『原爆に一矢報いた回天多門隊』 ――伊五八潜のあげた奇しき大戦果

鳥巣建之助 (元海軍中佐・第六艦隊水雷参謀)



 重巡洋艦インディアナポリスと橋本艦長




 米海軍史上最悪の一ページ

 「長い激しい戦争は終わった」――ワシントンでは一九四五年八月十四日午後七時、トルーマン大統領が新聞記者会見をし、夫人および閣僚たちとともに大きなテーブルを前にして、この重大発表を行った。午後八時、大統領はホワイト・ハウスの南側玄関に現れ、待ちかまえていた大群衆に戦勝の挨拶を行った。

 この戦勝の報にアメリカ全土がわき返っているちょうどそのとき、米海軍はコミュニケ第六二二号を発表した。

 「インディアナポリスはフィリピン海面にて敵と交戦し沈没した。家族には連絡ずみ」

 この短い文章に米海軍史上最大の悲劇がつつまれている。終戦ぎりぎりアメリカ海軍が、回天特別攻撃隊多門隊の一艦、伊五八潜から受けたこのパンチは、アメリカ海軍史上最大の悲劇になったばかりでなく、海軍首脳部を徹底的に苦しめ、深刻な衝撃をアメリカ全国民に与えた。

 ニューヨーク・タイムスがその三日後、八月十七日にかかげた次の社説は、これを端的に物語っている。

 「……インディアナポリスの沈没は、わが海軍史上最悪の一ページである。……その悲惨な物語は、われわれが勝利を得た今日、もっとも悲しい記録である」

 戦争中はもちろん、多くの大被害があった。

 空母フランクリンは一九四五年三月、沖縄沖で特攻隊の攻撃を受け、乗組員七百七十二名を一挙に失った。しかし空母は助かり、乗員の消火作業や応急処置は輝かしい功績として海軍史に光っている。

 巡洋艦ジュノーは一九四二年(昭和十七年)十一月十三日ガダルカナルの夜戦中、伊二六潜(艦長横田稔中佐)に雷撃されて六百七十六人を失った。そのとき付近にいた味方の艦が、生存者を救助しないで現場を去ったために、助かったのはたったの七人きりであった。次に戦死者の多かったのは、一九四三年十一月二十四日、伊七五潜(艦長田畑直海軍中佐、戦死)に雷撃された空母リスコムベイである。同艦の火薬庫は一瞬にして爆発し六百四十四人が戦死したが、千五百メートル以上離れた戦艦ニュー・メキシコの艦上へ人間の肉片や鉄のかけら、衣類のきれっぱしが雨のように降ってきた。

 しかしこれらは皆な激戦中のことであって、敵(日本海軍)の方にも手ひどい損害を与えている。ところがインディアナポリスの場合は、相手にかすり傷一つ負わせていないのである。

 戦勝の日の夜、戦死した九百人の家族には、深刻な悲劇がもたらされた。「戦闘中行方不明」という恐ろしい言葉を記した電報が、海軍人事局から次々に発信され、なかには大統領の劇的な戦勝発表のあと、祝杯をあげているところへ悲報が届いた家もあった。

 この悲劇は、日本がこうむった原爆のそれとはくらぶべくもないが、少なくとも、その原爆を運搬した軍艦がたどった悲惨な末路には、何か深い因縁のようなものを感ぜずにはおられない。

 私は、当時のことをまざまざと思い起こすのであるが、同年七月三十日朝、伊五八潜から「……アイダホ型戦艦に対し魚雷六本発射、三本命中、撃沈確実」という電報が届いた。「やった!」と第六艦隊司令部に快哉の声が湧いた。だがそれが、われわれの顔に笑みが浮かんだ最後であった。

 戦後、伊五八潜の撃沈した軍艦が重巡インディアナポリスであり、広島と長崎に投下した原爆を米西岸からテニアンまで運搬したのち、レイテに向かう途中で撃沈されたものらしいことがわかった。ところが、この軍艦を撃沈した伊五八潜艦長橋本以行中佐が、アメリカ海軍軍法会議の証人として、わざわざワシントンまで召喚されたと聞いて、これは唯事ではないと思った。


 見えない運命の糸に引かれて…

 昭和二十七年ごろ、私はたまたまアメリカ陸軍情報部に戦時中勤務していたという二世のアメリカ士官に会った。彼は終戦ごろ、サイパンにいたらしいが、当時インディアナポリスの沈没をめぐって異常な空気が察せられたこと、そして、第三の原爆を積んでいたのではないかとの噂、その原爆は札幌か新潟に投下される予定だったらしいなどの風評が流れていたことを話してくれた。もちろん半信半疑であったが、異例の軍法会議を第三の原爆と結びつけ、或いはそうだったかも知れぬと考えていたのである。

 ところが、三十四年、リチャード・ニューカム著、亀田正訳の『総員退艦せよ』(米重巡インディアナポリスの最後)という本が刊行され、初めてその真相を知ることができた。

 第三の原爆はデマだったらしい。だが、それにもまして奇々怪々な事情が、軍法会議を開くことを余儀なくし、敗戦国の潜水艦長を証人に呼ぶという、きわめて稀有な結果になったことがわかった。

 そこで、インディアナポリスが撃沈された経緯を綴ってみよう。

 昭和二十年七月十六日の午前、伊五八潜は呉軍港を出港して行った。岩壁を離れて行くこの潜水艦に対する見送りは、まことに盛んであった。いやそれ以上に熱誠あふれるものであった。軍人たちはもちろんだが、呉工廠に働く工員や女事務員、女子挺身隊の人々が、熱心に帽子やハンカチを振った。

 当時、呉工廠の大半はB二九の爆撃で破壊され、呉の市街も中心部はほとんど焼きつくされていた。かつて港内に所せまいまでに碇泊していた戦艦、空母はじめ大小無数の軍艦は、もう見ることができなくなっていた。遠く外洋に出て、敵に一矢を報い得るものは潜水艦だけである。見送るものの気持ちが、出撃して行く潜水艦乗員に電波のように伝わって行った。

 ちょうど、この同じ日に、広島と長崎に投下する予定の原爆を搭載した重巡インディアナポリスが、奇しくもサンフランシスコ港から西へ向かって出港した。運命の糸が、いまや、伊五八潜とインディアナポリスを不思議な力で一点に引き寄せはじめたのである。

 伊五八潜は十六日午後、平生の回天基地に入泊して、作戦用回天の搭載をはじめた。

 十七日朝、出陣式を終えた伴修二中尉、水井淑夫少尉、林義明、小森一之、中井昭、白木一郎の四人の一飛曹は、六名の整備員とともに伊五八潜に乗り込んできた。平生基地を出港し、豊後水道入り口で深々度潜航をやってみると回天の潜望鏡に水滴が発生して、見通しがきかない。そこで直ちに反転して平生に帰り、換装を行って十八日朝改めて出撃した。

 水井少尉は形見の扇に筆を走らせ、林一飛曹はさらに一日、花壇に水をやることができた。

 十八日夕刻、豊後水道を抜け、高速之字運動をやりながら、敵潜水艦が伏在するかも知れぬ海面を突き抜ける。やがて伊五八潜は広い洋上へ出た。

 橋本艦長は、昼は対空レーダー、夜は対空および対水上レーダーを極度に活用しながら、艦隊命令に示された目的地点に向かって進撃を続けた。


 インディアナポリスの原爆運搬行

 さて、インディアナポリスであるが、それより先き三月三十一日、沖縄沖で”神風”の攻撃を受け、左舷後部を手ひどくやられたが、四月にメーア・アイランド工廠にたどり着いたのであった。

 神風機は上甲板にぶつかって海中にころがり落ちた。ところが、飛行機が落とした爆弾は上甲板を貫き、兵員食堂と寝室と燃料タンクをぶちぬき、船体の下で爆発して九人を殺し、船体に二つの大きな穴をあけた。海水は奔流し艦は左舷に傾いたが、応急班のす早い手当で浸水を食いとめることができ、艦は沈没をまぬがれた。

 八千マイルの太平洋を自力で航海し、カリフォルニアに帰投したインディアナポリスは、さっそくメーア・アイランド工廠で大修理をはじめた。

 七月上旬に修理はほぼ終わり、試運転可能な状態になった。一九四五年七月十二日マックベイ艦長は「重巡インディアナポリスは四日以内に出港準備を完了せよ」という指令を受け取った。それはちょうど、伊五八潜の艦長が第六艦隊司令部に出頭し、「パラオと沖縄を結ぶ線、グァムとレイテを結ぶ線の交叉点附近を中心として作戦行動をせよ」との命令を受領するのとほとんど同じ時期であった。

 七月十五日、日曜日の朝、試運転を終ってメーア・アイランドに帰港すると、マックベイ艦長は最後の命令を受けるため、サンフランシスコの司令部へ向かった。司令部に着くと、ウィリアム・R・パーネル少将とウィリアム・S・パーソン大佐とは、すぐ特殊任務について説明をはじめた。

 「あなたはきょうのうちに、艦をサンフランシスコのハンタース・ポイント海軍基地に持って行って下さい。今晩そこで形は小さいが、重要な機密の品物を一つ艦へ積むことになっています。明朝出港し、高速でパール・ハーバーへ行き、そこで便乗者を降ろしたあと、すぐさま高速でテニアンへ行って下さい。品物はそこで陸揚げします。貨物の中身は言えませんが、たとえ艦が沈むようなことがあっても、この貨物は救助艇に乗せるかして、沈めないようにして下さい。貨物を一日でも早くあなたが運べば、それだけ戦争が早くすむことになるのです。
 この貨物には二人の陸軍士官がついていますが、艦のなかではいつも海兵隊の番兵をつけ、ほかの人間は決して貨物に近づけないようにして下さい。また別の小さな貨物は乗員から離れたところ、ではれば、士官私室において下さい。陸軍士官はその荷物のそばにいることになるでしょう」

 その次の朝早く、二台のトラックが舷側にやって来た。一つの車には大きな貨物が積まれていたが、もう一つの方には、小さなシリンダーが一つ載っているだけだった。

 午前八時、インディアナポリスは軍艦旗掲揚と同時に出港し、八時三十六分、ゴールデン・ゲート・ブリッジの下を通過して大洋に出た。

 そのころ伊五八潜は、呉軍港をまさに出港するところであった。


  伴・小森両艇みごと体当たり (註1

 インディアナポリスはサンフランシスコを出ると、二十九ノットの全速で突っ走りはじめた。こうして、ファラロン灯台船からダイアモンド・ヘッドまでの二千九十一マイルを七十四時間三十分で突っ走り、新記録を樹立した。

 七月二十六日、木曜日の早朝、サンフランシスコを出てから十日目、五千マイルの距離を走ってテニアンに着いた。ここには世界最大の飛行場があり、日本本土爆撃を続行しているB二九がうようよしていた。

 ここで、例の奇怪な荷物を陸揚げすると、まもなくグァムにいる太平洋艦隊司令部から電報を受け取った。

 「グァムに寄港の上、レイテに行って訓練を受けよ。訓練が終われば、第九十五機動部隊指揮官、ジェームズ・B・オルデンドルフ中将の指揮下に入れ」という簡単な命令であった。

 一方、伊五八潜は七月二十八日、いよいよ指定の配備点も間近になってきたが、さっそく、夜明け前に敵飛行機を電探でつかまえ、急速潜航した。

 午後二時ごろ、周囲に何も聞こえないことを確かめると、昼間の太平洋上に姿を現した。次いで潜望鏡を高く上げて四周を見回すと、一隻の駆逐艦を護衛につけた三本マストの大型タンカーが見えた。そこで同艦はただちに潜航に移り、橋本艦長は「回天戦用意」、「魚雷戦用意」を発令し、水中強速力で接近につとめた。だが、距離はなかなかちぢまらない。艦長はついに回天で攻撃することを決意した。「一号艇、二号艇用意」の令で、伴中尉、小森一飛曹の二人が回天に搭乗して行った。

 一号艇が発進準備に多少手間どったため、まず小森一飛曹が二時三十一分、
「ありがとうございました」という言葉を残して突進して行った。次いで二時四十三分、一号艇の伴中尉が、
「天皇陛下万歳ッ!」と叫んで発進した。

 それから間もなく海面一帯には南方特有のスコールが沛然と降り注いで、目標も何も見えなくなってしまったが、五十分経過したとき、爆発音が聞かれ、次いで十分後、第二の爆発音が響いてきた。全乗員は起立して伴、小森二勇士の冥福を祈った。

 その夜、伊五八潜は、目的の配備海面へと航進続行した。

 (註1 アメリカ側の秘密文書公開によれば、この日駆逐艦ロウリーの小破が報告されている。


 刻々迫る両艦宿命の対決

 さて、原爆運搬という重大任務を無事完了したインディアナポリスは、二十六日夜テニアンを出港すると、翌早朝グァム島アプラ港に入港した。ここは去る一月二十日、伊五八潜が回天特別攻撃隊金剛隊の一艦として、局地奇襲を敢行したところである。

 ここで、マックベイ艦長は、第五艦隊司令長官スプルアンス大将とその幕僚たちと昼食をともにし、翌二十八日午前九時十分アプラ港を出港した。

 この旧式の重巡洋艦は単独でグァム――レイテを結ぶ直線コース、ベティ航路を制限速力十六ノット以下の十五・七ノットで西進した。護衛駆逐艦の話も出たが、結局、独り歩きすることになった。敵潜水艦出没の情報が二、三出ていたが、これに不安を感ずるものは一人もなかった。レーダーは持っていたが、対潜兵器のソナーは装備しておらず対潜警戒能力に不充分な点はあったが、これとても全然気にならなかった。

 戦闘航海中は、閉鎖するのが立て前となっている防水扉は、暑いせいもあって全部開けっぱなしであった。とにかく、潜水艦情報は商船の疑心暗鬼にすぎないもので、日本海軍がこんな海面に潜水艦を配備することを考えたものは一人もいなかったのである。

 運命の二十九日は日曜日であったが、例の通りキリスト教の礼拝が行われ、平和な航海が続けられていった。

 夕刻、インディアナポリスは、後に”ワイルド・ハンターの電信”と呼ばれる電報を受信した。それによると、輸送船ワイルド・ハンター号は陸軍の貨物を積んでマニラに向かっていたが、前日(七月二十八日)の午後、北緯十度二十五分、東経百三十一度四十五分で潜望鏡を発見したというのである。この地点はインディアナポリスが月曜日に通過する予定地点の南、約七十五マイルにあたる。

 ワイルド・ハンター号のアントン・ウィー船長は敵潜水艦に関して次の二本の電報を打っている。午後四時二十分「敵潜望鏡発見」、二十八分後に「潜望鏡をふたたび発見し、砲撃を加えた」。六十歳の老船長は、ただちに潜望鏡の方に船尾を向け、乗船中の警戒隊員は、距離二千ないし二千二百メートルのところで数発砲弾を見舞ったところ、潜望鏡はたちまち姿をかくしたというのである。この情況はただちにグァムに報告され、グァムから附近の艦船全部に転電された。

 その晩の夕食時、士官室でその話が出たが、ちょっとした笑い話ですんでしまった。
「今夜真夜中ごろ日本の潜水艦のいるところを通るよ」
 と航海長が言うと、誰かがまぜっ返した。
「護衛の駆逐艦がそいつをやっつけるだろう」
 付近数百マイルのところには、一隻の駆逐艦もいないことは、みな承知の上の冗談であった。
 この潜望鏡は、たぶんワイルド・ハンターの乗組員の疑心暗鬼から出たものと思われる。

 夕方、マックベイ艦長は艦橋に上がり、当直将校に、「日が暮れたらジグザグは止めてよろしい」
 と命令した。

 日が暮れてインディアナポリスは、二百六十二度の針路で直進した。

 こうして伊五八潜もインディアナポリスも、アメリカ海軍も日本海軍も、全然予想だにせぬ大事件が刻々と近づきつつあったのである。

 七月二十九日の空は雲が多く、視界はあまり良好ではなかった。伊五八潜はレーダーを使用しながら、目的のレイテ――グァム、パラオ――沖縄の交叉点に向かって水上航走を続けた。

 ところが、夕方から天候はますます悪くなり、暗雲がたれこめ、視界は最悪の状態になってきた。そこで橋本艦長は、月が出るまで潜航しようと考えた。

 三十メートルの海中を速力二ノットで南西にゆっくり進んでいく艦内は、まるで静寂そのものであった。

 午後十時三十分に起こすように命じて、狭い艦長室のベッドに横になると、すぐ眠りに入った。

 約二時間ぐっすり眠った艦長は「十時半になりました」と伝える哨戒員の声に起き上がり、さっと顔を洗うと、例によって艦内神社に拝礼し、司令塔に上がった。

 哨戒長の田中宏謨大尉が”異常なし”と報告した。艦長は潜航深度を十九メートルにし、夜間潜望鏡を上げて、入念に海面を観測した。

 夕刻、あたりにたれこめていた暗雲は、いつの間にか消え去り、水平線が見分けられるまでになっていた。東の空には半月が約十五度の高さに上がっている。

 潜望鏡には月のほか何も見えない。聴音器にも何んの音も入って来ない。艦長はレーダーの準備を命じながら、
「総員配置につけ」
「潜航止め、浮き上がれ」、「メインタンク・ブロー」
 と、次々に号令をかけていった。

 やがて、潜水艦は漆黒の姿を洋上に現し、海水にぬれた鋼鉄の胴体や、後甲板に乗っている四基の回天が淡い月光に映えている。

 信号長がハッチを開いて、待ちかまえていたように艦橋に飛び出し、航海長の田中宏謨大尉がその後に続いた。それから数秒、
「敵艦らしきもの左九十度ッ!」
 航海長が叫んだ。夜間潜望鏡でなお周囲を観測していた艦長は、すわッとばかり身をひるがえして艦橋に飛び上がり、航海長の指さす遥か彼方の水平線に双眼鏡を向けた。まさしく黒い影が真東の方向、月光に映える水平線上に浮き上がって見える。距離約一万メートル。間髪を入れず、
「潜航!」
 艦長が鋭く叫び、潜水艦はただちに水面下に没した。水面上に姿を現すことわずかに一分、十一時五分ごろであった。

 夜間潜望鏡がピタリと、月光下の敵艦に指向された。
「敵影発見ッ、魚雷戦用意ッ、回天戦用意ッ!

 艦長の号令が艦内に響き渡り、前部発射管室では半裸の水雷科員が、掌水雷長の指揮のもとに、魚雷発射準備を無我夢中で続けてゆく。


 魚雷命中、重巡十四分で沈没!

 インディアナポリスの艦橋では、当直を交代したばかりのムーア少佐、オーア大尉、カンダリーノ中尉、それにマーブル少尉ら士官四名と操舵員、信号員、見張員、伝令、取次など総勢十三名が当直していた。艦は二百六十二度の直線コースを十五・七ノットで航走している。四周を警戒している見張りの眼鏡にもレーダーにも、何んら異常はなかった。

 ただ一つ、哨戒機一機と護衛駆逐艦一隻がコース上の前方で敵潜水艦を捜索中であり、明朝八時ごろ、その地点を通過する予定であることが伝えられた。だがこれとても、全然問題にされなかった。戦争はとうの昔に北方に移っていたし、いまだかつて、この附近の海面に敵潜水艦が出没した確実な証拠は、何一つなかったのである。

 したがって、インディアナポリスは形式上の警戒はやっていたものの、まさか敵が出て来ようなどとは思ってもみなかったのである。上甲板からの入り口も、中甲板、下甲板の防水扉も、ほとんど開けっぱなしであったのなど、その証左といってよい。

 午後十一時九分(アメリカ軍の使用時間零時九分)、潜望鏡に映る影がだんだん大きくなり、三角形の形がはっきりしてきた。橋本艦長は「発射魚雷六本ッ!」と下令し、同時に六号艇回天の白木一飛曹と五号艇の中井一飛曹とを乗艇待機させた。

 敵艦は刻々と接近してきたが、やがて三角形の頂点が二つに分れた。これは明らかに戦艦か重巡洋艦か、とにかく大型艦であることを示すものであり、しかも方位角が次第に大きくなって、真正面に突っかけてくる心配のないことがわかった。艦長は「しめたッ」と思った。

 距離四千メートルと観測したとき、方位盤に発射予想距離二千メートル、方位角右四十五度と調定させた。

 息づまる数分間が過ぎていった。何も知らぬげに山のような黒い影が黙々として近づいてくる。十一時二十六分、艦長は神に祈る気持ちで「発射始めッ!」と発令した。方位盤手の指が発射押しボタンの上にあてがわられた。

 いよいよ最後の一瞬である。橋本艦長は、「右」六十度、千五百ッ!」と方位角、距離を改調し、夜間潜望鏡の中央十字線と目標の艦橋が一致したとき「用意――打てッ!」と叫んだ。

 方位盤手の指が力強く押しボタンを押す。艦首で魚雷がにぶい音を立てながら、次々に飛び出して行った。

 艦長は潜望鏡で艦影を凝視し続ける。影絵のような敵艦は、何事もないように悠々と近づいてくる。一分足らずの時間がたとえようもなく長い。

 突如、艦首一番砲塔の右側に水柱らしいものが、続いてその後方一番砲塔の真正面に水柱が上がり、同時にパッと赤い焔が出た。次いで三番目の水柱が、二番砲塔の横から艦橋にかけて立ち昇った。

 命中音と爆発音がじかに聞えてくる。この音を聞いた回天内の白木、中井両一飛曹は「なぜ出してくれんのですか。敵が沈まないならば仕止めに出して下さい!」
 と再三電話で催促してくる。

 敵艦はついに動かなくなったが、なかなか沈まない。艦長は止めをさすため、次発装填をやろうと、深々度に潜航した。

 魚雷が命中するまで、インディアナポリスの乗員は誰れ一人気がつくものはいなかった。一体原因は何か、艦内の事故か、神風の攻撃か、浮遊機雷に触れたのか、それとも潜水艦に襲撃されたのか、さっぱりわからなかった。そして、この大きな軍艦が沈むなどと考えるものは、ほとんどいなかったのである。ところが、状況は急速に悪化していった。

 最も不幸なことは、通信装置が駄目になり、”SOS”の発信にあらゆる努力が払われたが、ついに何処へも到達しなかったことだ。

 防水扉が開けっぱなしになっていたため、浸水はあっという間に艦内全部にひろがった。襲撃を受けてわずか十四分足らずの間に、この大型艦は、あっけなく沈没してしまった。

 この結果、千二百名の乗員中、約四百名が艦と運命をともにし、残りの約八百名が海上にほうり出されたのであった。

 伊五八潜水が止めを刺そうと、ふたたび潜望鏡を上げたときには、すでに海上には何も見えなかった。暗夜の海上に浮上して、しばらくあたりを捜索したが何もない。そこで水上航走で位置を換えながら、前日の回天の戦果とともに第六艦隊司令部あて戦闘速報を発信した。

 「七月二十八日回天二基発進、油槽船及び駆逐艦轟沈。アイダホ型戦艦に対して魚雷六本発射、三本命中、撃沈確実」。

 奇跡にも似た伊五八潜とインディアナポリスのこの出会いは、たしかにインディアナポリスが背負わされた不運な宿命であったように思われてならない。だが、この不幸はこれだけではすまなかった。

 魚雷が艦橋前方の急所に命中したため、一瞬にして誘爆を起こし、通信装置を破壊してしまった。このためSOSが何回も発信されたが、電波は何処にも伝わらなかった。爾後の悲劇の最大原因はここにあるが、これは不運というほかはない。しかし、この不幸を半減できるチャンスはまだ残されていた。

 インディアナポリスは七月三十一日には、レイテに到着する予定になっていた。ところが、その姿がレイテに現れないにもかかわらず、誰れ一人これに気づくものはいなかったのだ。

 さらに、もっとも不可解なことは、伊五八潜が発信した「……アイダホ型戦艦撃沈確実」という電報を傍受・解読しておきながら、何か起こったのではあるまいかという疑念を起こすものさえなく、そのまま放置されていたことである。


 九百名海の藻屑と化す

 沈没後十六時間以内に、グァムの太平洋艦隊司令部は、敵が戦艦を撃沈したらしいという情報を得ていたのであって、この情報をまじめに検討していたならば、沈没後二十四時間以内に、哀れな漂流者たちを発見できていたはずだったのである。

 ところが、インディアナポリスは八月二日午前、双発爆撃機ベンチュラが偶然のチャンスで漂流者を発見するまで八十四時間もの長い間、完全にアメリカ海軍から忘れ去られていたのである。

 こうして、死ななくてもすんだはずの約五百名の人々が無限にひろがる海上で、油と太陽と鱶と闘いながら死んで行ったのである。

 この事件がアメリカに大センセーションを巻き起こしたのは、こんなところにあったわけだ。これらの詳細は前掲『総員退艦せよ』の本のなかに、微に入り細をうがって説明してあり、まるで探偵小説を読むようなスリルを感ずるのである。

 しかし、その原因をつくった伊五八潜が、どうしてあの海面にいたかについては、ただ、
「橋本の受けた命令は”フィリピン東方洋上にあって敵艦船を攻撃せよ”というのであった。この命令を誰が書いたのか知らないが、先に記した巡洋艦の運命をひそかに知っていたかのようである」
 とだけ書いてあり、そのくわしいいきさつについては、何も説明が加えられていない。

 その詳細は別項にゆずることにするが、沖縄作戦でほとんど全滅に近い打撃をこうむった日本潜水部隊の司令部が、大本営、連合艦隊司令部を説得して、回天特別攻撃隊作戦を洋上に転換し、その先鋒をうけたまわった伊四七潜、伊三六潜の天武隊作戦が成功したため、爾後の作戦が洋上使用となり、伊五八潜があの海面に配備されることになったのであった。

 アメリカの軍艦で大被害をこうむったものは、前にも記したように、重巡インディアナポリスの九百名、空母フランクリンの七百七十二名、巡洋艦ジュノーの六百七十六名、空母リスコムベイの六百四十四名という戦死者を数えるわけであるが、そのうちの三つまでが日本潜水艦によるものであった。

 しかも最大のインディアナポリスが回天特別攻撃隊多門隊の一艦伊五八潜によって撃沈されたものであったこと、そして、インディアナポリスが広島、長崎へ投下した原爆を運搬した艦であったことは、何かそこに因縁めいたものを感ぜずにはおられないのである。


書籍『回天』(回天刊行会発行)より