千早隊伊号第三六八潜水艦の戦闘
東京のほぼ真南、約六七〇浬に浮かぶ硫黄島に、米軍は昭和十九年六月のサイパン
戦以降、空襲と艦砲射撃を度々繰り返していた。米第五八機動部隊の空母十六隻、戦
艦九隻、巡洋艦十四隻、駆逐艦七七隻という大艦隊が、艦載機約千機で二十年二月十
六、十七の両日、関東方面の飛行場、航空機工場、港湾などを空襲したのち十八日、
硫黄島周辺を取り巻いていた第五四機動部隊と合流した。そして二日間連続の猛烈な
艦砲射撃と空襲のあと遂に二月十九日、米海兵師団が上陸を開始して硫黄島の陸海軍
守備隊との激烈な陸上戦闘に入った。
二ー日、彗星艦上爆撃機、天山艦上攻撃機、零式艦上戦闘機計二三機の航空特攻第
二御楯隊が硫黄島水域の米艦隊に突入、空母ビスマルク・シーを撃沈、サラトガ、ル
ンガポイント、ラングレイに損傷を与えたほか、体当たりと爆撃で多くの戦果を挙げた。
二四日には海軍のー式陸攻が米軍陣地を爆撃した。しかし日本海軍が海上戦力で
当面とった対応は回天搭載潜水艦三隻と、通常の呂号潜水艦一隻だけであった。
伊号第三六八潜水艦は僚艦伊三七○潜とともに、金剛隊が出撃したあと続いて比
島方面で、搭載回天によって奇襲を敢行する計画のもとに訓練、整備を進めていた。
比島の敵上陸正面で敵艦船を捕捉攻撃、また比島東方海面で敵船団を攻撃、或いは敵
の前進基地で航空母艦、戦艦、浮舶渠を攻撃するという作戦である。あと比島リンガ
エン方面泊地を攻撃する指示を受けた。
両艦は丁型潜水艦であり、この型は本来は兵器弾薬食糧などを前線へ輸送する目的
で建造されたもので、魚雷発射管を全く持たない艦もある。しかし、相次ぐ潜水艦の
喪失に伴い遂に輸送潜水艦までが回天搭載艦になった。艦型、性能が適当とは言えな
いが、回天を持つことで強力な攻撃潜水艦となったのである。排水量ー、四四○トン
という大きさの割には広い甲板が回天五基を搭載することで活かされた。
但し両艦は回天との間の交通筒がなかった。従って搭乗員を甲板上の回天に、上部
ハッチから乗艇させる必要がある。攻撃前のある時期に潜水艦が浮上しないかぎり、
回天が使えない。
硫黄島へ敵が出現したので、第六艦隊は急遽同水域への出撃に変更、伊四四潜とと
もに三艦で回天特別攻撃隊千早隊を編成して、伊三六八潜は二月二十日、伊三七○潜
は翌ニー日、伊四四潜は二二日、あわただしく出撃していった。搭乗員各自が携行す
る硫黄島水域の海図さえ用意がなく、基地の士官搭乗員たちが徹夜で海図を模写し、
辛うじて出撃に間に合わせた状態である。
大津島基地から出撃した伊三六八潜は艦長入沢三輝少佐、搭乗員は川崎順二中尉
(海軍機関学校第五三期、鹿児島県) 石田敏雄少尉(兵科四期予備士官、拓殖大学、
山口県) 難波進少尉(同、中央大学、東京都) 磯部武雄二等飛行兵曹(第十三期甲種
飛行予科練習生出身下士官、東京都) 芝崎昭七・二等飛行兵曹(同、北海道)の五名
であった。
航行艦襲撃の研究、準備は、回天作戦第二陣の金剛隊が出撃する前の十九年十二月
には訓練基地大津島で始まっていた。第六艦隊でも、洋上に於ける回天の使用方法に
ついて海軍潜水学校に委嘱して、攻撃目標に対する回天搭載潜水艦の占位運動、発射
方法を研究し、回天の襲撃方法も研究が進められていた。搭乗員たちは二十年一月初
頭から広島県大竹にある海軍潜水学校に交代で出向き、潜水艦長用の「襲撃シミュレ
ーション装置」を使わせてもらい、航行艦襲撃の演習を開始した。その期日、参加者
たちの氏名は大津島の公式記録に残っている。訓練基地でもー月中旬以降、回天が魚
雷発射場から、或いは潜水艦から発進して駆逐艦や小型貨物船など、実物の航行艦を
襲撃する訓練に入った。大津島の発射場のニ階にも「簡易襲撃演習装置」が置かれて
いた。
千早隊が出撃前に指示された攻撃目標は「硫黄島付近を遊弋中の敵有力艦船」であ
った。攻撃目標が停泊している空母、戦艦から、移動中を含めた主要艦船に移行した
のである。この攻撃目標は広い洋上で遭遇した航行中の艦船ではなく、攻撃水面は交
戦中の戦場の真ただ中になる。泊地内の碇泊艦を奇襲攻撃した菊水隊、金剛隊よりも
一層厳重な敵の警戒のもとでの浮上充電、搭乗員乗艇、さらに発進した回天は交戦水
域のなかで敵艦を捜し求めての襲撃になる。
第六艦隊の千早隊戦闘詳報によれば、三艦の攻撃決行の予定期日は二月二五日から
二八日の間であった。二月二十日出撃した伊三六八潜は二五日、硫黄島周辺に到達す
る予定であったが、第六艦隊には同艦からも、また僚艦伊三七○潜からも、さらに回
天搭載艦ではない呂号第四三潜水艦からも一切の連絡がなく、報告督促にも応答がな
かった。三月六日、第六艦隊は「硫黄島水域に於ける回天作戦を中止、呉帰投」を打
電命令したが、この三艦は帰還しなかった。
米軍は硫黄島南端を中心に、半径二○浬以上六○浬までの海域の全方位を六等分し
た区画を設定し、それぞれに複数の駆逐艦と哨戒機を割当て、厳重な対潜防御態勢を
敷いていた。配備された護衛空母は搭載しているレーダーを装備した、三座の雷撃機
「グラマン・アヴェンジャー」または単座戦闘機「グラマン・ヘルキャット」を発艦
させ、毎日の日没前から夜明けまで、要すれば昼間も、交代で対潜水艦哨戒を実施し
た。
護衛空母のー隻「アンジオ」から日本時間二五日二三〇〇に発艦したアヴェンジャ
ー第三八七番機が西北西の第五区で、硫黄島の約二五浬沖へ向けて東へ捜索飛行中、
二六日〇二〇四、レーダーで距離七浬に水上艦船を探知した。全速で接近すると、最
初は駆逐艦に見えたが、浮上して略停止状態の伊号潜水艦であった。発焔浮標と聴音
ブイを投下すると、潜水艦は潜没した。同機はその場所から二浬離して、大さく旋回
飛行しながら監視中、〇二三八潜望鏡と司令塔が発焔浮標のすぐ近くに浮上して来る
のを目撃した。直ちに攻撃に入ったところ、潜水艦は浮上をやめ再度潜入した。その
針路は一七○度。同機は高度三○米、速力一〇〇ノットで、潜水艦全没の四五秒後、
渦の前方約ー〇〇米に「特殊兵器」を投下した。
この「特殊兵器」とは、雷撃機の爆弾倉に納まる小型の電池魚雷「二四型魚雷」で
あり、低空から投下すると潜水艦の推進機音を聴きながら海中を追いかけてゆく。火
薬量は僅か四四キロであるが、潜航中の潜水艦に直接接触して爆発すればこれで撃沈
が可能である。
聴音ブイから潜水艦の推進機音と特殊兵器の推進機音が聞こえていたが、投下後四
分で消え、爆発の轟音が聴音に入った。同時に高さ三○米の間欠泉のような水柱が海
面に噴き上がった。時刻は日本時間○二四七であった。地点は北緯二四度四三分、東
経一四○度三七分。硫黄島の西方三五浬に当たる。
当時の天候晴、東北東の風一四米、視界三浬、日出○六○一、月は月齢十四で満月
に近く、海上を明るく照らしていた。
隣の哨区の三八六番機も応援に飛来しており、続けて同じ場所に特殊兵器を投下し
たが、手応えはなかった。
別の潜水艦一隻を、アンジオの別の搭載機が同じ区域で、近い時刻に、似たような
状況で沈めていた。
三八七番機と一緒に発艦した三九○番機が、同じ第五区の西北西水域へ対潜哨戒に
向かった。同機は高度六〇〇米、速力一三五ノットで飛行中であったが日本時間○一
二○、左五○度、距離三浬にレーダーで水上艦船の反応を掴んだ。接近したところ直
ぐに駆逐艦らしい艦影が見えた。大きく左旋回しながら高度を一八○米に下げ、距離
三〇〇米に近づいたときに見えた艦影を、操縦席の機長は護衛駆逐艦と判定した。し
かし後席の乗員たちが「日本の伊号潜水艦だ」と言い張るので確認するためさらに高
度を七五米に下げ、距離五〇〇米に接近したとき、その目標は潜航しはじめた。機長
は敵潜水艦と断定して攻撃を決意、機体を左四○度に傾けて急旋回し、速力を九○ノ
ットに落とすとともに、高度を四五米まで下げた。潜水艦の針路は三三○度であり、
雷撃機は針路三〇〇度で右後方から接近した。潜水艦は海面に渦を残して完全に潜没
したが、その三○秒後の○一二五、渦の前方約四五米に「特殊兵器」を投下した。
咄嗟の攻撃であり、聴音ブイを前もって投下する余裕がなかったので、潜水艦を逃
がさないため機長は直ちに聴音ブイの落下傘が開く高度の一五○米に急上昇し、ブイ
二個を投下した。海面上では命中爆発の兆候を視認できなかったが○一二八、聴音ブ
イが発信を始めた途端、大きな轟音が聞こえてきた。その音が消えたあと潜水艦の音
響は聞こえず、水の音だけが入った。
同機の潜水艦攻撃の放送を受信して東方十二浬にいた大型駆逐艦二隻が駆けつけ、
○一四五現場に到着、潜水艦の捜索を○八○○まで続けた。同機もさらに聴音ブイを
投下したが、もう何も探知できなかった。夜明けとともに油膜が海面に広がっている
のが発見された。
この攻撃地点は北緯二五度○七分、東経一四○度一九分であった。硫黄島の西北西
約六○浬に当たる。
伊三七○潜は同日、硫黄島よりかなり南寄りの場所で沈み、艦名を確認されている。
従って硫黄島の周辺で日本海軍が喪失した潜水艦は伊三六八潜と呂四三潜の二隻にな
るが、上記ふたつの交戦のどちらが伊三六八潜であるか、確かな判断材料はないと思
われる。数ある戦記もまちまちであって、外国の戦史は前者の三八七番機が伊三六八
潜を攻撃したとするものが多い。またどちらも、日付を二七日とするものが、公的な
資料を含め少なくはない。
「日本海軍潜水艦史」は後者の三九○番機が伊三六八潜を沈めたとし、前者三八七
番機が呂四三潜と交戦、としている。なお日本海軍潜水艦史は伊三六八潜沈没の日付
を二七日とした上、緯度が一度少ない北緯二四度○七分とし、また呂四三潜の沈没地
点を「硫黄島北西」としながらも東経一四一度四八分とし、一度以上ずれている。こ
れでは硫黄島の東方になり、記事と合致しない。各哨戒機の報告は交戦状況を詳細に
記録しており、それぞれ正確と思われる。数値の食い違いは原資料に近い段階で転記
ミスがあり、それから引用する際に検証しなかったのであろう。
丁型潜水艦が甲板一杯に搭載した五基の回天は、駆逐艦の上部構造物のように見え
るかも知れないが、排水量九六○トンの呂四三潜は邪魔物のないすっきりした艦型な
ので駆逐艦に見える筈がないのに、米軍哨戒機は双方とも当初は駆逐艦と、水上艦船
に見ている。夜間では空から見ると分からないようで、最初に見た艦型は判定要素と
しては役立たない。従って、駆逐艦に見えたことは、伊三六八潜が回天を発進させる
前の交戦とする根拠にはならないと考える。なお、「回天を甲板に積んでいる」と認
識した哨戒機の乗員はいなかった。
攻撃予定時期は、速力が速い伊四四潜が二日遅れの二月二二日に大津島を出撃して
いることから、また第六艦隊戦闘詳報を見ても「二六日の黎明時を期しての一斉攻撃」
を予定していたことは確かである。伊四四潜は当初から二六日黎明発進の計画で行動
したという。しかし現実の戦場は、参謀が机の上で指図した一斉攻撃などの形式がと
れる状況ではない。
硫黄島周辺は各種艦船が密集しており、米艦同士の衝突事故もかなりの件数発生し
ている。病院船が味方の艦に砲撃されたほどの混乱状態であったから、潜水艦が硫黄
島に接近できれば、回天が目標を探すのには困らなかったかも知れないが、潜水艦が
接近し、さらに浮上して搭乗員を乗艇させること自体が到底無理なほどの周到な警戒
態勢であった。
呂四三潜は第六艦隊から「硫黄島周辺七五浬圏の外側で索敵、攻撃するよう」命令
されていた。このように警戒厳重な状況では、潜水艦が適時浮上して天測することは
困難であり、各艦の位置は精度に疑問があるものの、後者三九○番機の交戦地点が硫
黄島から約六○浬と、かなり離れている点を判定要素として重視すれば、これが呂四
三潜の沈没地点である可能性が高いと思われる。その場合、前者三八七番機が硫黄島
西方三五浬で沈めた潜水艦が伊三六八潜となる。
硫黄島の守備隊は「潜水艦攻撃に依ると認められる火柱六本を認めた」と二七日、
打電したが、それが何であったかは分からない。
(04.10.1) 以上
参考資料:
1.
護衛空母 Anzio CVE−57 戦闘詳報 45年2月
2.Anzio搭載 VT−82 #387 戦闘詳報 45.2.26 機長
Fay,F.M. 中尉
3. 〃 #386 〃 〃 〃 Baumgardner,W.C.
中尉
4. 〃 #390 〃 〃 〃 Wilson,W.J. 中尉
5.第六艦隊千早隊戦闘詳報
6.第二次大戦米国海軍作戦史 S.E. Morrison 著
7.The Official
Chronology of the US Navy in WW ll
ほか
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