ホームページ(HP)を立ち上げた2000年以降の経緯


2001年のトラブル以降(別紙1 参照)、ようやく体調も回復傾向となり、現在、個人事業主の登録をして、残りの人生を、第一回天隊(白龍隊)隊長・河合不死男の親族の立場から社会に貢献できる仕事をする(但し、それは決してきれいごとではない、人間の光と影をしっかりと見据えた視点から、というスタンスである)、という形をとり始めているのですが、HPを立ち上げた2000年以降のさまざまな出来事は、実際は、下記の事実が大きく起因している部分があるように感じられます。

第一回天隊(通称白龍隊)と第二回天隊の出撃について

「(昭和二十年五月)十五日。八丈島基地回天隊が出発。この隊は大津島から隊長小灘利春中尉(海兵七二期)と下士官搭乗員三名、光から次席搭乗員高橋和郎中尉(予備学三期)と下士官搭乗員三名の混成部隊で、光基地で出発式をおこなったのち、汽車で横須賀に向かった。白龍隊のときと違い、熱狂の見送り風景はなく、ひっそりとした出発だった。」 /『人間魚雷回天』 神津直次著(朝日ソノラマ)より

この出撃の内容に関しては、電話で一度、筆者の神津さん(元回天搭乗員)からお聞きしています。

河合不死男は軍機密のうちより、極秘裏に志願入隊した最初期の搭乗員。小灘さん(待機中に終戦となり、戦後は全国回天会の会長を勤めた)は、その後、転勤命令により配属になった初期搭乗員。これは回天会制作の資料にもあるもので、実際小灘さんも会報『特攻』におけるインタビューでその旨語っています。

戦後の回天会*1)は、いわば第二回天隊の小灘派閥であったと思われますが、小灘さんは、第一回天隊隊長・河合不死男の親族であり、至らぬところが多々ある自分に対し、最期まで立派にその責務を果たされ、自分もそのご好意に対して、「心底感謝している」と公言できるものです。

ただそれは、決して「博愛」という言葉だけで単純に語れるものではなく、当初は相応の経緯がありました(下記「その経緯」参照)。回天搭乗員の募集要項には「攻撃精神旺盛で責任感が強いこと」とあり、小灘さんがその二つの面を併せて持ち合わせていたとしても、それはむしろ当然であったでしょう。

その経緯

小灘会長とは、自分が2000年以前(正確な年月日は失念)に靖国神社のパンフレットを見て回天会事務局に問い合わせ、鎌倉ではじめてお会いしましたが、その際、河合不死男の遺族について、「なにわ会に参加しないので、なにわ会では極めて評判が悪い」、と言われました。そもそも、海軍兵学校72期(小灘会長と河合不死男は同期)生き残りの戦友会であるなにわ会に、遺族(代表の弟・強=つよしは海軍、国防とは何も関係がない。戦後は農業)が参加する必要はないはずで、これはその他にもいろいろとお話を伺う中で出た話題であったのですが、終戦後、遺品であるアルバム*2)を届けてもらった、同じく兵学校同期搭乗員の渡辺収一さん(旧姓三宅)についてお聞きすると、「もう頭がボケてしまっている」、仁科中尉(71期)については「扁平な顔でけっしてハンサムではなかった」等、いわば戦後の小灘閥以外の関係者について、暗に排斥していったというのが実際でした。そしてそれは、回天搭乗員の選考基準である「攻撃精神旺盛」の条件でいえば、当然なこととも考えられ(仮に河合不死男が生き残って同様の立場となったならば、また違った我執、もしくは攻撃精神の強い側面を打ち出したかもしれません)、一方で裏を返せば、戦後の河合不死男の遺族は、ずっとそのような評価がつけられていたということであり、河合家の言い分からすれば、腹を抉られるような悲しみを表に出したくない、戦後を生きるためには振り返っていられないという現実もあったであろうし、また、そういう評価をつけられているのであれば、なお一層、なにわ会、回天会等、生き残りの戦友会に参加することはしなかったでしょう。(今思えば、河合不死男の遺族は戦友会に参加してこなかったのだから、今さら入ってくることは出来ないという意味であったかも知れません)。ちなみに戦後、小灘さんが河合家を訪れてくれたという話は聞いていません。


小灘会長と河合不死男の親族である当方との出会いは、まずはそこを機軸としてはじまっているのであり、つまり、戦後回天会の中心に立った小灘さんの、その立場から認める人達には責任感の強い方である一方、そうでない人達*3)を容赦なく排斥する、攻撃精神旺盛な一面も確かにあった、そしてその中には河合不死男の遺族も入っていた、というのが本当の姿であったと思われます。 ですから自分は、これから資料や情報をいただき、当時のことなどをお聞きしたい(しなければならない)立場から、その中に入っていったのであり、そしてそれは、次第に、決して打算や表面的なものではない、当時の状況に戻っていった形の信頼関係で結ばれるものになっていったと思います。*4)

そうなる過程で、まず私の至らなさに多々問題があったからと前置きしますが(別紙2 参照)、小灘会長は、当初「いろいろ忙しいので」等々、自分と距離を置こうとした。そういうことを繰り返すうち、自分は、「私をこうして動かしているのは、河合不死男の遺族の怨念です」と、本心感じているところをハッキリと申し伝えました。そうして、上記のような関係が始まっていったのであり、(自分は初めてお会いした当初より、必ずお礼の手紙をその都度送り、「○時にお電話を差し上げます」と伝えた際には、一分とたがわず必ずその時刻に電話をし、いただく手紙や資料にも、必ずそのお礼の手紙、後にはメールを書きました)、そしてそれは、もし本当に、河合不死男と心を許し合う無二の戦友という立場であったなら、ここまで一途に固く畏まらない、もう少しざっくばらんな、何でも言える、お聞きできる間柄になったのではないかと思われます。

(これは私個人の推測ですが、もしかしたら、第一回天隊隊長の河合不死男は、第二回天隊隊長であった小灘会長にとっては目の上のたんこぶ的な存在で、その関係者には入ってきて欲しくなかった、という側面があったのかも知れません。)


戦後、小灘さんを核とする回天会は、亡き戦友を思い、大きな功績を残し、その責務を立派に果たされましたが、これからは第二回天隊隊長として生き残られた小灘さんのそれを中心とした回天像で語るのではなく、(そうして語ろうとして、回天、小灘さん双方に不幸となった部分も確かにあったように思われます。たとえばテレ朝の朝まで生テレビの出演でのやりとり、記念館のビデオ等にそういうものが現れているのではないでしょうか)、黒木大尉、仁科中尉、河合不死男等、回天特別編成隊が組織されたことで、多門隊伊58潜の原爆運搬艦・インディアナポリス雷撃・撃沈(日本海軍最大の戦果)にもつながった、回天隊創始より深く関わった搭乗員からの流れ、機軸をしっかりと取り入れていくべきである、というのが自分の考えです。*5)

なお、以上の経緯、及び私個人が今日までたどった人生、適正からも、今後、回天会につづく会が発展したとしても、それに直接的に関わる考えはなく、一歩距離を置いた立場から(自分としては創作・芸術関連の分野で残りの人生の仕事をしていきたいと考えています)、その活動を見守りたい、また河合不死男の遺品返還等の協力をしていただきたい*6)、というスタンスであることを申し上げます。

*1)回天会は、生き残り搭乗員による親睦団体として1962年に発足。代表(世話人)・小灘利春。1993年、全国回天会に改組。

*2)2011年、回天記念館に寄託することになった「出撃前に残したアルバム」は、それまで遺族が身近なところに置いておきたかったという事情によるもので、弟妹も高齢となったため、自分が仲介となり、その旨を伝えてお預けしました。河合家に残されていたものはこのアルバムのみで、父母宛て遺書、また叔父宛て遺書は現時点では不明。

*3)回天参謀であった鳥巣建之助氏はじめ、これまで著書を出した回天関係者(搭乗員)の横田寛氏、神津直次氏、武田五郎氏について、辛らつな口調で批判されています。

*4)参考として、ご生前頂いた100通あまりの手紙、メールを、これから追々紹介させていただく考えです。

*5)第一回天隊隊長・河合不死男の出生年月日は大正11年1月1日の元旦。非常に目出度い、寿を呼ぶ人物でもあったわけで、当時の回天隊の中でも、実際は、「不死男」という名前とあわせ、「日本の後世に日本国家滅亡の国難に立ち上がった回天隊の志を伝える」という、大きな役割を担っていたのではないかと思われます。

*6)アルバムを回天記念館に寄託するまでの、回天記念館及び靖国神社に預けられた河合不死男の遺品は0で、桜井兵曹宛書状、多賀谷兵曹宛の遺句等はすべて回天会が保管していました。


以上は、当初より自分の胸のうちだけに秘め(自分自身、決して聖人君子然として生きているわけではありませんので)、出来る限り穏便に事を進ませていきたいと考えていたものですが、小灘会長が亡くなられた後の経緯が、下記*7)に及んで、実害として大きく身に降りかかるものになりましたので、それ以前の経緯とあわせ、今回の報告とさせていただくことにしました。

(以下略)

この報告の終わりとして

「博愛」、「人間愛」等、反論のできない大義名分を掲げたあとに続くものは、それ以上に思考することを怠った、状況判断力を欠いた行動にしかなっていかないと、ホームページを開設して以降、またこれまで生きてきた経験上、感じています。そうではなく、むしろその逆の、「我々が日々生活する中でさまざま直面する、現実の肌身の感覚をこそ大切にして、そこからこの回天の史実をキッカケとして、人間の姿、社会の在り様、またその可能性を深く考え、国防を考え、歴史認識を考え、それを日本の将来につなげていって欲しい」というのが、第一回天隊隊長として出撃・戦死した河合不死男の親族として当方がホームページを開設、運用する意図になります。

2013年3月6日