644 10月8日、山口県大津島(周南市徳山)の回天記念館に行って来ました。  k.y  2009/10/13 15:05


先週の水曜から金曜にかけ、仕事の休みを利用して、JR「鉄道の日記念きっぷ」(いわゆる「青春18きっぷ」の秋版)を使って山口県大津島(徳山)の回天記念館に行ってきました。本来ならこういうことは書くのを控えたいのですが(いろいろ報告して支障をきたしたり、迷惑をかけ構えられてしまうのは自分の本意ではないので)、関係者の方にお伝えしたいこともあり、ごく簡単に記させていただきます。

まず、大変有意義な旅でした。扁桃腺を腫らしながらの鈍行列車の旅、おまけに徳山駅に着いた夜11時(始発は5時20分の東京→静岡行)の翌8日は台風18号の日本上陸の日で、フェリーは欠航になるのではないかと心配しましたが、当日は台風一過の快晴で(そのような事情で記念館は来館者もほとんどなく、また腫れた扁桃腺も熱が出ることもなく)、職員の方とゆっくりお話をさせていただくことが出来ました。丁寧に対応していただいた職員の松本様には厚く感謝申し上げます。名詞をいただいて、美術文化協会の山口支部長もされているとのことで、回天の史実が山口(徳山)の文化としても、これから豊かに後世に受け継がれていきますことを心より願った次第です。

また、話題に上がった「不死男」という名前について。第一回天隊(白龍隊)隊長河合不死男は、物心ついた時から、自分の名前の意味を考え、どう生きるべきか、死ぬべきかを考えていたことでしょう。これは当方の推測になりますが、海軍兵学校に憧れる大きな志を抱いた若者であれば、当然、郷土のため、そして国のために命を捧げ、「其処で永遠に生きるのだ」との結論にたっしたに違いありません。その意味で、河合不死男はもっとも本望な死に方をした。回天搭乗員に志願した初期の仲間も、残された写真を見る限り、それをしっかり感じて(松本様は「お守り」と云われました)結束が強まったように思われます。ただ残された家族は、それと相反して気も狂うような悲しみを背負って、戦後を生きた・・。

小灘利春回天会会長(第二回天隊隊長)は、そうやって最初に集まった仲間のうち、待機中に終戦となり、生き残った自負をおい、厳しく己を律せられて生涯を終えられました。戦後の交流も日本復興をまさにトップで支えられた方々でした。一方、不死男の遺族の側である当方は、いろいろな意味でその対極にあるといえます。

同じ関係者でいえば、峯さんは会長と同じく生き残りの方のご子息(某大企業重役)として、その視点から自分と同様のHPを運用されています。そのほかにも関係者の方、そうでなくとも、いろいろな皆さんがいろいろな思いで、この史実を伝えようとされています。

そしてそれぞれが、そうやって各々のかたちで伝えていった時、見る人は、回天で散った「烈士」、「軍神」、「英霊」といった、いわば堅苦しい枠を超えて、国家存亡の危機に立ちあがった若者たちという、「過去の日本で本当に起こった史実に根ざしたところ」から、「人間そのものの在り様」、「人間とは何なのか」、「本当に大切なものは何なのか」を感じ取ってくれるのではないかと自分は考えるのです。そしてその時には、その志が、それに触れた者の心奥深くに届き、刺激し、そのぶんだけの、人間味のある、人間性に根ざした豊かな創造性、また知性として、様々な分野、立場の人に受け継がれていくのではないかと。。

今回大津島を訪れて強く印象に残ったのは、徳山の海の美しさでした。そのあと訪れた光の海、砂浜も大変綺麗でした。

ただ一つ、残念だったのは、魚雷発射場跡まで行くトンネルがブームの去った観光スポットのような印象であったことです。(これは台風一過の後であったということもあるのでしょうね。立地的に管理は大変であろうと思いました。)

これからは機会があれば、出来る限り、徳山(周南市)大津島を訪れたいと思います。地元の人たちに、回天が受け継がれていって欲しいと切に願いました。そう思うことが出来た、今回の旅でした。


回天記念館
http://www.city.shunan.lg.jp/section/ed-sports/ed-shogai-bunka/kaiten/index.jsp
http://www.oidemase.or.jp/tsuredure/shunan/kaiten.html

(掲示板より)