戦争末期、昭和十九年の秋から、日本はついに特攻作戦に踏みきった。
第一陣は、神風特別攻撃隊敷島隊。関行男海軍大尉が爆装した零戦に搭乗し、部下四人とともに比島沖の米空母に体当たりを敢行した。(実際には、それ以前にも二、三の飛行機が体当たりをやっていたが、正式に特攻という名で発表されたのは、この関大尉がはじめてである)
その日いらい、敗戦の当日まで、神風、神雷、回天、震洋など、空から、水上から、そして海底から、津波のように押し寄せる米軍にむかって、文字どおり肉弾で襲いかかった。
戦果もまた、相当なものをあげた。比島沖の米艦隊などは、一時は神風ノイローゼに陥ったと報告されている。しかし、この肉弾をもってしても、衰勢は挽回できず、しょせんは時をかせいだにすぎなかった。最後は原爆によってとどめを刺され、日本は敗れ去った。
戦後、神風特別攻撃隊や水上艦艇による特攻、戦艦大和の物語などは、すでにあまねく知れ渡っている。その中でも、神風特攻は、戦時中から国民の志気高揚のために、ただちに発表され、歌にまでうたわれたくらいだから、当然のことであったろう。
しかし、回天については、長いあいだ一部の人をのぞいては、ほとんど知られなかった。
戦争末期、神潮特別攻撃隊という名で発表されはしたものの、空爆におびやかされ、食糧難にあえいでいたあの時代である。べつに注目されることもなく、忘れ去られてしまった。
戦後十年近くたって、原爆を運んだ米重巡インディアナポリスを撃沈した伊五十八潜の艦長、橋本以行氏によって、世に紹介されたのが、回天作戦が陽の目を見たはじめてのことだった。その後、第六艦隊水雷参謀、鳥巣建之助氏と伊四十七潜水艦長、折田善次氏とによって、全国の遺族から戦死者の遺稿が集められ、それが、月刊雑誌『丸』誌上に連載されて話題を呼び、新潮社から上梓された。
人間魚雷、回天の存在は、こうしてようやく認識され、『ああ同期の桜』の姉妹編として、その遺稿集が毎日新聞社からも出版された。関係者が真に戦死者を思い、また遺族の心を察して、正確な事実と史料を発表するのは、回天生き残りのひとりとしてまことにうれしい。
が、どうしてもがまんできないことがある。それは第三者が、想像をまじえて、無責任にまちがった発言をすることである。たとえば、ある文学者は、こんな発言をしている。
『これは、(注、回天のこと)兵器の進歩ではない。むしろ退歩というべきであろう。黒木、仁科両士官の至誠は疑うべくもないが、その建白を入れて回天の建造を命じた海軍首脳部は、指揮官としての無能を宣言したにひとしい。それは悲壮に見えて、じつは安易な戦術であり、堕落し、ころげおちる姿である』
われわれはしかし、この発言も甘んじて受けよう。回天という発想は、その当時にもどって考えなければ意味がないなどといって、弁解するのはやめたいとおもう。戦後のいまになってみれば、これも一つの意見である。
しかし、もうひとつの事実を、わたしはどうしても容認できない。ある予科練出身のルポライターが、どこで何で死んだかわからない予科練生の写真をのせて、『この男は"出撃"という死の重圧に耐えかねて発狂した』と、ある一流週刊誌に発表したのである。彼によれば
"この男も回天烈士としてすでにない"というが、回天戦死者および殉職者のなかに、この名は断じてないし、発狂した搭乗員も、じつはひとりもいなかったのである。
さらに、あるテレビ局から放映されたテレビドラマときたら、どうだろう、首脳部の上官が、面会にきた部下搭乗員の恋人を空襲の騒ぎにまみれて凌辱し、その搭乗員を無理に出撃させてしまう。が、その搭乗員は、私の場合と同じく、艇の故障で発進できずにもどってくる。そして、そのことを知って激怒し、ピストルで上官を射殺するというストーリーなのである。これが茶の間に流れる。人は回天をそんなものだと思うだろう。
そうした誤解の中で、回天が忘れ去られるとしたら、わが柿崎中尉の死は、そして久家中尉のそれは、どうなるのだ。ほかに行きようのない青春を生きて、まっしぐらに死に向かった、このひたすらな青春の祈りはどうなるのだ!
――これはひとり、私だけの感傷ではない。かつて回天に搭乗し、回天作戦に従事したすべての人間のいつわらざる心情なのだ。
私はこうした事実を目のあたりに見て、なんとか、ほんとうの回天部隊のなまの姿を、搭乗員の立場に立って世に訴えたい、とねがったのだ。
たしかに、回天部隊といえども、生身の青年の集団である。そのうえに、死のかげがいつもつきまとっているのだ。当然きれいごとばかりではない。私もそれを知っている。
が、ここに私は、記憶に残るままを、正直に書いたつもりである。
このささやかな一遍により、読者のかたがたが、いささかでも回天のことを正しく認識されるならば、著者として望外のしあわせである。
最後に戦死された搭乗員諸士のご冥福と御遺族の御多幸を祈りつつ、筆を擱く。
単行本 昭和四十六年五月
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