『テーマ館』 第23回テーマ「ブロック」


 「ソファの上の或る一幕」   by  MoonCat


      その朝、アーカートが以前コラムを執筆していたその新聞の芸能欄には、彼自
      身もよく知っている芸能記者のある芝居についての批評が載っていた。そして
      ある芝居とは、彼自身が主演する芝居だ。
       久々に彼が舞台に上がるとあって、イギリスの芸能界、いや、イギリス全土
      が興奮した。彼が契約書にサインをした、という報せがメディアを駆け巡り、
      プレス公開用のドレスリハーサルはまるで一般公演のような雰囲気になった。
      何故なら、観客席が報道陣でほぼ満席になってしまったからだ。勿論、芝居を
      全て見せてやったわけではない。が、前評判は上々だった。チケットの売れ行
      きも上々で、スポンサーを喜ばすには充分過ぎる位だった。
       そして寒風吹きすさぶ二月のある夜、芝居はプレス向けのお披露目公演を行
      ったのである。IDを胸に誇らしげにつけながらも、劇場に入りきれない記者た
      ちがドアから零れ落ちた。絶え間なくたかれるフラッシュは彼の不安を打ち消
      して、自信を心に満たしていった。媚びた笑顔を浮かべた饒舌な記者達のイン
      タヴューに答えるのは、不思議な優越感を彼に与えた。特にこの二、三年、彼
      の人気が鰻上りなのに反して、新聞では奇妙なバッシング傾向が見られていた。
      だから、そんなプレスに媚びられるのが、彼にとって悪い気持ちではなかった
      のは、当然と言えば当然過ぎたかもしれない。
       プレス公演が終わった後のパーティーでも、そんなきらびやかな好奇心の中
      心に立っていると、新聞に対する不快感も、嫌悪感を催す程の媚態を剥き出し
      た記者に対する蔑みも、そして五年ぶりの舞台公演への不安も融けてゆくのだ
      った。

      「今」は、そんな一夜の夢が虚空に滅えた後だった。
       新聞は芝居の事を、これでもか、と言わんばかりに、畳み掛けるようにして
      貶していた。どの新聞を手に取ってみても、内容は同じだった。ヘッドライン
      を見ればわかる。中身は読まない、読みたくない。読めない。吐き気が食道を
      通って迫り上がってきたが、それは昨夜飲み過ぎた祝い酒の所為ではなかった。
       ヘッドラインは謳う。
        『アーカート、五年ぶりの舞台公演!超駄作』
        『アーカートの新作:眠ってしまった記者が同僚から聞いた感想』
        『いびきで台詞が聞き取れない…こりゃ問題だ』
        『今週の金の無駄:これは見ちゃダメ』
        『ウェスト「エンド」ストーリ:アーカートもこれまでか!?』
       マネージャーから届けられた何種類もの朝刊に踊るそんな容赦のない大見出
      を眺め終えると、彼は忌々しそうな表情でそれらを全て、赤々と燃える暖炉の
      炎に突っ込んだ。先の尖った重たい火掻き棒で、これでもかこれでもかと突つ
      いていると、棒の先にあるのが新聞ではなく、昨夜の媚びた笑顔の記者に見え
      た。いや、その顔は既に媚ではなく、意地の悪いジョーカーのような笑みを浮
      かべている。にこやかに自分達の質問に応じたアーカートを小馬鹿にしたよう
      な表情だ。更に力を込めて突つき続けた。
       連中の汚さに腹が立つのと同時に、自分のお人好しにはもっと腹が立った。
       アーカートは、手がだるくなるまで突つくのを止めようとはしなかった。

      不貞腐れたままその日は過ごした。夕方になると、新聞は散々貶しているが、
      自分が活躍するテレビならば、もしかするともう少し親切な批評をしているか
      もしれない。そんな淡い希望が顔を出す。以前は農家だった大きな家の長い廊
      下を渡って居間に行くと、大きな皮張りのソファに座る。
       芝居の為にロンドンでの滞在が長かった為、ノーフォークにあるこの家には
      暫く留守にしていたが、主の不在にも関わらず、母親の紹介で雇った家政婦は
      きちんと律儀に仕事をしていたらしい。本皮のソファは、水から上がったカバ
      のように艶々と光っていた。途中で寄った台所から取ってきたキッシュも出来
      合いではなく、家政婦の手作りだ。昨年小学校の給食の伯母さんを定年退職し
      たという彼女は、料理も上手い。さくさくとしたキッシュの外壁を齧りながら、
      ついでに紅茶も煎れてくるんだった、と少し後悔した。が、彼は腰を上げず、
      代わりに手を伸ばしてテレビのリモコンを摘み上げた。
       少しだけ満たされ始めた胃は、アーカートの淡い希望を心なしか強くしたよ
      うだった。
       何故ロンドンから電車で三時間も離れたノーフォークで『ロンドン・トゥナ
      イト』が見られるのか、アーカートには理解できなかったが、電波は乱れる事
      なく彼の家まで届いていた。夕方六時から始まるこのニュースの芸能コーナー
      に、自分の舞台のレポートが流れる事は、マネージャーから聞いている。
       大仰なテーマが流れ、ロンドンの夜景が映し出されると、画面一杯にこれで
      もかと言わんばかりの大きな文字でタイトルが入る。やはり大仰なエンディン
      グを迎えると、カメラはスタジオに切り替わり、ニュースキャスターが二人映
      った。若い女と中年の男だ。アーカートはこの男の、人を馬鹿にしたような顔
      つきと喋りを虫唾が走るぐらいに嫌いだったが、我慢した。
       「まず、今日は芸能レポートから。『あの』人気コメディアン、俳優、作家、
      タレントであるアーカート氏の五年ぶりの舞台が、昨夜ウェスト・エンドでプ
      レス公演されました!」
       自分の数ある肩書きを並べ立てるにやけた顔のキャスターに、アーカートは
      心なしか嫌な予感を覚えた。もう一口キッシュを齧る。
       「前評判も凄かったですね。全国のアーカートファン、劇場ファンが注目した
      この作品。通常はこのロンドン・トゥナイトの芸能レポーターが御紹介するの
      ですが、本日は特別ゲストとして、デイリー・テレグラフのレポーターにスタ
      ジオに来て頂きました!」
       それは勿論、紙面で彼のことを叩きまくったレポーターだった。結果は見え
      ている。
       アーカートはがっくりとしながら、テレビを消した。

      その夜は酒を浴びる程飲む事に決めた。むしゃくしゃしたが、酒以外に捌け口
      は思い当たらなかった。薬をやるような歳じゃない。ホモセクシュアルである
      アーカートは、女を買っても仕方がない。男を買うに都合の良いピカデリー・
      サーカス迄は、電車で三時間、車で五時間。ちょっとそこまで、と言うわけに
      はいかなかった。やはり酒しか逃げ道はない。
       艶々としたカバは、身長六フィート半もある彼をも横にして受け付ける余裕
      があった。彼はそこに長々と寝そべり、上半身をクッションで持ち上げると、
      チェコスロバキア製の巨大なブランデー・グラスを胸の上に載せた。酔いつぶ
      れるまで飲もうと思った。時折「馬鹿ヤロー」と呟きながら、高い酒をがぶ飲み
      する。
       どの位経った頃か、明後日は一般公開初日であるのを思い出した。舞台に上
      り、何千対もの目が自分を見つめる光景を思い描く。金色の頭、茶色の頭、に
      んじんの様に真っ赤な頭。その中で新聞の見出しが渦巻くのが手に取るように
      見える。
        『アーカート、五年ぶりの公演!超駄作』
        『アーカートの新作:眠ってしまった記者が同僚から聞いた感想』
        『いびきで台詞が聞き取れない…こりゃ問題だ』
        『今週の金の無駄:これは見ちゃダメ』
        『ウェスト「エンド」ストーリ:アーカートもこれまでか!?』
       好奇心の瞳が彼の顔面に、一挙手一投足に集中する。心臓が高鳴る。写真の
      如き記憶力、と子供の頃から賞賛され続けたそれに焼き付いているはずの台詞
      が、偏見を色濃く帯びた容赦ない視線を浴びて、真っ白に漂白されてゆく。
       「………」
       ぞっとした。何百回となく繰り返し、プレス公演では一つの間違いもなく滔々
      と口から流れ出した台詞が、一つも出てこない。メンタル・ブロックだ。ステ
      ージ・フライトだ。滲み出るような冷や汗は額を濡らし、カバと接した背中の
      シャツを湿らせた。
       「俺には出来ない」
       恐怖を振り切るようにグラスを干すと、直ぐ様手を伸ばしてブランデーの瓶
      を鷲掴みにする。
       その時、電話が鳴り始めた。いやいや取った受話器の向こうから聞こえてき
      た声は、彼が大学の演劇部に属していた時からの親友であり、幾つかのドラマ
      や番組でも共演した、ワッツからの電話だった。
       「今日は一日ロケで外出してたが、アンが録画しておいてくれた『ロンドン・
      トゥナイト』を見たところだ。大丈夫か?」
       二十年来の付き合いだ。彼が他の連中と同じく、興味本位で電話をかけてき
      たのではない事ぐらいは、アーカートにも判っていた。
       「うん。だいじょーぶ、だいじょーぶ」
       大丈夫なわけはなかったが、取り敢えずそう言ってみる。ワッツに答えると
      言うよりも、自分に言い聞かせているような気分だった。
       「お前、大分飲んでるだろう」
       「やっぱり、判るかぁ?」
       「何年付き合ってると思ってるんだ、馬鹿」
       「ううむ、そうだな。いい加減、薹が立ってるよなぁ、俺達」
       そう言ってアーカートは、ブランデーを水でも飲むようにがぶりと飲んだ。
      アルコール度の高い酒は舌を麻痺させ、食道と胃が焼け付くような感覚を覚え
      る。
       「うえ」
       顔をしかめたついでに声が出た。
       「お前、何飲んでるんだ」
       「ブランデー」
       「勿体無い飲み方しやがって。いや、それよりもだ、あんな屑記事書く奴等の
      言う事を真に受けて、自棄を起こすんじゃないぞ。明後日の一般公演を待て。
      妙な偏見のないお前のファンなら、ちゃんと楽しんでくれるさ」
       「そう思う?」
       「当たり前だ。だからあんまり飲むんじゃない。自棄になるな」
       「でも、もう頭は真っ白」
       「飲んでるからだよ。自信持てよ。ファンを信じろ。観客を信じろ。俺を信じ
      ろ。明後日楽屋に行く頃には、ちゃんと全部戻ってるさ」
       力強くそう言い切るワッツの声が、頭の中で跳ねまわった。気持ちが良い。
       「お前、本当に良い奴だよなぁ」
       「当たり前の事を言うな。そうじゃなきゃ、お前みたいな奴と親友なんて、二
      十年もやってられるか」
       「えい奴らよなぁ、愛してるぜ」
       呂律が回っていない。俺は大分酔ったらしい、と胸の中で独りごちる。酔っ
      たせいか、心の凝も少し和らいだような気がした。
       「判ってるよ」
       「結婚しようぜ」
       「馬鹿!俺はお前と違ってストレートなんだ。名付け親になった男が、その子
      供の父親にそんな事言ってどうする」
       ワッツの笑い声が、重苦しい空気に満たされた居間を軽やかに舞う。
       「でも愛してるよ」
       「判ってる。だから妙な考えを起こさずに、今日はとっとと寝ろ。明日になっ
      たら、またロケ先から電話してやるからな。手間の掛かる奴だ。あ、ちょっと
      待て…」
       「?」
       電話の向こうでワッツが受話器から遠ざかり、何やらごそごそと言う雑音が
      聞こえてきた。アーカートは次に何が起こるのか、子供のようにわくわくした
      気持ちで待っていた。不思議なもので、つい先刻まで真っ白だった意識が華や
      かな色に塗り変えられている。
       「おじさん?」
       自分が名付けたワッツの長男だった。八歳になる彼の甲高い声が、酒で酔っ
      た頭に痛みを伴って響く。が、不快ではなかった。
       「おじさん?」
       頭の痛みを戒めとして味わっていると、返事をしないアーカートに少年は再
      び呼び掛けた。
       「あ、ああ。ゴメンよ、マシュウ。元気かい?こんなに夜遅く、まだ起きてる
      の?」
       「うん。パパが今日は特別って。おじさんは?」
       澄んだ声が聞こえてくる。恐らく彼も成長すれば、ワッツのような素敵なテ
      ノールの持ち主になるだろう。
       「元気さ」
       「お芝居、頑張ってね。僕もパパとママと応援してるよ。絶対見に行くからね」
       「……ああ」
       「その後で僕達おじさんちに、泊まりに行ってもいい?クリスマスの時みたいにさ」
       電話の向こうでワッツがマシュウに「こら」と言うのが聞こえた。
       「……勿論さ。きっと見においで。待ってるよ」
       元気の良い返事と別れの言葉を放ち、少年は電話の向こう側へ消えた。代わ
      りにワッツの声が聞こえる。
       「済まんなぁ。お前に随分懐いてるんだよ、あいつは」
       「いや、いいんだ」
       体はともかく、脳味噌を漬していたアルコールは、マシュウの声ですっかり
      抜けたようだった。それまで体と精神を縛り付けていた恐怖と緊張も、きれい
      に融けてなくなっている。
       「お前もワルだよな。子供を使いやがって」
       「手元にある物は何だって使うさ」
       そう言って耳触りの良いテノールで、ワッツが笑った。

      数分後、アーカートはカバの上で眠っていた。暖炉の中では、炎が消えて赤く
      焼けた石炭が、徐々に白い灰に変わってゆく。そして暖炉の上に置かれたアン
      ティーク調の時計の針は、既に零時を回っていた。
       夢の中で彼は舞台に上り、何千対もの目が自分を見つめているのを見返した。
      金色の頭、茶色の頭、にんじんの様に真っ赤な頭。その中で新聞の見出しが渦
      巻くのも手に取るようだ。しかし、台詞は彼の口から淀みなく流れ出し、それ
      は消しゴムのように記事を消していった。

       「その後で僕達おじさんちに、泊まりに行ってもいい?クリスマスの時みたい
      にさ」
       「勿論さ、マシュウ」


(投稿日:10月25日(日)21時36分50秒)