生頼の我が胸うずく
−−鮮烈な軌跡残して消えた戦友たち
山地誠(旧姓 近江)
私の略歴
海兵七十期として昭和十六年十一月兵学校卒業。爾後、戦艦日向乗組を経て、伊一六五潜に乗組み印度洋作戦に従軍。昭和十九年八月第一特別基地隊付に発令され、大迫、光基地を経て大津島基地にて訓練に従事。二十年大神基地より第二十三嵐部隊(高知県須崎、浦戸基地)に進出、終戦を迎える。
早いもので、終戦から約三十年以上も経過致しましたが、青年時代の思い出は今でも心に深く刻まれ、忘れ去ることはありません。私が大津島基地で訓練中、親しかった戦友の思い出を二、三書いてみたいと思います。
私の回天志願の動機について
理由は多々あるが、動機は簡単である。私が熱望して乗り組んだ潜水艦は、全海軍否な全国民の大きな期待を背負っていたが、結果的には、損害の大きな割に戦果が小さく、とうてい決戦兵器としての役割を果たせなかった。私はこれに絶望したからである。
アメリカの対潜部隊に捕捉され、その執拗酷烈な爆雷攻撃下に、必死の苦闘もあえなく、そのまま海中で散り果てた潜水艦乗組員の無念さは、余人にはとうてい想像できないところであろう。潜水艦乗組員にとって、せめて敵艦と差しちがえができたなら、まだ救いもあったろうが、戦果も期待できずに、ただ一方的に敵艦から攻撃を受け、苦闘の果てに南溟の海底深く沈むことは、われわれ潜水艦乗りにとって、とても堪えられるところではなかった。どうせ死ぬなら敵艦に体当たり−−これが潜水艦乗りの悲願でり、最後の望みでもあった。
私が人間魚雷搭乗員を熱望した理由はここにあった。戦争には何んとしても勝たねばならない。いまのままでは海軍は敗れる。この際、被害のみ多くして、いっこうに効果のあがらぬ戦闘はさけ、一機一艦・一死多殺の戦闘に徹するべきであり、無駄死は絶対にさけるべきである−−この思想が私の回天に志願した動機であった。
温和のうちにも烈々の闘志・上別府宜紀大尉
同君と私とは海兵の同期生で、私が乗り組んでいた伊一六五潜で南方作戦から内地に帰還して光基地に着任し、一日用務をおびて大津島基地を訪問した時、同君はちょうど出撃直前の搭乗訓練を終了し、士官室で休息していた。
兵学校を卒業以来お互いに戦地勤務のため会うこともなく、久々の対面だったが、同期生の間柄から、遠慮なく回天作戦の見通しについて意見を闘わせたものだ。そして、これが同君との最後の対面となってしまった。
同君は潜水艦による特四作戦−−水陸両用戦車をもってする米国海軍前進根拠地奇襲攻撃作戦−−要員として訓練に励んでいたが、この作戦が成功の算なしとして中止となった際、同期生の樋口孝大尉(黒木大尉同乗訓練中に殉職)とともに回天搭乗員に発令され、大津島に着任して猛訓練につとめた。やがて回天先任搭乗員として菊水隊に参加出撃し、ウルシーで戦死をとげたのであった。
同君は家族思いの静かな性格で、どちらかと言えば目だたない存在だったが、温和なうちにも闘志満々、征くからには絶対に成功を……と強い信念に燃えていた。特四作戦の中止にはかなりショックを感じたようだったが、これも運命とうべない、淡々とした態度で私と語り合った、あの日のことが強く印象に残っている。
淡々悠々と出撃・加賀谷武大尉
同君も海兵の同期生で、入校時は同君の十四分隊に対し私は二十六分隊と同部の間柄であり、同じ四号生徒として苦楽をともにしたものである(兵学校では二、十四、二十六分隊の三分隊をもって一部を編制し、学習・訓練・体育をともにし、日曜日の外出にも同じ倶楽部を使用した)。同級生のなかでも一きわ目だつ大男だったが、血色のいい顔につねに微笑を絶やさぬ好人物で、四号生時代から率先して隊務に精を出す真面目な性格だった。
私とは特に気が合って、多忙な四号生時代にも互いに暇をみつけては往き来し、将来の抱負などを語り合ったものだ。この加賀谷君と大津島で再会したとき、私は思わず「あっ!」と声を上げて驚いた。大柄でデブの加賀谷が回天乗りとは、ちょっと考えられなかったからだ。同君は出撃の朝もニコニコと微笑を絶やさず、淡々悠々たる態度で出て征き、一月十一日ウルシー港内に突撃して玉砕をとげた。
帝国海軍最後の光芒・橋口寛大尉
海兵七十二期の橋口君は熱血漢で、実にすばらしい頭脳と冷静な判断力、そして、みごとな操縦技倆の持主として知られていた。橋口君は戦局を憂うるあまり、人間魚雷の採用方を具申した一人で、私は彼の考案した人間魚雷の着想について質問したことがあるが、同君は昭和十九年初めごろ、現在の回天とほぼ同じ構造の人間魚雷を計画し、上司にしばしば具申している。だが、それが容れられなかった同君は、後に回天特攻隊を再三志願して望みを達したわけだ。
平常は口数も少なく、実に素直な落ち着いた好青年だったが、いざ訓練となるとその人柄は一変して勇猛果敢、闘魂の権化とでもいった凄まじさを示す。しかも細心緻密な心くばりをも忘れないという、海軍士官の典型として敬服するに足る人物だった。私より二年後輩ながら大いに敬意を払って、ずっと親交を続けていた。
常日ごろから、如何にして敵艦を撃沈するかを一途に考えていただけに、その航行艦襲撃操縦技術は、回天搭乗員中でも抜群をうたわれていた。このため、かけがえのない搭乗員指導官として重用され、もっぱら基地にあって教育訓練を担当させられていた。そしてこの間、次々と出撃者を送り出している。同君にはこれが切なかったらしい。しばしば出撃発令方を上司に懇願したが許されず、無念やる方ない気持ちでいたようだ。私が高知の嵐部隊に参加して出撃が決まったときは、心から喜んでくれたが、”死におくれ”の悲痛を、ありありと面上に漂わせていた。
その橋口大尉も終戦直後、帝国海軍最後の光芒を放つかのごとく、回天のかたわらで自殺をとげた。
鬼教官の厳しき愛情・河合不死男大尉
河合大尉は橋口君と海兵同期で、基地における訓練指導官として熱心そのものの勤務ぶりで知られていた。それだけに部下の教育も厳格そのものであった。これは一たび操縦を誤れば、二つとない生命が消えてなくなる作業だけに、ことさら厳しい態度をとっていたわけだが、こんなことがあった。
河合君が光基地で追躡艇指揮官として、部下の回天訓練を監視していた冬の或る一日、この日は寒威凛烈で海上は非常に荒れていた。彼の追躡していた岡山至少尉操縦の回天は発進後針路を誤って、追躡艇が放った発音弾信号も間に合わず、不運にも海中から突出している岩に正面衝突してしまった。
筒はそのまま浮上停止し、波のままに大きく浮き沈みしている。同君はそれを見るや物も言わずに服をぬぎすて身体に綱を巻きつけて海中に飛び込んだ。海も凍りつくような厳冬、凍死のおそれも十分ある。だが、河合中尉は荒波を泳ぎぬいて筒にたどりつき、綱を筒に巻きつけて無事救出をとげた。岡山少尉は危うく一命を救われたのである。
この一事によってみても、河合君はただ単に厳格だけではなかった。その脳中にはつねに人命尊重の精神があった。だからこそ、こういった捨身的な救出作業も行い得たのだと思う。私は同君の無言の教育に頭が下がった。不言実行、これこそ彼の信念にほかならなかった。
同君は昭和二十年三月三十日、白竜隊に加わって第十八号特別輸送艦に乗り組み、沖縄慶良間列島海面に出撃したまま、ついに不帰の客となった。
ヒューマニティに富んだ・石川誠三大尉
純情寡黙の好青年・勝山淳中尉
二人とも海兵出身で、しかも私と同窓の水戸中学卒業生だった。石川大尉は金剛隊、勝山中尉は多門隊でそれぞれ出撃し、華々しい戦果をあげたが、いずれもきわめて勝気で、積極果敢のタイプであった。
石川君はどちらかというと秀才型で、戦勢挽回を志して回天搭乗員を志願したものだが、一面ヒューマニティに富んだ人柄が随所に見受けられた。特に、母上への思いやりは人一倍濃く、私などもホロリとさせられたものである。出撃前の或る日、同君はこんな話を私にして聞かせた。
「つい先日、夢のなかに母親が現れて、”誠三よ、偉くならんでもいいから、どうか生命だけは粗末にせんでくれ”と、泣いて掻きくどかれて、大へんショックでした」
かなり思いつめた様子で、その心の底に秘めた肉親愛、愛別離苦の情に、私も非常にほだされたことであった。
このように多情多感な青年で、体当たり特攻という”死”を否定しながらも、祖国護持のためには回天採用もやむを得ない事態だという考えから、最愛の母上さえも後に残して出撃して行ったのである。
勝山中尉は純情で寡黙の青年。いつもニコニコと微笑をたたえながら、水戸ッポ通有の飾り気ない振舞いで、誰からも愛される存在だったが、内に烈々たる闘魂を秘めた外柔内剛の典型的タイプであった。
海軍兵学校出身の士官搭乗員について
海兵出身者は、経と緯との絆が特に強い。同じ江田島で同じような教育を受け、先輩後輩の間柄で育ったためであろうか。また御国の御楯として立派に戦死することを義務なりとする教育を受けたためか、私は、海兵出身者の戦死または殉職に対して、眉を動かしたことがない。
これは”死のうは一定”とでも言うのか、「おそかれ早かれ俺も戦死するんだ。彼は一足早く靖国神社に行ったんだ」という考え方に即していたからで、この考え方を堅く持して、私自身は生死の問題に深く迷ったり悩んだりしたことはなかった。
したがって、海兵出身者が出撃しても、特別の感傷はわかず、ただできる限りの戦果を期待するだけであった。おそらくこれは、私だけの考え方ではなく、海兵出身者はみな似たり寄ったりの思想ではなかったかと思う。
海軍機関学校出身の士官搭乗員について
海兵出身者に負けまいとする自負と旺盛きわまる攻撃精神が、特に強く印象に残っている。彼らが機関学校において、主にエンジニアとしての教育を受けたのに対し、海兵は用兵に重点をおいて教育された。そのギャップを埋めるため、機関学校出身者には海兵出に負けまいとする、精神面での厳しい点が多く認められた。
その代表的なものは黒木大尉で、彼の遺書からはそういった生き方や考え方が、明らかに理解できるであろう。
学徒出身の士官搭乗員について
一般社会人となるべく希望し教育された学徒の方々が、戦況の推移とともに国家の大難に立ち向かうため、学業を捨て、社会における職場を捨てて、軍人として戦場に立たざるを得なかったことは、海兵出身の私として、まことに惜愛、同情を禁じ得ないところであった。
ことに特攻隊員となるのは大変なことであり、なかんずく死生の問題については、日夜心から悩まれたものと推察する。
この苦しみを超克するには、海兵や海機出身者以上に精神的な強さを必要とした。私は学徒出身者の方々が隊務においても訓練においても、つねに明るく活発で、積極的に取り組んでおられる姿には、心から頭が下がったものである。
予科練出身の下士官搭乗員について
彼らはきわめて純真で、真一文字に戦いに挑んで行った。悩みといえば、飛行機に乗れなかったことではなかったろうか。
海軍航空隊搭乗員として、アメリカ航空隊と戦場で対決することが、彼らの熱望するところであり、また予科練志願の動機であったはずである。だが、航空機の生産が間に合わず、戦況の悪化にともなって、彼らはお国のためと、空から水中へ配置を換えた。しかしながら、空へのあこがれは、彼らの日常生活に、しばしばうかがい見ることができた。
航空服を着けて航空靴をはき、首に白いマフラーを巻きつけて、一人前の飛行機乗りの姿を気取って記念撮影する予科練搭乗員は、空への望みが捨てがたかったのだろう。だが純真で、責任感も旺盛な男らしい青年たちであった。
<筆者は元海軍大尉・大津島回天隊分隊長>
回天刊行会発行『回天』より抜粋 |