元隊長56年目の証言 

「やっと…」派遣に歓喜

 伊豆諸島・八丈島(東京都八丈町)に残る、太平洋戦争末期の人間魚雷、「回天」特別攻撃隊「第二回天隊」基地跡の洞くつ。元隊長の小灘利春・全国回天会会長(78)=神奈川県在住=の証言から、当時を振り返る。




八丈島に出撃する第二回天隊の壮行式。八人の搭乗員の左端が小灘隊長=1945年5月8日、山口県・光基地で(小灘さん提供)

 「死すべし」

 一九四五(昭和二十)年、八月十五日。

 司令から、玉音放送の意味は「戦争終結」だと教えられた時、当時二十二歳の小灘隊長(海軍大尉)は自決を考えた。戦死した多くの仲間の顔がまぶたに浮かんだ。

 八丈島に着任して二カ月半。生きては帰れぬ出撃に備え、底土(そこど)の格納壕(ごう)の回天内での陸上や机上訓練の日々。結末は突然訪れた。

 小灘さんは、海軍兵学校を卒業後、四四年九月、山口県・大津島の回天訓練基地に配属された。最初の士官搭乗員三十四人のうちの一人だった。

 死とほぼ同義語の回天隊配属。

 しかし、「回天に乗ることができると知って、皆で大喜びしました」と、小灘さんは静かに振り返る。

 米軍との圧倒的な装備の差、戦局の極端な悪化は、よく分かっていた。世界が驚き、「非人道的」「狂っている」と非難もされた特攻隊。しかし、小灘さんは「自分一人の死で、大勢の愛する日本の人々を救えるのなら、これ(特攻)以外に方法はない。冷静に合理的だと判断した。そういう時代でした」と語る。その一方、「でも、頭と心ではそう思っていても、体は死を拒絶していたのか、突然、吐き気に襲われた」とも明かす。

 着任の夜、回天創始者の黒木博司大尉(当時二十二歳)が、海で訓練中、回天が海底で動けなくなる事故が起きた。黒木大尉は、呼吸困難になりながら、艇内で事故状況や遺書を、ノートや内壁に書き続けた。

 「死ヲ決ス、心身爽(そう)快ナリ」…。絶筆は翌朝六時。「猶(なお)二人生存ス。相約シ行ヲ共ニス。萬歳(ばんざい)。」(「回天」<回天刊行会出版>から)

 回天は、訓練さえ危険な「必死兵器」だった。

 黒木大尉とともに創始者である仁科関夫中尉は、大尉の遺骨を抱いて、十一月、出撃第一号となり、南洋で戦死した。二十一歳だった。

 翌四五年三月、兵学校72期の同期河合不死男中尉(当時二十三歳)も、隊長として沖縄に出撃途上、戦死した。

 四月ごろ。「一隊を八丈島に至急派遣せよ」と電報。指揮官はその時、たまたま目の前にいた小灘さんに「君、行け」と命じた。小灘さんは「やっと自分も」と喜んだ。「歓喜が頭から足先まで駆け抜けた。あれ以上の感激は今もない」

 玉音放送の後、米軍は八丈島に上陸。「鬼畜」のはずの米士官らは極めて紳士的だった。格納壕内で回天は爆破された。

 自決の思いは復興への思いに変わっていった。「生きて出ることはない」と思い定めた島を離れたのは十一月末だった。

 その後、京都大学を経て、水産会社で南氷洋捕鯨母船に乗船。子供は三人。孫もできた。

 全国回天会の設立は六二年。「生き残りは私くらい」と会長を務め続ける。最初の士官搭乗員三十四人のうち、戦没者は二十八人。第二回天隊のほかの七人は、町長や、プロ野球選手、農業、会社員になったが、既に四人が亡くなった。

 「回天は空前絶後」。今後もないし、あってはいけないと確信している。でも、平和なことが当然のような今の日本を見ていると、「平和を守り続けるには具体的な努力が必要」とも思う。

 小灘さんは六五年以来、八丈島を五回、再訪している。

 「観光にいい島だと、最近は思うようになりましたね」

 今でも、心の中から、回天が消えることはない。それでも、八丈島は暗い洞くつの島から、太陽輝く美しい島へと変わってきている。

東京新聞(朝刊)−2001.8.16−文・増田恵美子