* 追悼:「鉄の団結誇った白龍隊」 *


  多賀谷虎雄(元海軍一等飛行兵曹・回天搭乗員)




 回天特攻隊白龍隊の隊員7名を乗せたまま、第18号輸送艦は沖縄列島付近の作戦海域で、その消息を絶ったという。そんな白龍隊の悲壮な最後を聞いたのは、終戦後だいぶたってからのことであった。

 私たちの永見隊――隊長・永見博之中尉=鳥取県出身、隊員・中村憲光=北海道、小原隆二=岩手県、緑川武男=長野県、高館孝司=新潟県、蔦村照光=大阪市、多賀谷虎雄=群馬県、いずれも一飛曹――は、すでに数少なくなった潜水艦搭載による洋上作戦より一転し、敵上陸部隊の本土来襲を迎え撃つ方法で、その上陸予想地点である九州宮崎県の油津海岸に待機することとなった。ここに愛艇回天を隠して、敵来たりなば必中必殺の体当たり攻撃をかけてやるのだ。

 昭和20年6月15日、訓練基地大津島を後にして、陸路目的地に到着したが、そこはまさに本土決戦の最先端であり、戦場であった。さまざまな特攻兵器がそれぞれの使命感に燃えて、闘志を青い火花のように散らし合っていた。当然のことのように、私たちも回天の名を恥かしめてはならじと、大張り切りで待機していたのだった。

 だがこのころ敵B29による本土爆撃は日ごとに激しさを加え、その通路に当たっている私たちの上空をわがもの顔に、まるで日課のごとく横行していたし、また艦載機による空襲で多くの市民が傷つき、そして死んでいった。

 対岸にある造船所では、建造中の木造船が次々と空襲で焼かれて行き、私たちも幾たびが銃撃の洗礼を受けた。山頂にある見張所からは、わが防空部隊の対空砲火で撃墜された敵機から、搭乗員がパラシュートで脱出し、それを敵潜水艦が救助する有様が、目と鼻の先で望見された。空も海もまったく敵の蹂躙にまかせきってしまっていたのである。

 そんな陰鬱な日々ではあったが、いくつかの楽しい思い出もある。文字通り身を挺して夜漁に出た漁師さんが釣ってきた、生きのいい鰹の刺身を腹一ぱい食べたあの味、また空襲の際にわざと造船所専用の防空壕に飛びこみ、まっ暗な壕のなかで異性の匂いに嗅覚をとがらせながら、忘れていた青春を人知れずよみがえらせて、戦争という厳しい現実を、忘却の彼方に追いやる感傷のひととき……。

 しかし、ついに運命の8月15日がやってきた。終戦の詔勅をこの耳で聞いたが、その内容は判然としなかったし、誰もがそれを信じなかった。いな、信じたくなかったのだ。が、現実に、日課のように聞いたあの敵機の爆音もピッタリと途絶え、そして、さらにそれを裏付けるかのように復員の兵隊がポツポツと帰って来はじめた。誰もがそうであったように、目的を失った虚無感のなかで、ただ無性に肩を叩き合って慟哭した。歴史の歩みが進んでいるのか退いているのか、時間の経過さえわからぬ幾日かであった。

 いたずらなデマの飛ぶなかを、私たちは日本国の不滅を信じその再建を約して、それぞれの故郷へ散って行った。「死んで錦を飾ろう」「二度と生きては帰るまじ」と誓った故郷へである。祖国再建という新しい志向こそあったが、戦友たちの死を思うとき、さすがに身も心も鉛のように重たかった。

 きょうのいま、最後まで寝食をともにし、一緒に死ぬことのみに行動した戦友の追憶は尽きない。同時にまた、大津島における先輩同僚の想い出が走馬灯の絵のように頭のなかを駆けめぐる。しかし、その数多い想い出のなかにあって、白龍隊員の印象がことさらあざやかに去来するので、与えられたこの機会に拙文を記し、戦友たちの冥福を祈る一助にしたいと思う(ただし、私の記憶のなかにとくに濃く印象づけられている、次の四氏についてである)。

 

隊長・河合不死男中尉のこと

 奈良空の予科練から第1回目に回天特攻隊に選抜された私たちは、呉の潜水学校から『第一特基』と記された大発に乗りこんだ。奈良空を発つまでは行先も知らされず、転任先でどんな仕事につくのかも明らかにされていなかったが、選抜に当たって司令から涙ながらの勧誘のあったことや、”新兵器搭乗員”という肩書からして、それが何んであるかは、おぼろげながら覚悟していた。

 だが、『第一特基』という文字の持つ意味を、このとき現実のものとして、お互いに肌で感じ合ったのである。そして、先任将校・近江大尉の精神訓話が日ごと熱を加えるに従い、各人のノートには、ごく自然に『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」といった文字が書きつらねられるようになり、”特攻隊”の意識は次第に定着して行った。

 それから間もなく、私たちはその”総本山”ともいうべき大津島に赴任したのであるが、この基地の異常ともいうべき緊張ぶり、特訓に次ぐ特訓には、予科練で相当鍛えられたはずの私たちも、目をむかざるを得なかった。着任早々、士官室前の坂道を三回も往復させられて、まず気合いを入れられたが、士官室のどの窓からも、眼ばかりギョロギョロと底光りした長髪の士官たちの姿が垣間見えた。なかにはこっちをグッと物すごい眼で見すえているものもある。何か身のすくむような思いで、完全に娑婆の空気を感じさせない”隔絶した一つの孤島”であった。

 ピンと張り詰めた島全体の異様な空気に、正直な話、不安と恐怖の念を抱いたのは、ひとり私だけではなかったであろう。そして、わずかにホッとした三日目のことだったが、ちょっとした気のゆるみから、私たちは一人の士官から気合いをかけられた。それが私と河合中尉との出会いであった。

 私はこの長身の海兵出身の青年将校に、何か魅せられたとでもいうのか、言い知れぬ親しみをおぼえたが、ほどなくその名が『不死男』(死なない男)と聞いて、ことさらに心を惹かれるようになっていった。若年ながら武将の風格十分な河合中尉のもとに、初めて白龍隊が編成された時、まさに勇将のもとに弱卒なしの感がして、私はうらやましくさえ思ったほどだ。それぞれの隊員は個性ゆたかなうちにも、優れたチームワークを誇り、傍から見ても実に力強いものがあった。

 これもひとえに、河合中尉の抱擁力ある人柄と、卓抜した指導力があずかって大きかったと思うが、とにかく私は、ともに死を目ざす仲間として、河合中尉をはじめ隊員たちには、実の兄弟以上の親しさを感じて兄事したものである。

 河合中尉の指揮する白龍隊の一隊は昭和20年3月13日、大津島から第18号輸送艦に乗り組んで沖縄海域に出撃して行ったが――実際には同日大津島から光基地に移り、そこでさらに強者を加えて光基地を進発したものと思う――、沖縄慶良間列島付近の海域で敵の攻撃を受け、艦もろとも全員惜しくも散華した、という推定が行われている。

 この出撃の前夜、中尉に最後の染筆をお願いしたところ、快よく達筆をふるって、次のような辞世の歌を短冊に記され、つぶやくようにそれを読まれたあと、私に渡してくれた――その日のことが、悟りきったように静かな河合中尉の横顔が、つい昨日のことのごとく想い起こされてくるのである。

 辞世  春なれば散りし桜もにほふらむ げにうたかたときへて散るとも  

贈 多賀谷兵曹

 

隊員・赤近忠三ニ飛曹のこと

 色黒のこの偉丈夫は、見るからに豪放磊落のタイプだったが、事実その性格も竹を割ったように、スカッとした快男子であった。だが頭脳の方は、そういった人柄とは裏はらに、緻密な計算を得意とするシャープなところがあり、私が使用した射角表なども、大いに赤近兄のものを参考にしていたように記憶する。

 隊のなかでも兄貴分としてリーダー・シップをとっていたが、私などは、いつも何かと教えを乞うていたものである。もし、戦争などが起こらず、この世に生きていたら、相当有為な存在となっていたであろうに、こんな優秀な人間が今は亡い。まったく残念で残念でならない。

 私の手許に残る辞世三首。戦後の激しい時世の転変に、ともすれば思い屈しようとする私を、しっかりと支えてくれる心の拠りどころとなって今日に至っている。


 大君につくさむ心荒海と 寄せては砕かむ醜の醜草

 若桜ニ度とは散らじ男なら かくこそ散らん玉と砕けて

 「多賀谷さん 純一な御奉公お願ひ致します。身体に気をつけられて頑張って下さい」

 「純真な班員に導いて下さい」

 昭和二十年三月十三日

             親友 赤近忠三

  秋来なば魁け散らん桐の葉も 名利を捨てて実をばとるなり 

 

隊員・伊東祐之ニ飛曹のこと

 たしか東北地方の出身者だと聞いていたが、特有のズーズー弁そのまま、素朴な驕るところのない性格に惹かれたのか、私とはうまがよく合って、本当の兄弟以上のつき合いだった。私は兄弟が多かったが、彼はいつも身寄りが少ないことを淋しがって、私をうらやましがったものだ。

 小柄ではあったが、ガッシリした体躯で、負けじ魂はひと一倍の反面、ちょっぴり淋しがり屋の伊東兄、何と取っ組んでも克苦勉励してやまない型の伊東兄――彼もまた亡し。嗚呼。

  辞 世

 菊水の流れを慕ふ若桜 梓の弓と征きて還らじ             

                海軍二等飛行兵曹 伊東祐之

 回天決死襲敵艦 突撃攻成身砕玉

 滄海星飛千万里 光芒長照碧波間

 右(上記)は、誰かの詩を拝借したと彼は言っていたが、伊東兄がこの文句通りに、首尾よく本懐をとげたかどうか、今もって明らかにされていない。或いは功成らずに散って行ったのかも知れないと思うと、あの負けず嫌いの男がどんなに口悔しかったことかと、気の毒な思いに駆られ、戦争の空しさをしみじみと感じるのである。

 

隊員・猪熊房蔵ニ飛曹のこと

 

 名前から受ける感じとは全然異なり、一見貴公子然とした坊ちゃんタイプで、東京の出身だった。洗練された振舞いからは、育ちの良さとでもいったものさえもうかがわれた。

 口数が少なく、つねに多くを語ろうとはしなかったが、回天に関する研究問題などになると、赤近兄らとしばしば激論を闘わせていたのをおぼえている。。外柔内剛というのか、外見は温容ながら、その底には燃えたぎるような闘志を秘めている感じだったが、すでに死生を達観していたもののごとく、私などが足許にも寄れないような、老成した心境をのぞかせて、思わずその顔を見直させるような場面が、ままあった。

「おれは字が下手だし、こうしたものは大の苦手なんだが…」――なにか面はゆげにほほえみながら、私の乞いにまかせて、そっと掌の上にのせてくれたのが次の辞世の色紙である。まだ童顔のぬけきらぬその面輪は、澄み徹った心境をほのぼのとたたえて、みじんの揺らぎも見せていなかった。悠々淡々としたその表情は、今も私の胸の底に生きて、何ごとかを語りかけて止まない。

  辞 世

海軍二等飛行兵曹 猪熊房蔵

 益良夫のあと見む心つぎつぎに うけつぎ来りて我もまた征く