自分が実際に見て、聞いて、触れて、感じたことを、そのままに書きとめたいと思って書きはじめた記録だが、いざ書いてみると、事実は筆のあいだからこぼれ落ちてしまう。
たとえば、あのとき「死にたくない」と思ったと書いても、それだけでは正確に事実を伝えていない。「死ぬのはいやだ」という気持ちが、心の中の相当部分を占めていたことは事実であっても、同時に「自分の命と引き換えに国民を護ろう」という犠牲的精神も、「必死に戦って、戦死するのもやむをえない」という諦観も、「国の命令に忠実にしたがうまでだ」という義務完遂の充実感も、さらには「永久にその功をたたえられる」という名誉欲すら心のどこかにひそんでいたのだった。
その心の動きをすべて書き込むことはできない。またそれを思いつくままに羅列しても、そのひとつひとつが占める比重までどうして計量し、評価できるだろうか。したがって文章とするときは、もっとも大きな部分だけを抜きだして書き、そのほかは切りすててしまうから、本当の真実ではなくなる。
心の中のことは正確に表現できなくても、起こった現象は正確に書けるものと思った。しかし、これもむずかしいことだった。自然現象であっても、それを見て正確に記憶するのは感情をもった人間だから、その心のもちかたにより、どこで重要性を感ずるかが違う。だから書かれるものは「事実そのもの」ではなく、「私が事実だと思ったもの」にすぎない。
第一稿ができたとき、同期の仲間を中心に二十数名にコピーを送り意見を聞いた。まちがったところの指摘もあり、知らなかったことも教えてもらった。いろいろの意見も送ってもらった。できる限り文中にとりいれた。こうしてできたこの文は、いわば一緒に回天隊に身を投じた四期予備学生(一期予備生徒を含む)の何人かの合作だと、私は思っている。もちろん私の思想に賛成せず、この文を世にだすことに反対の仲間もいる。回天隊が志を同じくする者の集団ではなかったのだから当然である。
私の心の動きは四十数年前の、そのときの動きである。さいわい戦争中のメモ数片と戦後一年半のあいだに書いた記録八十枚があるので、それにもとづいた。今になって思うと、なぜあのときに気がつかなかったかという、おのれの幼稚さ、単純さ、愚味さに、あきれかえることが多いが、それはそれとして、当時の心の動きを復元することにつとめた。
当時の政府は日本の支配を拒否する東亜(東アジア)の諸民族に、残虐な戦いをしかけ、支配に服した諸民族を奴隷のごとく扱っていた。その事実は伏せられており、「東亜の解放」という旗印だけをうたいあげていた。その欺瞞を見抜けなかったわれわれはなんとおろかであったことか。
われわれは国の命令だから軍隊にはいり、国の命令だから敵と戦うのを国民である限り当然のことと思っていた。これはなまじソクラテスなどを読み、「悪法といえども法は法なり」という意味を曲解していたからである。
ソクラテスは、政府が市民の意志により構成されたものであり、しかも、その政府が気にいらなければ、出国してほかの国で暮らす自由があるアテネに、みずからとどまっていたから、あの言葉を述べたので、事実アテネが三十人の僭主に簒奪されていたときには、政府の命令にしたがわなかったのだ。
当時の日本はまさに一握りの専制君主の圧制のもとにあったのだから、ソクラテスの言葉の通用する状態ではなかった。
もちろん、当時、政府の命令にしたがわないことは、虐殺されることだとわれわれは考えていた。確実な虐殺よりは、戦死するかも知れないが、戦死しない可能性もある「兵役」を選ぶほうが得だと考えた者もいただろう。
しかしわれわれはそれ以上に積極的だった。ことの本質を見抜けなかったとも言えよう。私たちはあの戦争について「降りかかった火の粉は消さねばならない」と考えていた。多くの仲間もそう考えていたと思う。
この本は誠忠、悲壮このうえない回天隊員の中にあって、心の中ではふるえていた弱虫隊員の手記である。これは特異な例であって、戦死、殉職した多くの隊員の中には、私のように弱い者は一人もいなかったと信じたい。しかし私自身、搭乗十五回、同乗三回を経験し、殉職する危険を常に抱えていた。もしも殉職していたら、私もまた「回天烈士」の一人として、神様あつかいをされていたと思うと慄然たるものがある。死んでから、そうではなかったのだと言えない以上、生き残った者として、その心の中を公表する義務があると信ずる。これが本書を書いた最大の理由である。
謹んで、戦死、殉職した回天隊員、ならびに回天作戦における一千人の戦死者の霊にこの書を捧げる。
一九八九年六月
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