『テーマ館』 第23回テーマ「ブロック」
「有機ケイ素化合物」 by とむ
「君は六員環を作りなさい」
「はぁ」
私は教授に卒業論文の為の課題を言い渡された。
六員環とは6つの元素がちょうど六角形に結びついたように形成
された物質のことで、ここでは有機化合物としてケイ素(Si)を
含む化合物を指している。学校で習ったベンゼンのような形。あれ
は6つとも炭素(C)であるが、そのひとつをSiに置き換えて、
六角形の中の丸を無くしたものを頭に描いて欲しい。(丸の意味を
忘れていても、あなたの人生にほぼ関係ないので御心配なさらずに)
ところで、六角形というのはあくまで視覚的なイメージとして表
したもので、実際そのような物質は目で見ることはできない。ベン
ゼンとかトルエンといった有機溶剤を見た目はただの液体としか見
ることができないのと同じようなことで、六員環化合物自体を顕微
鏡で見たとしても六角形に見えるわけではない。
ともかく私はSiを一つ含んだ六員環の有機ケイ素化合物の合成
を行うことになった。
ついでに説明すると有機化合物とはかみ砕いて言うと、CとかO
とかHとかいう元素が化合して出来ている物質のこと。それにケイ
素が入って有機ケイ素化合物。
さて実験の話に戻る。私がまず思いついたのは、
Si−C−C−C−C−C−Si
と、各元素が直線に並んだケイ素の化合物の端を輪のように結びつ
けることだった。
もしかしたら簡単じゃん、と浅はかにも考えてしまった私は、そ
の思いつきで合成実験を開始した。
しかし実験は滞った。
私が行ったのはまず上記の物質を合成し、片側のSiを外す作業
であった。
つまり、
Si−C−C−C−C−C−
という化合物を作りだすことだった。そこまでは順調だった。
その後、もう一方のSiとCをくっつけなければならない。紙に
書いてしまえば簡単であるように見えるが、こういった実験で物質
を合成していく過程は目に見えない。ガスクロマトグラフィー(通
称ガスクロ)といった様々な機械に作った物をいちいちかけて、化
合物の成分や結合の様子を確認しながら作業を行わなくてはならな
かった。これは短気な私の性格からして許されざるべきじれったい
行為として非常にストレスとなっていく。
何度実験を繰り返してもくっつかない。SiとCの間に何かが立
ちはだかり、ブロックしているようだ。文字通り見えない壁に対し、
私は試行錯誤の繰り返しであった。
そんな実験を繰り返しているうちに、ふとあることに気がついて
研究室の先輩に質問してみた。
「あのう、この六員環って何に使える物質なんですか」
その先輩はあっさりと答えた。
「何にも」
よくよく聞いてみるとまだ合成されたことのない物質だから、と
いうただそれだけの理由であったらしい。特に工業的に役立てよう
とか、社会への貢献とは全く無縁の物質を合成しようとしていたの
だった。
私は愕然とし、実験を行う気力を失っていた。
そして結局私はこの役に立たぬ物質さえも作ることができぬまま
卒業とあいなった。
無意味な4年間、とは考えたくなかった。だから純粋なる学生の
研究意欲を見事に削いでくれたあの教授にひとこと言いたい。
趣味で研究をするな、と。
(投稿日:10月27日(火)09時00分05秒)