第33回テーマ館「天使」


木の実 じょにい [2000/05/03 14:21:18]


 腕の血管に注射針が差し込まれる感覚は、確かにあった。
小学生のときの予防接種を思い出す、
小さな傷みだった。一瞬だけ強く閉じた瞼をそっと開くと、すぐ目の前に薄い
ピンク色のナースキャップが見える。看護婦の顔は微笑んだままだった。
「指をゆっくり開いて、1・2・3と数えて下さいね。はい、1・2・・・」
看護婦の声に誘導されて、久美は微かな声で復唱する。1・2・・・。
 3を言えたのかどうか、すでに意識は遠くに流され、自分の耳で確認するこ
ともできなかった。
 暗い湖の上に水鳥が数羽、羽音も立てず黙したまま浮いているのが見えた。
北西の空に半月。そのまわりには薄気味の悪い輪が大きくかかっている。風は
どうなのだろう。頬に当たる感触は何もないように思える。実際には、湖を取
り囲む大きな森の奥から、ひんやりとした風が流れているのかもしれない。久
美は自分の頬に感触がないことが不思議だった。頬に触ろうとした指先にも、
どうやら感触がないようだ。自分の指で、自分の頬を触っている、その感触が
ない。背中がスッと冷えて行くような気がした。
 水鳥が、高い声を発した。たった1羽だけ、コウッという鳥特有の声で鳴い
た。
 久美は森の上空を見上げた。ちょうど森の木々の頂と半月の間をかすめるよ
うに、小さな光が見えた。サンタクロースのそりが滑空したあとに残す、星を
砕いて散りばめたような、サラサラとした光。再び水鳥が鳴く。今度は湖面に
いた、すべての水鳥が一斉に鳴きはじめた。心細さに、久美は指先を強く握り
しめる。ところが、手のひらに爪が食い込む感覚すらない。いったい私は、ど
うしてしまったんだろう。自分の指先を見つめていると、顔のすぐ近くに小さ
な光が輪になって舞い降りてきた。久美の顔のすぐそばで、光の輪が乱舞して
いる。この光はなんだろう・・・。やがて、その光の中から、背中に白い羽根
をつけた子供が、ふわりと現れた。
 「天使・・・?」。
 子供は、少しだけ悲しそうな笑顔を作り、久美の足元に何かを落とした。そ
れは涙の粒だった。子供が落とした涙の粒は、光の輪の輝きを反射して、宝石
が落下して行くように見えた。
久美は足元に落ちた涙の粒に、そっと手を伸ばした。右手の指先でつまみ上げ
たと思った瞬間に、それは椎の実に変化してしまった。風が流れるのを頬に感
じ視線を上空に戻すと、白い羽根をつけた子供が、水鳥たちと一緒に半月に向
かって飛んで行くのが見えた。
「・・・誰? ・・・なぜ?」

 瞼の裏側に熱を感じた。強い光が、久美の顔を直射しているを感じた。
 そっと目を開けると、久美の手を匡夫が握りしめていた。
 「久美・・・? 意識が戻ったんだね? 久美・・・」
 どれくらい眠っていたのだろう。久美はぐったりと白いカーテンが揺れる病
室のベッドの上に寝かされていた。看護婦が、1・2・・・と数えた。私も1
・2・・・と言った。3は・・・。

 「やっぱり仕事を休むべきだったんだよ。無理にでも、オレがそうさせるべ
きだった。
  医者が言うには、次に妊娠したときには絶対に安静にしていれば、今後こ
そ無事に生まれて  くれるって・・・。だから、な? 久美・・・」

 匡夫の目には涙が浮かんでいた。その目をじっと見つめながら、久美は夢の
中の情景を思い出した。

 「・・・椎の実・・・あの子が私にくれたの。」
 「椎の実?」
 「そう、椎の実よ。あの子が落とした涙が、私の足元で椎の実に変わってし
まったの。」
 「・・・あの子って?」
 「私たちの、天使・・・。」

 病室の窓外には、暑さの名残を含んだ西日が差していた。カーテンの向こう
に、こんもりとした山が望めた。人の手が入っていない、放置された山のよう
だった。
 恐らく、その山には・・・。
 匡夫がそっと額の汗をぬぐってくれている。その指先から深いいたわりを感
じ取れた。
 すべての感覚が戻って来ていた。ただ1つ、下腹部以外は・・・。
 久美は大きく息を吸い込み、ゆっくりともう1度目を閉じた。
                                    <完>