大津島をわたる風



『回天その青春群像〜特殊潜航艇の
男たち』(上原光晴/翔雲社)
より






大津島の海岸より周防灘を望む

 八月十五日、終戦の詔勅がくだった。大津島基地では、基地の全員が分隊ごとに玉音放送をきくよう手配された。訓練に出ていた隊員をのぞき、ラジオに耳をかたむけたが、雑音が入り、ききとりにくかった。
 板倉指揮官は、全回天を四十八時間以内に使用できるよう、急速整備を指示した。放送の内容が判明したのは少したってからで、回天の整備指示は解除された。

 平生基地から伊三六潜で出撃する直前に敗戦を知った橋口寛大尉は、十八日未明、白の第二種軍装に威儀をただして回天の操縦席にすわり、拳銃を胸にあて、自決した。
 人間魚雷の採用を請願した文書、両親あての手紙、自啓録に残る所見や遺書から、彼の強烈な責任感がうかがえる。
「吾人のつとめ足らざりしが故に神州は国体を擁護しえなかった。その責任をとらざるべからず」
「さきがけし期友に申し訳なし」
と、しるし、つぎの遺詠でむすんでいる。

   おくれても亦おくれても卿達に誓いしことばわれ忘れめや

 任務にひたばしる橋口は、一緒にいればとけこんでしまい、めだたないほどの温和な人物であった。
 すぐる八月十一日、倉橋島と東能美島のせまい水路、早瀬の瀬戸にさしかかった神州隊の伊三六潜は、米軍戦闘機の銃撃にあった。橋口隊をのせるために、伊三六潜は呉軍港を出たところであった。艦長の菅昌徹昭少佐は、乗員を艦内に退避させてハッチの閉鎖を命じ、艦長と航海長松下太郎大尉の二人だけが艦橋に残って操艦し、機銃掃射のなかを通り抜けた。二人とも負傷し、損傷をうけた艦は呉工廠にひきかえした。このため、橋口隊は出撃できずにおわったのであった。
 橋口は、特眼鏡に水しぶきがかからぬように鉄板をとりつけるなど、「的」の整備に万全を期していた。伊三六潜が敵機と遭遇していなければ、橋口隊は出撃して、橋口はその能力を最大限に発揮し、戦果をあげていたのではないかと推察される。

 つづく八月二十五日未明、松尾綾子の枕元に、息子の秀輔が立ち、
「お母さま」と、声をかけた。
 綾子は飛び起きた。秀輔の、元気のない悲しそうな様子に死をさとった。
 松尾は大神基地で、どこから持ち込んだか手榴弾に火をつけて、右胸の前で爆発させて自決した。「戦争に負けた以上、将校たる者は責任をとらなきゃなあ」という彼の発言を、期友はいささかけむったくうけとめていた。
 松尾は海兵七十四期。終戦の二ヶ月まえに少尉に任官したばかりであった。
 松尾分隊士は、下士官搭乗員に強い信頼と愛情をよせていた。下士官搭乗員あてに、
「絶対漫然トセル休暇気分ニテ帰郷セザルコト。敗戦ハ俺達軍人ノ責タルニ思イヲ致シ、ソノ責任ヲ負ウベシ」など五項目の遺書を残した。松尾の自決は、復員除隊の前夜であっただけに、全隊員に強い衝撃をあたえずにはおかなかった。

 軍令部次長大西瀧治郎中将は、特攻の責任をとり、次長官舎で割腹して果てた。遺書の一部に、「吾死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」と出ている。
 大西は神風にとどまらず全特攻の責任者であるとの自覚をつよめていたことが、彼の海軍部内での経歴、行動から察せられる。
 また遺書は、「隠忍自重し、特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の平和のために最善をつくせ」、と冷静な行動をのぞんでいる。

 大津島にあって終始回天戦を指揮した板倉少佐は、みずからの出撃を再三要求したが、指揮官のつとめは回天の戦力化にあるとし、司令部にさしとめられた。七月には多田武雄海軍次官がとんできて、
「おまえが出るときは、海軍が命令を出す」と、説得にかかり、
「指揮官先頭は帝国海軍の伝統です。部下を出して、なぜ私をのけものにするのですか」
と、くってかかる板倉に、次官は、
「軍司令部総長の命令だ」と、おっかぶせるようにいった。
 こうして板倉は志を果たせずに終戦をむかえた。汚名を残すまいと板倉がいったん自決の腹をきめたところへ、橋口の悲報が耳に入った。前後して呉鎮守府から参謀たちがきて、
「まだ戦争をつづけようという動きがある。それをおまえがとめてくれ。ポツダム宣言は受諾したのだ」と、釘をさした。
 板倉は死ぬに死ねなかった。妻子と離れて回天戦を指揮しているさなかの一月九日、生後四ヶ月の男の子と死別。遺骨は墓におさめる暇もなく、徳山の大空襲で家ごと失った。過労から三月には訓練中に喀血している。
 そして敗戦。公職追放。
 窮乏と混乱の戦後社会を、板倉は妻恭子にささえられて生き抜いてきた。
 筆者が板倉に会ったのは平成九年(一九九七)五月末である。板倉はこのとき、自分の死後、遺体を大阪の医大に献体すると申し出たことをあかした。自分の体は当然、飛散して、なくなるべき運命にあったのだからと。
 医大教授はいたわるようにいった。
「わかりました。しかし板倉さん、ゆっくりと、おいでくださいよ」(*

 米軍の関東地方上陸にそなえ、第二回天隊長小灘利春中尉が、部下七人をひきつれて伊豆七島南部の要衝八丈島に進出したのは二十年五月である。
 回天は、島の神湊港地区の底度基地と南東部の石積基地の洞窟に四基ずつ置かれた。
 警備隊司令の中川寿雄大佐は、
「回天が戦艦をやっつけてくれれば、八丈島を守りぬいてみせる」と、いっていた。
 玉音放送はまるで妨害電波が出ているような感じで、さっぱりききとれず、逆に奮起をうながすように思われて、小灘は隊員に、
「貴様らの命はもらった」と檄をとばす。やがて、戦争終結とわかったが、
「警戒を一層厳にせよ」という中川司令の指示にしたがい、小灘はいつでも発進できる態勢をととのえた。
 十月末、米軍が島に上陸。まっさきに回天の武装解除を命じた。米軍は小灘の提案どおり、火薬のつまった頭部は海に捨て、本体は洞窟ごとに爆破した。だが、洞窟の入り口がふさがっただけで、回天はそのまま埋まったままであった。
 二十年後の昭和四十年(一九六五)八月、隊員八人が再会し、回天がまだ残っていないかと炎天下の島をたずねた。洞窟にはなにも残っていなかった。昭和二十年代、朝鮮戦争で鉄などが高く売れた"金ヘン景気"のころ、古物商が掘り出して売り払ってしまったと土地の人はいった。一行の一人、永田望(終戦後鈴木姓に。終戦時上等飛行兵曹)は、
「回天はなかったが、それでよかったのかもしれん・・」といって目をうるませた。


回天記念館に並ぶ英霊碑
 回天の道から親鸞の道へ。光基地で上山春平中尉に出会って仏縁を深めた大石法夫少尉は、戦後、在家の浄土真宗の僧侶の道をあゆみ、生まれてきたことの意味を問いながら、光明の天地へと歩をすすめている。念仏往生による新たな世界である。自分のいまわしい過去が、あるいは自分を苦しめている人物が、物事が、蓮華の台に転じられる境地なのである。
 大石にとって死に直面していた回天搭乗員の時代の体験が、弥陀の本願(仏の慈悲)に浴することのできたかけがいのないものとなっている。勤めていた中学教師をやめて、大石は自転車に豆腐を積んで売りながら仏道をもとめた。
 大石の話をきいて前途に希望をいだき、人生の再出発にふみだした人たち。それは、犯罪をおかした前科のある人であったり、登校を拒否した高校生であったり、自殺未遂の女性であったりしている。

 近江誠大尉(戦後山地姓に)も、長い会社生活ののち、平成十一年(一九九九)六月二十九日、浄土真宗の東本願寺で得度し、僧侶としての第一歩をふみだした。山地は、この日のあることを、敗戦とともに誓っていた。生き残った以上、亡き戦友の冥福を祈ることを心がけるとし、ようやく待望の一歩をふみだしたのである。


かつて訓練に使われた石段
 回天戦没者を合祀する楠公社が、昭和三十九年(一九六四)九月、平泉澄の勧請により黒木少佐の故郷、岐阜県下呂町の信貴山頂に創建された。菊水隊の突入以来、「大楠公をあおぎ、黒木、仁科につづけ」の悲願のもと、若い生命をささげた戦士たちの鎮魂の場として鎮座された。
 初代祭主は平泉澄、二代目はその長男洸。二人が故人となったあと、洸の長男隆房が祭礼をとりしきり、毎年九月に楠公回天祭がひらかれている。黒木少佐の墓が、近くの閑静な一角にある。

 仁科少佐の父染三は、昭和三十七年(一九六二)の暮れ、八十二歳で死去した。信州佐久平高原の正面の、浅間山をのぞむ広々とした丘陵に、息子とならんで染三の墓碑がたっている。その裏に、つぎの句が刻まれている。


   終戦と同時に開始長期戦

 敗戦を境にした価値観の百八十度の転回と、そこから生じた思想の混乱、対立を教育者の目でみぬいた一句ともうけとれる。

 渡邊美光上等飛行兵曹は、帰郷後、教員の道をあゆみ、昭和六一年(一九八六)三月、愛知県半田市有脇小学校の校長を定年退職した。卒業証書を一人ひとりに手渡したあと、渡邊は式辞を述べた。このなかで、戦争の話をした。渡邊が戦争の話をしたのは、これが最初であり最後でもあった。およそつぎのような内容である。

 昭和十九年になると、日本は負けつづけていました。そのころ日本軍は、飛行機や魚雷に人間が乗ったままで、爆弾と一緒に体当たりして敵艦を沈めようとしたのです。体当たりすれば、命はありません。でも自分たちが死ぬことで、平和な日本になるなら、祖国に新しい日がくるなら、故郷の人たちの身代わりになって死のうと、ほとんどの人が志願しました。
 みな、国を守るために死のうと覚悟したのです。(予科練甲飛十三期の志願者)一万七千人のなかから約九百人が選ばれ、私もそのなかの一人でした。十九歳でした。訓練をおえた友だちは、南の海へ出ていき、火柱となって死にました。
「お父さん、お母さん、国を守るために、さきに死ぬのです。ごめんなさい」
こういって、死んでいったのです。懐かしい故郷を思い浮かべ、父や母の顔を瞼に浮かべて、死んでいくのです。この気持ちが、君たちにわかってもらえるだろうか。
 あの戦争で死んだ人があって、現在の平和があり、繁栄する日本があるのです。私はいつも、
「その気になって、自分から何事もすすんでやろう」
と話してきました。自分がその気になってやれる人は、人の心の痛みや悲しみのわかってやれる、心優しい人でもあると思います。決して苦しいことから逃げ出す人間になってはいけません。いじめられても、決していじめる人間になるなと、強くいっておきたい。


大津島からの海

 この卒業式は、渡邊の卒業式でもあった。幾人かの卒業生から便りがよせられた。
「校長先生のお話をきいているうち、泣けてきちゃいました。こんな気持ちになったのは初めてでした。美紀より」
などと、感動をすなおにあらわしている。

 回天特攻最初の菊水隊が出撃したのが、昭和十九年十一月八日。この日を記念して昭和三十年から毎年、追悼のつどいが大津島でひらかれている。遺族も特攻生存者も高齢化してきたため、平成十年(一九九八)のつどいが、回天会の全国レベルでは最後のものとなった。
 神戸市役所センター合唱団が企画、制作した混声合唱組曲「滄海(うみ)ようたって」が、初演で公開された。原詩は車木蓉子、作曲新実徳英。五章からなる荘重で緊迫した調べをもつこの組曲は、七百人もの参加者の心をひきつけた。つづいて、地元の大徳山太鼓団による太鼓の奉納があった。海中にとどろくような大太鼓の響きが、そのまま鎮魂の祈りとなって会場をつつんだ。
 この日大津島の海はなぎ、ぬけるような青空のもと、晩秋のおだやかな風をうけてしずかにきらめいていた。



                                    (* 板倉光馬元海軍少佐は2005年10月24日、御逝去
                                 されました。海兵61期・行年94歳。献体の由。