回天誕生の経緯 ――必死兵器に結晶した憂国の至情
特攻兵器構想の系譜
人間魚雷『回天』は黒木博司中尉と仁科関夫少尉の憂国の至情の結晶である。回天そのものの形骸はたとえなくなろうとも、その精神は永遠にこの世に残るであろう。
人間魚雷という構想は、むかしから世界の国々にもあったであろうが、現実に”必死必殺”である人間魚雷が活躍したのは、今次戦争の回天をもって嚆矢とする。
日本で始めて人間魚雷を提唱した人は昭和六年、当時すでに予備役にあった横尾敬義海軍大佐である。横尾大佐は、ロンドン海軍条約によるわが海軍の劣勢化を憂え、その対策として、制限外の人間魚雷保有を提案したのであった。
この兵器は、名実ともに”必死必殺”の人間魚雷だったが、これを当局が採用し、設計に着手した時、とくに軍令部総長の伏見宮殿下からご注文があり、人命尊重を重視される天皇陛下の大御心を拝して、乗員の救出方策を設計に織りこむこととなった。この結果、人間魚雷は小型潜水艦に近いものとならざるを得なくなり、結局『甲標的』として実現をみたのである。
『甲標的』は大東亜戦争劈頭、真珠湾を特別攻撃し、その後もシドニー、ディエゴ、スワレスなどの敵基地を奇襲攻撃して、敵の心胆を寒からしめ、世界を震駭せしめたものであるが、その後は敵の警戒が厳重となったため、奇襲作戦は次第に実行困難となった。
開戦劈頭に大打撃を受けた敵は、その後漸次陣容を建て直してきたが、とくにミッドウェイ海鮮におけるわが艦隊の敗戦は、敵に戦勢挽回の機会を与えた。すなわち敵機動部隊の行動は日を追って活発化し、その跳梁ぶりは目をおおうものがあった。このため、わが戦線は分断され、各所で孤立状態を呈するという、まことに憂うべき情勢となってきた。
わが海軍においては、前線にあると後方にあるとを問わず、将兵はひとしく戦局を憂慮して、その対策に腐心したのであるが、この時、「今こそ身を棄てて国に報ずべき秋だ。それには自ら人間魚雷に搭乗し、一人一艦ずつ体当たりで敵艦を撃沈する以外に、戦局挽回の道はない」と提唱する四人の青年将校が現れた。
そのうち二人は、インド洋と太平洋で別々に作戦行動中の潜水艦に乗り組んでいた竹間忠三大尉と近江誠中尉(現・山地)――両君の間には何んの連絡もなかったが、ほぼ同時期に同じような人間魚雷作戦構想をまとめて、これを軍令部と連合艦隊司令部に提出している。
一方、呉軍港外の秘密基地P基地にあって、甲標的艇長教育を受けていた黒木博司中尉と仁科関夫少尉も、ほぼ同時期に人間魚雷の構想をまとめあげ、その実現を申請するため、海軍省軍務局に出頭した。
両君は戦局の悪化を坐視するに忍びず、せっかく血書志願した甲標的ではあるが、これはすでに戦局打開の決定的兵器としては能力不足であり、”必死必殺”の人間魚雷のような非常手段をもってしなければ、とうてい成功はおぼつかないとして、全身全霊を打ちこみ、人間魚雷の研究開発に没頭したのであった。
呉工廠魚雷実験部の助力もあったが、昭和十八年の晩秋には、ついに九三式魚雷(酸素を動力源とする世界唯一、最高の能力を有する魚雷)を利用する人間魚雷の構図を完成した。
黒木・仁科両士の膝づめ談判
昭和十八年十二月二十八日のことであった。黒木中尉と仁科少尉はこの人間魚雷の構図を携えて当時、海軍省軍務局で潜水艦および甲標的などの戦備を担当していた私を訪れ、その採用方を要請した。
この日、私は終日会議に追われて、自室に戻ったのは午後五時すぎであったが、私の帰りを長時間待っていた両君は、軍服に威儀を正して私に自己紹介したのち、きわめて真摯な態度で来訪の目的を述べた。
「今こそわれわれ若人が身を棄てて国を護るべき時であります。願わくば、この人間魚雷をすみやかに実現して、われわれに与えて下さい。われわれは真っ先にそれに搭乗して、一人一艦敵艦に体当たり撃沈して、この難局打開につとめます。どうか実現にお力ぞえをお願いします」
構図を私の机上にひろげて見せたが、憂国の至情みなぎる一言一句には、深く感銘させられるものがあった。提示された構図もきわめて具体的であり、技術的にも優れたものである。
私は軍務局着任まで潜水艦長として戦場にあったので、戦局の重大なことは身をもって痛感させられていた。そして、この難局を打開するのは、尋常一様の手段では不可能であり、何か画期的な新兵器の登場以外にないと考えていたので、軍務局着任後直ちに技術当局に対し、新兵器の研究開発促進を要望しつづけてきた。それだけにこの両君の提案には、非常に大きな共鳴と可能性を感じたのである。
しかし、この人命に関する”必死必殺”の兵器は、甲標的設計時の経緯によっても明らかなように、軽々にこれを処理することは慎まなければならない。そこで軍令部に連絡するとともに、上司である軍務局第一課長山本善雄大佐に報告して決裁を仰ぐことにした。
山本課長は沈思黙考の後、自ら黒木中尉と仁科少尉を自席に呼んで、まず両君の憂国の熱情に敬意を表し、その研究努力に対しても大いに賞讃するところがあったが、しかし、この兵器の採用については諸種の問題があること、とくに”必死必殺”の人間魚雷の採否は、天皇陛下の大御心を拝する時、軽々に処理できないことなどを諄々と説いて時期到来を待つよう懇切に説得した。
両君は不本意な表情であったが、帰隊の時間に迫られ、肩を落として部屋を去っていった。だが、この両君の情熱は間もなく貫徹され、いよいよ人間魚雷・回天誕生の日を迎えることになったのである。
熱誠ついに徹る
十九年に入って、敵の侵攻は予想以上の速度を加えてきた。わが前進拠点は次々と攻略されて、二月五日にはついに重要拠点のクェゼリン環礁が敵の手に落ちた。
作戦部では、このことあるのをかねてから懸念していたが、不幸にして敵手に落ちた場合、敵がこれを機動部隊の根拠地に使用するのを阻止するため、奪還または基地破壊の方法を研究していた。それで、占領された日の翌六日朝には破壊作戦を決定し、その戦備を海軍省に要求してきた。
この作戦は『竜巻作戦』と呼ばれたが、その内容は、特四内火艇を改装した魚雷艇を、潜水艦九隻に二隻ずつ搭載して環礁外まで潜航した後、夜暗に乗じて潜水艦から発進させる。魚雷艇は水上航走によってリーフに接近し、無限軌道を用いてこれを乗り越えた後、ふたたび水上航走して敵艦に肉迫し、搭載した二本ずつの魚雷計三十六本を発射、敵艦を海の藻屑と化して、根拠地を使用に耐えないものにしようとする計画だった。その構想は極めて壮とすべきものがあるが、いざ実施となると、大きな障害があった。
第一、魚雷艇に無限軌道をつけ、水陸両用とすることは矛盾であって、速力を低下し、魚雷艇の用をなさなくする。低速と主機械の騒音とが、奇襲作戦に不適当であることは論をまたない。このため、決死志願した上別府宜紀大尉以下の乗員でさえ、このままの性能で作戦することは犬死同然で、躊躇せざるを得なかったのである。私はこの改善についてずいぶん力コブを入れたが、性能の改善はほとんど見られず、ついに作戦は中止の止むなきに至った。
上別府大尉以下乗員の訓練は、特四内火艇を使用してP基地の対岸Q基地で実施したが、この状況をP基地にあって見聞した黒木中尉と仁科少尉すは、この作戦こそ人間魚雷の真価を発揮すべき場面であると信じ、さっそく人間魚雷による狭水道通過法や、碇泊艦襲撃法を練り上げ、その具体案を携えてふたたび軍務局に私を訪れ、『竜巻作戦』に人間魚雷の採用を進言してきた。
私は、水陸両用の魚雷艇の改善に望みを失いかけていた際なので、両君の進言に大きく目が開ける心地がした。すなわち、魚雷艇による作戦は成功の公算が少ないうえに、環礁内の作戦は”必死作戦”にひとしい。何名かの乗員の救命はほとんど不可能である。これに対し、もし人間魚雷による狭水道通過が可能とすれば、人命損害も魚雷艇よりずっと少なく、作戦効果は絶大である。
そこで、この旨を軍令部に連絡するとともに、山本課長にも詳細報告して、人間魚雷の試作だけでも実施するよう上申したのであった。
山本課長はかねてから水陸両用魚雷艇の戦備に疑問を抱いていたので、言下に人間魚雷三基を試作し、すみやかに諸性能を検討するよう提示を下した。忘れもしない昭和十九年二月二十六日のことであったが、この日こそ、回天誕生の日となったのである。
試作については次の二つの条件を付して、呉工廠魚雷実験部長に委嘱することとした。
一、軍機取扱いとし秘密を厳守する。関与する人員を極限し、軍務局の許可なき者は何人といえども立入りを禁止する。
二、人命を尊重するため脱出装置を考慮する。
脱出装置をめぐり甲論乙駁
そもそも海軍においては重要兵器、機関、艦船の研究開発に関しては、海軍技術会議の議を経た後、海軍大臣が決裁して発動することになっていたが、この人間魚雷は山本課長の独断で試作を開始したもので、まことに異例に属していた。
それだけに黒木中尉、仁科少尉はじめ関係者一同の感激は大きく、心に堅く成功を期して準備作業に取り組むことになった。
私は艦政本部担当竹大大佐とともに魚雷実験部を訪ね、部長に山本課長の意のあるところを伝えて、黒木中尉らの提案した人間魚雷三基を早急に試作するよう依頼したが、同実験部では渡辺清水技術大佐、鈴川溥技術大尉、楠厚技手、有坂技手が中心となって設計を開始した。
山本課長がとくに要望した脱出装置の設計には相当苦慮したようだが、この脱出装置に対して黒木中尉は、最初から反対であった。
その理由には、艇速が減退するばかりでなく、航走安定にも影響することなどが挙げられていたが、最大の反対理由は、首尾よく敵前で脱出に成功したところで、人命は救出されても、それは敵の捕虜になることを意味するからである。
私は設計の状況から、山本課長の人命尊重方針と黒木中尉らの意見を調整して、訓練中は人命を絶対に保証するため、脱出装置の代わりに、操縦室の上下に乗員の出入口を設けて、危急の際には、ここを開けて脱出する方法を提案した。
幸いこれが採用されて、さしも難航した設計もその後順調に進み、七月初旬には三基とも完成をみた。なお秘密保持のため、これを『㊅金物』と命名した。
大津島に回天基地隊開設
完成した第一号艇はさっそく黒木中尉が操縦して、波静かな呉軍港内で航走試験を行い、予期通りの成果をおさめて、関係者一同を喜ばせた。
さらに七月二十五日からは本格的な性能試験を行うため、試験場を大入島発射場海面に移し、黒木中尉、仁科少尉が交互に搭乗して三日間連続試験を行い、試験終了後に関係者一同がP基地に集合して成果を審議した。その結果、魚雷の特性である推進器逆転による後進が不可能であることや、旋回圏がきわめて大きいという欠陥があること以外には、”人間魚雷”としておおむね適格であることが認められた。
なかには、右の欠陥を是正するよう強く主張する向きもあったが、黒木中尉は兵器の改善は別途に研究することとして、すみやかに乗員を養成するため、訓練用人間魚雷の建造を強く要望した。
この会議につらなった私は、列席者の意見を傾聴するのみで、自分の意見はいっさい差し控えた。これは山本課長の判断を拘束しないためであったが、詳細報告を受けた山本課長は、激化する戦局にかんがみて、今こそ決戦兵器建造の時期だと判断し、海軍大臣、軍務局長に対して初めて詳細な報告を行い、正式採用の決裁を仰いだのであった。
かくて昭和十九年八月一日、海軍大臣の決裁があり、『㊅金物』は正式に兵器として採用されることとなった。そして、その名も黒木中尉の提案通り『回天一型』と命名されたのである。
軍令部はさっそく百三十基の建造を要求してきた。魚雷実験部の能力をもってすれば、この程度の量産は大した問題ではなかったが、これに要する人員の募集、搭乗員の養成がなかなか容易ではない。乗員志願者はその大部分が海上経験の乏しい若者だ。これらの人たちに、人間魚雷を操縦して狭い水道や種々の難関を突破し、敵艦に体当たりする心技を会得させるため、まず必要なことは、これらの人たちの教育指導に当たる指導者――心技体兼備の優れた指導者の養成である。
この目的から七月一日、特別基地隊令が制定され、P基地は第一特別基地隊となり、長井満少将を司令官とする司令部が置かれて、教育指導体制の強化につとめることになったが、回天隊員の教育指導には、さらに格別の配慮が必要とされた。それは回天隊員が甲標的隊員以上に”必死”であり、決死殉国の精神に徹しなければならないからである。
したがって指導者には、隊員の心からなる尊敬信頼を博する抜群の人物を選ばなければならない。この結果、人事当局が選んだのは、開戦以来潜水艦長として活躍した板倉光馬少佐であった。
頭脳明敏で心技体兼備の俊英とうたわれた同少佐は、着任と同時に活動を開始したが、黒木中尉と協議して回天基地を徳山湾の大津島に移すことを決め、司令部を通じて軍務局に上申してきた。
大津島は九三式魚雷の試験発射場で、酸素発生装置も完備されており、海面も広く回天訓練基地としては最適であった。
しかし、隊舎など居住施設は不備だったが、早急に訓練開始を要望する板倉少佐は、黒木大尉(進級)以下士官十六名、下士官九名を率いて大津島に移動し、黒木・仁科両君が教官となって猛訓練を開始した。最初の乗員は甲標的乗員から志願によって選抜したが、その後の一般募集は、兵学校、機関学校出身の中、少尉から直接志願によって選抜した。
理想的兵器とはいえなかったが・・・
やがで昭和二十年を迎えて、本土決戦態勢の戦備計画確立の必要に迫られた軍当局は、以上のほかに予備学生、予備生徒出身の士官や、予科練出身の飛行兵曹からも志願者を募って、選抜教育を始めることになった。
『回天一型』は先に述べた通り、性能的には、”必死”の勇士にふさわしい理想的な兵器とはいえなかった。軍務局としても、殉国の勇士に報いるため、性能的に十分満足し得る兵器の開発を企図して、艦政本部に対し最高速力五十ノット、最大射程七十キロの性能を有する『回天二型』の優先的な研究開発を要求した。
艦政本部はこれにこたえて、朝熊利英技術少将を委員長とする回天委員会を設け、部内外の技術者、専門学者を動員して研究を開始したが、原動力となる『㊅金物』が、材質的に、動力源である過酸化水素の高熱運転に耐えないため、計画した高力運転が不可能となって、最高速力を二十数ノットに減速しなければならなかった。これがため、当初に企画した高性能人間魚雷は、ついに夢と消え去ったのである。
研究と並行的に多量建造中であった船体は、一時建造を中止して、各建造所に胴体のみが山積する状況であった。のち”一億特攻”の方針で、低性能を我慢して整備することになったが、実戦には使用されないまま終戦を迎えたのであった。
以上をもって回天誕生の経緯についての記述を終える。紙数の関係でいささか物足りなさをを感ずる次第であるが、戦後三十年を経過した今日も、なお筆者の瞼の裏に残るものは、黒木大尉と仁科中尉のあの赤誠あふれる真摯な姿である。
在天の霊は、とこしなえに日本を護るであろう。
書籍『回天』(回天刊行会発行)より