなかったと思います」

磯部 「秘密の作戦だから?」

小灘 「それもありますが、親兄弟に心配をかけてはいけないという気持ちです。誰の記録を見ても、出撃前の休暇で家に帰って、平素と変わらぬ様に振舞っています。心の中で別れを告げて戻っています。我々も、これから死にます等とは、親には到底いえたものではありませんでした。早くから悲しませるだけですから。後でわかってもらえれば、それで良いとの思いです」

河崎 「家族としては、多少は感じた様です。変な時に帰って来るから、おかしいなと推察はしたようです。あと樺太、北海道、台湾等遠隔地の者は帰れませんでしたから、友達の家に行って一時を過して帰るとかしていました」

 
◆ 生死観

石本 「今のような時代からいわせて頂ければ、皆さん戦時で覚悟はされていたでしょうが、それ以外の職務であれば、あるいは死なないこともあり得た訳で、その辺はどうお考えでしたか?」


八丈島底土基地
左より鈴木(煙草を吸っている)、桜井(その後ろ)各一飛曹、高橋、
小灘各中尉、佐藤(立っている)、高野、永田、斎藤(後ろ向き)各一飛曹


小灘 「私が書いたものもありますが、あの時代、我々が命を捧げなければ、日本の国民も国土も守れないと思っていました。このまま行けばこの国は滅亡せざるを得ない。それを防ぐ為に自分の命が少しでも役に立つならば、喜んで死ぬべきであるという意識になっていました」 


1分隊
左より前列:滋賀、佐野、白木、姫野、浅井
後列:樋口、上西、河崎、河村、近藤(仁)、近藤(伊)、岩井、藤田、浜島、横井、門川


河崎 「予科練の場合、まず予科練を真っ先に志願した者達である。他兵科より何倍も危険な飛行機乗りですね。そして更に回天を志願した。死んで当たり前という気持ちになっていました。いかにうまくぶつけて行くかが目標になるわけです」

磯部 「私も25年くらい飛行機に乗っていた間に、何度かこれが最後だと思う経験をしました。瞬間頭の中に走馬灯のように、それまでの人生が廻り出します。まず女房、子供、ついで親や兄弟を考えていきます。そして一応自分なりに己を説得して短時間のうちに、こうして死んで行くのだなあ、と気持ちの整理がつきました。そしてその度毎に欲しいものがなくなって、今では不思議に思うほど無欲になりました。
 回天搭乗員の方々は、当時の情勢下で、すでに心の整理はつけて居られたのでしょうか。今日はぜひ、この点をお伺いしたいと思っていました」

小灘 「我々は兵学校に入った時から自分の人生は無いものと思っていました。そう思ってもいざ目の前に回天を見ると改めて考えます。今までの事が頭の中にとめどもなく浮かんで来ました。誰でも同じでしょうが、二、三日考えて自分は何の為に生き、何の為に死ぬのかという起承転結の筋道がつきました。ですから怖いものも欲しいものも無い」

磯部 「やはり同じですね。それ程敗戦の色は濃かった」

小灘 「昭和19年9月頃は敗戦という意識ではなく、また降伏する等夢にも思ってもいません。しかし、このままとことん戦えば、いずれ本土が戦場になるであろうし、そうなれば日本国民は助からない。滅亡ないしはそれに近い状態に追い込まれるであろうと予測しました。自分の身を弾丸に代えてでも相手の船を沈めなければ、その通りの事態になってしまいます。我々は己の命、能力を活かす最良の手段を与えられたのだと思いました」

磯部 「軍人ですから敗戦ということは考えないとしても、劣勢であるということは判っておられた」

小灘 「はい、昭和18年後半には誰しも心の中ではそう思っていたと思います。このままでは駄目だということです。しかし戦争を止めるという考えは毛頭ありませんでした。例えば桶狭間の合戦で、今川義元の大軍を信長はわずかな兵力でやっつけていますから、そういう方法が無い訳でもあるまい。一人一人が最大限の能力を発揮して戦わなければならない、という気持ちでした。そういう戦いが出来るかどうか。その出来る機会を回天という空前絶後の兵器によって与えられた、という思いですね」

 
出撃時の心境

磯部 「出撃を待つ間の心境といいますか、私達はそういう極限に迄いったことが無いので判らないのですが、どんな心境だったのでしょうか」

小灘 「少しでも早く出たいという気持ちで一杯でした。出れば確実に何日か後に死ぬのですが、それが出たくて出たくて。皆そうだったようですね。私は搭乗員の分隊長をやっていましたから、出してくれ、と随分頼まれました」

磯部 「出撃すれば当然助からない」

小灘 「それが判っての上です」

磯部 「死ぬということに対する恐怖感はどんなものだったのでしょう」

小灘 「あの頃はまったくありませんでした。色々な人の話に、潜水艦に乗っている回天搭乗員が平然としていて、何時ともかわらない生活態度に驚嘆させられたとあります。死ぬことは何とも思わない。それよりどんなことがあっても命中して、任務を遂行出来るかどうか、つまり自分の死が役に立つかどうかのみが気にかかっていました」


兵科3期予備士官
左より前列:前田(福岡第二師範)、近藤(名古屋高工)、佐藤(九大法)、今西(慶応)、宇都宮(東大法)
後列:小林(長岡高商)、原(早大)、松岡、池渕(大阪日大理)、永見、渡邊(慶大)、藤田、工藤(大分高商)各少尉


磯部 「指名された直後に覚悟は決まるものですか」

河崎 「指名される前からでしょう。とにかくその部隊に入ったことが、すでに腹を決めていたからであって」

磯部 「腹を決める時の心境は、国の事情がそうであるからと」

河崎 「そんな大それたことは考えていません。俺が何とかするんだと。天皇陛下万歳をいったかいわなかったかは判りません」

磯部 「私達の現在の心境とはまったく違います。時代性でしょうか」

小灘 「今は、はっきり客観情勢が違っています。当時は我が国民も国土も破滅に向っていたのですから、そういう情勢下での判断になります。しかし、その一言で片付けてしまうのではなく、これから民族の危機という時代が再び来ないともいえないのですから、今の人達もこういうことがあったことを知り、今後の糧にしておく必要があると思います。
 あの頃任務達成即生命を喪うことである、と我々は覚悟していました。回天隊員になって、自分が死ななければ我が国は救われないのだと理性で納得しても、体の方は本能的な拒絶反応が出てついていけない面があります。私は着任して2、3日は考えましたが、やがて落着いて迷いはなくなりました。何がその要因かというと、『この身を弾丸に代えなければ日本は救われない。民族と国土を護る手段はもうこれ以外には無い』ということです。大袈裟に聞こえますが、護るものは自分の親、兄弟に始まって日本人全体へと広がります。それが自分自身に対する一番の説得力でした」

河崎 「と同時に、一番大きな戦艦3千人と刺違えるのは、この俺の力であると」

磯部 「一人で3千人を押さえる。誰か仲間がまた一人3千人を押さえる。そういうことの連続で国は護れると」

小灘 「そういうことです。日本人を護るためには相手の人間というより、戦力をそがないと防ぎ止められない。はっきりいえば、日本の国民を殺しに来る3千人ですからね」

 
戦後教育の誤り

小灘 「よく女性の方から『回天が敵を攻撃すると人を殺すことになる。それを何とも思わないのか』と責められます。その度にあっと驚き、呆れます。向こうは日本人を殺しに来る敵兵なのに。
 こういう抗議は、『日本人はいくら殺されても構わない。米兵を殺そうとするとは何事か!』といっていることなのです。その時の状況がわかっていない。こちらとしては何人殺す、という意識は毛頭なくて、敵艦を沈めたいだけですが、米兵が上陸して来れば日本人が殺されるからやらざるを得ない。
 日本の国が滅亡するかどうかという瀬戸際の状況で、我々は(特攻隊員として)命を捨てざるを得なかったのに、アメリカ人を殺そうとしたのか!という言い方をされてしまう」

磯部 「民族が亡びるかどうかという大前提が見えていない。結局そういう思想の持ち主が、非武装中立論を唱える訳です。武器を持っているからせめて来るのであって、武器を持っていなければ攻めてこない、という」

小灘 「言葉の表面で思考が止っている人が多いと思います。誰もが善人ならばそれで構いませんが、現実には泥棒もいるし、人殺しもいる」

磯部 「特に日本の場合、国防問題が学校教育に入ってませんから、ついそういう意識を持ってしまう」

小灘 「戦後教育の大きな誤りだと思います」

磯部 「日本は侵略者と決めつけ、何故そうせざるを得なかったかという歴史を学んでいません」

 
今言って置きたいこと

磯部 「戦後日本は平和が続き経済復興を遂げましたが、はっきりいって世紀末云々(うんぬん)といわれるくらい乱れています。この現情をどうお考えですか?」

小灘 「このままでは日本は駄目だと思います。あってはならぬ姿だと思います。教育が悪かったと思いますが。
 我々はいかに在るべきかを考えさせる歴史教育がされていないことが、荒廃に結びついていると思います。是正は大変なことですが、このままでは良い方向に戻らないと思います」

磯部 「わたしはこう思うのですが。日本に一時期こういう風に個人を犠牲にして祖国を護ったのだということを、何らかの形で後世に残して行かなくてはと」

小灘 「重ねて認識してもらいたいことは、特攻は無駄に命を捨てたのではなくて、隊員は自分の一つしかない命を捨てることで、多くの命が救われることを願って自らの命を捧げたのです。それが今の人に認識されていません。こういうことは、世の中が変わっても、大事な発想であると思います。
 自分のことしか考えない人ばかりになっては、世の中はうまく動いていかないでしょう。そういう意味で、人のために命を捨てた人々がいたことも、認識し続けて欲しいと思います」


会報 『特攻』(平成11年5月)より

>>特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会公式ホームページ