米軍と壮絶な戦いが繰り広げられたソロモン諸島・・
ここ数日、ガダルカナル島の戦いなど、辛酸を極めたソロモン諸島の戦いについて、漠然とではあるけれど考えている。
こういった史実は直視したくない、というのが偽らざる、正直なところ。ただ、自分で言えば、身内(第一回天隊隊長・河合不死男)が特攻戦死した家の当事者として、何か他の普通の人とはまったく違う(中心から極端に外れた)視点でモノを見る習癖が子供の頃からあって、そのため相当大変な思いもしたのだけれど、それがあるときから大きな力に変っていったことがあった・・、そんな経験をした。
その意味で、ソロモン諸島も、これから大きな何かが生まれる潜在性があるのではないか、という気がしはじめている。そしてそれは、「凄惨な戦いであった、だから二度と戦争はしません」的な言葉で語り伝えようとすると、却って真実から外れ、人間のエゴの部分を招きいれるだけで、真の力にはつながっていかない気がする。
大事なのは、兵士一人一人、まだまだもっと生きたくて、愛する妻や子供、恋人がいた兵士もいれば、まっとうな兵士だけでなく、女狂いの兵士、家族といがみ合っていた兵士、同性愛、お調子者、嫌われ者、欲の突っ張った者、権力志向、いろいろな兵士がいたはずで、それは、今我々が生きている、人間の縮図でもあったはず。
だから、何を考えていくかというと、その人間の縮図、つまりいろいろな個性があり、価値観があり、境遇があり、立場があり、それらが複雑に入り混じりながらさまざまな事が起こる人間の姿、社会というものを、それが壮絶な死に方をした2万人分の命の重みでもって考えていく・・、そうしたときに、それはただ「反戦」という心の上っ面にしか届くものではない、人間の、明も暗も鷲づかみに捉えた、根源的な、普遍的な何かを解き明かしていくのではないか。そこから、真に人間に必要な力を生み出していく可能性が生まれてくるんじゃないか――。
まだまとまりのないものだけど、方向としては、見えてきた気がする。
戦争で亡くなったからといって、「反戦」という言葉で語ってはダメ。それで語れば必ずエゴになる。すべては「人間」という言葉で、それらを考えていくべきであると思います。
日本・ソロモン友好協会
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