なにわ会慰霊祭に出席させて頂くにあたり


今回、河合不死男の姉(母方祖母)孫として、なにわ会の皆様とはあまりご縁のない立場ではありますが、お伝えしたいことがあって、出席させて頂こうと決意いたしました。

お伝えしたいことをまず、簡潔に下記しるし、そのあと、詳細を述べさせて頂きます。(このことは、伊藤様には事前にお知らせしておいた方が、当方についての不要なトラブルおよび誤解を回避出来るであろうと判断し、メールさせて頂くことにいたしました。ご多忙の折とは思いますが、簡潔な部分までで結構ですので、お読み頂けましたら幸いです。)


お伝えしたいこと

1.特攻隊員は、皆ほとんど、笑顔を残して出撃していった。河合不死男の遺品(出撃前に残したアルバム)にも、そのような写真があり、ネット上でも、特攻隊員の笑顔ということで、若者たちのあいだで話題になった。

2.それでは、遺族はそれを、どう受けとめていたか。

3.結論を言えば、当方の場合、幼年時より心の芯に重い塊があって、そのため周りとの違和感に常に思い悩み、それがこうじて、中学卒業の頃、一切笑うことが出来なくなってしまった。

4.笑うことが出来なくなるということは、日常のコミュニケーションが成り立たなくなることを意味する。
それで、社会との接点を持つことが出来なくなり、社会から疎外されたところで生活を送ることを強いられ、いわゆる普通の仕事につくことも出来なくなった。(そのかわりに普通の人では身につかないような、特別な才能が発達したと思われる。)

5.今、振り返れば、そうやって否応無く、現在のHP、「回天特攻隊」を通して活動していることを、一生涯、続けていくことを宿命付けられたのだという思いがしている。またその後、そのような因縁めいた事実関係も明らかになっていった。

6.今は、自分ではこの生き方に納得している。後悔はない。むしろそこに、この世に生を授かった自負を感じている。


今回、慰霊祭に参加させて頂くにあたり、当方がもっとも危惧することは、以上の理由により、自分のこのような姿を表に出すことよって、またそれを画像でインターネット等で公開することによって、なにわ会の皆様にご迷惑、ご負担をお掛けすることがあるのではないかということ、今後のなにわ会および回天に関連する皆様の士気、活力、信用を低下させてしまう恐れがあるのではないかということです。

伊藤様には、今回の慰霊祭を、次の有意なステップにつなげて頂きます為にも、どうかこの点をご理解頂き、ご対処下さいます様、お願い申し上げます。その為には、当方はどのようにして頂いてもよく、伊藤様のお考え(ご指示)に従って参ります。

以上。



河合不死男遺品の中の写真

添付画像参照)

これは若い人たちの間で強い支持を得た、「回天のフラッシュ」の中でも紹介され、回天特攻隊員の笑顔ということで話題になった。

http://www.youtube.com/watch?v=Q7-fW2WQjG4

回天隊員の笑顔については、小灘会長も資料を残している。片岡紀明氏も、産経新聞の「正論」に記事を書いている。

出撃前はそうであったろうが、それを遺品として受け取った遺族は、どのような思いで戦後を過ごしてきたか。

その不死男の父母の様子を当方の母(不死男姪)は見て育った。出撃前の最期の帰省の様子も記憶している。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~k_yasuto/3_siryou/fujio-yurai.html

当方についていえば、子供の頃は、常に学級委員、児童会などもする立場だったが、心の中に、自分でもわからない重い塊のようなものがあって、私が何かを発言すると教室全体がシンと押し黙ってしまうようなことがよくあった。級友との間に違和感を常に感じ、悩んでいたが、それがこうじて中学卒業を前にした頃、笑うことが一切出来なくなってしまった。笑うとひきつった笑顔となり、以後クラスの級友、社会と接点を持つことが出来なくなった。

これは極めてつらいもので、孤独な生活がそれから始まった。その時は、何故こんなことになったか自分では見当もつかず、ただ悩み苦しむ毎日だったが、同時に自分の中に、より多くの人びとに訴えかけたいという大きな衝動も生まれ、あるテレビドラマに感動したのがキッカケで、脚本家になりたいと思い、自分は脚本で人を感動させること以外に存在理由はないと思うようになった。

高校はそのような理由でよく休み(河合不死男と同じ成章高校)、成績も入学時は選抜クラスに入ったものの、卒業時は最下位だった。(ただこれは勉強そのものに興味がなかったこともある。中学はそれほど勉強せずに実力テストでは大抵一番だった。)

大学は、二浪して明治大学政経学部に進学。ここでも学友と溶け込めず孤独で苦しい毎日を送った。社会との接点がもてない中、一人コンクールの応募を繰り返した。

それで、大学を卒業した年にNHKの脚本コンクールで佳作受賞。

卒業後は就職も出来ず、バイト生活で作品を書くも、バイトも一箇所で続けられず、そういう生活が28歳の頃まで続いた。一方、受賞した作品については、なんとか世に出したいという強い執着があって、その作品を漫画として完成させればみんなに見てもらえると、それから絵の練習をはじめて自費出版する。同時にその頃インターネットの存在を知って、画像であれば容易に公開できることを教えられ、HPを立ち上げ、その作品(「小さな風船、小さな幸せ」)を公開した。(*1

http://www2s.biglobe.ne.jp/~k_yasuto/fusen.htm

そんな折、ふと先祖のことが知りたくなって(何故こんなに苦しむのか。広く人々に知ってもらいたい衝動に駆られるのか)母に連絡をとって、そこではじめて河合不死男がいたことを知る。


「出撃前に残したアルバム」を送ってもらって

不死男という名に驚き、人間魚雷で死んだことにも驚いたが、このときある直感がわいた。この部隊には、後世に伝えようとした何かがあるに違いない。

それで回天のことを調べ出し、小灘会長と連絡をとることが出来るようになり、その直感が次々と証明されるような資料が見つかっていった。ああ自分はこのことを伝えるために生まれてきたのだという確信がわいた。


苦労した経験が実って勢いのあった頃

ちょうどその頃、今まで悩み苦しんできたものが、自分の糧、土台となるように、大きな力となって自分を支えてくれるようになってきていた。仕事は紀文の子会社で、練り製品の卸の荷分けの仕事だったが、「ライフ」というチェーンストア(当時は60店舗くらいあった)の仕分け表(だいたい0〜15までの3の倍数)を指で2、3度なぞると、その注文数がすべて頭の中に入った。荷物の積み下ろしは、手積み手降ろしの肉体労働で、体もよく動いた。そうやって自信がついたため、仕事も仲間と一緒に楽しく出来た。

この頃は感覚が研ぎ澄まされてきたことが自分でも実感出来、体内時計は二十四時間、夜中に目がさめても五分程度の誤差で正確にいいあてることが出来た。掛け算の暗算は5ケタ×5ケタまでは時間はかかったがなんとか出来た。水泳では長距離泳法のツービートで体全身の位置を把握しながら水をとらえて(中指の指先の先端に自分の全力をもっていったとき、反対の足の甲にそれを伝え)ゆっくり泳ぐことが出来た。口笛は、不死男の両親の悲しみ(魂)をそのまま伝えるような音色で東京のビル群に響き渡らせた。(その後テレビ等でやたら口笛が使われるようになったが、自分がこうして長年吹いていたことが影響していると思う。今でもそうやって挨拶される。道行く人々は目に涙を浮かべて通り過ぎていった。)

期間としては4〜5年だったが、その頃の自分を知る人には、それなりに強い印象を与えたのではないかと思う。


小灘会長のご協力を頂きながら回天のホームページを開設

そうやって、その勢いで回天隊すべて(各部隊)の資料を紹介したものの、会長とお会いするうち、回天会、なにわ会はじめ、「とてつもない」つながりの世界であることがわかり、身構える思いとなった。上原氏の書籍が出版された際、明治天皇のお孫様にあたる方より応援の手紙が届いたことも聞かされた。

今の自分の世間に対する常識、経験では到底対処できないことは容易にわかったが、その時身についていた感覚の鋭さ、緊張感は、それに対応していけるものだという自信も正直あった。

それで、なんとかこの感覚(能力)を出来るだけ長く維持したまま、とり遅れた社会常識、知識を身につけ、その間にHPをそのレベルにまで引き上げていくことが、これからの自分の最重要の課題になると判断した。

だから、HPを公開しつつも、必要以上に表に出ることは避け、いわば胎児の状態で自分を成長させなければならないと思った。

一方、身についたこの特別な感覚は、不死男の魂がこういう形で実ったのだと思い、なにわ会の皆様にも、その自分の姿を見てもらいたい、そうやって皆様を元気にさせることが出来るだろうと思った。また、そのレベルで物語を創作していくことが、自分がこの世に生まれた役割になると思い、それが果たせるかどうかが、自分の最大の関心事だった。


2001年英国の無名フリー写真ジャーナリストから真珠湾攻撃体験者取材の依頼を受ける

2000年末、上記の取材依頼を受ける。この頃、自称ボランティア通訳者の西崎氏とHPの英訳作業をしていた。

その時、世間知らずということは自分でも充分よくわかっていたし、力量がないことも承知していたが、いわば巻き込まれる形で、「胎児のうちから無理やり外に引きずり出された」。すさまじい重圧の中、非常に立場のある方々と連絡をとり、動き回ることを強いられた。無償の、生活を犠牲にしながらのこの作業は、精神、肉体ともに当時の自分の限界を超えていた。一方、西崎氏は、次第にそれを自分のステップアップにつなげたいという野心が明確になり、語学力を盾に、思いの通りに(自分の手柄となるよう)勝手に用件を進めていった。それが数ヶ月後には、「精神の背骨が折れる」という現象となって現れた。

その後はすべてが悪循環となっていって、いったん緊張の糸が切れ、転がりだしたものは歯止めがかからず、それまで身につけた感覚の鋭さといったものは徐々に失われ、この用件に対する後悔と怒りのみが残る結果となった。

自分の至らなさが原因である部分も確かにあった。しかしその後、西崎氏による同じような被害報告が、多数の関係者からなされている。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~k_yasuto/marcus-nisizaki.htm


悪循環が重なった数年

それから数年は、そういう悪循環の中での生活を続け、格差社会の波にも飲み込まれて、体調、精神ともに悪化させていった。この間、取り乱したこともあり、信用はかなり落としたと思う。それでも回天HPだけは毎日、一日も休むことなく、内容の充実に努めた。それが2008年頃になって、ようやく一通りの土台の完成、と感じられるところまで仕上がったという実感が得られるようになった。

その間にテレビドラマ、映画、漫画、書籍、またフラッシュなどで回天を取り上げられ、自分のHPも参考にされ、それなりの実績を残せたと思うようにもなった。

また、以前とはまったく比べようもないが体調もいくらか回復して、ようやくこれからのことを考えられるような状態になってきたと思う。


これからのこと

今回の慰霊祭は、自分では無念の思いが非常に強いのですが、こうして状況はいくらかでも好転してきましたので、まずは「何故、自分がこうして回天HPを立ち上げてきたのか」、そして「これからどうなるかはわからないが、何とか進んでいける状態になってきた」、そのご報告だけはさせて頂こうと思い、出席させて頂くことを決意いたしました。

今後は自分としてはドラマ、映画等、芸術、創作の分野で回天の志を伝えていけるよう、自分にあった役回りで働きかけていきたいと考えています。

自分が多感な思春期に笑うことが出来なくなり、社会と接点を持つことが出来なくなってしまった、その本当の理由はわかりませんが、以上のように考えると、自分の中では一番納得がいき、これから将来、普通に笑えるようになるか、それは回天隊はじめ、当時の事柄が正しく後世に認識されるような社会になったときに、少なくともその可能性が生まれてくるのだろう、そういう因縁の中で、自分は生きているのだと考えています。


(*1 当方は1964年6月生まれ。その6ヶ月前、母が自分を身ごもって4ヶ月目の1963年12月に回天のドキュメントドラマ「魚住少尉命中」がNHKより放映され、そこで脚本を執筆した横光晃氏が、最終審査員として、この「小さな風船、小さな幸せ」を、最後まで熱心に応援してくれた。「小さな風船、小さな幸せ」の中には、「魚住少尉命中」と同様のエピソードが盛り込まれている。これを当方は2001年の再放送で知った。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~k_yasuto/uozumi.htm